ep.9
バッシシは天井に向かって杖をひと振りした。
謎だった天井のドアがゆっくりと開く。
バッシシに腕を掴まれると体がゆっくりと宙に浮いた。
天井のドアをくぐるとそこには豊かな大自然が広がっていた。
「あのドアには転移の魔法がかかっておる。ここはワテイの森じゃ。美しいじゃろ。」
僕はしばらくその美しさに圧倒されて言葉も出せなかった。
天国とか楽園があったらきっとこんな風景なんだろう。
「さて、水場が良いか?乾燥した土地が良いか?」
バッシシはコーヒーの苗に向かって話しかけていた。
僕はスマホでコーヒーの木について調べた。
「生育には熱帯地方のサバナ気候や熱帯モンスーン気候のような雨季と乾季、または熱帯雨林気候の山岳地帯など昼夜で寒暖差が大きい気候が適し、多雨も好む。一方、冬霜など寒さには弱い。土壌は有機質に富む肥沃土、火山性土壌を好み、火山帯や高地が適す。って書いてました。こちらにはない記述でしょうから意味はわからないですよね?」
バッシシはうんうん頷いていた。
「ふむ、所々わからないがこいつの好みはだいたいわかったぞい。」
バッシシは僕の腕を掴み、また空を飛んだ。
足元には素晴らしい大自然が広がっている。
人間の気配は全くしない。
恐ろしい魔物の姿も見えない。
美しい色の鳥のようなトカゲのようなものが飛び回り、大地では鹿のようなキリンのような動物が走り回っている。
まるでファンタジー映画の中にいるかのような気持ちになった。
スマホを覗くとカナさんも似たような顔で景色を楽しんでいる。
空を飛ぶということがこんなに気持ちのいいことだとは思わなかった。
───
数分飛んでいただろうか。
少し標高の高そうな開けた場所に降りてきた。
バッシシは「ここが良いな。」と言って魔法で土を掘り返した。
その真ん中に苗を植えた。
杖を向けて何やら呪文を唱えているようだ。
僕は邪魔しないようにそれを見守った。
苗はみるみるうちに成長していった。
そしてあっという間に赤い実をつけたのである。
『すごいわ!!』
今までずっとおとなしくしていたカナさんが叫んでしまった。
僕はカナさんの声真似をして「あらいやだ」と繕ってみたけれど、バッシシとスマホの中のカナさんはバッチリ目が合っているようだった。
「やっと会えましたな。ご婦人。」
バッシシはそう言うとニヤリと笑ってスマホに向かって一礼した。
「えっと、カナさんです。」
僕は観念してカナさんを紹介した。
『水川カナと申します。訳あってこの中におりまして、わけあって隠れておりました。』
「すみません。なんとも説明し難い状況にありますので、紹介するのを躊躇っていた状態です。」
バッシシはふふっと笑った。
「そのアイテムボックスの中に何かがおることは最初からわかっておったわ。まさか人間が中にいるとは思わなんだが。」
バッシシはスマホを手に取って興味深く観察した。
「亜空間かのぉ?こちらには出てこれぬのか?」
『はい。まだその方法はみつかってません。』
「こちらからそちらへ行くことは?」
バッシシにそう言われて、そう言えばそれを試したことはないことに気がついた。
「カナさん、僕をそちらに収納したりできますかね?」
『だめよ!うまくこちらに来られたとしてもそっちに戻れる保証なんてないもの!そんなこと試せないわよ!』
(確かにそうか)
「実験にはリスクが伴いますね。」
『だめだめ!私が出るならともかく、こっちに来ようとか考えないでね!』
「わかりました。」
バッシシはまだスマホを眺めている。
カナさんは少し照れくさそうだ。
「アイテムボックスを操っているのはカナかね?」
『はい、私が。』
バッシシはコーヒーの木のことも忘れてしばらくカナさんを質問攻めにしていた。
「なんとも興味深いのぉ。魔導具ではなく、これは人じゃ。確かに他の人に容易くみつかってはいけないのぉ。」
バッシシはスマホに向かって何か魔法をかけた。
「カナが望まぬ人には見えぬよう結界を張ったぞ。これで人に見られることはないだろう。声はどうにもならんが、ないよりはいいじゃろ。」
『バッシシ様、ありがとうございます!』
一段落したようで、バッシシはコーヒーの木に視線を戻した。
「さて、あの赤い実がコーヒーになるのかな?」
「そうですね、記述によるとあの中に2粒の豆が入ってるそうです。」
バッシシは杖を振り、赤い実だけを集めた。
それをまた耕した土地に埋めた。
水を操り、雨を降らした。
そしてまた呪文を唱えるとやがて芽が出てきた。
辺りは、あっという間にコーヒーの木だらけになった。
僕もカナさんも呆気にとられてただその早送りの世界をみつめた。
大木に育ったコーヒーの木には赤い実がたくさんなった。
それを収穫して中を取り出すと薄緑のかわいいコーヒー豆が出てきた。
「これを炒るのかね?」
「そうですね、多分そうです。」
カナさんはロースターの仕組みをバッシシに説明していた。
「火加減が難しそうじゃな。手探りでやってみるかの。」
バッシシはそれからしばらく火魔法でコーヒー豆と格闘していた。
僕はそれに飽きて辺りを少し歩いてみることにした。
見たことのない木や草が生えている。
虫や小動物もまるで違うものだった。
カナさんも『これはあれに似てるわね。』と楽しそうにしている。
はじめは楽しかったがだんだん思い知らされることになる。
ここは僕たちの世界じゃないということを。
『ケイタくん、どっちみち言わないといけないことだから、今言うわね。』
カナさんが深刻そうに話し始めた。
『遠くの地図が見れないと言ってたでしょう?』
「あぁ、はい、そうでしたね。」
『最近そうじゃないってわかったの。この世界ね、地球のように丸くないのよ。』
「どういうことですか?」
『多分四角い世界で、海に端っこがある。地図に出ている先の何もないところは本当に何もないんだと思うわ。』
「それって…」
『本当にどうなのかは実際に行ってみないとわからないけどね。南に突き抜けたら北に戻るとか、そんな仕組みかもしれないし。』
ちなみに今の位置を地図で見るとローランからかなり離れているのがわかる。
それでも地図上には存在している。
コーヒー豆の実験が終わったらバッシシに聞いてみることにした。
カナさんはバッシシ用に小さな手で挽くタイプのミルと布のフィルターで落とすタイプのコーヒーメーカーを買ってくれた。
「カナよ!こんな素晴らしい道具をわしにタダでくれるというのか!」
バッシシは喜んで試作のコーヒーを淹れた。
苦かったり酸っぱかったり、好みの味にするのはなかなか難しいようだった。
「おぉ、かなりいいぞ!」
バッシシはうまくいったようで美味しそうにコーヒーを飲んでいる。
僕はスマホの地図をバッシシに見せた。
「この国の地図です。この海の先に何があるか知ってますか?」
僕は地図の何もないところを指差した。
「海の先かね。わしも行ったことがないのでな、まぁ、行こうとも思ったこともないが。小さい頃から海の先は闇だと言われておった。何もない、真っ暗な闇で恐ろしい魔物が住んでいるとか。実際に確かめに行く輩がおったが、船は1つ残らず帰ってこんかったよ。今では行こうとする者は誰もおらん。」
ゲームの世界のように突き抜けたら反対側に出るみたいなことは起きないらしい。
そして僕たちは家に帰れないということが決定的になった。
どう頑張ってもこの世界は日本に繋がらない。
「ライハルトに船はもう必要ないって伝えないとな。」
『そうね。行き着く先が闇なんて。怖くて船にも乗れないわ。』
「おぬしらの国に帰れないということかね?」
バッシシは落ち込む僕らを見てそう言った。
「そうですね。今のところ帰る手立ては皆無です。」
「それは残念じゃな。わしもおぬしらの国に行ってみたかったわい。」
コーヒーの木は青々と茂り、風に吹かれ実がゆらゆらと揺れていた。
(コーヒーの実が赤いなんて、知らなかったな)
父も母もコーヒー好きだった。
姉は僕と同じでミルクたっぷりの甘いやつしか飲めなくて。
父によく「そんな飲み方コーヒーに対して失礼だ!」と言われて笑っていたっけ。
「ケイタ、具合でも悪いかな?」
バッシシは心配そうに僕にハンカチを渡してくれた。
「えっ?」
僕は頬をつたう温かいものに気がついた。
僕はいつの間にか泣いていたんだ。
あんなに生きることに後ろ向きだった僕が、あの世界に帰れないとわかって。
僕は悲しいと思っているのだ。
どうでもいいと思っていたあの世界が、今はどんなにか恋しいと思ってしまっているのだ。
カナさんも僕を見てつられて泣いているようだった。
バッシシは何かを察したようで何も言わずにコーヒーの実験に戻っていった。
僕はこの美しい大地のど真ん中に大の字で寝て、そして泣いた。
わんわんと子供のように、何も考えずに泣き続けた。
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