3-16 ネコ科最強決定戦
灼けた空気が地面を揺らし、草原のあちこちで蜃気楼が立ち上る。だだっ広いサバンナの中、一本の木陰に身を預け、あたし、猫屋敷彼岸は前脚――じゃない、両手をだらりと伸ばして腹這いに寝そべっていた。耳を澄ませば、遠くの風が草を鳴らし、羽音の微細な震えが空間を撫でていく。
日差しは鋭く、空気は熱を抱えた鋼のようで、動物たちすら姿を隠している時間帯。こんなときは、動かないに限る。動くのも面倒だしね。――けれど。
背後の気配――それは、空気の厚みに漣が立つような違和感。あたしの耳がぴくりと震えた瞬間、木の裏にいた者の体温が、日光に焼かれた地面のようにぐっとこちらに伝わってきた。
「いつからいたのかにゃ~?」
あたしは身を起こすでもなく、腰を落としたまま四つん這いで木の幹を迂回する。視線の先、そこにいたのは――バーバリアンとでも呼ぶのだろうか、動物の頭蓋を頭に冠った、褐色の肌の野生児の女だった。筋肉の線が美しい、野性そのものの構え。そして――瞬間、背筋にぞわりと走る既視感。
――この女、只者じゃない。
「あんた、〈神威結社〉かい?」
目が合った。まるで、獣同士の縄張り争いかの如く。風が止まり、空気が張り詰める。あたしは、にたりと笑った。
「そうだよ~。猫屋敷彼岸。よろ~」
「あたいは〈十二支〉の新入り、虎旗頭桜歌ってんだ。よろしくね」
「にゃはは~。お手柔らかにね~」
「じゃ、闘ろうかね」
「あいあいさ~」
次の瞬間、風のように地面を蹴り、あたしは走った。
姐さん然としたその女――奴もまた、構えを取ることなく――いや、構えそのものが変わっていた。両腕の筋肉が隆起し、脊椎が音を立てて盛り上がり、獣毛が腕から首へと這い登っていく。眼が光り、牙が伸びた。
――虎だ。虎になりかけてる。
だが、変身の途中だって油断はない。一歩目からして異常だ。踏み締めた地面が抉れるように陥没し、あたしの攻撃より一瞬早く、前脚――いや、彼女の爪がこちらに伸びてきた。
――避けきれない。
だから、あたしは受けた。身体を捻り、肩に裂傷を負う代わりに喉を守る。爪が肉を裂き、血の匂いが空に混ざった。
「あれ~?その声は、我が友、李徴子ではないかにゃ~?」
「はははっ、いいギャグセンスさね、あんた!」
「にゃはは~。『虎に変身する異能』かにゃ~?常人なら死んでるよ~」
「裏を返せば、あんたは常人じゃなさそうだね?」
けれど、甘い。傷を負わせたことで安心したのか、一瞬の隙。あたしは地を転がりながら後ろ脚――違う、足だ、でも四つん這いで使うからもう前も後ろもない――で蹴り上げる。彼女の顎を狙った。
「――『シュレディンガーの猫』っ!」
「うぐっ……!」
虎の顔が跳ねた。続けて、あたしは肉球付きの前脚を地に着けて、弧を描くように身体を捻る。撓るような腰の動きから繰り出す低い回し蹴り。脚の甲が彼女の脇腹を打ち据える。――吹き飛んだ。
けれど、とらきべっちは転がらなかった。吹き飛んだ体勢のまま、空中で捻りを加え、四つ脚で着地した。目が完全に猛獣のそれになっていた。――もう、完全に虎だ。
「あたいの異能は偉人級異能、〈清正〉だよ。その能力は見ての通りさ」
「にゃは~、虎だから加藤清正って……何の捻りもないよね~」
吼えるように飛び掛かってきた彼女、とらきべっちの肉体は、まるで弓を引き絞った矢のよう。その質量があたしに迫る。
あたしはすんでのところで躱す。身体を捻って、砂を蹴り上げる。砂埃に紛れて、あたしは地を這うように移動する。
彼女の勘は鋭く、目視でなくともこちらの位置を読んでいた。背後からの鋭い爪の一撃。回避が間に合わないと踏んだあたしは、爪を受けることを選び、同時に彼女の懐へと飛び込む。そして――喉元へ牙を突き立てるように、肉球の拳を放った。
「――『借りてきた猫の手』っ!」
ぐしゃりと鈍い音がした。彼女の身体が揺らぎ、地面に叩き付けられる。だがそれでも、彼女はゆらりと起き上がる。地を引っ掻き、唸る虎。黄と黒のその皮に血が滲んでいた。
あたしは舌を出し、傷付いた肩を軽く振る。
――肉の裂ける痛みはある。でも、動ける。あたしはこれまで……散々傷付いてきたし、もっと酷い相手ともやり合ってきた。
彼女の動きが鋭くなる。これは、本気の合図だ。もう一度飛び掛かってくる――いや、違う。右にステップ、フェイントだ。直ぐさま左から来ると踏んで、体を捻る。しかし、そこに彼女の肘があった。とらきべっちの攻撃はあたしに的中。
肋骨に衝撃。呼吸が乱れ、膝が沈む。続け様にそこに蹴りが飛んできた。あたしは顔面を地面に着けるようにして回避し、そのままスライディングで相手の背後に回る。背筋を引き裂くような猫爪の連撃。
「――『シュレディンガーの猫』っ!」
二撃、三撃、喉元へ飛び掛かる。――だがとらきべっちの反応もまた獣そのもの。喉を守るために顎を引き、逆にこちらの頬へと頭突きで牽制してきた。視界が跳ねる。
その間に体勢を立て直した彼女は、地を蹴って間合いを取った。呼吸が乱れている。体中、汗と血が混じっている。だが目の奥に宿る光は消えていなかった。
「にゃはは~。強いね~」
「あんたも強いよ、猫屋敷。……ところでさっきの技、違う技なのにどっちも『シュレディンガーの猫』って言ってなかったかい?」
「にゃはは~。技なんてテキトーだよ~。みんな厨二臭くて好きでしょ~?『シュレディンガーの猫』」
「はは、マイペースなヤツだね」
――さて、あたしも猫好きとしてネコ科の虎を攻撃することに躊躇いはあるけど……そうも言ってられないよね~。
「終わらせようかね、猫屋敷」
「そうだね~、とらきべっち」
とらきべっちが改めて構える。あたしも前脚で砂を払うように構え直す。
――次で決める。
あたしは走った。彼女も走った。お互いに直線軌道で、目の前の相手に勝つためだけに。重なり合った瞬間、爪が腕に、牙が肩に、膝が脇腹に食い込んだ。
――でも、最後に決めたのは――あたしの体重を乗せた、地を這うような低い跳躍からの下顎へのフック。
虎の顔が跳ねた。彼女の脳が揺れる。その瞬間、肉体のバランスが崩れ、彼女の四肢が地面から離れた。そして、音もなく落ちた。
あたしは四つん這いのまま、その場に膝を突き、肩で息をする。血の匂い、肉の熱。風がまた、サバンナを渡っていく。
「まあ、楽しかったよ~。とらきべっち」
「そうかい……。そりゃ……良かったよ……」
寝そべった彼女の横で、あたしはまた木陰に座った。猫と虎との戦いは、猫の勝利で幕を閉じた。
――もう少し、風に吹かれていたい。今日の涼みは、格別に濃くて、あたし好みだから。
――猫屋敷彼岸vs虎旗頭桜歌。勝者――猫屋敷彼岸。
評価(すぐ下の★★★★★)やブックマーク、感想等で
応援していただけると執筆の励みになります。
よろしくお願いいたします。




