2-35 サヨナラ竜宮楼
飛散した氷の破片はやがて、スナイパーライフルと共に消滅した。床一面に敷かれたペルシャ絨毯――その柔らかな地に身を預けるようにして前方に倒れ込んだ。全身が痛い。身体中に空いた風穴から血がペルシャ絨毯に滲んでゆく。
窓から差し込む西日が反射し、視界の端で何かが煌めいた。――金属片だ。少し前まで、〈エフェメラリズム〉だったものだ。俺は〈エフェメラリズム〉と共に戦ったこの一ヶ月間の激闘を思い起こす。
――思えば良くもまあ、ここまで持ってくれたものだ。コイツには何度も助けられた。だが、潮時か。今まで……ありがとう。
俯せの姿勢のまま、手と腕だけを動かし、金属片を寄せ集める。それをポケットに仕舞いながら、何とか気力を振り絞って立ち上がった。
――そうだ……庭鳥島は……。
蹌踉めきながら観音開きの扉を引いて開け、廊下に足を踏み入れる。その足取りは重い。歩みを進める度に血が大理石の床へと滴り落ちる。
――何処に行ったんだ……?アイツ……。
――そのとき、ある一室から、啜り泣くような声が聴こえた。女の、か細い声で、まるで助けを求めるように啜り泣く声。
「うっ……ううっ……ぐすん……」
その部屋は、この北館で、俺たちが最初に訪れた大宴会場だ。直感で、この涙声の正体が庭鳥島萌だとわかった。
俺は観音開きの扉をゆっくりと開け、その大宴会場に足を踏み入れた。――その瞬間だった。俺の頸動脈を狙って、羽根型の刃が突き出された。間一髪のところで身を引く。掠った首の真新しい傷口から血が流れる。
「――ちっ、ミスったばい」
「庭鳥島……!」
扉の陰に潜んでいたのは、Aラインシルエットの黄緑色の外ハネウルフカットという髪型に白いスポーツキャップを冠った、露出度の高い、スポーティーな服装の女だった。――予選が始まってから、ずっと行動を共にしていた、庭鳥島萌だ。
俺の背後で、バタンと扉が閉まる。庭鳥島は赤いグラデーションの翼を広げ、脚を猛禽類のような鋭い鉤爪を持つ脚に変貌させ、俺から離れるように大宴会場中央――その天井付近まで舞い上がった。
「冴積を倒してくれてありがとう。感謝せんといけんね」
その目付きは酷く鋭い。先刻の酷く弱った様子は嘘のようだ。要するに、先程の啜り泣くような声は、俺を誘い出すための、用済みになった俺を仕留めるための、嘘泣きだったのだ。
トップスは肩やヘソを露わにした短い丈の白いキャミソールに、ボトムスは赤いショートパンツで太腿を露出している。淡い光に照らされた庭鳥島の生肌が、艶めかしくシャンデリアの光を反射する。
「やっぱり……最初から裏切るつもりだったんだな」
「気付いとったと?まあ、どぎゃんでんよかばってん」
「一度冴積から逃げたのも、俺に、冴積の異能の正体を考えさせる時間を与えるためか?」
「賢かとは聞いとったけど、想像以上だったばい」
「最初――俺がいた客室に庭鳥島が入ってきたとき、庭鳥島が俺と手を組むと提案したとき、俺は、庭鳥島を信用できるか試すために異能を使った」
――あのとき、俺が〈天衡〉によって定めた掟――『掟:偽証を禁ず。破れば、吐血する。』。この罰は、庭鳥島に下らなかった。――いや、罰が下っていない――ように見えたのだ。
「そうだったと?」
「あのときお前は吐血しそうになったはずだ。今更惚けるなよ」
「あー、そうやったね」
――吐血していない――ように見えたのだ。実情は、庭鳥島は口を開かないことで、吐血を口内で抑え込んでいた。そして、生唾を飲み込むフリをして血を飲んだのだ。この女は――一見アホに見えて、とんでもない策略家で演技派だった。
「お前は俺との会話に合わせ、違和感のないタイミングで生唾を飲み込むフリをして、血を飲んだ」
「……あれは気持ち悪かったばい」
「そりゃそうだろうな。俺と手を組むという結論に至った後、お前は俺の部屋に備え付けられていた冷蔵庫――そこからペットボトルの水を取り出して飲んだ。口の中が血塗れじゃ気持ち悪いもんな」
「ふーん、よう覚えとるね」
「ははっ、天才だからな」
そう笑い飛ばすと、身体が悲鳴を上げた。もう、全身がボロボロだ。
「……ほんなこつ賢かね」
「庭鳥島……俺を助けたのも、俺を信用させるためのダメ押しか」
「そうたい。誰が好き好んであんたなんか助けると?」
――本館屋上、プールサイドでの一件。自身の〈天衡〉の罰で自滅しそうになった俺を助けようとしたのも、今思えば俺が庭鳥島を信用するように仕向けられた行為だったのだ。
「途中までは信じてたんだけどな……」
――頭で理解はしていたものの、存外ショックだ。できれば、嘘であってほしかった。
「冴積……あいつがAブロックにおることはあんたの部屋に向かう前にわかったけんね。あたしではあいつを倒せんけん、利用させてもらったばい」
「まあ……だろうな」
――俺は褒められて育っていない。だから俺に弱点があるとすれば、自分に優しくしてくれる人間に弱いということ。俺はその弱みに付け込まれたんだ。
「不意打ちは十八番だったばってん、避けられるとは思うとらんかったばい」
「それが庭鳥島萌の本性か。なんで誰も今まで知らなかったんだ」
「そら、殺してしまえば本性ば知る者などおらんごつなるもん。あー、勘違いせんとってほしかとやけど、犯罪者しか殺しとらんばい」
――異能至上主義の新世界では、正当防衛や両者合意の上の勝負ならば、人を殺してしまったとしても罪に問われないのが実情だ。相手が犯罪者なら尚更……。新世界の法律――『新世界法』にそう綴られている。
「回復せんでよかと?あんたの異能で。名推理に免じて、一秒だけ待ってあげても良かとよ」
「いや……要らねーや。だってお前……もう詰んでるもん」
『掟:飛行を禁ず。
破れば、建物の倒壊に巻き込まれる。』
「――わけわからんことばっかり言わんで!」
庭鳥島が急降下し、脚の鉤爪をこちらに向けて襲い掛かる。だが、静寂は、ほんの前触れだった。
――刹那。窓の外に、まるで世界がぐらりと傾いたような錯覚を覚えた。次の瞬間、床が鳴った。低く、不吉な不協和音だ。天井のシャンデリアが激しく揺れ、天井の罅割れから細かな粉塵が降ってくる。
『掟:拘束を禁ず。
破れば、一切のダメージを受けない。』
「……え?」
目を丸くし、天井を見上げた庭鳥島の猛禽類のような脚をがしりと掴む。――次に足許が沈んだ。地鳴りのような轟音。
「俺より頭悪い奴が俺を謀ろうなんざ、八十五年早ぇんだよ」
「嘘……ばい……」
壁が裂け、窓の外に覗く橙色の空が斜めに見える。重力が反転するような感覚と共に、全てが崩れてゆく。天井が、床が、空気ごと、落ちてきた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
――数分後。瓦礫の山と化した五ツ星ホテル・〈竜宮楼〉の三十階建ての北館。その瓦礫の山の頂上から、俺は顔を出した。傷だらけの庭鳥島の身体を背負いながら。その赤い翼には、見るに堪えない傷が幾つも重なっている。
一方、俺の身体には冴積戦の傷は残っているものの、建物の倒壊による新たな傷は増えていない。ボロボロの身体に鞭を打つ。庭鳥島を傍に優しく下ろし、赤いニット帽やトランプ柄の柄シャツに付着した砂埃を手で払い除ける。そして、気絶している庭鳥島の隣に腰を下ろした。夕焼けの空の下、五十階建ての本館が聳え立っている。
「うっ……ううっ……」
「目が覚めたか。庭鳥島」
「あんた……あたしを助けたと?」
「けっ、借りは返したぞ」
「ほんと……素直じゃなかね」
「お前……俺と冴積が戦ってたの、窓の外で見てたろ」
「……それも気付いとったと?……でも、あのときのせつな、ちょっとカッコよかったばい。陽奈子様が惚れるんもわかる気がしたとよ」
「そうか……」
そのとき、視界の端に黒い靄が映った。――安全地帯を縮小させる、毒ガスだ。俺ははっと我に返り、蹌踉めきながら立ち上がった。
「行って、せつな」
「ああ、そうさせてもらう」
庭鳥島に背を向ける。瓦礫の山を駆け下りようとしたそのとき、背後から声がした。
「――せつな!裏切ったあたしが言えることじゃなかけど……勝たんといけんよ!」
「……わかってる」
背後で、庭鳥島が毒ガスに巻き込まれたのを感じ取った。庭鳥島の皮膚が紫色に変色する。そして、血や肉塊を飛散しながら弾けた。背中に血の雨を浴びながら、迫り来る毒ガスに追い立てられるように、本館へと必死に駆け出す。
車寄せや噴水を横切り、本館一階のエントランス――その自動ドアへ向かう。傍には、地下駐車場へと続くスロープが見える。その何処にも、人の気配はなかった。
――第十回〈極皇杯〉、予選Aブロック。予選開始より二時間二十七分八秒。最後の安全地帯の縮小により、夏瀬雪渚は導かれるように本館三階――ラウンジフロアへと駆ける。
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