1-10 食卓
テレビ台の上にゲーム機と共に用意されていたカートンの紙煙草からボックスタイプの紙煙草を一つ取り出す。それとその上に置かれていたオイルライターを手に、〈オクタゴン〉の二〇一号室を出た俺は、エレベーターの隣にある階段を使い、そのまま屋上へと出た。――その屋上の光景は絶景と言わざるを得なかった。
――〈オクタゴン〉・屋上テラス。広々とした屋上の中央には、三ツ星ホテルさながらの大きな正八角形のプールがある。プールサイドには幾つかのプールサイドチェアと白いパラソルが置かれている。
「プール……!?」
プールの周囲はガラス窓で囲まれており、プールサイドを一歩出れば屋上庭園――緑に囲まれる。屋上を覆うように、透明かつ開閉式のアーチ状の屋根が設置されているため、快晴の日の解放感は段違いだろう。
「おいおい……本当にこの〈オクタゴン〉……幾ら掛かってるんだ……。日本円で数億……いや十億は下らないだろ……」
そんな俺の視界の端に留まったのは、プールサイドの隅に設置された、透明のパーテーションで隔たれた、人が数人入れる程度のスペース。その中央には筒状の灰皿スタンドが一台設置されている。
――喫煙ブース。こんなものまで……。
屋上庭園の緑を横目に、プールサイドに立ち入る。透明のパーテーションで隔たれた喫煙ブースの扉――透明色の引き戸を開け、中に入る。ポケットからボックスタイプの紙煙草と金色のオイルライターを取り出し、煙草の先端に火を点ける。
早死にしたい、と漠然と考えていた頃に、そんな理由で何となく始めた喫煙。今じゃ最早手放せなくなってしまった。
――八十五年ぶりの喫煙、か。最後に吸ったのは……ああ、あのときだったか。
肺を満たす煙が不思議な心地良さを齎す。自殺を決行した夜の、渋谷の天音の部屋のベランダで吸った最期の記憶。
――あのときは、本当に最後のつもりで吸っていたのだが、またこうして煙草のフィルターに口を付ける日が来るとは思ってもみなかったな。
――さて、エレベーターのボタン――かご操作盤には「B1」もあった。地下一階。三階は二階と同じ構造だろうし、最後に地下を軽く探検すれば良い頃合いだろう。
短くなった煙草を、透き通った水で内部が満たされた灰皿スタンドに放り込み、屋上テラスを後にした。屋上まで呼び出した、屋上庭園の中のエレベーターに再び乗り、かご操作版の「B1」を押下する。
数秒もしない間にチーン、という音がエレベーターの空間に響いた。開かれた扉から眼前に飛び込んで来た光景は、これまで見た〈オクタゴン〉の内部構造とは、また異なるものだった。
「――リング?」
黒いマットが一面に敷かれた空間の中央には、金網で囲われた正八角形のリングがある。地下闘技場――そう形容するに相応しい光景だ。
その正八角形のリングの周囲を、テレビ番組のスポーツ・エンターテインメントのような大掛かりなアスレチックが囲っている。更に壁際には、的やサンドバッグ、ダンベル、ランニングマシーン、木製の訓練用人形が雑然と並んでいる。
「……これは……異能バトルの訓練所、ということか」
そう、独り言のように呟いた途端、下に履いた黒スキニーの右ポケットから、音が鳴り始めた。――スマホの着信音だ。
スマホを手に取ると、SSNSを通した、天音からの着信画面が表示されている。右下の緑色の「応答」アイコンをタップして、右耳にスマホを近付ける。
『あっ、せつくん!』
「おう天音」
『お待たせしました!お食事の用意ができましたので、リビングに来ていただけますか?』
「ああ、丁度良かった。直ぐ戻るよ」
『はい!』
――電話を切り、階段を上がってリビングまで戻ると、リビングの隅に設置された円い大きな木のテーブルの上に、色とりどりの料理が並べられていた。
天音の得意料理であるクラブハウスサンドイッチに、ローストビーフ、キノコのレモンマリネ――。美味しそうな香りが、鼻腔を擽る。
「おぉ……美味そうだ」
その豪勢な食卓に吸い寄せられるように、テーブルへと歩を進め、椅子に座る。天音は俺の向かいで、両手を腹部の下に添えたまま、美しい所作で立っている。
「沢山作ってくれたな。ありがとうな天音」
「ふふ、せつくんに喜んでもらえて嬉しいです」
「ほら、天音も座って食べようぜ」
「いえ……私はせつくんが喜んでくれればそれで……」
「――天音。俺といるときはそういうのナシな」
「わ、わかりました。ごめんなさい、せつくん」
メイド服が似合う天音は、申し訳なさそうに傍の席――俺の向かい側の椅子に腰を下ろす。
「謝らなくていいから、折角こんな美味しそうなのに一人で食べるの勿体ないだろ?」
「ふふ、そうかもですね」
そう言って優しく微笑む天音と共に迎えた、八十五年ぶりの夕食の時間。天音と昔の思い出話に浸りながら。時々俺の下らない冗談に可愛らしく笑う天音が、とても愛しく思えた。
「お、このマリネも美味いな。おかわり貰ってもいいか?」
「もちろんですよ、せつくん。はいどうぞ」
「お、ありがとう」
――天音の料理の腕、というか家事スキル全般においてもそうだが、天音は極めて優秀だ。頭脳に関しても一二三や俺が百点満点中の三百点の外れ値を叩き出せるが、天音も九十点はアベレージで叩き出せる。天音はオールマイティで特に欠点がない。
――俺も料理自体の知識はあるから料理はできるのだが、やはり料理には真心が必要なのだろう。俺の料理も美味いっちゃ美味いのだが、そこに真心がない。料理の腕に関して天音は俺を遥かに凌駕する。
赤いニット帽を冠ったまま、天音と笑い合いながら食卓を囲む。徐々にキッチンや玄関横の窓から差し込む薄暮の光も暗くなり、日が沈む。そうして食事を続けながら、俺はふとした疑問を天音にぶつけてみた。
「あ、そう言えば二〇一号室の本やゲーム機に煙草……俺のために用意してくれたのか?」
「気付いてくれたんですね、せつくん!はい、せつくんが喜んでくれるかと思って……!」
「嬉しいよ天音、ありがとうな」
「ふふ、でもホントは私せつくんには煙草やめてほしいんですよ?」
「もう辞められなくなっちゃったからなー。つーか一回蘇生したんだから俺の肺の汚さ一回リセットされてるんじゃないかこれ」
「ふふ、もう、せつくん何言ってるんですか」
「はは、あとあれだな、地下にリングやアスレチックもあったし……この〈オクタゴン〉、マジで幾らで買ったんだ……?」
「えー、それは言えないですよーせつくん。ふふ」
――これは十億どころの話ではないな。怖すぎるからこの話にはあまり踏み入らないようにしておこう。
「お、おう……そうか。地下のアレは戦闘用の訓練所って感じか」
「そうですね、せつくんくらいの運動神経があれば不要かもしれませんが、私も自分の身を守るために最低限は鍛えていますし、もしせつくんが〈神威結社〉に仲間を入れようと考えておられるならそのときにもお役に立てるかと」
「まあこんな時代なら最低限鍛えておかないと、さっきの竜ヶ崎みたいなのに襲われた瞬間終わりだもんな……。あ、その仲間の話なんだけどさ」
「はい。結局のところ、如何いたします?」
「ああ、天音は俺以外要らないと言ってくれていたけど、やっぱり俺は仲間を集めた方がいいと思うんだ。俺も神話級異能だからと言って胡座を掻くつもりはないし、信頼できる味方は多いに越したことはない。それが天音を守ることにも繋がるなら尚更な」
「せつくん……わかりました。せつくんがそう言ってくださるなら、私たち〈神威結社〉はその方針で動くことにいたしましょう」
「よし、そうだな。今日は風呂済ませて休むとして……明日からだな」
キッチンや玄関横の窓から覗く外の景色はすっかり夜。リビングの壁に掛けられた時計は十九時半を指していた。
「はい!頑張りましょうね!あ、あとせつくん、念のためお伝えしておきたいのですが……」
「お、なんだマイハニー」
「ふふ、あのですね、私の今の所持金なのですが……お恥ずかしながら、実はこの〈オクタゴン〉を買うのに大半を注ぎ込んでしまいまして……」
「あー、まあそれは……そうだろうな」
――〈オクタゴン〉は〈真宿エリア〉の駅からのアクセスもしやすい物件だ。設備も充実していて正直なところ、生活するには最高の物件。天音が〈オクタゴン〉を購入したことには何の文句もない。
――だが、異能至上主義の新世界とは言えども、金がなければ生活できないのもまた事実。世は無情にも、常に「金銭」至上主義でもあるわけだ。所持金の多寡だけで幸福度は、天と地の差がつくほどに変わってくる。
「それでもまだ白金貨一枚と金貨、銀貨、銅貨を合わせて数十枚。日本円でおよそ二十万円弱といったところでしょうか」
そう言って天音は、床に置いていた黒い小さな革製のハンドバッグから取り出した財布の中身を食卓に並べた。並べられたのは照明を受けて輝く四種類の円形の硬貨。
形状や見た目はメイプルリーフ金貨やメイプルリーフ銀貨――カナダ王室造幣局が発行する硬貨に極めて近い。トロイオンス――重量による額の変動の要素を排除し、四種類に絞ったようだ。
「ああ、二十万円弱もあれば十分だ」
――〈オクタゴン〉は購入した物件なので家賃の心配はない。また、どうも新世界では光熱費等の、家計に継続ダメージを与えてくる煩わしい出費も〈十天〉によって全て負担されるらしい。本当に〈十天〉様様だ。
「せつくんがそう仰るなら……」
「それにしてもこれ一枚で十万円か……」
――日本円に換算すれば、虹金貨が一枚当たり百万円、白金貨が十万円、金貨が一万円、銀貨が千円、銅貨が百円という換算か。
食卓に置かれた白金貨を一枚手に取る。その円い形状の硬貨は、照明を受けてプラチナ色に輝いていた。
「天音には申し訳ないけど暫くお金借りることになりそうだ。そうだな……一週間後に五倍にして返す」
「それは構いませんけど……何かお考えがあるのですか?」
「ああ、考えてる策はある。まあ知っての通り、俺はやっぱり人の下でちまちま働くってのはどうも性に合わねーからな。やるならドーンと一攫千金よ」
「一攫千金、ですか。ふふ、せつくんらしいですね」
「問題は一攫千金が成功した後だ。生活を維持するために利益を得ることに特化した人間――商人が仲間に欲しいな」
「商人、ですか。良い考えだと思いますよ、せつくん」
「ああ、つーわけで明日はつけ麺を食べに行くぞ」
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