2-32 鬼はいずこ
――時は再び、少し遡る。予選開始より一時間五十二分三十九秒時点。第十回〈極皇杯〉、予選Aブロック――その会場となる五ツ星ホテル、〈竜宮楼〉。その本館五階、スパフロアにて事件は起こっていた。
白いマッサージチェアが一面に並べられた空間。青年・夏瀬雪渚の眼前で、ぱん、と弾けるような音と共に、マッサージチェアに腰掛けていた馬絹百馬身差の頭が――吹き飛んだのだ。まるで夜空に打ち上がった花火のように、真っ赤な血が、床に敷かれたタイルカーペットに飛び散る。
「は……?」
俺は思わず声を漏らした。露出度の高い格好の黄緑髪の女――庭鳥島萌は驚きのあまり、コーヒー牛乳を瓶と共にタイルカーペットに零し、マッサージチェアから勢い良く立ち上がった。馬絹の褐色の、首のない躰が、力なく床に横たわり、やがて消滅した。
庭鳥島のその表情には恐怖の色が滲んでいる。怯えた様子の庭鳥島は、俺に胸を押し付けて抱きつく。そして庭鳥島萌は、声を震わせながら叫んだ。
「――お、鬼が……鬼が出たばい!」
馬絹百馬身差の、あまりに呆気ない最期――俺は一瞬、あまりに衝撃的な光景に言葉を失ってしまっていた。――が、庭鳥島の言葉に我に返る。
「馬絹……!」
――俺も、庭鳥島も、そして馬絹も、コーヒー牛乳を飲んで寛いではいたものの、それは警戒していなかったというのとは意を異にする。警戒はしていたのだ。いや、あのクソ強い馬絹が警戒しないはずがない。だが、それでも馬絹は殺られてしまった。
ふと、そのスパフロアの奥に目を向ける。他に誰もいなかったはずのその階層。凄まじい殺気を感じたのだ。奥の白いマッサージチェアの直ぐ傍。そこには――いるはずのない男が、スナイパーライフルをこちらに構えて立っていた。
「ヨぉ……有名人……」
「――雨積……四次元……!」
男はフード付きの防寒コートに全身を包み、バラクラバと呼ばれる顔の覆いで口元を覆い隠し、目だけを出している。ブーツや手袋を着用し、全身白で統一された、「白い死神」とでも形容すべきその姿に背筋が凍る。
「――せ、せつな!逃げんと!」
短い丈の白いキャミソールを着た庭鳥島は、その背中から美しいグラデーションとなった赤い翼を生やす。そして、変貌させた猛禽類のような脚で、俺の背中をがしりと掴んだ。俺に有無を言わさないほどのスピードで。まるで、あの強かった庭鳥島が、酷く怯えているようだった。
俺を脚で掴んだ庭鳥島は、まるで何かから逃げるように、そのまま窓ガラスを突き破った。庭鳥島の華奢な身体にガラス片が突き刺さる。そして銃声と共に、庭鳥島の脚に一発の弾丸が命中する。だが、そんな些事は気にも留めていない様子だった。
その最中、俺は、スパフロアの床を赤く染める真新しい血痕の隣に、役目を終えて転がる弾丸を見た。――あの一発の弾丸が、馬絹を屠ったのだ。
――あの尋常ではないタフネスを発揮していた馬絹を一撃……。雨積四次元……。
「庭鳥島……」
「逃げんと逃げんと逃げんと逃げんと逃げんと逃げんと逃げんと逃げんと逃げんと逃げんと逃げんと逃げんと逃げんと逃げんと逃げんと逃げんと逃げんと逃げんと逃げんと逃げんと逃げんと逃げんと逃げんと逃げんと逃げんと逃げんと逃げんと逃げんと逃げんと逃げんと逃げんと逃げんと逃げんと逃げんと逃げんと逃げんと逃げんと逃げんと逃げんと逃げんと――」
「――おい!庭鳥島!」
「――あっ、せつな……気が動転しとったばい」
現状の安全地帯は本館の七階以下、北館の五階以下のみである。窓を突き破った庭鳥島は、蹌踉めきながらそのまま外の車寄せや噴水の上空を通過する。時刻は黄昏時。見下ろす噴水がオレンジの光を艶めかしく反射していた。――そして、庭鳥島は北館の四階――その窓を突き破って屋内へと侵入する。
そこは大宴会場であった。天井高く吊られたシャンデリアが淡い光を放ち、大理石の床に煌めく波紋を描いている。壁際には金箔を施した円柱が連なり、その間に描かれたフレスコ画が静かに時を物語る。
「ここは……大宴会場たいね」
円卓が幾つも均等に並び、それぞれに純白のリネンと銀食器が整えられ、その中央には季節の花が色鮮やかに飾られている。微かに響く弦楽の音色が、広々とした空間に格調ある静けさを漂わせていた。――はずだった。
「これは……」
他に誰もおらず、何処か寂しさを感じさせるその空間。円柱は傷だらけで金箔は剥がれ落ち、純白のクロスには血痕が付着している。円卓は倒れ、銀食器が床に乱雑に投げ出されていた。この場所で壮絶な死闘が繰り広げられたことは、口に出すまでもなかった。
――雨積四次元が現れた本館五階のスパフロア、最短ルートの連絡通路を使ってここまで辿り着こうにも、〈竜宮楼〉はあまりに広い。最低でも五分以上は掛かる。多少の猶予はある。
「庭鳥島……大丈夫か……?」
「え?」
「いや、脚……」
「あ、あぁ、大丈夫ばい!なんとか……」
庭鳥島の露出した右脚の脹脛からは、どくどくと血が流れていた。庭鳥島は、その痛みに今気付いたかのように返事をした。
「雨積四次元……Aブロックだったのか……」
「はうっ!」
その名を出した途端、庭鳥島が身を竦めた。その場にしゃがみ込んで縮こまり、ガタガタと恐怖に震えている。
――昨年の〈極皇杯〉、その本戦の一回戦第三試合、庭鳥島萌と雨積四次元は激突した。結果は雨積四次元の圧勝。その試合時間は僅か十六秒で決着――このことが、庭鳥島のトラウマになっているのではないか。
ふと、大宴会場の奥に目を見遣る。その大理石の床に投げ出された皺だらけの白いテーブルクロス。――その傍に、「奴」は立っていた。
「逃げるなヨ……〈十天推薦枠〉……」
「……は?」
――なん……で……!?
蹲る庭鳥島の手を引き、観音開きの扉を蹴り開ける。――本能だった。生物が持つ生存本能が、俺の身体をそうさせた。俺を蝕むその感情は、「恐怖」以外の何者でもなかった。
雨積四次元は、雪国で知られる〈城塞都市テンジク〉の軍人であった。異能戦争において、同国の犬吠埼桔梗ら騎士団と共闘したこともある。彼の潜り抜けた修羅場は、二十五歳という若さから到底考えられるものではない。
――正直、雨積四次元の異能はわからない。奴は昨年も含め、過去に三度も〈極皇杯〉の本戦に進出している。が、その本戦での一対一の異能戦において、使ったのは一挺のスナイパーライフルのみ。異能を一切使っていないように思われたのだ。
「――せつな!あいつは……!あいつは……!」
「落ち着け……!」
――連絡通路を使ったのか……?いや、それでも早すぎる。陽奈子や馬絹レベルのスピードが出せなければ、あの時間で本館五階のスパフロアから北館四階のバンケットフロア――大宴会場まで到達するのは到底無理だ。
「はぁ……!はぁ……!」
この北館四階は、大宴会場の他にボールルーム――舞踏室や、イベントホール等が存在するバンケットフロアだ。大理石で造られた廊下を駆け抜け、エレベーターのボタンを叩き付けるように押す。
背後を振り返るが、雨積は追って来ていない。人気もなく、仄暗い廊下が、少しだけ不気味に映る。そして、チーンと音が鳴り、エレベーターの扉が開く。白い内装のエレベーター。――そこに立っていたのは、「奴」だった。
世界十三位の男、第九回〈極皇杯〉ファイナリストにしてBEST4、「白と雪の銃殺王」――雨積四次元。この世で最も恐ろしい鬼ごっこ。俺の逃亡劇は、熾烈を極める。
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