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落伍者、孤独に身を翳る 回生編

 あれからどれほど泣いただろうか。気が付けば、日は既に高く昇っていた。今日の太陽は全く隠れていないにもかかわらず、輝きが足りないような気がする。もう涙は出ない。泣こうとも思わない。俺の人生が急に平坦になって、あとは崖に飛び込むだけのような気がする。元々死ぬために寺院に来たのだが、あの時でさえこんな感じはしなかった。自分の中で解は既に自分は罪人の一つだけで、他の思考など無駄な気がする。


 死のう。


 もう死のう。


 せめて罪人のつとめとして彼女に一言謝ってから死のう。


       ◇◇◇


 泣いて、神に祈り、懺悔した。彼に蹴られて拒否されて、私は礼拝室に駆け込んだ。ひし形の黄金を見た時、私はあれに懺悔しなきゃと思った。贖罪は失敗した。私に残された道など一本もない。泣いて、泣いて泣いて泣いて、神と仲間に謝って謝って謝った。涙と喉が枯れて私が立ち上がったとき、私が入ってきたとき開けたドアから風が吹いてドアがはためいていた。あそこが、私の死への転落の道。それは道と呼べる代物ではなく、奈落そのものと思える。何故だろう、死へと向かう時、私の魂と身体が軽い。


 さあ死のう。


 この世界には何も残されていない。


 エルに拒否された。みんないない。だれもいない。今までの罪の分を背負って死のう。


       ◇◇◇


 アーチ状の弧を描いた回廊。エルは、ラスが踏みしめた埃の足跡を辿って礼拝室に向かう。途中で、ラスの足跡が二つになった。礼拝堂とは逆の方向で、それは階段に向かっていた。階段を駆け上がって、三階に向かう。テラスの手すりに近づくラスの後姿がみえた。

 「ラス。俺は、あなたに謝らなくてはならない」

 エルは下に伏せがちな瞳を震わせながら上に上げて、眼差しをラスに向けて逸らさないようにする。自分は罪人だから、これは義務だからと自分に言い聞かせて強制してその場に彼自身を立たせている。

 「あなたは自分を救おうとしてくれたにも拘わらず、俺はあなたを拒絶した。あなたの言葉を否定した。俺はあなたの救いを振り払った」

 ラスは振り返らない。何も答えない。埃被った黄金の髪がなびくだけ。

 「以上だ。そして、俺はこの世界から永久に離れる」

 黄金の髪が一際強く揺れる。その横をエルが横切って、手すりに上ろうと右足をかける。

 「……なに、やってるの?」

 そこで、はじめてラスの声がでた。驚きと、戸惑いの声。

 エルは答えない。手すりに両手でつかまって、もう片方の足を床から手すりにあげようとする。

 ラスが走り出して、エルを抱え、後ろに引き戻す。手すりから引き戻されたエルの身体が宙を舞って、ラスを押しつぶす。

 「がっ……ぐあぁ……」

 エルの身体に潰されて、ラスが呻き出す。

 「なぜ……なぜ俺を死なせなかった……?」

 ラスは答えない。代わりに、痛む身体をおして立ち上がり、フラフラと手すりに近づく。

 「何をしようとしてるんだ、ラス?」

 ラスが手すりに右足をかける。エルが走り出す。

 「あなたは駄目だあああああああああ!!」

 彼女の腕を引っ張って、腰に手を回して引き戻す。

 「駄目だ……駄目なんだ……」

 「どうして……どうして? エル……」

 戸惑い、パニックになり、涙を流すラス・アルミア。

 エルは、自身の罪悪感の筵の中でこう考えていた。

 (ラス・アルミアは善き人間。罪なき人間。その者の自殺の背を押してしまったなら、俺は引き戻さなければならない。この世界に必要なのは、俺のような罪人ではなく彼女のような善人なのだから)

 「あなたは、善い人間です。でも、俺はそんなあなたを拒絶してしまった。死ぬべきは……俺なのです」

 腕の中からラスを離してやり、手すりに近づくエル。その腕を、ラスが両手で捕まえる。

 「——違う! 私が罪人なの! 仲間をあの世に置き去りにして、あなたの心を壊れるまでに傷つけた! あなたは人に何かを与えることができる人間。この世界に居るべきは、あなた。私じゃない!」

 そして彼女は乞う。

「わたしを死なせて!」

 そして彼は願う。

「あなたは生きてください。そして、俺を死なせてください」

 背筋を伸ばしてエルが手すりに近づこうとする。ラスの彼を捕まえる力がより一層強く増し、しかし未だ弱い全力のままで彼を引き戻そうとする。

 「放してください。……俺は、現世にも、天国にも、煉獄にも、地獄にも、浄土にも、輪廻にさえも、いていい場所は無いんです。あなたが慈悲をかけてくださっているのは嬉しいのですが……俺は、慈悲を受けていい人間じゃない」

 微かにしか抑揚のつかない、感情の無い平坦な声。

(私は、あなたを止める為にはどうすればいいのかな……)

 死を決意して揺るがないエル・ハウェ。彼を生かすためには、今、何が必要なのだろうか。彼女は思案する。

(力では解決しない。どのみち、私は弱い。……)

 たった一つの、しかし既に失敗した案しか思いつかなかった。

(言葉じゃ無理だ……。私は彼を傷つけた……)

 他の案は? 彼を止める為には、どうすれば——


 彼の死よりも、彼にとって大事なものはないのだろうか。……全てを捨てて無くした彼にとっては、もう本当にないのだろうか?


 いや。


 いや……。


(違う)


 違う。


(ここに……まだ、私がいる)


 そう、ラス・アルミアがいる。


(……なんで……?)


 エル・ハウェを止める為の唯一の手掛かりが、彼と同じく死を決意したラス・アルミア。彼女は、その結論に辿り着いた。唯一の正解、崖っぷちに落ちていた命綱を拾い上げた。

 だが、その辿り着いた結論にラス・アルミアは瞳を震わせる。歯を噛みしめて、動機を抑えようとする。自分で心臓を掴んでいるような苦しさを感じている。

 「……なぜ……」

 彼女の瞳が潤う。罪人である自分が生きていいはずはないのに、よりにもよって罪人の存在だけが彼を救う唯一の手掛かり、という皮肉。

(……なら、こうすればいい)

 彼を、騙す。

 彼を騙して、罪に正直でいる。

「だったら、あなたが死んだら私も死ぬ。その代わり、あなたが生きてこの寺院を出るなら私も生きて出る」

 早口でまくしたてる。エルが彼女を引き離そうとりきむ力が緩む。

(嘘だ。エルが寺院を出るとき、彼の背中を霧の向こう側へと押し出して私はここに残る。ここに残って死ぬ)

 ラスは、光沢のない瞳をエルに向ける。


 エル・ハウェは絶望した。

(しなせてくれない)

 死ぬしかない罪人に、ラス・アルミアは枷をかけた。エル・ハウェはもう死ぬことができない。彼女が生きている限り、彼女を自殺させないように生きる必要がある。でも、それは……。

(不要な延命……。ただいたずらに罪から逃れるという罪を重ねるだけ……)

 太陽の輝きが、妙に足りない。心臓の位置する部位がちくちくと痛む。呼吸が荒いような気がする。エルは、精神と連動した身体の不調の発露を感じる。

(でも、それでも彼女の命は俺が罪を重ねるに値する……)

 彼女は正しい存在で、死んではいけない存在。心の根底にそう刻み込んだエルは、鈍く重い口を開ける。

「わかった。お前を死なせない為に俺も生きる」

(そして、俺はお前と別れた瞬間に人知れず死ぬ)

 エル・ハウェは、彼女の人生から彼自身がいなくなった時に、彼女からかけられた枷をといて自ら死のうと決心した。


 死の未来しか見えていなかった二人。だけれどもお互いの存在が枷となって、崖から墜落するのを許さない。それぞれの存在はこの誰も来ない寺院の中で時間を過ごすうちに大切になっていって、いつしかそれぞれの我が望みよりも優先すべき宝物になっていたのだ。宝物は枷となりて、お互いの首を繋ぎ、離れさせなくしていた。




 黄金に灰を被せたような髪の女が階段を上がる。脚を無造作に上げて階段を昇り、足音を響かせている。 

「グノーモン様」

 階段を上がり終えた先に、銀色の龍が鎮座している。

「グノーモン様……。試練への道をお示しください」

 冷たくてざらりとしている石床に膝をついて、ラス・アルミアは跪く。

 しばし、静寂。

 グノーモンが、琥珀色の眼差しで彼女の瞳を見る。

 

 輝きが無い。


 グノーモンは、太く長い竜の首を繰り返し横に振る。

「希望無き者に道は開かれぬ。瞳に光なき者に道を踏み出す資格は無し」

「そう、ですか」

 彼女の気持ちが地の底に落ち込む。ラスが落胆し、瞳をぶるぶると震わせているのがありありとわかる。

「希望。希望。希望」

 しきりに呟き、彼女は希望が何なのか、何なら希望たり得るかと一生懸命頭からひり出そうとしている。

 希望の定義とはなんだろう。あいまいな希望の定義が彼女の頭を混乱させる。一日の銭だっただろうか。彼女のかつての仲間に手がかりがあるのか。希望とは、抱くものなのか、手放してしまうものなのか? いくら過去のことを考えても、彼女の暗雲たる記憶の中からは光を見出せなかった。

 「希望、希望、希望……」

 希望について思いを馳せる度に、自らが希望とは縁遠い存在だと叩きのめされる。寺院に来る前の彼女の人生は仲間こそあれど、闇の中を、小石にかじりついてでも這うような生であった。そこに光はなかった。仲間死んで自らが罪人となった今、どこにも光などない。彼女の人生には一片の光もない。彼女は、そんなふうに考えていた。

(ちがう)

(わたしの人生に、一片の光もない? 違うでしょ、今ここに、光がある。この寺院に、光がいる)

 その光とは、エル・ハウェ。わたしに知識と温かさを与えてくれた存在。彼こそが、私の希望。だから、彼はこの世界に在るべきなのだ。

 「いました……。希望が。エル・ハウェさんが」

 一滴の泪を落として、ラスが希望を口にする。だが、グノーモンにはその瞳には依然として闇と陰りがある様に見えた。


(……まだ不完全。不安定。ラスの口にする希望は、彼女にとって不確かで、そして彼女自身が救われない)


 グノーモンはその思考を口に出すべきか、悩んでいる。今まで数え切れぬ人に介入しては、その死を見送って来た。何百ものの人間が試練に挑戦しては成功することができず、自分の信じた希望に失望して嘆き、死んでいった。この寺院を出れた唯一人の人間を除いて。

(あの人も、私の声など必要とせずにこの寺院を出た。今回も、私は口をつぐもう)

「グノーモン様。私は、エル・ハウェさん、彼を希望にして試練に挑みます。彼にはこの世界に生きて欲しいから」

「そうか。……試練は、時として人の魂を壊す。気を付けるのだぞ」

 竜が今まで見て来た何百人のなかで、試練の間を出た途端に、心を亡くした者がままいた。試練にて襲い掛かってくるのは、人間の昏く蓋をした心そのもの。


 グノーモンの白い翼が広がり、飛翔体勢に入る。光を透通す翼膜に幾多ものの細い血管が映えて、白い翼膜に幾何学的な模様を浮かび上がらせる。翼は真っすぐに羽ばたき、翼の内側の硬質な空気の塊が押し出されてラス・アルミアの身体に押し寄せてくる。羽ばたくごとに押し出された空気が床と衝突して、四方へと広がる。竜の身体がひと羽ばたきごとに浮かび上がっていき、ラス・アルミアの真上に滞空する。竜が口を開き、喉が大きく膨らむ。刹那、音に聞こえぬほどの咆哮が響き渡る。鼓膜が痛くなって、ラス・アルミアが耳を塞いで顔をしかめる。そうしていると、床の中央にある六芒星の紋様が青白い光を纏い始め、光が集まって浮かび上がり、光の球となる。

「ラス・アルミア。その光についていけ。その先に試練への入り口がある」

 ラス・アルミアが空を見上げ、憂いのある瞳で降りて来る竜を見つめる。

「ありがとうございます。 ……私の最後になすべきことを手引きしてくれてありがとうございます」

 深々とした一礼のあと、ラス・アルミアは動き出した光球について階段を降りる。ラス・アルミアが影の中へと完全に隠れた後、竜はしばらくの間、階段の影から瞳を外すことはできなかった。


 光球に導かれてラス・アルミアは一階に降り、昇り階段のすぐ横の壁の前に立つ。球が壁の中へスゥーッと入って消える。煉瓦状の壁が、ガコン、と音を立てて光球が入ったところを中心として人一人通れそうな縦長の長方形の溝が輪郭と成して浮かび上がる。そうして隠し扉が現れると、扉はひとりでに内側に開く。ラス・アルミアが扉の内側へと足を踏み入れると、一人通るのがやっとな窮屈で陰気な下り階段が果てしなく長く続き、はるか下にある漆黒に浸かっているように見える。


「試練は、この先……」


 明かりの無い階段を、松明を手に、慎重に、一段づつ降りていく。試練はこの先なのに、既に自分が試されているような感触をラス・アルミアは感じている。足元を照らしながら、確かめながら、一歩、一歩、降りていく。

「ひっ」

 手に持った松明の火の暴れるのに、ラス・アルミアが怖気づく。至って自然な現象に怯えてしまうほどに闇は深く、試練に向かう気持ちは萎縮していた。それでも、エル・ハウェを救わなければならないという気持ちのみが足を下へ、下へと進ませる。


 隠し扉が遠くなり日の光の差さぬ完全な闇に沈んでしばらく経った頃、ラス・アルミアはついに試練の入り口らしきものに相まみえる。闇の中に、くっきりとした黄色の線が複数浮かびあがっていて、どうやら壁やら床やらに刻まれているようである。ラス・アルミアに対面する壁には複数の横線が上から下へと順序だった距離で並んでおり、それを一本の縦線がまっすぐ貫いている。縦線は天井と床それぞれの円の線に繋がっている。天井と床それぞれの円は同じ大きさであり、人一人が入れそうな広さである。

「これが……入口なの?」

 ラス・アルミアはおそるおそる、円の中へと足を踏み入れる。片足。何も反応は起きない。両足を踏み入れた途端、ラス・アルミアは身体が重くなるのを感じた。

「うっ、ぷ……」

 それだけではなく、気分も気持ち悪くなった。彼女は今、喉元に何かがこみ上げてきそうな気持ち悪さを感じて口元を抑える。彼女の精神に何かが侵食しているような感じにラス・アルミアは苛まれ、頭痛ができては次第に痛みを増していき、意識が明瞭ではなくなっていく。

「いっ、ぐうぅぅぅ……あああぁぁっ!」

 頭を抱えて、地面にうずくまる。苦しんで悶える彼女は気づかないが、天井と床の円から霧のようなものが発生し、やがてその場を包み始める。ラス・アルミアはうずくまりながら、その場で霧に包まれて見えなくなった。



    ◇◇◇




 「……ス……」


 ねむい。なんだかあたたかい。


 「……ラ…………」


 ねむい。ほっといてよ。


 「ラスー!」


 「うおっ!?」


 何者かが私の名前を呼びながらを強く揺さぶり、私のさっきまでの強烈な眠気が飛んでいった。驚いてすぐに起き上がり、おんぼろな木の板の壁を正面に向く。


 「って……」


 見覚えのある景色。ところどころ破損していて隙間から陽光が入ってくる、気休めの雨凌ぎにしかならないおんぼろ掘立小屋。そして、さっきのは聞き覚えのある声。


 まさか。


 ありえない。


 私の心は最初、驚きと戸惑いで凍り付いた。それから徐々に、心の奥から温かいなにかがこみ上げてきて心を溶かし、瞳の底から涙がこみあげてくる。


 おそるおそる、声のする方へと顔を向ける。


 「どしたん、悪い夢かー?」


 そこにいたのは、もうこの世にいるはずのない、私の掛け替えのない仲間たち。アル。ミリーシャ。リーテ。最年少で元気活発なアル。おっとりして落ち着きのあるミリーシャ。よく私と喧嘩したリーテ。


 「どうして」


 涙が頬を這いながら、声が口から漏れた。


 「んー?」


 私を起こしたリーテが疑問そうな顔で私を見つめてくる。


 「おまえ、変なもの食べたんだろー」


 「そんなわけないでしょ」


 リーテの憎まれっ口に、つい口が反応してしまう。リーテはぽかんとしたような表情になった。


 「うーん。本当にどうしたのねぇ、ラスちゃん。言葉と表情が合ってないよ」


 ミリーシャが、おっとりとした怪訝な表情で私を心配する。


 「んん……腹減ってるのか? 私の食うか?」


 アルが硬くてボソボソとしたパンの食いかけを私によこしてくる。


 なんだ、これは。私は寺院にいたはず。試練の入り口に立って、気分が悪くなって、それから……。


 いや、この状況は本当なのだろうか。頬をつねる。


 いたい。


 わたしは、ずっとわるいゆめをみていた?


 アルが、ミリーシャが、リーテが、あのひせまいおりのなかでのうをさらけだしてちょうがまろびでて、まだあたたかいからだのまましんでいたのはゆめだったのか。


 わたしひとりだけにげだして、やみよなにもみえぬもりをさまよって、くさとえだにいっぱいぶつかってきりきずをかさねて、いつしかおおきなきりのまえにたっていた、あれはゆめだったのか。


 じいんのなかでひとりのおとこにであって、なにもしらなかったわたしにいろいろなことをおしえてくれて、でもわたしはそんなおとこをきずつけた、あれはゆめだったのか。


「いままでのは、ゆめ……?」


 涙が溢れる。鼻と喉がつらくなる。よかった。いきてた。いままでのは、ゆめだったんだ。ありもしない日々だったんだ。いま、わたしはいきているなかまを目の当たりにしている。やばい。どうしよう。涙が多すぎて瞼を閉じてしまった。それでも涙は溢れ、顔は上を向いてしまう。嬉しくて、安堵して、なにより心が温かい。

 泣き止まない私を、アル、ミリーシャ、リーテはしばらくの間そっとしていた。


「ごめんね。……ずっと、めざめのない悪夢をみていたみたい」


 泣き止んだ私は、やっとみんなの顔を直視することができた。しょうじき、顔を見ただけで涙が出そう。うっ。ほら、またもう一筋の涙が流れた。


「そっか。まあ、ラスはここんとこよく働いてたし、半日くらいは休んでもいいかもね」

 リーテに優しい言葉をかけられてしまう。そんなに心配させてたのか。ミリーシャからパンを貰おうとして、左肩が痛み出した。服を半脱ぎにして肌を露出させると、紫色の痣が左肩にあった。

「いたっ……」

「昨日の客、最悪だったよねー」

 昨日の客? いったいいつのことだろう。長くて目の覚めない夢のせいで、昨日と言うものの時間が記憶の中のどこなのかよくわからない。

「そ、そうだね」

 適当に相槌をうつ。娼館の客のことだろう。……そういえば、今日はいつだ?

「今日って、いつだったかしら……?」

「もう、今日のラス姉、変! 天夜暦229年の5月22日だよー」


「……え?」

 心がきゅっとなった。……みんなが死ぬ日の、一日前だからだ。みんな、あしたしぬ。


 ぶんぶんと頭を振る。ちがうの。ありえないの。だっていままでのできごとはゆめ。アルから聞いた日付が今日だとしてもおかしいところはない。わたしは、ゆめからさめて本来の人生を歩むだけ。


 ……本当にそうだろうか? 私の罪なんて、元からなかったのだろうか? 夢にしては生々しかった記憶が頭にこびりついて、離れない。




 アルとリーテが働きに出かけ、わたしたちの小屋でミリーシャとふたりきりになる。私は、未だに身体に力が入らない。ずっと眠っていたような気がして、立ち上がるのも億劫だ。


「それにしても変ね。いままでだってこんなことは無かったし、本当に何か病気でも貰ったんじゃない?」


 ミリーシャが未だに私の身体の心配をする。


「平気だって。夢見が悪すぎただけ。あと少ししたら動けるようになるから……そしたら、稼ぎに出るよ」


 気丈にふるまう。だってなにもなかったんだから、私はすぐに元気にならなくちゃ。


「うーん……、話したくないならいいけど、どんな夢をみたの?」


 全ては夢という名前の嘘偽りの記憶なのだから、まぁ、いいか。


 私は、ファルネスの大霧までへと彷徨い、グノーモンの寺院で一人の男と出会い、色々あったことを話した。……三人が殺されたということは伏せて、心配かけまいと多少は脚色して。


 でも、話の途中でミリーシャは怪訝な顔になったり。少し驚いたように瞳を大きくしたり。私が一通り話し終えたのちに、ミリーシャがこう言った。


「……うーん、なにか言ってないことがあったのね。きっと」


 私が夢の内容を多少捻じ曲げて話してることを、ミリーシャは見抜いちゃう。もともと、ミリーシャは人の嘘や隠し事にはすぐ気づいちゃう。


「今話したので全部だよ、ミリちゃん」


 目を伏しがちにして、あえて隠し事のあるオーラを伝える。こういうところにも、ミリーシャは敏感なのだ。


「わかったわ。んーと、寝てばっかりもあれだから少し歩きましょうか」


 ミリーシャが立って、私に手を差し伸べる。私はその手を掴み、立ち上がる。掘立小屋のガタついたドアを叩き開けて、生ごみや吐瀉物などがそこかしこに散乱されている薄汚いスラムの細道を歩く。


「こういうときはね、なにもかんがえないでおひさまのしたを歩くのが一番いいのよ」


 気にかけてくれている。ミリーシャはやっぱりミリーシャのままだ。


「ありがと、ミリちゃん。少しずつだけど、元気がでてきた」


 もうすこしでスラムを抜けて、交易都市のはずれの森林地帯にでる。草や木々の葉がゆれて、心地いい音を奏でる。朝露の水滴が映えて、世界を光の粒々の反射で染め上げる。ああ、もう大丈夫だ。


 ……だいじょうぶ?


 なのに、まだおもい。


 私にはなにか果たさなければならないことがあるような気がする。


 ちがう。そんなものはない。全て夢だったのだから。


「ねぇ、やっぱり訊きたいことがあるの」


 ミリーシャが私を背にしたまま立ち止まる。なんだろう。


「私ね、驚いてることがあるの。……男のこと、前向きに話せる子だったの、ラスちゃん?」


 それを言われた時、私は凍り付いた。指の先に血が通っていないような感じがして、それでも動けなかった。頭が冷えて、痛くなった。息がろくにできなくなって、それでも唇はあまり動かない。私だけが急に凍土に放り込まれたかのように。


 ……何故かは分からない。あれ? 私って男のことを前向きに話してたっけ? 夢の中にしか存在しない、エル・ハウェのことを前向きに? そうか、夢の中の存在だからいいんだ。


「夢の中だけの存在だから、かな」


 ……


 ……


 ……


 どうして、私はいま、わざわざ『夢の中”だけ”』と強調した?




 やばい。急に後ろめたくなってきた。足が重くなって、今にも地面に沈みそうだ。もうほんの少しでも手を動かすことができない。明るく光り輝いていたはずの世界が徐々に光度を下げていき、やがて視界は青白いモノトーンにそまる。



 私はこわい。



 私の首を、もう一人の私がつかんではなさない。そのわたしは、わたしにこういう。



『わたしの罪をわすれるな。エル・ハウェをわすれるな。あのひ、脳が露出したアルを。殴打されまくって痣だらけの血まみれのまま死んだリーテを。腸がまろびでて血まみれだったミリーシャをわすれるな。そして、すべてせおって地獄へと身を投げ捨てに行くんだ』

 



 そう囁いてくるもう一人の私は私の身体に溶け込む。思考が、侵食される。夢ではもう済ませられない。夢なのに。夢じゃない。夢じゃ在り得ない。


 ここは”試練”で、覆ることのない現実の地続きだ。グノーモンの寺院も、エル・ハウェも、ぜんぶ真実で。ここは、”試練”が見せる幻の世界。


 泣きたくなったが、既に涙は泣ききって涸れている。取り戻した元気が抜けていって、天地が横に回転する。柔らかい草花が私の側頭部を受け止めて、潰れる。


 柔らかったはずの草花の大地が固く、冷たくなっていく。青空は暗く窮屈な石の天井に変わり、限りなく解放されていた空間は岩の壁に囲まれた狭く淀んだ空間に変わる。辺り一面を照らしていた日光が松明の火に置き換わり、少しの範囲しか照らさない。この狭い空間の中で、更に檻に囚われていることに気が付く。

 ———目の前に立っていたミリーシャがどさりと倒れる。


「ミリー、シャ?」


 絶望に奪われていた力がその時だけは身体に戻って、すぐに倒れたミリーシャの元に駆け付ける。ミリーシャは伏せたような恰好になっていて、様子が詳しくは分からない。……でも、しっているきがする。

 喉奥に強烈な異物感を感じて、熱くて気持ち悪い液を吐いた。 


 ミリーシャをひっくりかえしたら、ちょうがまろびでていた。


 ふりかえると、アルがのうをさらけだしていた。


 アルのそばでリーテがあなをほったかっこうのままちをながしてうごかなくなっている。



 よくみるとさんにんのふくがだれかにひっぱられたかのようにのびていたぬがされそうになったんだそれでひっしにていこうしてとじこめられてころされて


 ここでしんだんだ


 あの日、わたしは富豪につかまってここに押し込まれたんだ。それで、檻に閉じ込められてすぐ、みんなが死んでるのを見てわたしはにげた。手を合わせもしないで、ただおどろいておびえてなきわめいて。こころがぐちゃぐちゃになってあたまがまっしろになって、それでなにもしないままにげたんだ。


 あのあと、なかまたちはどうなった? からだは、どうなった? いまもここにねむっている……?


 わたしがほっといたのがわるい。なかまだったのに、死体さえもたすけられない私がわるい。たすけようとすら思いつきもしなかったわたしがわるい。


 まだ気持ち悪い液がついたままの歯で無意識のうちに腕を噛みしめて血を流す。

 

 どうして、わたしだけいきてるんだろう……




 刹那、空間が”切り替わった”。


 仲間の死体と陰湿な地下室が嘘のように消えて、今は水滴を人が入れるような大きさにした中身のような空間の中にいる。


 何の仕業かはわかっている。

『ラス・アルミア。ようこそ、試練の間へ』

 振り返る。少し距離を置いたところに、ある日覗いた川の水面に映る自分の姿と同じ姿をした人間がそこにいた。

「あなたが、さっきの様子を見せたのか」

 拳が怒りに震えて仕方ない。私の目つきは激情に尖り、喉仏からは憤怒のあまりの呻き声が漏れる。

「気分、良くないんだけど」

『……すまなかった。だが”あれ”は試練に挑む者の自覚に足りないものを補うための助け船のようなもので、”試練”に備わっている機能なのだ』

 つまり、さっきの様子の中に私の心に足りないものがあるとこいつはいいたいのか。正直、怒りと悲しみで溢れそうになって仕方ないが、ここはこらえざるをえないだろう。 

『それでは、ラス・アルミア。貴女に試練を問おう』

 エル・ハウェの為に、ここはもう下がれない。

『”生”とは何なりや』

 刹那、思考が凍り付いた。”生”。”生”? まず”生”の何を答えればいい? ”生”をどう答えればいい? あまりにも取っ掛かりが無さすぎて分からない。あまりにも漠然で曖昧とした、巨大すぎるテーマを突き付けられて答えろと言われてもどうしようもない。

「あ、え、ええと……」

 問いの訳の分からなさと自分の頭の足りなさに時折呻いてしまう。視線が空を泳いでしまう。幾ら思考を巡らせても、ただの一つの言葉さえも出てこない。浮かむ瀬無き思考の果てに、答を掴めるはずがない。

『最後の助け舟を出そう』

 私と同じような姿をした”ソレ”は私を見かねてのことなのか、口を開く。

『先ほどの問いに関してだが、”試練”はなにも絶対の答を求めているわけではない。その答えを通じて、回答者その人の生き様や生に対する姿勢を見極めるのだ』

 私を形どった貌にはめ込まれた、私のものではないような瞳が威圧の刃を私に突き付ける。手足が一瞬にして凍ったような錯覚に陥り、胃の中に何かが溜まって吐きたくなるような苦しみを覚える。

「生き様……?」

 ようやくおうむ返しにするその言葉に思考を巡らせる。……”アレ”が言ったことを察するに、私は私の人生を通じて答をいわなきゃならない。

 私の人生? 地べたを這うような生活、それさえも仲間か死に、私一人だけその後の意味のない生を送って、何もない人生から何を答えろというのか。意味のない答で、”試練”が満足するわけがない。

 今までの人生を思い起こす。……物心ついたときは薄汚い孤児院にいて、あまりにも虐待がひどかったから一人逃げ出して、仲間たちと出会ってあの小屋に住み始めて、でも稼げる腕が無かったから身体を売って、仲間が死んで一人に戻って、仲間を見捨てて彷徨い、ここに辿り着いた。……誰一人救えていない。善行などただひとつもしていない。私の生き様なんて、塵芥ほどの価値もない生だ。

 ここの”試練”は、私などのような者には門前払い程度のものだったのだ。もうあきらめよう。

「私の生は、身体を売って稼ぎ、常に強者に媚びへつらうか逃げるかしかない、善行をただひとつもできなかった、何もいいところがない生でした」

 言った。自分の生を正直に述べた時、自分の心を表面の荒い石で擦りつけるような感じがした。汚点だらけの生を述べなければならなくて、自分の心は正直滅入った。

 私と同じような姿をした”ソレ”は、呆れたように溜息をついた。

『当然、それでは不合格だ』

「ほかにどう説明できましょう?」

 暫しの間、沈黙が流れる。”ソレ”は憐れむような目つきで私の瞳をじっと見てくる。それが耐えられなくて、ただひたすらに視線をそらす。

『何回でも挑める。今はただ考える時間がいるだろう』

 考える時間? 意味のない時間だ。自分の心の中で、何かが終わる。思考は闇そのものになり、ただ目の前にある現実すべてがどうでもいいものになる。無意味、無価値。ああ、私はなんでここに来てたんだろ。ただ一人の人間すら救えない。私の生が無意味で無価値だから、エル・ハウェも、誰も救えないんだ。


 ……いい加減、終わりにしよう。


「ここから出させて」




       ◇◇◇



「作戦を練っている間に、ラスが入ったのか」

 光宿さない瞳で、エルは試練に続く隠し扉を見ながら独り言ちる。日は沈んで、彼の持つ松明と満月しか明かりはない。

 「……ん?」

 足音が、闇の底から聞こえてくる。上がってきている音。おそらくはラス・アルミアが上がってくる音。

 闇から彼女の顔が現れる。彼の頬に冷や汗が一滴。

「どうだった?」

 答の分かり切っている問いを出す。彼女の、もはや空虚としか言合せられないような無表情を見れば答なんて分かりきっているものを。

「失格。それ以外に何もない」

 それきりエルから視線を外して彼女は彼を横切り、二階へとつづく階段を昇る。——その彼女の腕を、エルは、ほぼ直感で、ほぼ反射で、掴む。彼女が危ういと感じたから。階段の中腹で、エルがラスを止めている。

「どこに行くんだ……?」

 日は沈んで、彼の持つ松明と満月しか明かりはない。

「高いところ」

 早口で答え終わるより早く、ラス・アルミアは掴まれた腕を振りほどこうとする。階段を上がる脚に力を入れて、腕を左右にできるだけ強く振る。彼女が階段を1つの段上がろうとしたとき、エルは引っ張られて足の安定を失い、階段を踏み外す。彼は転倒し、掴んだ腕と松明を放す。松明は階段を転がり落ち、石の床に激突して明かりが消える。ここぞとばかりにラス・アルミアは階段を一気に駆け上がる。

「まってくれ……」

 痛みに耐えて情けないぐらい弱い声を振り絞りながら、エルは立ち直って階段を駆け上り、彼女の足音を頼りにラスを追う。暗い中で壁にぶつかり、歩くたびに転倒した足が軋んで激痛が響きながらも、エルは耐えて彼女を追う。三階へと繋がる階段を見つけ、昇り、長い回廊を走り、天まで届きそうな狭い階段を四肢を活用して獣のように駆けあがり、また長い回廊を息が途切れ途切れながらも突っ走り、体重の全てをかけて重い重い扉を開ける。

 ……風が吹いている。冷たい風が吹いている。天井は無く壁はところどころ崩落しており、石の床が広がる、月の光が眩い空間の中、ラス・アルミアは正に崩落した壁の隙間、石の地面の端に立っている。その先に床は無い宙で、踏み外せば墜落するしかない。

 龍は、ただラス・アルミアの方を見て佇んでいるのみ。動く気配はない。


 風が吹いている。いつもなら落ち着いて聞こえただろう風音が、この時だけはやかましい。そう感じながら、エルは足を引き摺ってラス・アルミアに近づく。一歩、一歩。それでも、彼女との距離はまだ遠い。ふと、エルは彼女を止めない竜が気になった。

「グノーモン様っ、なぜ止めないのですかっ」

 龍の視線が彼の方に動く。

「私は他の者にあまり干渉しない。命をどうするかは、その者の決断に因るのみ」

 その眼差しは、どこかしおらしく、龍という伝説には相応しくないくらい無力だった。

 一歩、一歩、怪我していない右足で左足を引き摺りながらも彼女に近づく。それでもエルとラスの距離は、まだ手が届かない。

「ラス、やめるんだ」

 自分が言えた義理じゃないと自覚しながらも、エルは彼女に呼びかける。

「自殺なんて、君には相応しくないマネはやめてくれ」

「そこで止まって」

 エルの足が止まり、彼女に向けて伸ばそうとした腕も止まる。

 静かだ。凪いでいる。満月に見下ろされて、彼と彼女は向き合っている。

「俺は、君が死ぬべきだとは思わないんだ。いや、むしろ、死んじゃだめだ」

「なんで?」

 ラス・アルミアの瞳は、もうエルを捉えてなんかいない。ただ彼女自身の足元を、生と死を分ける、石の床が途切れているところを見つめるだけだった。

「仲間がみんな死んだらそりゃ、悲しくなって死にたくなるかもしれないけど。でも、君は俺なんかよりずっと善人で、だからむしろ生きるべきだと思うんだ」

「資格がないのに?」

 ラスが、彼女自身を突き放すように言う。彼女の眉間に皺がたまり、彼女の身体全体が震えている。——そして、今まで堰き止めていたものが溢れ出す。

「私は仲間を見捨てた。仲間の遺体をあの場所からどうしようと考えず、ただ私だけが私自身の自分勝手な恐怖に従って、おめおめと今日まで生きてしまったんだ!!!!」

 初めての、怒りの告白。

「だから、だから。私は、そんな自分の罪を、こんなに重い罪を背負ってまで生きていようとは思えない。私は、私の罪によって死ぬべきなんだ!!」

 あまりの苛烈さに、エルがたじろぐ。その隙に、ラスは荒れた呼吸を整えようと、乱れた髪を直しながら深呼吸する。

「さようなら」

 訣別の言葉と共に、ラス・アルミアの片足が何もない宙へとずれようとする。

 エルが、足の痛みを忘れてラスのもとへ駆け寄ろうとする。その一瞬だけ、エルの頭が全部真っ白になって、たったひとつの疑問だけが真っ白な世界にくっきりと刻まれている。—そして、頭から口に流れ込み、口から迸り出ようとする。


「貴女は今日にいたるまで」


 片足がもうつま先から後ろは宙に浮いた頃に、エルが叫ぶ。


「何の罪も犯していないじゃないか!」


 —そして片足が完全に宙にずれて重心が外側にずれ、ラスの身体が落ち始める。




       ◇◇◇




  「さようなら」

 訣別の言葉と共に、私の片足が何もない宙へとずれようとする。

 これで全て終わり。私の罪と私の苦悩は、少なくともこの世界からは消え去り、私の魂と共に地獄へと堕ち去るのだ。

「貴女は今日にいたるまで」

 エルが、顔を赤くして、傷付いた足を踏んばって、叫ぶ。

「何の罪も犯していないじゃないか!」

 その言葉が耳から流れて頭の中で言葉になったとき、心臓を縛り付けた鎖が矢で貫かれ砕かれた、と感じた。自分への罪悪感と怒りで煮えていた心に冷たいものが流れてきて、奇妙な温度差に気持ち悪さを感じ、吐きたくなった。


 —そして片足が完全に宙にずれて重心が外側にずれ、私は落ち始める。床を踏んでいた片足は傾き、かかとを軸に身体が床と平行になって、私の頭が床より下になった。真上に満月が見える。私の死を見届けている。愚かな罪人の自らによる死刑を見届けているんだ。まだ地面と衝突しないのかなと思った直後に、例えて言い表すならば巨人に体当たりされたような衝撃を感じた。不思議と痛みは無かった。視線が地面と平行になって、視界の半分を草の森が邪魔して、もう半分は、遠くに寺院の中庭の景色が見える。首が動かない。いつもなら簡単に首を起こせるのに、できない。手が、腕さえも、いつの日か寝相が悪くて自らの腕の血管を締めてしまった時と同じような感覚で、どこにあるかわからない。足もどこにあるかわからない。胴体も、どうなっているかわからない。なにもきこえない。温かさや冷たさも感じない。今こうして草が鼻に触れているのに、青臭い匂いも感じない。直感で、ああ、もう終わったと感じた。私の中でまだ視界だけが生きているけれど、それも終わりを告げる。視界がぼやけて、緑色は何だったのか分からなくなってきた。ボヤけにボヤけて色も分からなくなったころに、何かが動いた気がしたけれども、もう知るすべはない。そのうちにまっくろになった。まっくろな世界の中で、それでもなお、私の心の中だけは、熱く煮えたぎったものと冷たいものが突然混ざったような、まだ冷め切っていない奇妙な温度差のせいで気持ち悪かった。でも、もうすぐ私は死ぬ。そうしたら、この気持ちもなくなる。




 ラス・アルミアという一人の罪人は、寺院の高層から転落し、寺院の中庭で草花に囲まれて息絶える。




 ——まっくろな世界の中で溶けゆく自らの意識のなかで、彼女はそう感じた。



     ◇◇◇



 ラス・アルミアは中庭の石敷の歩道の端に落ちて顔が草花の生い茂る方を向いたまま気を失っている。頭から血を流して、石敷の歩道のあみだの溝を流れる。

「ラス、アルミアっ……!」

 あしひき足を引き摺りながら、俺は中庭を降りる。彼女を見つけるや否や、転倒して這ってラスの元にたどり着く。石敷の歩道の溝に血が流れているのを見て瞳に涙が溜まり、手を彼女の口元にかざして呼吸を確かめて生きていることを確認し、一息の安堵をつく。ふたたび溝を流れる血に目が行き、緊迫感を覚える。服の袖を破り、彼女の頭に巻き付ける。勉強していたはずの応急処置の知識が記憶の大地にとっつらかって、思い出したいのに思い出せない自分にいらだって爪が食い込むほどに手を強く握りしめる。

「生きてくれ。申し訳なかったから、生きてくれ」

 現在進行形で、俺の胴に胸に穴が拡がっているような気がする。俺の皮膚や神経系は穴の端っこに、振り絞られるような感じで追いやられているようで、辛い。そうして、この穴の拡がりはラス・アルミアの命の灯と同じなのだと気付いた。彼女が死んだときが穴が拡がりきるときで、そのとき俺は壊れてしまうだろう。いや、俺のことはどうでもいい。彼女は、とにかく助からなければいけない。俺の罪で、誰かが死ぬなんてことはあってはいけないから。

「止まってくれ、血が流れてこないでくれ……」

 鼻水で息を詰まらせながらも、服を裂いた切れ端でラスの頭の傷を圧迫して、彼女の命がこの地上に留まるように願う。


「お願いです、お星さま。神様。俺を地獄に沈める代わりにラス・アルミアの命を留まらせてください……」


 信じてもいない神に、らしくなくも縋る。


 その時、俺の横を、透き通るような、細くてか弱い、風のような何かが吹いていった。




     ◇◇◇



 真っ暗闇の世界、手首に目をやると大きくて重い鉛の枷がかけられている。足首も同じ。繋がれている鎖は暗闇の無限のはるか向こうへと繋がっているように見える。そうか、ラス・アルミアという一人の罪人はもう地獄にいるんだ、と私は思った。伝承や宗教の地獄とは違って何も見えないけど、きっとこれが真の姿なのかもしれない。

 と、辺りの風景に違和感を覚える。完全な闇じゃなくなっている。いろがかわっている。かたちがかわっている。空間の実像そのものが変化しているように見える。ああ、暗闇は地獄じゃなくて、変わりゆく先の世界こそが地獄なのかな、と思った。

 無限は石の壁と檻に囲まれた有限に、闇は壁に掛けられた松明のまとうダークオレンジへと、変化してゆく。世界が変化してゆくごとに、瞼をつむりたくなってくる。どうして。何故かはわからないけど、世界が変わりゆくごとに、吐き気が強くなる。

 目をつむり、体育座りで膝を強く抱きしめて引き寄せ、脚の内側に顔を強く押し寄せる。いやだ、いやだ、いやだ。耐えきれなくなって、喉奥から熱くて苦い液がせりあがる。口の奥にまで来る。うっ。喉から口へ中身が溢れる。げええっ。喉に苦しい液が染みこんで灼ける。舌を熱い液が伝って、とても苦い。太ももが酸っぱくてまずい匂いになる。はぁ、はぁっ。身体全体が小刻みにふるえる。心がさむい。無意識に手が胸元に行く。胸に爪を突き立てて、抉るようにかきむしる。強く、ゆっくりと、指先の半分が入るような溝を作りながら、血の出るのを躊躇いもしないで、ただ気をそらして紛らわせるためだけに、かきむしる。

 景色は完全に変わったのだろうか。目をつむって太ももに顔を埋めているから変わったかどうかはしらない。


 けれども、ここが地獄ではないことは確からしい。


 だって、ここは。


 みんなが死んだ、あの地下室。


 太ももに冷たいものが伝う。ああ、私、泣いている。この世界に神がいるかどうか、分からないけれど。死や魂をコントロールできる存在がこの世にいるなら、私はソイツを恨む。私の魂の永遠を、私の最悪の思い出の場所に閉じ込めるんだからな‼


 でも、これも私の罪のせいかもしれない。ここは、私の罪が生まれた場所。激しくなった呼吸を、苦しいながらも整えようとする。罪が理由ならば、私は荒れたりしてはいけない。ここで、私の永遠を私の罪と一緒に過ごすんだ。




 「ごめんね」




 え?


 私の声じゃない。


 誰かの声だ。


 背筋が凍る。


 だって、この声は————


 苦しい体育座りから、顔を上げる。



 リーテだ……。


 リーテが起きて、うごいてる……。


 怪我だらけで血だらけだけど、こっちを覗き込んでいる……。


 リーテ……。


「りーて……いきてだのぉ……?」


 鼻が鼻水でぐしゃぐしゃになる。泣いちゃう。抱きつきそうになって、リーテが血まみれの怪我だらけということを思い出して、寸前でとめる。


「りーてぇ、いだくないのぉ……?」


 私の腕の裾で、リーテの血を拭く。いきてた。いきてだよぉ。


「いきてたぁりーてぇ、でもこんないたくなっちゃってぇ、まってねいまおうきゅうしょちしてやすもうよぉりーてぇ」


 よかった。よかったよかったいきてたリーテけがをなおしてわたしといっしょにいきようリーテ


「あのね」


 一心不乱に半ば正気を失いながらリーテの血を拭く私の肩を、リーテが強くつかむ。驚いて、血を拭く腕をとめる。


「あ、あ……いたかったの? ごめんね、でも」


「わたしはもう死んでるよ」


「え?」


 ありえない。だっていまリーテがめのまえで


「もう一度言うよ? 私は死んだの」


「あ……ああ……」


 そういうことか、そういうことなんだ……


「じゃあ、わたし、しんだからこっちきたんだぁ。そっかぁ。ふへへ。ここどこ?」


 しんじゃったけど再会できてうれし。アルとミリーシャはどこだろ。


「そんで、ラス、おまえはまだ生きてる」


「え?」


 素っ頓狂な声が出た。だってありえないんだもの。


「ありえないよ、リーテ。わたし、おっこちてしんじゃったもん」


「落っこちたけど生きてるって言ってんの。な、アル、ミリーシャ」


 リーテの言葉を合図にしたかのように、リーテの背後でふたりがおきあがる。アル、まだ脳みそが見えてる。ミリーシャ、お腹に手を当てながら起き上がって来てる。


「ラス姉、リーテ姉のいう通りだよ。私たちは死んだけど、ラス姉は生きてる」


「それにしても、私たちをこんなにしたアイツはないわね。生きてたらグーパンひとつ、いや、うんと痛い目に合わしてやりたかったのにね、ね、リーテ」


「はは、ミリちゃんもそんなこというんだね……、でも同感だよ」


 三人が会話してる。いきてるのに、しんでる? こんらんする。


「あ、えーっと……ラス。単刀直入にいうと、ここはおまえの精神世界だな」


 あたりをみまわす。ここはみんなが息絶えていた地下室。たしかに、精神世界とかじゃなければ、私がここにいる説明がつかない。でも、なんでみんなは?


「どうして、みんながいるの?」


 リーテが、アルとミリーシャに目配せをして、三人が一斉にいう。


「おまえを」

「ラス姉を」

「ラスちゃんを」




「「「たすけにきた」」」




 たすけにきた? もしかして、死んだみんなの魂が?

「まだ信じられないような顔だな、ラス。ま、この世界は時間がいっぱいあるみたいだから腰を落ち着けて話そうか」

 と、立ち上がっていたみんなが私のそばまで来て、地べたに座ろうとする。——スカートを整えようとして腹から手を放したミリーシャの腹の穴から腸がこぼれた。

「こぼれちゃう!」

 急に心がきゅってなって、反射でミリーシャの腸を腹の穴に戻して、穴を手で塞ぐ。

「こぼれちゃダメ! ……ダメなんだから……」

 脳裏に浮かぶのは、みんなが息絶えて死んだ姿。落ち着きかけていた呼吸がどんどん加速して、息が苦しくなる。ヒュッ、ヒュッ。全身が震える。それにまた気持ちが悪くなってきてる。うぅ、きもちわる……。


「大丈夫だって」


 は、となって後ろを振り向く。リーテが私を抱いている。もう死んだはずの身体から温かさが伝わる。気持ち悪いのが引いて、身体の震えは収まってきている。呼吸が落ち着いてきた……。

「ミリ姉、私の服破るから穴塞いで」

「私からもお願いするよ、ラスがこれ以上怯える姿は見たくないんだ」

 アルが服を裂いた布でミリーシャが腹の穴を塞いで、私に向き直る。

「ごめんね、ラスちゃん。注意が足りなかった。それと、ありがとう」

「いや、ミリちゃんが謝ることじゃないよ……」

 ミリーシャの塞いだ腹の穴を見ながら、思う。これは私の罪なのだ、と。あの日、みんなの死体を前にして何もしなかった私の罪なのだ。……仲間たちが私を助けるといっても、私には罪があるのだから、助けられてはいけないのだろうな。

 みんなのあの日の怪我そのままの姿を見回してから、私は両膝を地面につく。

「私から、言わなければならないことがあります」

 死んだ三人が座って、私を見つめる。視線がいたい。

「私は、5月23日、あの日に、この地下室に連れられてきました。そして、みんなが息絶えてるところを見ました。……うっ」

 口を押えて、こみ上げる吐き気をなんとかこらえる。リーテが心配そうに手を差し伸べようとしたけど、ミリーシャが止めた。

「ごめん。……みんなの死んだ姿を見て、私は頭が真っ白になって、気が付いたら抜け道から逃げ出していました。私は、みんなに対して何もしませんでした。仲間だったのに、家族も同然のみんなだったのに、私は、見捨ててしまいました。それが私の罪です。ごめんなさい」

 頭を地面まで下げて、私の罪を謝罪する。赦されないのだから。


「えぇ? 悪くないわよ、ラスちゃんは」


 悪くないはずがない。


「私は、みんなが死んだのにのうのうと生きて……こんなの良くないよね」

「いや、良いよ良い、生きてろよおまえは」

「ラス姉は思いつめすぎだよ」

「でも」

「はい、ストップ」


 リーテが私の口を塞ぐ。

「もうこれ以上は言わせないよ、ラス」


 私の口を塞ぐ手をどかそうとして、はたと私の手が止まる。果たして、私がリーテに抵抗する資格などあるのだろうか?


「単刀直入に言うけどさ、」

 リーテが唇をなめ、唾を飲み込む。




「お前、自分の絶望を自分の罪に置き換えて自殺を正当化してんだろ」




 ……え?

 そうか?

 そうだったのだろうか?

 いやでも、これは私の赦されない罪。

 ……それならば、私に何ができたというのだろう。

 あの時あの場で、何かできることはあった……はず……

 ……考えれば……考えるほど……

 ……確かに、私は何を考えていたんだろう。

 

 刹那、白い矢が私の頭を貫いて私の古い凝り固まった思考が砕け散っていく、そんなイメージが私の頭を貫いた。そうだ、私は……




     ◇◇◇


 


 みんなが死んだあの日、喉が渇ききっておぼろげな意識のまま、棒のような足を引き摺りながら私はみんなで一緒にすごした掘立小屋に辿り着いていた。陽は完全に堕ち、月明かりだけが帰路を照らしていた。死んだみんなを触った血だらけの手が煤を被り、埃まみれのものをどけて、転んで泥にまみれて、元が赤かったのか分からないくらいぐっちゃぐっちゃの黄土色と茶色の模様になっていた。

「アル?」

 空っぽの心から飛び出た最初の声が、仲間の名前だった。

「ミリーシャ?」

 私は探していた。寝るために身体にかける藁を除けて、そこに仲間の寝姿をみようとした。。

「リーテ?」

 いつもならこの時間に誰も居ないはずがない。急用でもできたのかな、と思っていた。無意識に。そうして、みんなの分の明日の朝の飯がないことに気付く。

「アル、お腹空かしちゃうなぁ」

 私の足は、その日は限界を迎えていた。みんなを探して屈んで膝を床板につけていた足をあげようとして、私は足がもつれて前のめりに転んだ。

「あ……」


 自分が転んで、床に手をつく。手が目につく。ぐっちゃぐっちゃの模様になった手だ。


「……ちがう。ちがうちがう。みんなは、もうとっくに……」


 フラッシュバック。あのせまい牢屋の中で、みんなは死んだ。


「嫌あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」


 現実の奔流が、どうしようもない私を飲み込む。違う違う違う、と何度否定しても、私は現実に抗えなかった。私の思考は現実で塗りつぶされて、もはや、仲間たちが死んでいないという虚構をしんじることはできなくなった。たまらず、既に限界だったはずの足を無理やり立たせて、迫りくる絶望の衝動だけに背中を突き押されて、私は走った。


 暗い森の中、衝動は収まって、過去になった運命という名の現実の揺るがなさの前に無力を感じて、もう動かない事実を前に、私は、静かになった絶望に沈んでいた。そして、生物なら抗うことのできない生理である睡眠に落ちる。

 目が覚めると、朝だった。太陽が地平線から顔を出して、空をトロイメライの橙色に焼く。木々の葉々の交わり合う無数の小さな隙間から光がこぼれ、土の大地に摩訶不思議大量の模様を照らして作る。でも、私には、そんな模様たちなど見えなかった。夢など見なかった。瞼を開ける前、意識が戻ったとき私は、もはや目覚めても私のいきるべき世界は無いのだと感じていた。目が覚めても、暗い森のまま。目の前にうつる世界が、私には世界だと感じることができなかった。世界そのものが設置されたオブジェクトでしかなかった。太陽も、森の木々も、地べたを走り回る栗鼠も、ただそこにあるだけのオブジェクトにしか感じられなかった。ありていに言えば、その時の私の精神は死んでいたようなものだった。背中を木に預けて、その日は動かなかった。かつての仲間たちとの生活を思い出しては咽び泣き、無表情に宙を見つめるだけだった。


 次の日また目覚めると、私は立った。私の脳裏には、仲間たちを殺した男の顔がまざまざと浮かんでいた。私の心は完全に黒くなって、憎悪と憤怒でいっぱいだった。それだけじゃない。私たちを抑圧したものすべてが憎い。男が憎い。いつもそうだった。私たち女は抑圧されていた。娼館のおかみはいつも兵士に強請られて払うべき金の3倍をいつも払わなければならなかった。だからおかみは壊れて私たちを酷使する羽目になった。わたしを買った客は大抵らんぼうで、何度死にかけたか。挙句の果てには、富豪が私たちの仲間を、一銭も払わずに、その命を蹂躙した。私が大好きだったものと私をいつもいじめているのは奴らだ。男どもだ。口から涎がでて、私はその時だけは自分のことを復讐に餓えた獣だと思い込んだ。

 その時、背後から音がした。罠を確認しに来た猟師、男だ。私は石を拾い上げようとして、男と目が合った。視線が繋がって、私は恐怖した。頭を殴られた記憶が、胴を殴られた記憶が、腹を蹴られた記憶が、腕をねじ伏せられた記憶が、棒で脚を打たれた記憶が、暴力の記憶が、一斉に、痛みを伴って、身体と精神に再生された。耐えきれなくなって、吐きそうになって、寸前でこらえて、私は走った。男に背を向けて、走った。


 気が付けば、私は森があけて足元が崖になっているところまで来ていた。遠くに、巨きな霧の柱が見える。足元の崖に目を見やる。かなり深く、落ちてしまえば死は免れないように見える。———私は崖の下を見ると、ほっとした。もし今落ちれば、重くて暑苦しい憎悪の感情も、仲間に対して何もできなかった後悔も、全て脱ぎ棄てて楽になれると思ったから。崖の下に私の落下する軌跡を見出すと、心の底から安心したような気持ちになれた。ならば、答はひとつしかない。嬉々として花園に足を踏み出すように私は、崖の先に向かって右足を上げた。

 上げた右足で、私は後退っていた。どういう理屈で右足がなぜ下がったかは知らない。崖の下を覗く。急に心臓がきゅうってなって、目を逸らしたくなった。どうして。どうして。

 それは、本能からの応答だった。魂の奥底からの叫びだった。私を形作る精神の心髄は、”生きたい”と、確かに言っていた。

 そっか。

 そうなんだね。

 私はまだ、私を死なせてくれない。

 ……でも。私は、こんなにも死にたい。

 仲間が死んで、今の私には金も力も希望も、すべてが無い。心の底で絶望と悲しみと怒りがわだかまっていて、今わたしがここに生きているだけで精神が削れて辛い。

 私は泣きながら、歩いた。胸の中に絶望を抱えたまま、生きたいと叫ぶ心を抑えながら歩いた。極限状態の私の中で、生きたい想いと死にたい願望が鬩ぎ合う。その鬩ぎ合いの余波が私の身体と心を削っていた。生きたいと願うたびに心臓が締まり、死にたいと思うたびに心が悲鳴を上げた。私は泣きながら、歩いた。生への希求と死への甘い誘いが鬩ぎ合って、私の精神は削れて行った。もはや言葉すら覚束ない精神の中で、何かが芽生えた。

 そうだ、私は悪い……。

 不意に、その言葉が口をついて出た。

 あの時何もしなかったんだ。私は罪人なんだな。

 在りもしないはずの罪が、私の中で大きくなっていた。死にたいという絶望が、私の精神を歪めて、私の中に罪の萌芽をつくった。


 ファルネスの大霧に彷徨いこみ、エル・ハウェと出会う中でも、罪の意識は確実に私の精神を蝕み、罪のつぼみは次第に大きくなって、とうとう私のすべてを飲み干して満開に咲いた。


      ◇◇◇



「そうだったんだ」

 いま初めて、自分の心の中にある異物に気が付いた。本来ならば在り得ないはずの罪の意識。

「わたしは、死ぬ必要があったんじゃない。ただそこに、死にたい気持ちと生きたい気持ちがあっただけだったんだ……」

 世界の全てを呪い拒絶しながら死に向かう気持ちが私を支配する中で、僅かに残った『生存欲求』がしぶとく抗った。その中で『絶望』は『生存欲求』を断絶するために、罪を使った。

「死にたかったから罪を作ったんだ、私。気付かなかった……」

 不思議な感覚だ。それまで私の心に張り付いてしつこく離れなかった死への義務感が、ベリベリと音を立てて気持ちよく剥がれていく。私の心が、身体が軽くなっていく。私の手や足を拘束していた、重苦しい鉛の鎖にひびが入って、あっけなく砕けていく。


 周囲の景色があの日みんなが死んだ冷たい牢屋から、お日様の差し込む温かい私たちの家に変わる。みんなの見た目から怪我が消えて、まだ生きていた頃の健康な姿になっていった。

「思い出したか? ラス」

 リーテが、ようやく気付いた私を察して声を掛けて来た。

「うん」

 温かい日差しの中、木調の床に数滴の水滴が零れ落ちる。微かな嗚咽が漏れ出る。さっきまで冷め切っていた身体に熱が戻る。ずっとしていなかった、生きている実感が今になって思い出されている。私の喉や胃、腕や足などが私の身体の一部として確かに繋がれているという実感が温かみを帯びて感じられる。私のこころが全身に行き渡って末端までも動かしている。私は生の実感を噛みしめながら、そこにしばらく座する。手を握り、つま先を動かして、鼓動を感じる。仲間たちは私を囲んで、私を見守っている。

 温かい沈黙の中で、私は口を開く。

「ねえ、みんな」

 アル、ミリーシャ、リーテの顔を見回す。

「私、生きようと思うんだ」

 巨大な絶望に懸命に抗った魂は、ようやく日の目をみる。闇の残骸から生存欲求の私は這い出て、ようやく光あふれる大地を踏みしめる。

「よかったぁ。生きてね、ラス姉ちゃん」

 とアル。ミリーシャは私の手を握って、私の顔をみる。

「私たちは死んだ。もっと生きたかったけれど、もうどうにもならない。だから、私たちの願いの分だけ、ラスちゃんには生きてて欲しい」

 私はミリーシャに返す。

「うん。私はこれから自分勝手に生きようと思うけど、それでもいいなら」

 ミリーシャは涙を流しながら大きくうなずいた。リーテは何も言わずに、ただそっと私を抱きしめる。私も何も言わず、ただお互いの心の温かさだけを交わす。言葉を伝えなくても、この抱擁だけでリーテの気持ちが伝わってくる。私も、この抱擁でリーテに気持ちを伝える。お互いに顔を見つめ合って頷き合い、抱擁をほどく。

「さて」

 今になって、後悔した。あの時、どうして私は飛び降りてしまったんだろう。そのおかげで、この精神世界から目覚める術が分からない。

「どうしよ」

 現実世界に帰る方法に悩み始めた私に、リーテが言う。

「そりゃあ、まだギリギリお前は生きてるからな。あとは、あのエルって奴とグノーモン?っていう龍が何とかしてくれるのを待つしかねえんじゃね」

 リーテの言葉に、一縷の望みを見つける。

「グノーモン様。そうだ、あの龍なら」

 全てを超越した存在なら、きっと私の魂からの呼びかけに気付いてくれるかもしれない。だから、私は魂の底から精いっぱい叫ぼう。みんなのお家の掘立小屋から表に出る。スラムの狭い小路には、ただのゴミ一つも落ちていない。私たちのほかには何もいない。頭上に燦然と輝く太陽を見上げて、私は力の限り叫ぶ。

「生きたいから、蘇らせて!!!!!!!!!!!!」



      ◇◇◇


 寺院4F。私の第六感が、ラス・アルミアの叫びを聞いた。はっとして、私は四肢を走らせて崩落した壁の崖の下を見る。エル・ハウェが泣きながらラス・アルミアに応急処置を施している。ぐったりとして何の反応も示さないラス・アルミアの魂の色が、飛び降りる時まではくすんでいた灰色だったのに、今は光り輝いてみえる。死の間際で、ようやく彼女がポジティブな感情を持てたのだ。今、彼女は生きたいと叫んでいる。

 彼女を助けなければ、と4つの足が走り出す。四枚翼の銀翼を羽ばたかせる。剛翼は強き風を孕み、風が床と衝突し、円状に空気の波が広がってゆく。月を背にして、私は空へと上がってゆく。

 息を吸って、吐く。私がこれからするのは、極大の回復魔法だ。死に瀕した人間を甦らせる。飛んだ跡に私の魔力の線を引こう。銀翼を羽ばたかせて、空に円を描く。今度は円の中に六芒星を描く。最後に、円と六芒星の中央で滞空。息を吸う。吸う。吸う。吸う。肺の許すかぎり沢山吸って、息を止める。エル・ハウェが心配そうな目つきで見上げている。心配するな。ラス・アルミアは助かるぞ。

 ——咆哮。龍の言葉で呪文を唱えながら魔法陣を活性化させる。魔力の跡で描かれた魔法陣は光り輝いて徐々に宙を降りていき、ラス・アルミアを中心として地上に降りる。陣の内側が緑色の光に満たされる。

「気持ちいい……」

 エル・ハウェが呟いた。魔法陣から発生した小さな光の玉が無数に舞っては2人の肌に触れて吸収され、怪我が癒されてゆく。地にこぼれたラスの血を光の玉が集めて元あるべき体内へと押し戻してゆく。エルは自らの足に触れ、立つ。捻挫していたはずの足を不思議そうに触り、振る。ラスはすっかり傷は癒えたが、依然として眠ったままだ。


 魔法陣の輝きが鈍くなり、光の玉も少なくなる。魔法が終わる。

「エルよ」

 遥か遠い眼下にいるエルに声を掛ける。きょとんとした顔のエルがこちらを見上げる。

「その者の心の叫びを、私は聞いた。その者は生きたいと叫んでいる。あとは任せたぞ、エル・ハウェ」

「! 分かりました、グノーモン様」

 やけに素直になって、エルは彼女に向き合う。その後ろ姿を見届けて、私は寺院の4Fの崩落したホールに戻る。

「久々に疲れたな……」

 満月の光の下、龍はとてもひさしぶりに満足した顔で眠った。




      ◇◇◇




 精神世界の色が薄くなっていく。様々なものの輪郭がとけてゆく。

「ラス。もう行く時間だ」

 リーテがささやく。うん、と私は頷いてみんなといた掘立小屋をでる。そこは私たちの過ごしていたスラムとよく似ていたけど、ゴミ一つない綺麗な白い世界だ。みんなも掘立小屋からでてきて、私の背中を押してくれる。

「もう、私たちのいない世界でも大丈夫ね?」

 ミリーシャの心配そうな顔に、私はこう答える。

「うん。生き抜いてみせる!」

 でも、このときミリーシャにはもう大丈夫だよと言うような表情をみせたつもりだったけど、もしかしたらふりきれていない顔を見せてしまったのかも。

「ラス姉、これもってって」

 アルは、花の冠を私に差し出してきた。

「ありがとう」

 きれい。いい匂い。私は花の冠を被って、しっかりと前を見る。もはやほとんどの建物が白に消えて、一本の細い道の先の白い空間のなかに傷ついて眠っている私の身体だけがある。

「じゃあ」

 私はいちど振りかえって、

「わたし、いってくるね!」

 元気な声でさけんで、細い道を走って、私の身体にふれる。———刹那、わたしの身体や意識さえも光に包まれてとけていった。


      ◇◇◇


 見慣れた、石造りの天井だ。暖かい。布団に入っているみたいだ。元気になるくらい明るい。風が気持ちいい……窓があいている。膝に重さを感じる。上半身を起こすと、エルが私の膝元の布団に突っ伏している。いびきをかいているのが、膝で感じてわかる。どうしたのだろうと思って、記憶をたぐる。

 ああ、そうだった。わたしは落ちたんだ。4Fから落ちて、でも生きている。両手を確かめる。見たことのない傷痕がついていた。腹をたくし上げ脚までも確かめてみると、全身に傷痕がついていた。でもそれだけといえばそれだけで、身体は痛いところがないし血も出ていない。じゃあ、私は助かったんだ……。

 死にたいという気持ちはない。今の心はむしろ晴れ晴れとしていて、身体に羽が生えたように軽い。私のベッドに突っ伏しているエルをほっといて廊下に出る。そのまま宿泊施設を出る。草を踏む柔らかい心地。石の道を踏む固くて冷たい心地。ああ、生きている。寺院に入る。環状の通路は相変わらず暗い。決まった距離で甲冑が置かれていてこわい。甲冑のよこを通る時に心がすこしキュッとなるのも、今私がここにいるから。礼拝室だ。ひし形の偶像が大きな空間の真ん中に立っていて、威圧感を感じる。図書室だ。光の差さない部屋の中で厳かに本が並んでてかっこいい。4Fの崩れたホール、あそこにはいつもグノーモン様がいる。重い扉は、前にエルが開けたきりのままだった。開いた扉を通り、命の恩人と対面する。銀色の眼差しが、やさしく見つめてくれる。

「ラス・アルミアか。おぬしの魂の叫び、きこえておったぞ」

「グノーモン様。あなたが助けてくれたんですね」

「私にできるのはここまでだ。それに、今のお前は良い目をしておる。あとの人生は、もはやお前のものだ」

「はい! ありがとうございました!」

 傷痕を擦りながら頭を下げて感謝をのべる。龍は微笑んで、それからとぐろをまく。その場を後にして、寺院を取り巻く防壁の上の通路に上る。霧の壁が眼前に広がり、風が気持ちいい。

「確か、ここの階段でエルに石を投げられたっけ」

 ついこの前のことのはずなのに、もう遠い過去みたい。

 通路の上に仰向けになって、快晴の青を見上げる。ああ、濃くて明るい青が視界いっぱいに広がっている。

 空を見上げてしばらくして、目の端っこから涙が一滴流れ落ちる。その涙をきっかけに、私は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


 リフューズド・ブルー、拒絶された青。私がかつて拒絶したはずの、世界の空の青さが今も変わらずそこにあった。


 私は、みんなが死んでしまった絶望で死を望んだ。死を望むということは、この青い空の下で生きることを拒むということ。

「あ、あああっ、あっ……ご、ごごめ……うっああああん……うあああっ」

 とめどなく溢れてくる涙をぬぐいながら、まともに動かない口を動かして謝罪の言葉を紡ごうとする。私はいちどこの空を裏切った。誰に対しても平等なはずの空の下を生きることを拒んだ。申し訳がたたない。きっと空の青は何も思わないだろう。ただただ、私のほうが申し訳ないのだ。だから、許しを乞う言葉を紡ごう。

「ごめっ、なさいいい。つっ、つぎはいき、るからぁ。あああぁあ……。こんどは、うらぎらないっ」

 一時間ほどだろうか。私はそこで泣きながら空に対して謝った。流す涙が尽きて気持ちも落ち着いた頃に見上げる空も、やはり青かった。


      ◇◇◇


 ここは水滴に閉じ込められたような世界の中。”試練の間”の中、目の前には私と同じ姿をした”試練”の意思が立っている。

「また来たか、ラス・アルミア。こんどは何を答えるか、聞かせてもらおう」

 私は口を開く。私は今までのことを話す。家族がいなくて仲間たちと過ごしていたこと。仲間たちが死んで、私が死を望んだこと。それでも生きたくて、在りもしない罪を作ってまで死のうとしたこと。……そして、亡くなった仲間たちの魂と、グノーモン様とエル・ハウェに救ってもらったこと。そして、次の言葉で締めくくる。

「今までの私の人生の積み重ねの上に立って、私は私の生を勝手に生きる。それが、私なりの”生”の答えだよ!」

 今の私の顔はどうなっているんだろう。答えきったとき、私の心は限りなく広がる青い空のように清々しく晴れ渡った。私と同じ姿をしている”試練”の頬がすこし、ほころんだ。

「受け取ったぞ、あなたの答え。あなたは試練に合格した、これより自由だ」

 水滴のような空間がひび割れ、光に満ちた扉が開かれる。

「以降、寺院の出入りは自由です。また悩める時も来ていただいて構いません」

 試練の意思はそれだけ言い置くと、霧となって消えた。

「じゃ、寺院に帰りますか」


 光に満ちた空間を抜け出して、元の狭くて暗い隠し階段に出る。

 信じられないな。もう、私は自由に寺院を出れる身なんだな。一見して何の変化も無い自分の身体を手で確かめながら、階段を上がる。———その先に、エル・ハウェがいた。


       ◇◇◇


 ラスが階段を上ってきた。その眼差しに、もはや一片の曇りは無い。彼女の髪はもはや灰を被っていない、眩い黄金に見える。———この俺とは、まさしく対極にいる人間になった。

「エル! 待っててくれたんだ」

 俺を見つけるなりラスが笑顔になって駆けよってくる。俺はひるんでしまって、二歩くらい後退る。この俺には、彼女に触れていい道理はないのだ。

「おめでとう、ラス・アルミア。死ぬのを思いとどまってくれて、生きることを選んでくれてありがとう」

 俺のせいで死ななくて良かった、と心の中で付け加える。

「私はもう、何にも縛られない。死んだ仲間の願いの分だけ、私の心の底から望む分だけ、好きに生きてやる」

 満面の笑顔でラスが言い放つ。———彼女がそう言うということは……

「何にも縛られない、ということは……俺にも縛られない、ということか?」

「そうだね。私は、もう自分の生死や行動をほかのせいにしない。なるべく自分の意思で決めるさ」

「ということは、この前の発言も取り消すというのか」

 お互いの自殺を止め合ったあの昼。その時の彼女の言葉を思い出しながら訊く。

「そだね。取り消すよ」

 笑顔で返される。ついに俺は安堵した。この罪人に生きるべき道理はなくなった。

「では、見送ろう。貴女の新たな人生の船出に幸あらん」

「え、何言ってんの」

 ラスがきょとんとした顔になる。

「え? そうだったか、出るのは後と言うことか」

 早とちりしてしまった。彼女には彼女のタイミングというものがある。自分はせめて目苦しい自分の死体を見せないよう、見送ってから死ぬとしよう。

「ねえ、エルはいつ試練に挑むのさ」

「自分が試練に挑む道理はありません。罪人の身なれば、外の世界に出ていいわけがありません」

 彼女が俺に縛られないならば、もう正直な心の内を話してしまってもいいだろう。

「自分に関わる全ての人を苦しめ、あまつさえ貴女を死に瀕させようとした俺の居場所など、どこにもないのですから。……それに、貴女はもう私には縛られないとおっしゃった」

 それを聞いたラスは少し沈黙して、それからうなずいた。

「じゃあ、私もでなーい」

 太陽のような屈託のない笑顔で、彼女が言い放つ。

「え?」

「貴方がここを出ないのなら、私もでなーい。ここを出るなら、貴方と一緒にでる!」

 なんでだ。もう俺には縛られないんじゃなかったか。嘘ついたのか。

「ふふ、嘘をついたわけじゃないよ。これは私の決断。私の人生には貴方がいて欲しいと思ったから」

 駄目だ。そう言おうとして口を開いたが衝撃のあまり声が出ず、開いた口が塞がらないままだった。

「死んだ仲間たちには私の人生に居て欲しかったように、貴方も私の人生に居て欲しい。確かに貴方はひどいことをしたかもしれないけれど、それ以上に私にとっては与えられたもののほうが多かった。これからの新たな仲間としていて欲しいんだ、エル」

 優しく目を細めて、ラスが手を差し伸べてくる。だが、この手はとれない。なぜなら。

「無理だ。一片の汚れもなき貴女と、罪に塗れて汚れた俺とじゃ釣り合いが合わない」

 差し伸べられた手を避けるように後退る。彼女の汚れなき手を自らの手で汚してしまうわけにはいかない。

「大丈夫だって、エル」

 ラスが一歩二歩進んで、俺の手を掴む。

「わたしはね、優しい心を持ったエルに居て欲しいの。だから、何度でも貴方に手を差し伸べるよ」

「で、でも、俺は優しくなんて……」

「あら、貴方の言う”一片の汚れなき私”が言ってるんだから大丈夫よ」

 そのとき一瞬だけ俺の鼓動が激しくなって、風が凪いだかのようにラスの息遣い以外が意識に入らなくなった。頭の中でも思うように言葉が紡げず、硬直したように動けなくなってしまった。彼女はいたずらっぽく笑って、それから真面目な顔をして俺に向かい合う。

「この寺院ではじめてであったころ、私と貴方は敵同士だった。でも時間を重ねていくうちに、私たちは仲間になったんだ。私は貴方から教えられ、お互いに自分の思いをぶつけ合ってお互いを救い合おうとした。私たちは色々あった。その中で私は貴方の中に優しい心を見つけた。その優しい貴方は私にとって救いになったの。生きる活力になったの。だから、私は貴方にいかなる罪があろうとも、やさしい貴方を救いたい。そして仲間である貴方と一緒にこれからを生きていきたいと思うようになったの。あなたが本当に悪い人ならわたしは一緒にいることを望まないよ。……これは私からのお願い。もう、貴方の心を罪の中に閉じ込めておかないで」

 そのとき、彼女が俺の心に触れたような気がした。現実の彼女の手は俺の手を掴んだままだというのに。罪で凝り固まった心を、やさしく撫でてくれている気がする。まるで、子供のころに手を繋いだ母親の手のように暖かい。ああ、こんな気持ちになったのはいつぶりだろうか。……でも。

「そ、それでも」

 反論しようとして、ラスに手で口を塞がれる。光差す眼差しでラスが俺に言う。

「逃げないで。お願いだから」

 逃げないで、という言葉が耳を通ったとき、一瞬だけ足場が揺らいだ。

「逃げる……? 違います、これは罪贖えぬなりの贖罪なのです」

「違うよ。そっちに進んでも何一つ罪は贖えないし、世界が良くなるわけじゃない」

「で、でもっ」

「何か根拠があって、君は君自身に罪を押し付けているの?」

 ラスの眼が鋭くなって、俺は狼狽えた。だが、根拠ならある。根拠があるから、俺は罪を贖う道を選んだんだ。

「俺の過去の話を聞いただろう? 故郷の皆にひどいことをして、捨てて来たんだ」

 それを聞いた彼女は少し間をおいて、俺に手を差し伸べて来た。

「じゃあ、謝りに行こう。一緒に」

 俺は驚いて、目を見開いた。一瞬だけ、こっちの道の方が眩しいと思った。心が震える。だけれども……。

「今更、なにも」

「あのね、エル。君は人を殺したわけでも、誰かを殺されたわけでもない。ただ、人との接し方を間違えただけ」

 彼女が言葉を紡ぐたびに、俺が本当は間違っていたんじゃないかという気持ちが芽生えてくる。彼女が俺に歩み寄ってくるたびに、彼女の踏んだ道が輝いて見えてくる。ただ、それでも大きな罪の感覚は残っている。

「じゃあ教えてくれ。俺に圧し掛かる、この大きな罪の感覚はなんなんだ? 大きく大きく膨れ上がって、どうしようもないんだ。これが小さな罪だとは思えないんだ!」

 滲んだ涙と鼻水と唾をまき散らして、整理のつかない感情をラスにぶつける。

「それは、たぶん後悔なんじゃないかな。私も経験あるもの。ずっと私が悪いって自分を責めていたことが、きちんと向き合ったら何でもないことだったってことがあった」

 ラスの眼差しが優しくなる。

「でも、エルはその気持ちを解決する方法を今までずっと知らなかったんだね」

「あ……ああ……」

 ラスが、彼女が、両手を俺の脇下に通して抱きしめてくる。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ」

 こん、こん……と背中を手のひらで心地良くたたいてくる。それから、陽だまりのような声で彼女はこう言った。


「エルの罪は、エルが思っているほど大きくないよ」


 ずっと苦しかった。誰も俺を理解してくれていない気がしていた。世界に疑問を持ったあの日から、俺の視線とみんなの視線がすこしずれているような気がして、周りの人々に反発した。さいしょは些細な事だったかもしれない。でも、俺は周りに理解してもらう努力を怠けていて、自分勝手に辛くなっていたんだ。こんなに単純なことだとラス・アルミアに言われるまで気づかなかった。俺には、俺に向き合う勇気が足りなかったんだ。みんなと向き合っても理解されなくても構わないという覚悟が足りなかったんだ。勇気と覚悟、このふたつを諦め続けたせいで俺はこんなところまで来てしまった———。


 年甲斐も無く、俺は泣き喚いた。


 彼女は、ただ俺を抱きしめて撫で続けた。



       ◇◇◇


 エル・ハウェはあれから私の胸元で一日中泣き続けて、そのあと眠った。彼に必要な言葉は、ただ単純で核心をついた言葉なのだった。きっと彼は、ずーーーっとそんな言葉を誰かから投げかけられたかったのかもしれない。彼の思想を、彼の性格を認められたうえで本心をぶつけて欲しかったのかもしれない。でもたまたまそうはならなくて、今日まで引き摺ってきてしまったのかもしれない。

「でも、こんなに泣いたんだからもう大丈夫だよね」

 すー…すー…と呼気を立てていびきするエル。その表情には、どこか安らぎを感じる。彼の頭を撫でて、鼻先を指でちょんとする。




 いつしか私も眠っていたらしい。野菜スープの香りにつられて、瞼をあける。

「える。おはよおー」

「おはよう」

 私はベッドに運ばれていたらしい。ひんやりとした石壁の狭い室内で、ふたりいっしょにスープを啜る。

「ねぇ、エル。もう大丈夫そ?」

 彼の表情を覗き込んで、投げかけてみる。

「ああ。大丈夫……だと思う。しょうじき言って、まだ自分の罪が本当に取り返しのつくものなのか、まだ納得いかないところはあって……本当に君に言われたことが全てなのかわからない……でも、少なくとも、俺はもう逃げない」

 まだ怯えているような表情だ。でも、その瞳の奥底にはしっかりと光が宿っている。私は微笑んで、野菜スープを啜る。


       ◇◇◇


 夜、寺院の草むらに風で撫でられながら月を見上げる。ラス・アルミアが俺に言ってくれた言葉が今も心に溶け込んでいる。彼女は聖女だ。あんなに死にたかった俺を言葉で蘇らせてくれた。俺は、彼女に気付かされた。俺の罪の正体は、人間関係のズレから生じた臆病と怠慢だったのだと。これからの俺はもう、ひとと自分がちがうことに怖れない。向こうからくるのを待つんじゃない、こっちから踏み出してゆくんだ。そう誓って、草むらの中を一歩一歩、力強く踏みしめる。


 ……だが、草むらから石敷の道へと踏み込むところで、突然として足の力を弱めた。———引っ掛かったのだ。俺はまだ解決していない。もうひとつの問題がある。


 俺は、やっぱり、”正しい答”を諦めきれない。


 又不安になる。心臓の鼓動が加速する。あの日王都で感じた、世界への違和感。どの宗教を漁っても納得できなかった、”絶対の教え”。それを、今一度、追い求めたい自分がいる。でも大丈夫か? また前の自分に元通りになってしまわないか? 追いかけることでまた失うのならば、いっそここで足を止めて永遠に追わない方がいいのでは?

「そもそも、”正しい答”そのものは一体どういうものなんだ……? ただ宗教や道徳を追えば得られるものなのか? それとも思考の果てに辿り着く……? 俺が追い求めているものって何なんだろうか……?」

 途端に怖くなった。ここでまた追い求めてしまったら、ラスに、彼女にさえ見捨てられるんじゃないかって。でもこの気持ちを諦めきれないなら、また人を捨て……

「違う!!」

 それは違う。”正しい答”を諦めきれない。でも、やっと得た彼女との繋がりも捨てない。彼女に理解してもらうのを怠けたくない。ラスに理解されないことを怖れたくない。自分が今抱いている気持ちを彼女と共有したい。脚が震える。過去を思い出す。みんなに酷いことを言って捨てて来た過去を。でもこれからは違う。ちゃんと人と向き合って、答を追い求めよう。


 自分自身に襲い掛かる臆病と怠慢の萌芽を振り払いながら、俺は寺院に踏み入る。さあ今ここから、長きにわたる俺の人生のひとつの問いに決着をつけよう。




 朝になってラスが起きる。

「あ、エル。おはよーよぉ……。試練は、まだだっけ?」

 寝ぐせであらぬ方向へと伸びきっている髪を揺らしながら訊いてくる。

「いや……。申し訳ないけど、試練に挑むのはもう当分かかると思う」

「あぁ……まだ整理ついてないかんじ?」

「いや、それはすこし違う。……聞いて欲しい、俺が子供のころから思っていたことを。俺の人生の根っこに根付いた問題を」

 椅子を引いて座る。深呼吸してから、話を始める。

「俺は、”正しい答”を知りたいんだ。ひとがどうあるべきでひとがどうするべきかという問いの解を見つけたいんだ」

 ラスがすこし考えて、首を傾げる。

「よくわからないけど……アメル教とかの教えみたいな感じ?」

「近いかもしれない。でも、俺はもうアメル教を信じられない。ラス、孤児院にシスターがいたんだろ。その人から宗教の教えを初めて聞いた時、どう感じた?」

「ああ……。うーん」

 ラスが、脳の奥底に埋もれてしまった記憶を発掘しようと沈黙し、思い出したかのように顔を上げる。その頬には、一筋の涙が伝っている。

「ああ、そうだった。身がしびれた。この世界には神がいて神が様々なことをお決めになったと聞いていた。シスターが神の教えだといって教えていたことば全てに全能感がのっていて特別に聞こえた。守っていれば救われる。信じていれば正しくあれると。まるで超常の力に温かく包むように守られているとさえ感じた。でもほどなくしてシスターが壊れてからは信じる気持ちは消え失せたけどね」

 ラスが最後に紡いだ言葉とは裏腹に、彼女の涙の光が、まだ信じたい気持ちがあることを証明するように光っていた。

「それなんだよ、それ。俺もかつてはアメル教を信じていた。でもアメル教が腐っていたのを、俺はこの眼で見た。だからアメル教が信じられなくなって、他の宗教に縋ろうとした。でも調べれば調べるほど、どの宗教にも後ろ暗い歴史があって完璧には思えなかった。きっと俺は、この世界に、完璧な”ただしいおしえ”があってほしいんだ。おれは、子供の時感じた、あの衝動を、今でも追いかけている」

 そう言い切ったとき、俺の瞳は子供のように澄み切っていた。この話を聞いた彼女は、少し頭の中を整理して、うなずいた。

「いいじゃん、エル。でも少しだけね」

 彼女にも見たい世界がある。あまりこちらの都合でここに長居は出来ない。——でも、とにかく許しは得られた。

「ありがとう」

 と感謝の言葉を紡いでお辞儀をする。——このお辞儀、いつぶりにやったんだろう。まるで身体が昨日までとは別のように、生まれ変わったみたいに清々しい。

「どういたしまして、エル」

 彼女が光あふれる笑顔で返す。ああ、そうだ。俺たちは生まれ変わった。だから新しい器の身体に入れ替わったかのように気持ちよい。さあ、あとは俺の問題に決着をつけよう。




 といっても、何から手を付ければいいのかわからない。”ただしいこたえ”の探求を最後にやったのは、官僚試験への勉強が本格的に始まる少し前だった。あの頃の俺はとても荒れていた。俺が歴史や宗教に造詣の深いことを利用して教会や国立の図書館になんとか入り込み、文献を色々読み漁っていた。どこにも感動する教えは無かった。細かい理屈をこねまわしたものだったり、頭を空にして偶像を崇拝したものだったり、文献には色々書かれていたけれど、”ただしいおしえ”はどこにも見つけられなかった。だから俺は咽び泣き、大いに暴れてロイスを困らせ、最後に縋る道として世直しも兼ねて偉い人に会う為に官僚試験を目指したんだった。偉い人に会えば何かが手に入るかもしれないと信じていた。今となってはもう叶わない。……でも、この寺院に入って、グノーモン様やラス・アルミアと交流を重ねていく中で無意識にひとつの仮説が浮かび上がった。今なら仮説を言語化できる。ひとり長い回廊を歩きながら、つぶやく。

「”ただしいおしえ”って、自分の中にあるのかな」

 なんでこう思ったのだろう。

「死の淵から蘇ったラス・アルミアは聖女のように眩しく、清らかだった。彼女の様子を根拠にするなら、”ただしいおしえ”は自分と向き合うことで得られるものかな?」

 思考を口に出して、頭の中を整理する。

「でも、”ただしいおしえ”は自分一人だけのものじゃない。そうあるべきじゃない。俺自身の答えはもういい。自分にもう言い訳しないんだから。でもここまでじゃ答にはまだ足りない」

 窓から吹く風で髪がふわりと舞い上がる。

「彼女が聖女に見えたのは、俺に手を差し伸べてくれたから。忘れられない。”ただしいおしえ”のことを俺は今まで唯一視してきたけれど、もしかしたら人間の数ほどあるのかもしれない」

 頭を横に振り、先ほどの言葉に疑問符をつける。

「いや、そんなに沢山あるものじゃないかもしれない。それには絶対性がないとだめだ。そうじゃなきゃ理想には程遠い」

 立ち止まって、昇り階段を見やる。

「複雑だけれど単純で美しいものなのかな、答は」

 真理に近づいているかは分からない。どこから探ればいいのか分からない。ならば、ひとつひとつ片付けていこう。図書室に入り、執筆室に入る。埃だらけの机を手で払い、引き出しを引っ張る。羊皮紙がたくさんある。本来ならば無駄遣いしたくなかったのだが、まあ必要なことに使うんだからいいだろう。ペン先をインクに浸し、羊皮紙の真っ新な生地に筆先を入れる。”ただしいおしえ”に必要な要素とは何なのか。それを書き出してゆく。最初は2つしか思い浮かばなかった。人の罪と義務。でも不意に手が動いて、紙の中のツリーがどんどん繋がって大きくなっていった。いつしか、羊皮紙5枚全て埋めてしまっていた。

「紙があるのとないのとでは違うな」

 紙に書いた言葉の中で、最も多くの要素と繋がった言葉、それは”基準”だった。

「悪人となるも、善人となるも、あらゆる教えの中には基準があり、それを超えるか超えないかで決まる……」

 例えば貧しい者に施しをすれば善人だとか、義務さえ果たせれば天国に行けるとか、些細なことが地獄に堕ちる悪行だったりとか。”基準”の次に多くの要素と繋がったものは、”救い”。一定の基準さえ超えれば、あらゆる多くの教えでは善人には善いことがあると教えられている。”救い”の内容は死後の世界だとか神からの祝福だとか抽象的な表現が多い。———このふたつを総合すると、一定の基準さえ超えれば善人となり救いが与えられるということだ。

「だが、何かしっくりと来ない。救われる為に善人になるのか?」

 それでは目の前に人参をぶら下げられた馬だ。”救い”という報酬の代わりに人々に善人になる事を求めている。道徳も倫理も似たようなもので、良い人にしていれば良いことがあるとなんとなく言われている。いい人にしていれば良いことがあるという幻想ばかりがある。けど、”ただしいおしえ”とはそんなものじゃないような気がする。

 そこまで考えて、ハッとする。ーーーそうなのだ。俺は宗教や倫理に”ただしいおしえ”を求めて探究していたのだが、実際は逆だったのかもしれない。

 考えてみれば当然だった。~~すれば救われるとか、〜〜しなければ地獄に落ちないとか、そういう教えは単純で人々に分かりやすく、かつ簡単に救いが得られるものだった。言い方を変えれば、人々にとって都合の良い教えが歴史を生き残ってきたのだ。一見戒律が厳しそうな宗教でも、”ルールを守りさえすれば救われる”という点に変わりはない。

 俺が求めているのはそんな教えじゃない。俺はそこに救いがなくても良かった。ただ、人間が人間として美しくあるにはどうしたらいいかを知りたかっただけなのだ。

 そうだ。俺は清く正しく美しい人間を求めていた。自分もそうなりたいと願っていた。歴史上に伝え聞く聖人君主のようになりたかった。ーーー自分の足で立ち、自らの考えを以て人々に生き方を教えた彼らのように。

 不意に、涙が紙に溢れる。ああ、頭をクリアにして考えてみれば単純なことだったのだ。美しい人間を目指すことそのものが救いであり、美しい理想の世界こそが神なのだから。

 その”答”は普遍的にして、宗教や倫理を超えた先にあるものだった。究極の理想を追い求めること。その”答”を自覚出来るものは数少ない。その”答”に向かってゆける者はもっと少ない。

「……そうか。神とは、”答”とは……」

 不意に、心の中の奥深くから光が溢れた気がした。人々の心の中に”神”はいる。”神”とは人間の思い描いた理想の存在、理想の世界なのだから。それぞれの思い描く”神”に近づく為に足掻く、それこそが俺の見出した”答”。

「俺にとっての”神”、それは……」

 子供の頃から抱き続けてきたイメージ、それは人間としての穢れが一切なく立ち振舞全てが美しい人間。いかなる問題にも正しい姿勢で立ち向かい、どんな苦労をも厭わない存在。正に聖人と呼ぶべき存在。

「そうか、だから俺は今まで随分遠回りをしたのか……」

 ”神”に近づきたかった少年は、その存在に近い者を探し求めたかった。”神”になるために方法を求めた。いつしか”神”を忘れてただ虚栄心のみが心を支配してしまったかつての少年、それがエル・ハウェ。それが俺。

「……思い出せた。これで、ちゃんと立てる。これからはもう忘れない。ちゃんと背筋を伸ばして歩いていくさ」

 自分に誓うように独り言ちる。涙はいつしか止まり、涙で濡れた紙面を陽光が照らしている。




「待たせたな、ラス。明日、試練に挑むよ」

 ろうそくの明かりを頼りに晩御飯を摂りながら、目の前のラスにそう告げる。

「もう? 早いね。……でもエルの顔を見れば、もう大丈夫だって思える。いつになくニコニコしてるもん!」

「そうか? ……そうだな、今日は本当にいい日だよ」

「ねえねえ、”ただしい答”ってなにー? 教えてほしいな」

「それはまたあと。試練が終わったら教えるさ」

「……ふふ。待ってるよ」




 翌日、俺は試練の入口につながる深い階段を下りて入口に立ち、”試練”に入る。一度意識を失い、目覚めると身体が小さくなっていた。周りには懐かしい景色が広がっていた。ーーー村の教会の中だ。

「ようこそ、エルくん。今日もお祈りとお勉強をしていきましょう」

 神父さんが俺に向かって微笑んでいる。懐かしい笑顔。ーーーどうやら俺の子供時代を再現しているらしい。つまり、俺が捨てた世界を再現しているのだ。今更ながら、罪悪感が募る。

「そうか。そういうことか。……神父様、ひとつだけ聞きたいことがあります」

「なんだね? 言ってご覧」

 かつて俺が裏切った人の面影を前にして、口の動きが重くなる。つばを飲み込んで、その先の言葉を紡ぐ。

「今からでも、やり直すことが赦されるでしょうか?」

 神父さんはキョトンとした様な顔をして考え込み、ーーーそして、体の輪郭が薄れていく。

「どうやら、今のあなたに過去を振り返らせる必要はないようだな」

 神父さん、だったものは今や俺と同じ姿に変わっている。俺の身体も、もとの大人の姿にもどっている。周囲の景色は一変し、廃城のような場所に変わっている。太陽は上っているのか沈んでいるのかどっちなのかは知らないが地平線から少しだけはみ出ている

「ということは、もう答を持ってきているんだろ? 聞かせてくれ」

 眼の前にいる存在はそのへんの瓦礫に腰掛けて、俺の瞳を見つめてくる。ーーーその瞳は、すべてを見通しそうなほどに深い。

「……どこから話すか」

 少し考えて、話の筋道を立てる。

「まず。俺は傲慢さと虚栄心を抱えてしまったせいで家族を、友達を、恩師を、自ら捨ててしまった。これはたしかに悪い。でも、ラス・アルミアが教えてくれたんだ。ーーーまだ、立ち直れると。まだ人生に絶望するほどじゃないと。俺は、これからはお互いに理解し合うことを恐れない、躊躇わない。相手に歩み寄るということを大切にしていこうと思う。この寺院を出たら、まずはみんなに謝りに行こうと思っているんだ」

「……いい顔になった。充分合格だよ。でも、まだあるんだろう?」

 はは、と少し微笑んで、顔がこわばる。

「そこまでお見通しか。元々話すつもりだったし、いいでしょう」

 舌なめずりをし、目の前の俺の姿をした”試練”に顔を向ける。大丈夫だ、今の俺には神に向かう道が見えている。ーーー胸が開く感覚がする。

「……ずいぶん遠回りをした」

 ほう、と”試練”が首を傾ける。

「……小さい頃の俺は親に連れられてよく教会に通っていたんだ。俺はそれが毎回楽しみでならなかった。ーーー俺は神父さんに会い、その言葉とその動作とを頭の中に焼き付けていたかった。何故なら、その頃の俺の世界の中で一番美しく見えた人間が神父さんだったから」

 日が昇る。”試練”が続きを聞きたいと言わんばかりに前のめりになり、目を大きくして向けてくる。

「僕はただ美しくて正しい人間を追い求めたかった。罪を犯さず、ただひたすら誠実に、酒にも薬にも溺れることなくみんなを照らす存在だった、あの神父さんのような人になりたかった。ーーーこの気持ちは子供の頃からずうっと抱えてた。でも、自覚できたのはつい昨日のことなんだ」

 暖かい風が俺の頬を撫でる。新緑の葉が空を舞う。今まで俺の心の奥深くに仕舞っていたものをさらけ出す、胸が開くような感覚が心地良い。

「でも、みんなで王に嘆願しに行ったあの時、頭を地面に擦り付けて王に泣きながら嘆願した神父さんを見て俺は、勝手に失望したんだ。これは情けない姿だ、と思って。はは、笑えるよな。自分の中で出来上がった理想の像と違うだけでキレるなんて俺は勝手だったな。……俺の落伍が始まったのは、その時からだ。自覚はなかったが、他に自分の理想となるべき人や偶像を探し求めていた。周りの人々は理想足り得ないから拒絶した。本当は自分の心の中にずうっと”神”はいたのにな」

「それで、今のお前にとってその神父はどんな人なんだ?」

 ”試練”の問いに俺は微笑む。

「俺の目指すべき人で、俺の”神”だ。良く考えたら、みんなのために頭を下げられるってとてもかっこいいことなんだな。あの頃の俺は目が節穴だったな」

 ”試練”が頬を緩ませて、こっくりと頷く。

「そうか。……だけど私はここの”試練”でね。君の考えていること、感じていることは分かっちゃうんだ。ーーー君の”神”は、いや、君の目指したい”神の世界”は、まだ余白が残っている」

「分かるか、”試練”。そうなんだ。あの時、俺は心の底から神父さんのような人を尊敬した。だけど、同時にこうも思った。ーーー神父さん以外にも素晴らしい人間がいるんじゃないか。まだ見ぬこの広い世界に多様な人間が生きていて、もしかしたら神父さんとは違うタイプの素晴らしい人間がたくさんいるかもしれない。……、もし、それぞれの素晴らしい人たちの素晴らしいところを集めていけば、理想郷ができるんじゃないかって俺は、たしかに、無意識のうちに、あのときに、ーーー夢想した」

 俺の頭の中には、心が美しい聖人君主の人々だけが住まう世界、ーーー美しい島の景色が浮かんでいる。

「俺が夢想した、神々の住まう世界をこう名付けよう。”浄世界”と」

 周囲に差し込む日光が、焼け付くほどの眩しさになって輝く。遠くに見える木々は闇の不気味さを脱して青々しい姿を表してゆく。

「……浄世界、か。だが、難しいのではないか? いや、不可能と言えるのではないかな、その世界を目指すのは」

「”試練”の言いたいことはわかる。この世には数多の人間がそれぞれの性格に基づき、それぞれの感情を抱いて生きているのだから。それぞれお互いを損ないながら生きている者も未だ多い。また、人は生来の欲がこびりついていて容易には変われない。この俺でさえ、まだ心の何処かに前みたいな黒い気持ちが仕舞われているのだから。ーーーだが、人類は知っている。まだ言葉のない混沌の時代から今に至るまで人類が発展してきたことを。この城だってそうだ。目に眩き麗城を築けるほどまでに発展してきた。はるか昔には想像もつかなかったことだ。想像できなかったことさえをも叶える人類だ。胸の内に抱く夢想の世界を叶えられないわけがないだろう」

 俺の背中で太陽が昇る。おのが影は狭まり、暖かい風が木の葉を乗せて流れてゆく。

「……信じているんだな、人類を」

「ああ。千万年かかるだろうけども、それでも目指すさ」

 ”試練”に対して、とびきりの笑顔になって言ってやった。最低でも千万年はかかるだろう。下手をすると千万年よりも長い、途方もない時間がかかるかもしれない。当然俺は生きてはいまい。それでも、誰かが思いを受け継げば、夢への道はきっと閉じないだろう。太陽ははるか遠い。だが、いつかきっとあそこに人類が辿り着く日もくるだろう。

 ああ、清らかな気分だ。ーーーそう思っていると、”試練”が不意に言葉を漏らす。

「やっと、話せたな。エル・ハウェ」

「……え?」

 最初は”試練”が何を言わんとしているのか分からなかった。それでも、胸の奥から暖かいものが込み上げてくるのを感じる。自分が今立っている石造りの地面に数滴の涙の染みができる。

「……ん? なん、でっ……」

 視界が滲む。鼻から水が出る。ひっく、と喉が鳴る。何で俺は泣いてる?

「ずっと、小さい頃から心の真ん中にあったものをようやく話せたんだ。そうもなろう」

「”試練”……ッッ。あ、こんなッ、ところ見せて、ごめん、な……ッッッ!」

 声が溢れる。涙が滝のように流れる。そうか。俺は今までずっとこの思いを誰にも、本当の意味で明かしていなかった。自分の心を明かす、というのはこんなにも嬉しいことなんだ。


 涙が止まり、喉が乾く。やっとまともに”試練”を見れるようになる。

「泣いているところを見せてすまなかったな」

 ”試練”は微笑み、俺に最後の念押しの言葉をかける。

「今のお前は、前のような傲慢と虚栄心にまみれた男に戻らないと言えるか?」

「ああ、戻らないと誓う。人はお互いに話し合い、尊重し合わなければいけない。まずは他人に歩み寄り、分かり合う努力をする。今までの罪を贖う。自分の”浄世界”の理想は、今は後回しだ」

 目の前の俺と同じ瞳を真っすぐ見つめて、答える。俺と同じ瞳が微笑む。

「おかげでいい話が聞けた。こんなこと、今まで数多の者が挑んできた”試練”の中でも初めてだ。……エル・ハウェ。お前はこれで出入りが自由だ。霧の中を真っ直ぐ進むと良い。また、何かあればいつでもここに帰ってきて良いぞ。ーーー寺院は、悟りし者にこそ開放される」

 刹那、”試練”の世界が光に溢れる。周囲の景色が光に融けて、ただ太陽のみが白い空間の中に浮かぶ。その太陽も終いには融け、ーーー全てが白になった。




 気がつけば、真っ暗闇な階段の一番下に突っ立っていた。俺は階段の上を仰ぐ。階段の段に足をかける。ゆっくり、ゆっくりと一段ずつ上る。一段ずつ、一段ずつ、ゆっくりと、我が理想へと近づこう。


        ◇◇◇


 彼女の足跡は地獄に連なる道を逸れた。彼は見失っていたはずの道に戻り、天を仰いだ。死の気配はもうない。それぞれ、おのが心の奥深くに仕舞われていた真実の思いを見つけ出して、前に進むことを選んだ。この二人は哀しき歴史の連理を脱したのだ。ーーー彼らの進む道の先には、光溢れる世界が待っている。


        ◇◇◇


 エルが細長い階段を上り切ると、いきなりラスが抱きつく。そのとき、エルの目に蘇芳色の光が差す。

「おつかれさま、エル。もう夕方だし、晩御飯にしよっ」

「ああ。腹が減った。ご飯にしよう」




 夕餉に、エルは”試練”であったことと自分の思いを全てラスに話した。

「”浄世界”……。確かに、千万年ぐらいかけないと難しそうだね」

「ああ。人の根っこに根付いた欲望はかなり取り除きにくいからな。だが、俺はやる。目指さないと始まらないからな」

 エルが、ふっ、と微笑む。その一瞬を見逃さなかったラスは満面の笑顔で彼を見つめる。

「それで、これからどうしようかな? 私は、ここを出たら外の広い世界を知りたい。それで不幸のうちにある人を救うために私にできることを考えるんだ。」

 エルは、スープの湯気を通して見るラスの笑顔がなんだか眩しく見えた。目を細めながら彼女に返事する。

「俺は学びたい。自分の理想に近づくためにも。様々な知識に触れて、自分がどうあるべきかを追究したい。……君と一緒に旅をして学ぶというのも良いな」

「んぐ、んぐ……ぷはっ。そうすると、お金どうしよかな。……私、貯金ないんだよね。あんな暮らししてたし」

 ラスがスープを飲み干し、口を手の甲で拭う。二人が長い心の苦しみを脱したあとには、現実的な悩みが待っていた。

「そうだよなあ。……また魔女の下でバイトするかな。キツいけど魔法が学べて給料もいいんだよな」

「私も手伝いたいなぁ。……金が溜まったらどこにいこうかな、エル?」

「湖の中でも世界一深いとされるアルトゥネス湖に行こうか、隣国アレキザルドにあるヴェー教最大の礼拝堂アールシュトウム見に行くか……悩むな」

 隣国、の言葉にラスの耳が動く。

「ん? 隣国? アレキザルド語はできるよ」

 ラスの意外な特技の告白に、エルが瞳を丸める。

「おいおい、本当にできるのか? 俺は書く方ならそれなりにできるが……」

「本当にできるって。 ーーー【基本コースは300パルク。追加オプションは600パルクになります】。……あ、前の仕事の口癖で言っちゃった」

 口からつい出た言葉に後悔してか、ラスが目を覆う。無理もない。ラスが外国語を使う機会といえば、”そういう仕事”をするときだったのだから。

「気に病む必要はない、ラス。それに……すごいな。俺は字に書くのは得意だが、話す方はさっぱりだから、君に話し言葉を教えてもらいたいな」

 エルがラスの手を取り、彼女の目を見つめる。ラスの頬が紅潮して、思わず視線をそらす。それから彼女は歯を食いしばってなんとかエルと視線があうようにする。

「……あのさ、エル。私たち、色々あったけど今はこうして卓を囲めてるじゃん。……私、貴方に会ってから色々なことを感じるようになったの。最初は敵に見えて憎くて仕方なかったけど……。い、いまは……ッ」

 言い淀むラス。その様子を見て、エルはついに悟る。それと同時に、彼の心の中でひとつの答えが出る。ーーーもはや彼女の人生と俺の人生は連理であり、俺もそれを望んでいると。

「エル、私には貴方が必要なの。あなたが試練に挑んでいる間はあなたがいなくて寂しくなって、あなたが帰って来てくれて嬉しいの。……好きになっちゃったの、エルのこと」

 ラスが言い切ったときエルが席を立ち、彼女を抱き締める。

「俺達は色々あった。だが、この寺院で積み重ねた体験が俺達を引き合わせてくれた。ーーー俺からも応えるよ、ラス。好きだ、俺の人生にいてくれ」

「うん。だからあなたも私の人生にいてね、エル」

 二人は熱いハグを交わす。食べ終わった食器は重ねられている。


 その夜、ふたりは同じ部屋の同じベッドの上で一緒に眠りに就いた。



 夜明け。エルが起きる。隣には、昨夜を共に過ごしたラスがまだ寝息を立てている。窓から外を見やる。巨大な霧の壁が今も聳え立っている。

「……そろそろ、ここを出る踏ん切りをつけないとな……」

「なに? エル……」

 薄目を開けたラスがベッドを這ってエルの膝に頭を置く。

「ああ、起きたか。ここを出るのは明日にしようかな、と思ってさ」

「急なんだね。ま、出ようと思ったらすぐに出たほうがいいもんね。後回しにしたら出るに出られなくなっちゃうし……うん、明日だね」

 ラスがエルに膝枕をしてもらいながら微笑む。その日の二人は荷物を整えたり、寺院の中の思い出の場所を巡ったりした。彼らが明日出ることをグノーモンに告げると、グノーモンは喉を鳴らし、寂し気に目を細めた。


 その夜、エルとラスは宿泊施設の浴室に入る。

「エル、これ何……?」

 目の前の湯気に怯えてか、ラスがエルの背中に隠れて服のすそを引っ張る。

「知らんのか。まぁこういうのは身分高い人の特権だからな。風呂だよ、風呂。お湯に浸かって身体を清めるの。明日出るんだし、身なりは綺麗なほうがいいだろ?」

「そっか。……清め方、教えて」

 エルは書物で学んだ風呂の入り方をラスに教え、二人で身を清める。風呂から上がったエルは髭をすっかりそり落として髪を整え、精悍な好青年の見た目になる。ラスは灰を被ったような髪の色味がすっかり抜けて、穢れ無き金色の髪を輝かせている。

「風呂って凄いね。身も心もあったまった」

「ああ。俺もここまで素晴らしいものだとは思わなかった」

 その後、二人はお互いの風呂上がりの温かさを忘れないうちに眠った。


 翌日の早朝、調理室。エルが簡単な料理をして、二人で朝食を摂る。

「そういえば、君と初めて顔を合わせたのはここだったな」

「思い出さないでよ。今となっては少し……恥ずかしいから」

 遠い目をするエルとは反対にラスは顔を赤め、椀に顔を隠そうとする。

「そうか。ラスと出会えた今なら、あれもいい思い出だ。……ヒヤッとしてたのは事実だが」

「うぅ、もう……。そんなこと言ってないで、さっさと食器洗ったら出るよ!」

 食べ終えたラスが強引に会話を打ち切り、食器を洗って荷物を手に調理室を出る。

「……今のは俺が悪かったか。さて、俺も行くか」

 エルも後片付けをし、手元の荷物を確かめる。当分の保存食と、寺院に来たときに手元に余った金。寺院からは少々の保存食を拝借しただけであり、他のものには手を付けていない。エルが調理室を出ようとしたとき、包丁が目に留まる。エルはしまい忘れた包丁を戻そうとして、初めてラスと会ったときのことをまた思い出す。

「あの時、俺はこれを抜いたんだっけか」

 感慨深そうに手元の包丁を眺める。

「エルーっ、そろそろ行かないと」

 ラスが彼を呼びに調理室に顔を出す。その顔を見てエルは、おう、と返事をして包丁を元あったところに仕舞った。

「さて、行くか。……いや、戻ろう。俺たちの現実に」

 二人が廊下に出る。

「グノーモンさんのところに挨拶にいこっ」

「ああ。……ん?」

 龍の咆哮が聞こえる。だが、今回の咆哮は4Fからではなかった。

「ねぇ、エル。これって、門のほうだよね?」

「ああ。わざわざ降りてきてくれたのかもしれない。……門の方に行こう」

 寺院の中を通り、門に一番近い礼拝堂の中に出る。エルがひし形の偶像を振り返る。寺院の中で初めて目に入った特徴的なオブジェクトだ。エルはそれについ手を伸ばす。

「じゃあな。また来るかもしれん」

 偶像に別れを告げ、エルはラスの後についてって礼拝堂を出る。


 霧の壁の手前でグノーモンが鎮座している。

「あ、いたいた。グノーモンさまー!」

 ラスが大きく手を振りながら龍に駆け付ける。そのまま抱きついて、彼女の笑顔が龍を見上げる。

「グノーモン様、本当に今までありがとう! あなたのおかげで私、私の過ちに気付けて……生きていられて……」

 彼女の声が徐々に鼻声になる。

「だから……だから……ほんとうに、ありがとう、ございました……!!」

 ラスの顔を涙と鼻水が流れる。その後は何も言えなくなってただただ、枯れぬ限り嗚咽する。


 彼女の涙が枯れて、龍から離れる。エルが龍を見上げる。

「グノーモン様。あなたが道を差し伸べてくださったことは忘れません。ラスを助けてくださったことも、様々な知識を授けてくださったことも忘れません。あなたは、何にも代えがたい我々の恩人です……!」

 エルはラスと違って泣かなかったが、瞳に熱いものが込み上げてきているのを抑えるのに必死だ。

「二人の想い、しかと受け取った。我も二人が立ち直れて嬉しいぞ」

 龍の目には、二人の姿が輝いて見えた。髪舞うラスの姿は天使のごとし、エルの顔つきは神話の若き英雄が如し。

「本当に、立派になった」

 龍の目にこみ上げてくるものを誤魔化すために、グノーモンの首が霧の方に向く。

「二人で手を繋いだまま離すことなく霧を出るのだ。そうすれば、二人一緒に外の世界に戻れるぞ」

 門の外側に聳え立って、円筒状に寺院を囲うファルネスの大霧。二人を逃さず、外の世界の者の侵入を拒んだ巨壁。今や、その霧が二人に外の世界へと通じることを許している。

「さあ、旅たちのときだ。行くが良い」

 龍の言葉に背中を押されてエル・ハウェとラス・アルミアがお互いの手を取り合う。

「グノーモン様、機会があればまたここに顔を出してきます。……では、さようなら」

「グノーモン様、私、あなたに生かしてもらった命を大切にするね。……ばいばい、またね」

 二人は真っ直ぐに霧の壁を見据える。歩幅を揃えて、ゆっくりと、怯むことなく進んで。


 ーーー霧に入った。




「霧が濃くて君の顔が見えないな。さっさと出よう」

 エルがラスの手を強く握る。

「うん。ーーーあ、なんとなくだけど霧が薄くなってきてるかも。……ちょっと待って」

 ラスが制止をかけ、二人が立ち止まる。エルがラスの次の言葉を待っていると、ーーーすぅ、ーーーはぁ、といった深呼吸の音が聞こえた。

「やっぱり緊張するなあ。……私が諦めていた世界に帰ろうというのだから、かな」

 その言葉にエルは間を置いてかけるべき言葉を考える。今までのことを思い返し、かけるべき言葉をかける。

「過去は無くならない。絶望の日々を過ごしたことも忘れられない。だけれども、未来はずっといつだって俺達を待っている。ーーーさあ、これから築く未来を信じて受け入れよう」

 エルの手に引っ張られて、ラスが再び歩み始める。霧が薄れていき、徐々に周囲が明るくなる。最後の一歩を踏み出したとき、二人は気付く。長くて辛い霧を抜けたのだ、と。



 ーーー回生せし二人は、希望に身を照らす。








 エルの生まれ故郷であるラウーゴ村を囲う柵の外で、山の方から吹き下ろす清々しい風を感じながらラス・アルミアはひとり石を重ねる遊びをして退屈を紛らわしている。

「あ、今の風はとても気持ちよく感じる……。うん、私、生きてる」

 重ねた石が崩れたりまた積み直したりやっているうちに、エルが柵の門から出てくる。

「あ、エル。村のみんなはどうだった?」

 彼が現れるや、ラスは手に持っていた石を置いて彼に駆け付ける。エルは視線を地面に落とし、唇を固く結んでいる。少しして、涙が数滴零れ落ちる。

「駄目だった。父さん母さんは絶縁だって、領主さんは門前払い、神父さんにもけっこう怒られたよ……。もうこの村に帰ってこれる場所がねえ」

 固く結んだ唇が緩んだ瞬間、嗚咽が出る。涙を流して咳込むエルをラスはそっと優しく抱き締める。彼女は何も言わず、ただただ彼の嗚咽と気持ちを受け止める。


 やがてエルが泣き止んだ時、ちょうど旅の馬車がやってくる。二人はそれに乗り込む。次の目的地までの道中、エルがぽつりとささやき出す。

「……神父さん、あんなに怒ってたけど、でも最後にこう言ってくれたんだ。”罪はなくならない。でもそれは徳を積み重ねなくていい理由にはならない”だって」

 空を見上げるエル。その視線の先には神父さんがいるのかな、とラスは思った。

「俺、これからは周りの人々のためにも頑張りたい」

 エルは彼の神の言葉を脳内で反芻し心の中へ落とし込む。その様を見て、ラスはほっとしたような表情を浮かべる。

 


 次に訪れたのは交易都市の外れ、ラスがかつて仲間たちと過ごしていた地。幸いにも教会の牧師さんがお金のことは気にしなくていい、と墓地にラスのかつての仲間たちとラスの堕ろし子の簡易的な墓を立ててくれた。その墓の前で二人は手を合わせている。エルは真剣な顔つきで、ラスは瞳から涙を流しながら。

「これからは俺がラスを守り、支えていく。だからどうか安らかに眠ってくれ」

「仲間たちのみんな、私はもう大丈夫。だからみんなももう私のことを気にしなくていいよ。もし後の世があるなら、みんなが幸せに過ごせますように。……子供たち、堕としてごめん。後の世があって私がそこに逝ったら、いっぱい怒って。でもママはまだこの世でやるべきことを探したいから、待っててほしい。本当にごめん」

 二人が手を合わせ終え、墓地を去ろうとしたときに通りすがった他人どうしの会話が二人の耳に届く。

「……この都市の領主、若い女性の連続誘拐、凌辱殺人事件が明るみに出て失脚したらしいわよ」

「聞いたよ。今は王立騎士団に捕まって裁判を待つ身らしいね。宗教との兼ね合いもあって十中八九、死刑になるだろうと聞いてる」

 その会話を聞いたラスが立ち止まる。遅れてエルも立ち止まり、ようやくラスの内心を察する。

「……今の会話、もしかしてラスの仲間を殺した人のことか?」

 表情の固くなったラスが、こくり、と頷く。

「そうか、あいつ、死ぬんだ」

「……大丈夫か?」

 エルが彼女の肩に手を置く。その肩は最初は震えていたが、徐々に落ち着きを取り戻す。

「本当なら、私の手で裁きを与えてやりたかった。……でも、あいつがどこか他所でその大罪にふさわしい重罰を受けるならそれでいい。私は私の人生を生きるって決めたんだ、あいつみたいな奴に構う道理なんてないんだから」

 その表情はまだ固いままだったが、瞳を見れば心がすでに決まっていることがわかる。

「そうか。では王都に向かおう」

 



 二人が王都に辿り着いて数日後。王都外れの道をエル・ハウェとラス・アルミアの二人に加えてもう一人が一緒に歩いている。

「うおおおおおーーー、俺はお前が生きてくれて嬉しいよおおー〜!」

 その声の主はロイスである。エル・ハウェからはすでに謝罪を受け、彼を許している。ーーーそれどころか、エルが生きていることに感銘して毎日嬉し泣きをする始末である。

「そのセリフ、何度目だよ。それに今はラスと一緒に魔女に面接に行くの。お前までついてこなくていいから!」

「だって、だって……、もうお前から目を離すのが怖いんだよ!」

 エルとロイスの会話をラスは温かい目で見守っている。かつての仲間たちと過ごした日々を思い出し、友と一緒にいられることの尊さを身に沁みて感じているからである。

「もう魔女の工房の前まで来たぞ! もう散々たくさん話したからいいだろ!」

「……わかった、俺は仕事に戻る。俺の家は好きに使っていいからなー!」

「俺たちは魔女の元に住み込みで働くつもりだって何度言えばわかるんだ! もうお前におんぶにだっこしないって何度も言ってるんだ!」

 ロイスが人混みの向こうへと離れていき、仕事に戻っていく。

「うるさいやつが消えたな。……さて、ラス、一緒に行くぞ」

「うんっ。エルと働けるの、楽しみ」

 二人一緒に扉に手をかけ、未来への道を拓くーーー








 龍が歌う。寺院4F、天井が崩落して開けたホールで、祝福の言葉を歌に乗せて歌っている。

『やってるな、グノーモン。良い歌だ』

 そこに現れたのは、輪郭の定まらない人影。グノーモンが歌を中断して、人影の方へ首を動かす。

「”試練”か。ここまでやってくるのは珍しいな」

『まあな。あの二人が脱出に成功したんで、ちょいと話したくなった』

「エル・ハウェとラス・アルミアか。……あの二人は自分の内に答があった。ただ、絶望に暮れていたうちには見つからなかった。ーーー生きる希望というのは、前を向こうとしない限り湧いてこないものだな」

『ああ。よくあの殺し合っていた二人がまさか夫婦になるとは思わなんだ。それに、か弱いはずの魂が三つもラスの後を追いかけて飛んできたのにも驚いたな。……グノーモン、さっきまで歌っていた歌は良い歌だが、どういう歌だ?』

 グノーモンが喉を鳴らし、天を仰ぐ。

「祝福の歌だ。エルとラスの回生する様子に触発されて歌い始めた。……だが、ただ二人のみに捧げる歌ではない。ーーー私は元より全ての人類を憂いていた。でも気づいた。ただただ憂うばかりではいけないと。だから霧の外を出れぬ身にできることをと考えて、全ての人類に捧げる祝福の祈りの歌を歌うことにしたのだ。既に死した者にも、罪に塗れた者にも、幸せの中にある者にも、徳を積みし者にも、全ての人類に捧ぐ祈りの歌を」

『そうか。……続きを聞きたい。歌ってくれないか』

 龍が歌う。龍より全ての人類に捧げられしは祝福の歌。”試練”は心地よく聞き入り、暖かい陽光が辺り一面に差し込む。新緑の葉が舞い、鳥も共に歌う。歌の終わりを、龍は次の言葉で締めくくる。




             我が祝福を、あなたにも捧げる。


                ーーーfinーーー


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