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落伍者、孤独に身を翳る 堕在編

 深い霧に囲まれた円の中、銀色の龍が瞑目する。———龍の前には、死体が横たわっている。

 龍より死せし者に捧げられしは静寂の鎮魂歌。この者は、世に憂いを抱いて寺院に籠り、孤独の内に死んだ。

 人の世は明けぬ鈍色の天に似る。世界のシステムの不条理が人々に押し付けられ、人の心に昏きが生まれる。人類はみな、胸の内に憂いを抱いて自らの物語を生きる。人は自らの昏きから逃げることは許されず、歴史は哀しき連理を紡いできた。


(この者も……)


 憂いは人の内に蓄積し社会に蓄積して、骸の山を積み重ねていく。弱者の嘆きは弱きが故に人世に響かず、上に至れし者の苦悩はその栄華故に声に発されず。人類に圧し掛かる、憂いと苦しみという死の呪いを止めるべくは、今は無い。


(せめて)


 龍は思う。


(生きることの真の意味を見出せし者が増えれば)


 何万年後になるだろうか、人が哀しい音を発さずに済むようになるのは。死体に誓うように龍は頭を垂れる。


(人が迷惑しなくなる日が来るまで、私はここで迷える者の道標になろう)


 開かれた龍の瞳は、新たなる来訪者の姿を見据える。






 王都外れに木造の無計画な建物が雑多に建ち並ぶ道の中、擦りきれた木のプレートを握りしめながら黒髪の男が歩く。衣服は傷だらけ、顔には無精ひげがいっぱいで髪はボサボサ、正に不衛生な身なりだ。そうして、瞳には最後の輝きと言うべき光が煌々としていた。

 この男は、名をエル・ハウェと言う。この男が向かうのは、この辺りで一番豪華な外見の建物、役所だ。役所の前に人だかりができている。人だかりのほとんどは、一応の身なりは整えているが行動が荒々しく気品があまり感じられない。

 黒髪の男と、人だかりの人たちは王国の官僚試験の合否発表を見に来たのだ。

 といっても、人だかりの人たちと男では事情が違う。官僚試験は奴隷などの被支配身分でない限り、貴族でも平民でも受けられる。が、実際に受けるのは貴族がほとんどだ。さしずめ貴族に命じられて代理として結果を見に来た人が大半のところであろう。農奴の出である黒髪の男は自分で受け、自分の足で結果を確認しに来た。

 官僚試験。この試験は、この国では指折りで数えるほどしかない、平民が貴族になれる手段の一つ。首席合格や成績優秀であれば王国の大臣の座を狙えるかもしれない、正に平民の希望の道である。———最も合格者の殆どが貴族で、不合格者の殆どは平民の、不平等生産試験にもなっているのだが。

 エル・ハウェは農奴の出にして、農奴らしかぬ頭脳を以て官僚試験を受けたのだった。周りの人達からの反対を聞き捨て、停滞しているように見えた家族さえも縁を切って捨ててここにやって来たのだ。彼自身の頭脳のいと気高さを誇示する為に。

 人が多すぎて、結果を公表する立て板が見えない。木のプレートを眼前に挙げ、刻まれた数字を確認する。同じ数字が板にも刻まれていれば、男は合格だ。

 暴力的な文句を無視しながら人混みをかき分け、男が板を見る。

 ……男の数字は無かった。

「……え? そんな」

 瞬間、瞳の輝きが揺らめいて消えた。木のプレートを手からこぼし、あえかなる足取りで振り返って人混みを出る。どこか建物と建物の間の小路の中に入っていく。ぐるぐると小路を回り、袋小路に突き当たる。男が手を挙げて目前の壁に拳を叩きつける。壁に血が張り付き、手の甲からは赤い滝が流れる。

「クソがっ!」

 続けて蹴りを壁に入れ、ヒビが入ったところで男の身体から力が抜けて壁に前のめりに倒れる。

「あっあ……ううぅ……」

 手のひらに爪を立てすぎて血が出るくらいに拳を強く握る。壁に縋るような姿勢で、男は慟哭する。涙が溢れ、男の膝元には大きな染みができている。

「なぜなぜ、なんで俺が落ちる……」

 ひどく狼狽した様子で天を仰ぎ見る。そして、何かを悟ったように瞳を下ろす。

「そうか。そうだったのか。……結局、どこにも神は在りやしないんだ」

 どれくらい、そうしていただろうか。涙が枯れて、空を仰いだ時には雲が夕焼け色に染まっていた。ポン、と男の肩に手が置かれる。手の主、帯剣した男が今まで泣いていたエル・ハウェと瞳を合わせる。

「飲み、行こうか」




      ◇◇◇




「そうか、落ちたのか」

 騒々しい酒場の中で、木のビールジョッキを片手に帯剣した金髪の男が黒髪の男に話す。

「で、これからどうするよ? 生憎だが、俺にはお前をこれ以上住まわせる余裕はない。なぁ、エル」

 エル・ハウェが顔を上げる。金髪の男、ロイスが続ける。

「警備の仕事くらいなら俺が紹介できる。下町でだって、お前魔法使えるから魔法を使うところの下働きとかできるだろ?」

 エルは顔を上げ、天井の一点を見つめる。その眼差しは虚空の色を示して、世の全てを見得ていないようである。

「なんか言ったらどうなんだ?」

 ロイスがビールジョッキでエルの額をどつく。虚空から現実に戻された瞳がロイスの顔を捉える。アルコールによってもたらされた熱が、掃き溜めのような生臭い息となってエルの口より漏れ出る。

「はぁ……。俺には、もう生きる理由がない」

「あれか? 人の上に立たなきゃならないってあれか?」

「ああ。俺は、気づいてるんだよ。この世は不条理だ。それを突破するための官僚だったんだが……。唯一の道が不合格じゃな」

「だとしても、生きてるだけでもうけ」

 ダン! と、エルがビールジョッキの底を卓に叩きつけて割る。ビールが卓にぶちまけられ、その中のいくつかは小さな滝となって床に零れ落ちる。零れた液体はもう還らない。自分と同じだな、と嘲笑してから顔をロイスにぶつける。

「それは、生きていることにならない。不正義を見て見ぬふりする奴隷と同じだ。奴隷になるなら死んだ方がましだ……」

 眉間に皺を寄せて、まるで鬼のように言う。尚もビールジョッキを卓に押し付ける手は震えている。

「じゃあ、お前は死ぬつもりなのか?」

 ロイスも負けじと身を起こしてエルに睨み返す。

「ああ。というより、死ぬしかない。結果を得られなきゃ、なるべき存在になれないなら無意味だ」

 予想できた返答に、しかしロイスは視線を泳がせつつ呼吸を整える。ロイスにとっては、彼に言ってほしくない言葉だった。束の間に自分の望んだ未来が陽炎となって立ち消えるような幻想を感じたのち、現実に戻ってエルを睨み返す。

「エル……。本当にそう思ってるのか」

「そうだ」

「お前、それは」

 エルがその先の言葉を紡がせまいとロイスを制した。否。彼の瞳の奥に広がる虚無の世界が、気だるげに構えられた黒の衣の全身が、中途半端に強張った筋肉が、ロイスに言葉を紡がせまいとした。ロイスの口が泳ぐ。エルは、ただそこに身を中途半端に投げ出し構えているだけで彼の言葉をロイスに悟らせようとしていた。

 言える言葉はいくらでもあった。彼をなだめる言葉は幾らも浮かんだ。それでも、ロイスは遂に彼を救う言葉を見つけられなかった。ロイスは彼に時間が必要だと思った。否、自分に彼から少しだけ逃げる時間を欲した。

「金は置いておく。寝床はやるから、後で俺んち来いよ」

 そう言ってロイスは席を立ち、酒場を後にした。後には、椅子に中途半端に身を投げ出した黒衣の男一人。

「答に……。すべて正しき答よ、いずこ……」

 ぼそぼそと呟きながら、エルは、ぼんやりと酒場の空間のどこでもないようなところを眺めつつ彼自身の人生を追憶する。


 はじまりは義務感だった。母親に連れられて教会に行ったはじめてのとき、”神の教え”を教わった。あのとき、身が震えた。”神の教え”は全能感にあふれていて、この世界の理を規定する唯一無二の答えであるように思えた。あのときから俺は聖典を読み漁るようになった。聖典の解釈を学ぶために教会に通った。でも幼いころに王都に赴くことになって俺は失望した。異教徒が普通に存在していて、当の教団は腐敗していた。俺の中で、”神の教え”が”ただしいおしえ”じゃなくなって、まるで今いる世界が根本から崩れ去るような感覚を味わった。その時から俺は様々な宗教の本を読み漁り、”ただしいおしえ”が何処にあるのか血眼になって探した。だけども、何もわからないままここまで来てしまった。世界の不条理を無くしたいという思いと”ただしいおしえ”がどこにあるか知りたいという思いの二つだけで、ここまで来てしまった。官僚になれば、高い位の者たちと触れ合って”ただしいおしえ”を知る者と出会えるかもしれないと思っていたけども、それも潰えた。もう気力は無い。


 少しの間ぼんやりしていたら、テーブルに人の影が忍びた。辺りを見回すと、帯剣している二人組が立ってこちらを睨みつけている。大方、傭兵といったところだろうか。

「席、よこせよ」

 その言葉に応える気力もなく、椅子に座ったままでいようとした。立とうとしないエルに二人は苛つき、罵声をかけた。それでもエルは動かない。大きい方がエルの胸倉を掴んで、引きずる。エルは死体の様になって、抵抗しない。酒場の裏口から裏小路に引きずり出されると、エルの身体が生ごみの掃き溜めに投げられる。肉の腐った匂い、ハエのたかる音、誰かの吐瀉物の感触。

「俺らを舐めてんだろ、お前。痛い目に合いたかったか?今ならカネで許すが」

 二人組がエルの膝を踏みつけながら、掌を彼の前に開く。催促だ。

「ない」

 無機質に首を横に振る。もう終わった身。抵抗することに何の意味があろう。

「あ? ケッ!」

 エルの腹に重い衝撃が響く。二人組の蹴りが四、五発と入れられ、エルが吐く。掃き溜めに吐瀉物を追加し、エルは自分の身もついに汚物の仲間入りしたかと嘲り笑う。

「気持ち悪いな。これ以上やっても俺らが汚れちゃかなわねぇ、切りあげるか」

 二人組が去り、まるで死体のようにエルが生ごみの上に横たわる。横たわりながら、エルは呟く。

「ただ見下ろすだけの星の海め……」

 それからしばらくして、寝息をかくようになった。数時間ほどだろうか、エルがゴミの上に横たわったままでいるとロイスがやってきて、目を閉じたままのエルを担いでロイスの家へと帰る。



 瞼を撫でる陽光に、エルが目覚める。開目一番、目に入ったのがロイスだった。

「ロイス……」

「よう、エル。随分やられたようだな」

「ゲホッ。はぁ、運んだのか、俺を」

 はぁ、とロイスがため息をつく。

「どうも、お前の態度を思い出してるとずっとあそこから動かないんじゃないかと思ってな」

 ロイスの手をエルが掴み、立ち上がる。ロイスがある程度洗ったとはいえ、生ごみの酷臭にはさすがのロイスにも応えたようですかさず鼻をつまむ。

「くせぇな。外れの川でもっと洗えよ。代わりの服はやるからさ」

「ああ。そうだな」

「ところで昨日の続きなんだが、」

 ロイスが一息置いてから、強い声調で言う。———先ほどとは打って変って、身に軸を据えたように態度が定まっている。

「お前はどうも、人生を簡単に諦めているように見える」

「……は?」

 ギロリ、とエルの鋭い眼光が彼を睨みつける。熱い風が二人の間を横切り、静寂たる緊張が生まれる。言葉の間合いを見つけてか、ロイスが言葉を繋げる。

「他人の人生だし、俺がどうこう言うことではないだろうが……。もっと、こう、他に頑張る道くらい見つけられるはずだろうと思ってな。ほら、村に帰って畑耕すとかさ」

「他? 他の道? 俺には見当たらないな。大体、村に帰れと言われても過去は棄てちまってるんだ。さぞやお前は俺よりも聡明なんだろう。貴殿の言う道を私にご教示くださいな!」

 荒々しい声でエルがまくし立てる。

「……。お前の道は俺が決めることじゃないからご教示することはできない。ただ、世の中を見回せば思いつくだろう?」

「無責任だな」

 冷たい一言が空間を引き裂く。

「道を見つけろと言いながら、お前は道を示さない。俺にはもう道がないって分からないのか! 俺が今の今まで悩んで悩んで悩み抜いてこれしかないと悟ったたった一つの道を閉ざされたって分からないのか!」

 自分の固まりに固まった思考を声に上げるその様子は、ロイスには気が狂っているとしか思えなかった。

 ロイスが何か言おうとしてとして、自分の声を押しつぶした。エルの視ている世界とロイスの視ている世界は違う。エルにとって大事なのは自身が世界の上に立つこと。ロイスにとって大事なのはその日暮らしの命を繋ぎながらたまの日に楽しむこと。エルに生きてもらいたいならばエルがエル自身を変えるしかなく、その術はロイス、いや、エル以外の全ての者には無いかと思われる。

 結局、ロイスは説得を諦めた。肩を落として臭いため息をつく。

「分かった……。とりあえず、川に行って残りの匂い落としてこい」

「ああ、そうだな……」

 二人の会話に一応の決着はついた。ロイスは苦虫を噛みしめるような顔でエルの背姿を見つめる。そうして、酒場から漏れる喧騒を人生の一度たりともエルに分けてやれなかったことを悔やむ。





 身を川の水で清めたエルは、数少ない自分の所有物を整理する。

「この家にずっと居てもいいんだぜ、死ぬか、他の道を見つけるまで」

 ギロリ、とエルの黒い瞳がロイスを刺す。

「言っただろう。他の道は無いと」

「やはり、無理か」

「絶対にな」

「じゃあ……。何かやり残したことがあるなら言ってくれ」

 これから、の言葉にエルが動きを止める。すっかり落伍した人生に、なんの未練があろうか。記憶の糸を手繰り寄せて、何もないことに気づく。

「いや、死ぬことしかない」

 ロイスにとっては、やはり、という感じだ。そうしてロイスは今、じわじわと親愛なる友人を失う実感にを現実に持ち始めている。背に氷柱が走り、心臓の鼓動が早まる。冷や汗を頬で感じながらも、手が冷たくなって動かなくなるのを懸命に耐える。

「そうか。まあ、止めることはない。お前の人生だもんな、好きにしろよ。あ、ここで死ぬのは勘弁だかんな」

「分かってるよ」

 親友の懇願とも取れるささやかなジョークにエルが頬を綻ばせる。それから、エルは宙に目を漂わせて自分の死を思う。

 どう死のうか。できれば苦しくない、楽な死に方がいい。飛び降りるのはむしろ延々と苦しむことになる。毒も、すぐに死ぬことはできない。刃物と人体に知識のないエルでは、自分の身に刃を突き立てることも苦しみの死につながる。

 エルが部屋の中に羊皮紙の本を見つける。伝説が記された本だ。そういえば、とエルが頷く。

「グノーモンの寺院に行ってみるか」

 グノーモンの寺院。それは、伝説に記された寺院。おおきな霧の柱、ファルネスの大霧の中に在りて、今までに目撃したとされる人物は唯一人だけ。今まで寺院を目指した者は数多く、しかし一人を除いて全員が今だ霧から帰らず。

「グノーモンの寺院……? お前、まさかファルネスの大霧の中に入ろうっていうのか?」

「ああ。どうせなら、伝説の中に死にたい。それに、必ず一人になれるそうだからな」

 グノーモンの寺院にはこんな言い伝えがある。唯一の生還者曰く、“霧の中では必ず一人になる”。

「分かった。ここからじゃ少し遠いか……。馬車の金は?」

「大丈夫だ」

 エルが金の入っている袋をロイスに見せる。納得したロイスは、ドアから身体をどける。

「友人エル・ハウェの旅立ちに幸いあれ、神よ」

「ありがとう、ロイ」

 エル・ハウェがロイスに見せた笑顔は、破滅の間際にいるようだった。



       ◇◇◇



 おおきな霧の柱、ファルネスの大霧が立っている。ひとつの大城は囲めそうなほどに大きく、上を仰げばいつも曇り。不思議なことに雨は降ったことがない。かつて沢山の人がこの霧に入り、そして姿を消した。霧の向こう側からはただ一人を除き誰も、そして何の返事も帰ってきていない。




 二人の兵卒が槍を担いで霧の周りを歩いている。

「…ふぁ~あ。ねむい。」

「おい、気を抜き過ぎだ。」

「なんだよ。……いつものことながら誰もこねーんだよ。」

 と、会話している最中に背の高い方が、誰かが霧を囲う柵を乗り越えようとしているのを見つけた。

「あれだ!」

「おう!」

 誰かの元に走り寄り、二人掛けで柵から引きずり下ろす。

「いてっ!」

 拍子に、柵を越えようとした者が地面に頭を打ちつける。よく見ると、柵を乗り越えようとしていたのは黒髪の、無精ひげが生えた面長の男だった。この男こそが、エルである。

「おい、なんで乗り越えようとしてたんだ?」

「言えるか、そんなん。」

「ま、このまま駐屯地に連れていくんで、いいすね。」

「……やだ。」

「なんで嫌なんだ、とっとと立て!」

 二人はエルの腕を掴んで立たせた。

「……離せよ。腕が動かん」

 男は腕をしっかり掴まれて自由に動けないようにされている。

「ほら、いくぞ。」

 二人の歩みに抵抗するかのように男はぎこちない歩き方をする。

「さあ、もう一回訊くぞ、なんで乗り越えようとしたんだ」

 男は頭を下に向けて、唾を吐く。

「……分かるものかよ、話したって。天を目指したのに堕とされた奴のキモチなんて」

「なに?」

 彼は自由の利く手首を回して手のひらを二人に向けた。

「抵抗はやめよーよ、ねっ」

「いやこれは、目をつぶー」

 背の高い兵卒が言うより早く、エルが詠唱をして発光魔法を発動した。目をつぶるのが遅かった二人はあまりの光量に驚いて、顔を手で覆ってしまった。

「あ、くそ! 離してしまった、おい逃げるな!」

 背の高い方が叫んだが、目が見えない為エルを追いかけて捕まえることは出来ない。

 ようやく二人の目の自由が利くようになった時には、そこには二人の他に誰も居なかった。




 エルは白い霧の中をさまよっている。彼を囲う霧は不思議なことに纏わりつかず、恭しく道を譲るようであった。風が麦色の雑草を鳴らして、寂しい音色を奏でる。

(おかしい、霧の中だというのに明るい……。一寸先の様子がわからぬというのに)

 しばらく歩いていると、霧の靄の先に明るい光の玉が浮かび上がる様が見えた。

(アレは……? ……目指してみるか)

 エルは光の玉に向かって歩いた。歩いた。ずっと歩き続けた。しかし、一向に光の玉が霧の中から現れる気配はない。

(近づけば玉が大きく見えるようになるはずだが……うおっと)

 不意に霧が晴れた。違う、抜けたのだ。燦然と降り注ぐ日光の下、男の眼前に広がるのは壁に囲まれた荘厳な寺院の姿だった。

(これは……、なんという……)

「これが、うわさに聞く、出れずの寺院、グノーモンの寺院か……!」

 彼の住んでいる国のどのような建築にも見当たらない、しかし年季の入っている、ねずみ色の建築はただ厳かにエルを圧していた。

「これは……ジェネフ建築か…? だが、どこか違う……?」

 ハ、と気が付いて後ろを振り返る。太陽まで届くかというほどに霧の壁がそそり立っている。よく見てみると霧の壁はぐるりと寺院を囲っているように見える。ここは、ファルネスの大霧の中なのだ。

 男は、ただしばらく其処に座していた。だが、本来の目的を思い出すと、立ち上がった。

「……お世話になるぜ、グノーモンの寺院。」

 門に向かって歩く。

「……俺の命が果てる時までな……」


       ◇◇◇


 門の内側に入ると、草ぼうぼうになって放置された花壇、井戸、石道などが目についた。

(かつては華やかにあしらわれられていたんだろうが、今は見る影もないな。)

 荘厳な寺院が彼の前にそそり立つ。だが、よく見れば見るほどその荘厳さは空虚なものに思えてくる。獣一つの動く気配もせず、自然の新鮮な姿さえも見えない。此処の空間を支配しているのは生の精彩を放たないもののみ。

 寺院本体の、伝説に出てくるような巨人一人が入れてしまう扉の前に立った。

(これ、絶対儀式用だろ。どこかにあるはずだ……おっと)

 隣に小さな扉があるのを見つけ、取っ手を後ろに引いた。中に入ると、長椅子が規則正しく並べられた礼拝室が目につく。子供がはしゃいで端から端まで徒競走をしてしまいそうなほどに広い。天井はとても歪曲されており、天使やら老人やら、青い鎧を着た青年、太陽を手にする女性やら、果てには龍に似ているが形容のとてもつきそうにない化け物までが描かれてある。壁には、黄金の様々な装飾がなされてある。装飾を見るに、どうやら天井に描かれた絵と同一のモチーフを有しているようである。それで、最奥には、中にひし形の穴がくりぬかれているひし形の黄金が立っている。およそ、偶像の類であろうか。

「なんという……、まさかここまでとは思わなかったな……」

 ひとしきり嘆息を漏らしたのち、側にある長椅子に腰かけて息を漏らす。そうして、あたりをぐるりと見回す。

 音一つしない。それがエルの感想だ。伝説の事実に安堵して、心が安らぐのを感じる。

「疲れた……」

 抑制の効かない涙が、彼の頬を伝る。懐をまさぐって、傷で擦れた革の身分証明書を取り出す。

「はぁー……。こんなもの持っていてもなぁ」

 礼拝室のどこかに適当に放る。そうして、長椅子に座ったままでいる。

 今のエルに、目的はない。彼は今まで、平民の身でありながらにして自身の崇高な目的の為に奮闘していた。だが、高位な役職の採用試験に落ちてその前途が潰えてしまったのだ。

「何もやる事がないとこうなるものかよ……」

 次第に瞼が重くなっていく。空腹感は覚えるが、特段どうしようという気が湧いてこない。喉も多少乾いているが、立ち上がろうとする気はない。エルは、もう自分の身がどうなっても良いと思っている。彼自身は、そう思っているつもりだ。すべてが黒になっていく。



       ◇◇◇



 目覚めたエルの目についたのは、歪曲した天井だ。彼の実感として、酷く腹が凹んでいて喉がパリパリと乾燥して痛い。いつの間にか、立って礼拝室の奥のドアのノブに手をかけているのに気づく。

「まあ、いいや。腹満たせるもん、探すか」

 生を諦めたはずの男が、寺院内を食料を求めに彷徨い歩く。光のカーテンが差し込む中庭に面する、部屋のドアの多い回廊を歩くと階段の上から果物の匂いを感じ取る。上ると、さっきまでとは打って変って光があまり差し込まない廊下に出る。今にも、均等に並べられている像が動き出して襲い掛かりそうだ。

 廊下をぐるっと回ると、ドアが開放されている一室を見つける。果実だけでなく、肉やパンの匂いまでもする。

(まさか人がいるのか?)

 廊下と違って光量が丁度良い部屋だ。調理用の台や道具が所狭しと並べられ、保管室であろう隣接する部屋からの食料の匂いが強い。よく観察してみると、道具に人の手が触れた形跡がない。まるで最初に配置されたその時のままのようだ。

 発光魔法を用いて隣の保管室を覗く。エルは少し気分が悪くなった。

「これは、そうか。保管用の魔法ともう一つ、俺の知らない魔法が使われている」

 棚には肉や魚、果実など様々な食料が並べられている。その棚には魔法陣の紋様が施されている。魔法陣から発されるマナが濃い為に彼はマナ酔いを起こしたのだ。ささっとパンと野菜と肉を取って、調理室に逃げる。

「これほど大きい寺院なら、水が勝手に流れ出る魔法もあってよいものだが」

 しかし、調理室をいくら探してもそんな魔法は見つからなかった。諦めて、食料を台において桶を取り、中庭に見かけた井戸に向かう。井戸で水をくみ取り、調理室に移動したところで疲労がどっと押し寄せる。

 桶に口を突っ込んで水を飲み、パンだけでも今のうちに食べようと台の上に手を伸ばす。———手が空を振る。パンが無い。

「あ?」

 よく見ると、野菜には歯型がついている。肉には何ともない。

 この寺院に他に何かいると思うと、背がうら寒くなってくる。伝説は嘘だったのだ、と舌打ちを打つ。仕方なく、マナ酔いを我慢して保管庫からパンを持ってきて、かぶりつく。野菜は別のに変えて、調理室にあるものだけで調理する。

 出来上がった料理は素朴で簡単なものだ。野菜スープに、焼いて切った肉。それらを口におさめる。

「さて、どこか寝るところは……と」

 エルが見たところ、寺院は中央の建物とそれを取り囲むように配置されたそれぞれ別の方向にある三軒の建物で成り立っているらしい。その内、尤も宿泊施設らしい外観の建物に向かおうとする。

「しかし、本当に埃っぽいな」

 喉のパリパリが潤いのある柔らかみに変わり、腹が膨れ、心も落ち着いたエルは今更ながら建物全体が埃っぽいことに気づく。きっと、永らく掃除されていない。

 最初二階から下りる階段に向かおうとしていたが、方向を間違えてしまったらしい。歩いているうちに、まだ見たことのない大きな扉の前に立った。気になって、扉を押し開ける。

「マジかよ……」

 身長の二倍はありそうな本棚。所狭しと並べられた無数の鎖付き本。思わず、一番近くの本に手が伸びる。

「読めねぇな。言語が違うのか……」

 エルの分かる言語で書かれている本は、一時間の苦闘の末に発見された。

「はぁ~っ、良かった。多少古い言語だが、読める……!」

 目を輝かせて手元の本を見る。この本には一生お世話になりそうだ。図書室の隣の鍵を保存する部屋から鍵を持ってきてロックを外し、階段に向かう。



       ◇◇◇



「ここだな」

 エルが向かっていた、一番素朴な外見の宿泊施設らしき建物。だが、井戸と水洗い場が草をかぶりながらも完備されている。中に入ってみると、食堂らしき広がりのある部屋が二部屋あり、浴室らしきものもある。

「これは、魔法がかかっている……? だが、こう壊れていては湯が出んな。俺みたいな身分にゃ湯には滅多に入れないのに、目の前でおあずけかよ……」

 浴室の壊れた給湯口に舌鼓を打ちながらその場を後にする。上の階は全て宿室になっている。一番行動しやすいように、二階の階段すぐそばの部屋に腰を落ち着けることにする。

 埃だらけのシーツを外で払い、何とか環境を整えて初めてベッドに飛び込む。

「天国だ……天国……」

 ハ、としたようにエルが顔を上げる。

「そうか……俺はもう何しなくてもいいんだ」

 責任から解放された気分になる。

 思い起こせば、今まで何かに追われるように頑張ってきた。小さいころに村を貴族の馬車が通って、身分の絶望的な差を痛感した。たまたま訪れた王城で配られるべき富の存在を初めて知った。今まで信じて来た宗教の絶対性が、汚職であえなく崩れ去った。それからは絶望の水底から這い上がってほんとうにただしいこたえを探し求める為に勉強、勉強、勉強……。

 だが、この寺院には身分など存在しない。富など気にしなくてもよい。それに今となっては答を探す意味も無い。

 だが、気にするべきものが唯一つだけある。この寺院には、“誰か”がいる。それを解明するまでは、まだ心の中に引っ掛かった1ピースが抜けない。

 そのまま、微睡みの中にエルは堕ちていく……。




 目が覚める。闇の中にいる。陽が落ちた、というだけだ。エルはバツ悪そうに頭を掻きながらベッドに座す。

 エルの手が不自然に机の上に差し出される。この怪奇現象に、エルが慌てて後ずさる。

(なんでだ……? いや、そうか。これは、俺の強迫概念だ。勉強せねば、上に立たねばの精神そのものなのだ)

「クソっ、もう終わったんだ、終わったんだ……」

 屈んで何かを追い出そうと頭を掻きむしる。何回そうしただろうか。痛っ、と頭から微かばかり血が流れ始めた頃に頭を上げると、柔らかな日光が部屋を包んでいるのが分かった。

「そうか。そうか……」

 悟るように何度も何度も頷く。この明るみがエルに安らぎを与えた。もう何もしなくていいんだよ。陽が彼に語りかけているようであった。

 だが、今まで暮らしてきた日常とこれからの日常の変化に対応するのは難しい。

 抜け殻のように、彼がただ部屋の中に座するのみ。特段何をするわけでもなく、本に手を付けることも忘れてただただ静寂の内に座すのみ。義務も強迫も無い生活で何かをする技術も知識もエルからは抜け落ちている。

 エルは、時々シーツの上に横たえては体を起こし、また横たえる。それだけの生活を繰り返して、苦しみを覚えた時だけ食堂に向かう。その生活を繰り返すのみだ。

 ある時、調理室から戻るのに道を間違えた。気が抜けて、道一本間違えたのだ。それはエルの目の前の上り階段が証明している。気力の無いエルは、その場で崩れ落ちて壁に背を預ける。

(そういえば、子供の頃はどうしてたっけ。世界の不条理に気づく前の。確か、村の外れの修道院がやたらデカくて一度潜入にしたことがあったな……)

(……)

(あの頃は、わくわくしてたな。こーいう建物の、こーいう階段があったら、あの頃の俺は嬉々として昇っただろうな)

 不意に、心の中で沸き立つ感情を悟る。エルが自分の胸に手を当て、不思議そうに首を傾げる。脚がひとりでに前に進み始める。床に手をつけ、筋力を使って何とか立ち上がる。

「……行ってみようか」

 三階の、その先へ。




 かくして、エルは寺院の中を四階を除いて全て探険した。一階は主に大衆向けと見られるような礼拝施設。二階は調理室と図書館と大きなホール。三階は打って変って、専門的な礼拝施設。事務的な部屋もまま見受けられた。寺院の周りにある建物は、居住用を除けば宗教的な意味合いを備えているものが二つ。

 寺院の四階に続く階段は、エルが見た時に昇るのをすぐ断念した。階段はひとつしかなく、人一人通れるかすら怪しかった。おまけに階段の板が傾斜していて足を滑らせる可能性が高い。この階段の他に大きな階段が一つあったのだが、板が酷く損壊していて昇ること自体が不可能に見受けられたのだ。

 部屋に戻ったエルが、ベッドに身を委ねる。“寺院の中めぐり”は彼の少年心を掻き立てた。彼は非常に楽しめたのだ。久しぶりに心の中が晴天で晴れ渡っている。

「あー。良かった……」

 ゴロリと寝返りを打って仰向けになり、満面の笑顔で言う。

 薄明の中、ベッドの上で停止した彼は冷めるスープが如く心の熱が引けていった。少年心もどこへやら、いつしか彼は溜息をつく。

「次は、本か」

 机の上の分厚い本に目を向ける。彼の他の楽しみといえば、本しかないのだ。だが、この日は彼は探険で疲れている。いつしか瞼が重くなる。

 こうして、この一日は終わった。




 次のまた次の日。相変わらず調理室と部屋の往復を繰り返すエルには一つの気づきと一つの懸念がある。

 気づき、それは調理室の保管倉庫にある食料の数が全く減っていないように見えるのだ。恐らくもう一つの魔術がそうさせているんだろう。永遠に減らないとなれば、穏やかに衰え死ぬことができる。

 長らく掃除されていないであろう誰も見当たらない寺院は埃が溜まっている。その為、歩けば床に足跡がついてエルがどこを通ったのかが分かる。

 一つの懸念とは、埃に別の人の足跡がついていることだ。調理室に初めて来た日もそうだったが、確実に誰かがいる。足跡は、多くはエルの足跡に重なっている。つまり、もう一人の人間はエルの存在に気付いて、後をつけているということになる。

 エルは調理室に入り、包丁が仕舞われている台の前に座る。包丁の柄を、チョンチョンと指でつつく。

「さて、いるんだろ? 出てこい」

 調理室のドアに向かって言い放つ。ガタガタ、と回廊で音が鳴る。

「誰だか知らないが、流石にここまで姿を見せないのは異常だ。なに、話し合おうじゃないか」

 エルは、実際はこの寺院の中に一人で居たかったのだ。だが、誰かほかに人がいるのならそれも仕方ないという心づもりだ。

「なぁ、いい加減出て来いって。いるのは分かっているんだから」

 言い終わったとき、彼はうら寒いものを感じて身震いをした。まるで足の無い幽霊のように、ススー、と若い女性が姿を現したのだ。

「なるほど。俺はエルだ。エル・ハウェ。そっちは?」

 問いを投げかけてから、相手を観察する。両手は土と砂でぐっちゃぐっちゃの汚い黄土色で、服から覗く肌には所かしこにアザが見え、髪は金に埃を被せたよう。女性は口を開く素振りどころか表情一つ変えない。まるであえかなる彫刻の様に。エルの視線が頭から腕へと視線を滑らせていくうちに、彼女の手に握られている物を目撃した。

 おおきい、石。

 台から包丁を抜き、エルが立ち上がる。

「その石をまず置いておけ。話し合いはそれからだ」

 だが女性は身じろぎひとつしない。まるで、こちらとの間合いを図っているようだ。この時に至り、エルは話し合いを諦めた。

 どちらかが動けば崩れるように空気が張り詰める。静寂と孤独の空間だった寺院が、生殺と緊張の寺院に変わった。

 エルがもう一丁、包丁を持とうと左手を台に伸ばした時、女性が疾風の如く突進してきた。想定していたエルは左手を翻す。

「目をくらませろっ!」

 エルの手から大量の光が放たれ、女性が目を潰される。その隙にエルが調理台を一周して調理室を出、疾走する。


 防壁の上の方がいい……!


 寺院をぐるりと囲っている防壁は、見張りが上を歩けるように歩行通路が狭いながらも敷かれている。環状の通路は前から来たら後ろに逃げる、後ろから来たら前に逃げるという単純な選択肢のみを可能とする。しかも、地面との出入り口が三つあるからどれか一つだけを塞がれても問題ない。

 防壁にくっついている見張り塔の螺旋階段を疾走して昇り詰める。-そこで男は完全疲労し、膝を床につける。腕の力のみで、なんとか防壁の上に這い出る。柵になんとか顎を乗せて、寺院の様子を見る。

 よし、なんとかこっちの様子はバレていない……。

 居場所を見透かされないうちに柵の内側に身を潜め、体力の癒えるのを待つ。




 ダンダンダン、と階段を駆け上る音がする。エルが昇ってきた螺旋階段からだ。すっかり疲労が取れたエルはすかさず螺旋階段の上に移動して、近くに落ちていた石を手に構える。

「それ以上動くな」

 女性の姿が露わになったところで、警告をする。

「そこから一歩でも上がってみろ、この石を落とす」

 エルと女性の間の位置的距離は遠い。物を落とせば、大きな損傷は免れないだろう。

「一体何の目的で俺を殺そうとする?」

 女性はだんまり。エルの瞳を睨み返すだけだ。

「なんか言ったらどうだ。言わなければ、石を落とすぞ」

「汚らわしい。男は消えろ」

 短く、ピシャリと女性が言い放つ。その言葉にエルが頷き返す。

「そうか。じゃあ俺は邪魔なんだな、お前にとって。俺も確信した、お前が邪魔だ」

 エルが石を投げ、女性も上に向かって石を投げる。ぶつかり合った二つの石は勢いを失い、女性の上に落ちる。避けようとした女性は脚を滑らせ、階段を滑落する。

「あっけなかったか……?」

 念には念を入れ、エルは別の出入り口から地面に降りて女性が滑落したであろう所に急ぐ。

 運が良かったのか、女性の出血は少ない。だが、声を掛けても身じろぎ一つしない。

 チャンスだ、とエルは思った。身に忍ばせてある包丁を取り出して、女性の首元に向ける。

 一思いに刺せば終わりだ……。刺せば、終わり……。

 エルの手が震える。汗が止めどなく流れる。人の命を取る事への罪悪感と自分の生への執着心がせめぎ合う。ついに瞳をつぶって刃を突き出す。

 ずぶり、と突き出された刃は土の中に埋まった。女性のうなじは無事なままだ。エルは地面に腰を投げ出し、せわしなく呼吸する。

 そうだ、縛っておけばいいか。殺せぬなら、殺せるようになるまで待つしかない。

 塔の上に縄が置いてあったことを思い出したエルは駆け上って縄を取り、また下る。そうして、女性を身動きひとつとれないように縛る。塔の螺旋階段の直下に押しとどめてやる。

「これでいいか。もう、限界だ……」

 彼は、もう何も考えられなかった。自分の部屋に戻るのに気力を使い果たして、深い眠りの闇へと堕ちていく。




「生きてたか」

 目覚めたエルは、女性を捕らえた塔に赴いた。女性は捕らえられた場から少しは動いたようだが、依然として文字通り手も足も出ない状態だ。そうして、弱い立場であるにも関わらず果敢にも彼に対して睨み返している。

「殺せ」

「なぜだ?」

 首を傾げてみせる。エルは自分の命を女性から守る。片や女性は早く死にたい。利害は一致しているはずだが、依然としてエルの良心が殺害を堰き止めている。だから、理由を聞くことで殺害行為の先延ばしをしている。

「殺せ」

「こっちが理由を聞いている!」

 意図するより早く繰り出されたエルのつま先が女性の肩を蹴り飛ばす。地面にぶつかった女性の鼻から血が垂れる。

「どうして殺してもらいたいんだ? え?」

「その方が汚されなくて済む」

 昨日も女性は同じことを言っていた。エルは確信した。こいつは男が嫌いなのだ、と。男から離れられるなら自分の死も辞さないのだ。

「あーそう。生憎今の俺にしちゃあお前は魅力的じゃねーよ」

 実際にエルは今は性欲を忘れているのだ。吐き捨てて、呼び名に窮しているのに気付く。

「お前、名は?」

「……」

「言え。減るものではないだろうに」

「ラス・アルミア」

「そうか。ラスと言うのか」

 これ以上の対話を望めないと判断して、エルが身を翻す。殺す決心は、ついにつかなかった。

「エル、だったか?」

 彼の背後でラスが声を上げる。

「何故、ここに来た?」

 立ち止まって、少々言葉を思索する。

「落伍した、からだ」

「……死にたがりの類か?」

 やけにラスの舌が回る。彼女の不審な態度にエルは吐き気すら覚える。

「そうだな。楽に死ねる方法が無いもんで、ここに来た」

「なら、四階に行け」

 四階……。エルが寺院でまだ行ったことの無い階層だ。ラスが四階のことを話すのだ。そこに、命を終わらせる何かがあるだろうということは察しが付く。

「……。そこまでして俺を殺すか自分が死ぬかしたいのか」

「そうだ」

「分かった」

 エルが寺院を仰ぐ。四階。外見からしてそこが最高の階層。遺跡のようなミステリアスに包まれた雰囲気すら覚える其処に、エルの心臓が高鳴る。それ以上声を発さずに、エルがその場を離れていく。




「この階段、険しいんだよな」

 一人ごちたエルの眼前には、狭くて急な階段が天まで届くか位に伸びている。この傾斜のせいで前回は昇るのを断念したが、其処に特別なナニカがあると聞かれれば少年心が昇らないのを許すわけが無かった。

 這うように階段を昇る。身体がずり落ちて転落してしまわないように。やや気合と体力の要るそれは、充分にエルの疲労を溜めていく。時折クモが手の甲を這っては、埃が鼻についてくしゃみをする。まるで濡れたドブネズミのような姿になりながらも、昇る。

 階段を昇り詰めて、長い回廊を歩いた突き当りに大きな扉がある。扉の隙間から、まるで吐息のように高濃度のマナが漏れてくる。

 -神秘的な存在でもいるのか。

 マナに酔わぬように深呼吸してから、重い扉を身体全体で押してこじ開ける。

 やけに白く、明るい空間。陽の光が、灼かない温度で懸命に俺を灼こうとしている。天井は無く壁はところどころ崩落しており、石の地面が広がる。光さやけき空間の中、銀色に光る巨大なモノがある。

 龍、だ。伝説にしか聞かないファンタジーの存在。頭からは双つの角が生え、犬みたいな四肢だが身体全体は鱗で覆われている。尻からは鞭みたいな尾が伸びている。

 つい、エルが一歩分後ずさる。膝がひとりでに床につく。手が白い石の床に下ろされる。これ以上あの御姿を見てはいけないと、瞳がうつむく。

 今、俺は何をしている。これじゃまるで、神にひれ伏す神官じゃないか。

 エルが捧げているその恰好は、祈りそのものだ。理性よりも先に、本能が龍を敬い、畏れたのだ。

「頭を上げよ」

 ……?

 男は今一瞬、自分の耳を疑った。人の語が空気を流れたのだ。顔を上げ、せわしなく辺りを見回す。

「我と、お前しかいない」

 龍の喉が膨らむと共に声が届く。

 ああ、この龍が……。龍が、俺に語りかけている。

「名は何という?」

「エル・ハウェ。……と申します」

 恭しい態度にエルが自分で驚く。自分には似つかわしくないと思いながら、態度を変えようとはまったく思わない。

「そうか。我はグノーモン。寺院を守護する者。……此処が霧に包まれて久しい」

 龍の姿を凝視しているうちに、グノーモンの後ろに何かが光った。少し視線を逸らして、それを見る。

「外の世は果たして栄華を極めているであろうか。それともその逆、飢餓に餓える地獄であろうか。それともどっちでもない。煉獄の世であろうか……」

 間違いない。グノーモンの後ろには宝物が山に積まれている。

 ……途端、エルが白けていく。龍も、結局は欲望の生き物なんだと。自然と敬いのポーズが解かれていく。

「ん? ……どうした? 何か言うことあれば言え」

 姿勢を変えるエルを不審に思ったのか、グノーモンが言を促す。最後に念のために龍に説明してもらおうと、エルが口を開ける。

「後ろの財宝、何のためにあるんだ? 命を繋ぐのに必要なのか。……それとも、貴方が好きで集めたのか」

 グノーモンと向き合って、問いただす。---、龍の後ろで金色の炎が立ち上がる。

「良し、欲は無いようだな。お前が欲望深き者であれば、即座に食い殺していた……」

 すっかり宝物の山が消え、白い石の床しか見当たらなくなる。

「試されていたのか。はぁ……」

 安心したか、エルが再び跪いて頭を垂れる。その顔には微笑すら見える。

「エル・ハウェ。お前は何故ここに来た?」

「は。それが……、落伍してしまいまして」

「落伍とは?」

「自らの目指す前途が塞がれてしまいました」

 ——途端、グノーモンの眼差しにはエルの背に影が這ったように見えた。それは、エルの重き気が見せた幻覚だった。

「そうか。つまりは、ここで静かに暮らして死にたい、と」

「はい。……問題は今現在ありますが」

「問題とは、ラス・アルミアのことか」

「ええ。私は、寺院の中では必ず一人になる、という伝説を聞きつけてやって来ました。ですから他の人の存在は想定していませんでしたし、それに彼女の私自身に向ける殺意が強すぎます……」

「伝説のことだが、ここを支配する強大な魔法がそうさせている。だが、どんなことにも綻びがあるものだ。偶々、お前はラス・アルミアのいる寺院に入り込んだ」

 つまり、龍でさえ想定しない出会いということだ。

「ラス・アルミアのことは我の与ることではない。エル・ハウェが自らで解決するのだ」

「元からそのつもりです。龍の力を借りようなどとは思っていません」

 グノーモンはラスとも何か話したことがあるに違いない。エルは心算をつけて、ラスのことを聞き出そうとする。

「時に、ラスから貴方は何か聞きませんでしたか? ここにやって来た理由など……。今後の対処のヒントにしたいのですが」

 グノーモンが瞳を落として、首を鞭のように横に振る。

「我から言うことは無い。お前が自らで答を導かねばならない」

 瞼を閉じて、俯く。ラスのことが聞き出せないとあっては、これ以上話すことはない。……実を言えば、エルにはもうひとつ訊きたいことがあった。でも、”ただしいおしえ”がこの世界にあるかどうか訊こうとする思いが喉元まで出かかって、しかしこの龍に変に思われたくないとためらって何も言わずに俯いたのだ。

「では、何もござらないようでしたら私は下に戻ろうと思いますが」

 グノーモンが思案するように瞼を閉じる。少しの静寂の後、息をついたグノーモンが瞳でエルを捉える。

「お前は霧の中に走っても、出れることは無い。ここにまた戻ってくる。もし人生に再び希望を見ることがあったなら寺院の地下に赴け。そこに試練がある。もし希望を見出せないなら、命果てる時は霧に切り取られた円の空を仰ぐことになる」

 地下? 彼が首を傾げる。エルは地下への入り口を見つけていない。

「希望宿る時に心の中で念ずれば道は開かれる。案ずることは無い」

「ありがとうございます。では、失礼します」

 龍の威厳に圧されて少々浮きついたコントロールの効かない足をなんとか操りながら、後退してその空間をエルが立ち去る。




 グノーモンと会った次の日。エルが井戸から水を汲み上げて顔を洗う。目下の頭痛の種は、ラスの存在だ。何故か、エルの心が殺すことを躊躇ってしまう。ならどうすればいいか。エルは、彼女を永遠に閉じ込めておくべきと考えている。何のため? ここには法秩序なんてないし社会もない。他に尊重するべき他者が存在しない寺院で、ラスの命を留めておく理由は皆無だ。だが、エルにはもうラスを閉じ込めるしか考えが思いつかなかった。

 エルのこの気持ちは憐れみであろうか。彼女にかける情けであろうか。彼女の歩いてきた人生は最早容易に想像できたし、だからといってラスには何の思い入れも無いはずである。自分の気持ちに解をつけられないまま、エルは調理室から食物を塔に運ぶ。

「ほら」

 無造作に、果物と野菜を地面に放る。ラスはそれらを見るなり、犬が地面に這いつくのと同じような様で食物にがっつく。果物の汁が地面に染み、彼女の口は土の茶色と果物の黄で汚れた。

「へえ、餓死するより生きてた方がいいのか」

 エルの一言で自分の言動の矛盾にラスが気づく。縛られて何も口にしていない苦しみからの行動とはいえ、自らの死かエルの死を優先していたはずの彼女にとって彼の施しによる延命は目的とは真逆の行為だ。

 当然、屈辱感を募らせてラスが顔を下に下げる。醜い生物だな、というのがエルの第一感だ。

 例外を除いて人間とは概して醜い生物であるというのがエルの信じていることである。大抵の人物は自らの欲を原始的で手っ取り早い方法で満たすことしか考えない。畜生の生物とは何の変りもない、汚らわしい生物なのだ。彼は自身を、畜生とは違う例外だと信じ込んでいる。

 ふと、エルはこうも思った。ラスがこの拘束を逃れてしまった時、自分はどうなるんだろうか。エルは頷きながら苦笑して、まあ殺されてもいいかなと思った。だって、死ぬのが元々の目的なんだから。




       ◇◇◇




「なぜ生きようとする」

 エルがラスを飼い殺しにしてから五日目。

 ラスは相変わらずエルが定期的に地面にぶちまける食物を貪欲に貪っている。そうして、土で汚れ切った姿でエルを睨み返す。

「……お前に縛られたまま死ぬのは違う。やっぱりお前は殺す」

 犬のような唸り声を混ぜてラスが答える。

「そっか」

 つまらなさそうな顔で、男は自分の衣服に付着した埃を払い落とす。

「まあいいけどよ、まずはその醜い状態を何とかしなきゃな」

 笑って蔑む。

「精々頑張れよ」

 背を見せながら、エルが去る。見てろよ、とラスが心の中で呟く。



       ◇◇◇



 霧の円に切り取られた暗黒の空に星が瞬く。ラスは身体をもぞもぞと動かして懸命に縄をほどこうとする。刹那できたほんの僅かな緩みを逃さずに手首の縄を一気に解く。自由になった両手で他に巻き付けられた縄を解き、自由を手に入れる。

「よし……」

 自分の身体をそこかしこ動かして自由を確かめる。縄をきつく縛られた跡を手で擦って、少しでもと苦痛を紛らわす。不意に喉の渇きを覚えた彼女は井戸に疾走して水で喉を潤わせる。

「……たしか、あの男はあそこで寝ているはず」

 エルに気づかれる前のストーキングで、彼のいつもの行動パターンは割れている。それにエルが来る前にラスは霧の中を徹底的に調べ尽くしたから灯りを点さなくても充分行動ができる。

 調理室で包丁を手に入れ、静かにエルの寝床に立つ。

 彼の顔は酷いものだ。髭がぼうぼうに生えて、フケが大量に下りている。隈は大きく、歳不相応に皺が多い。

 この男を殺せば、襲われる恐れは無くなる。やっと、私だけの安寧を手に入れられる。

 包丁を構えて、手を高く振りかぶる。刹那、包丁を握る右腕に電流が走ったような感覚に襲われる。

 動かない。

 いつまで経っても、右腕が振り下ろされない。それどころか、ラスは右腕が石になったかと疑うほどに動かない。かと思えば、右手首から先が震え始める。左手を添えようとするが、その左手すらも小刻みの震えが激しい。

「なんで、こんなにも動けないの……」

 もし失敗したらどうしよう……。刃が逸れてしまったら殴られて、押し倒される。やだやだやだ、殺すしかない。のにどうして失敗したことを思い出すの……!

 彼女の過去からやってきた声が、呪縛のように彼女の身と心を縛る。右手から筋力が失われていって、手からずり落ちた包丁の刃が床に埋まる。

「はっ、はっ、はっ」

 不意に自由になった右手でなんとなく首を拭う。汗が、水をすくったように手の平の中に溜まる。

 つい、足を滑らせて尻餅をつく。ドズン、と大きな音がして部屋全体が揺れる。

「-お前っ!」

 エルががばっと起き上がって、ラスを怒鳴りつける。彼の姿に、過去にラスを殴りつけた男の影が被る。

「うわっ、あああああああ」

 精神が弱弱しくなったラスに抵抗を取る択は無く、エルに背を向けて一心不乱に逃走するのみだった。

 寺院の扉つき部屋に駆け込んで、内部から閂をかける。そこで、ラスがへたれこむ。

「うっ、うううぅぅぅ……」

 ラスが自分の身に爪を立てて抱きしめる。そのラスを、光の無い空間が囲い込む。

 -どうして。どうして憎き男性であるエルを刺し殺せなかったの。嫌だ、嫌だ。まだ過去に囚われてる。もう嫌、嫌、嫌……!

 闇の中から、過去の陰影が飛び出てくる。男たちに拘束されて地下に連れてかれて、醜く肥え太った男の硬い拳に殴られた血の味。木の床を背にしてただただ無力に馬乗りされるあの屈辱。もう嫌、嫌。

「いやあああああああぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーっ!」

 過去と今の入り混じった慟哭が放たれる。




       ◇◇◇




「はぁ、なんだよ。結局まだ死ねねえのかよ」

 床に刺さっている包丁が、月に照らされている。自身の首に手を当てながら、エルが舌打ちする。

「傷ひとつ無え。あいつ、俺を殺せないのか? だとしたら支離滅裂だな……」

 快眠を妨げられたエルは、胸内に暴れまわる鬱憤を懸命に押さえつけている。ともすれば、辺りの物に当たり散らかして部屋を破壊してしまいかねない。

「部屋の鍵、つけとくか……」

 そういえば、と彼が本に目を向ける。いままではなんやかんやで結局今日にいたるこの日まで本の存在を忘れていた。

 ついでに本を取り、心を鎮めるために月の光で読書を始める。

(ああ、やっぱり本を読むのは良いな。知らなかったことが知れる。本を読むごとに一つの真理が解明されるか、一つの虚構が崩れ落ちるか、それとも真理に挑む鍵を知るか、そのどれかが達成される。そうして次の未知に繋がる扉を開けていく感覚が気持ちいい。……気持ちいい?)

「まて。……今、俺は何を思った?」

 胸の中で、心から漏れ出た声を反芻する。……気持ちいい、気持ちいい、気持ちいい。

 自分の感情に当初、エルは信じられなかった。今まで感じたことの無い感情……のように感じて彼はすぐ撤回した。記憶の奥底に眠っていた原初の体験を今、彼は掘り起こしたのだ。

「そうか。あの頃はふたつ……。知らないことを知るという気持ちよさと世の中の不条理に対抗する気持ちのふたつがあったな」

 片や学者になろうか、片や官吏になろうか。小さいころはその二つに心が揺らめいていた。だが貧民の身にあっては学者になれない。なら官吏を目指すしかない、そう誓った日を思い出す。

 彼が頬に手をつける。指の潤いで、自分が知れず涙を流したことを知る。

(確かあの図書室に沢山の本があったな。……あの図書室で本を読みふけりながら死のう)

 月に向かって誓うように、男が微笑む。




       ◇◇◇




 引きずるような重い足取りで、ラスが回廊を進む。食料が減らない、あの調理室へ。空腹には逆らえず、自分の生への欲求には逆らえず。それでも、男への恐怖からか鼓動の音が孤独な回廊の空間に響く。昨晩とは打って変って一気に歳を取ったような顔つきになっている。


 ガタ……


「!」

 はっ、としたようにラスが顔を上げる。調理室のドアに、エルが手をかけている。向こうは目を大きくしてラスの方を向いている。

「ひ……」

 身に刻まれた男性への恐怖の記憶が鎖となってラスの身体を雁字搦めに拘束する。床にくっついてしまったかのように足が動かない。汗が腕から指へと伝い、埃だらけの床に点を作る。

 汗の行方を見届けたエルは、足を後ろに引いて、ラスとは反対側へ向く。

「あ……?」

 エルは顎をしゃくって調理室を示すと、そのまま足を進める。男とは暴虐と性欲の象徴。絶対に信用信頼できないはずの存在が、今こうしてラスに食料を譲っている。

「あ、えあ……」

 エルが食料をラスに譲った理由を知りたいと、彼女は思った。だが、身体のこわばりが声をまともに出すことを許さない。

「ど、どうして……?」

 それでも、懸命に喉と口を意識して声を絞りだす。

「……。俺は苦しんで死にたくない。だからお前との諍いは最小限にしたい。まったく、なんで昨晩は俺を楽に死なせられなんだか……」

 最後に悪態をついて、彼は足を速くする。終ぞ、環状の回廊のカーブの向こうに姿を消した。彼の発言から察するに、エルはラスとまた争うのを避けたいから自らラスの益を優先したのだろう。それでも、ラスにとっては今回の彼の態度は新鮮だった。……いや、今回だけではない。エルの命が危ないというのに、彼は自身の命を脅かすラスを殺そうとしたことさえあったのに。

「なん、で。エルは……」

 幾多ものの仮説がラスの頭を巡る。一つ。ラスを生かして慰み者にすること。一つ。下僕として働かせること。他の仮説も全て、最悪な想定だった。

 だが、それにしては立ち振る舞いが潔すぎる。まるで、彼女をどうこうしようなどと考えていないかのようだ。

(なんで、そういう態度を取れるの? なんで私の利になるような行動が取れるの? 男なのに、男なのに……)

 そこまで考えて、ラスはエルに心の主導権を握られてしまっていると感じた。勿論エルにそのような意図はないが、だからこそラスは自分自身の心をより一層恨んで、でも腹の虫に抗いきれずに調理室に入っていく。



       ◇◇◇




「む。……ラス・アルミアか」

 竜が鞭のような首をよじらせて入り口の戸を向く。黄金に埃が被って輝きを失ったかのような髪をなびかせながらラスが入ってくる。その足取りはか弱く、産まれたばかりのアヒルが母親を見失って彷徨うようだ。

「……あいつは、ここに来てないのよね?」

 異界を彷徨うような瞳がグノーモンに返される。少しばかり瞼を閉じた後、否定するように首を振る。

「来た」

 その竜の反応が、ラスをたじろかせる。

「まさか……ねぇ、私にやったのと同じ試練はやったの?」

「うむ」

 そんな、と短い悲鳴が漏れ出る。髑髏ばった醜悪な見た目、地獄から這い出てきたような目つきの男が、まさか無欲の人間だなんて、とも彼女は思った。

 思い込みすぎる節があるな、とグノーモンは心の中で印づける。彼女の過去が螺旋の鎖となって彼女の根源まで縛ってしまっている。鎖が解かれぬ限り、彼女は死ぬまで、いや死んでも永遠に地獄の針のむしろに座し続けるように苦しむだろう。上にあげた瞳を下に下ろせばそこに針の無い空いた地面があるというのに、首に巻き付いた鎖がそれを許さない。

(せめて自分で解ける時が来れば彼女は楽になるのにな)

 今にも涙の滴が出てきそうな哀しい眼差しがラスに向けられる。それを知ってか知らずか、ラスは地面に頭をくっつけて抱える。

「いやだ……胸がムカムカする。吐き出してしまいたい。胸をこじ開けて中の物を取り出してしまいたい」

 竜は何も応えない。安易な救済は却って破滅をもたらす。愚者は拙速にそれを求めるが、賢者は導きの標だけを道の上に置いて去る。竜も、彼女が初めて此処に来た時にこう言っていた。

「まずは自分自身を顧みてみるがいい」

 だが、彼女にはその意味を未だ理解できていないようだ。

(このままでは今まで寺院に入ってきた数多の骸の数にまた一つ足されるだろうな)

「お願い……ねぇ、常人には扱えない力が使えるんでしょ? あの男に会ってから私またおかしくなっちゃった。どうにかして……」

 目を見開きながら涙を流すその様はまるで破滅の間際にいるような感じを連想させる。嗚咽が混ざった声は心優しき者に涙を流させるには容易く、そうでない者の心にも充分悲しくさせることができるのであった。竜は首を横に振る。代わりに、口を開いて標を指し示す。

「男との関係において自分自身を顧みよ」

「……」

 全てを解決する力か答を期待していたラスは、がっくりと肩を落としてうなだれる。自分の力ではもう限界だ、と自分で感じているからである。丁度霧の真上を入道雲が通りかかり、其処の地面に雨の滴がポツリポツリと降り始めた頃だった。

「もう無理だよ」

 体育座りになって、頭を抱え込んだラスが弱弱しく呟く。

「無理。もう死にたい」

「では、死ぬか」

 雨の降りる音が徐々に激しさを増す。陽の光が失われて行き、湿気が場を占め始める。

 竜は動かない。女も、動かない。

「結局、神が全てを救う存在なんてのは嘘だ。でなきゃ、とっくに地上は楽園のはずだよね……」

 最早、彼女に何の決心をつける勇気も無い。そうして、神や竜のことを愚痴りながらも、心のどこかで超常の存在らに自身の代わりに何かを決めてくれないかなという、僅かで淡く縋るような気持ちを持っている。

 龍は口を開こうとしたが、しばらく瞳を宙に漂わせた後に唾を飲み込んで口を閉じる。やがて、再び開いて心配するように言った。

「風邪を引く。戻ったらどうだ」

 その言葉にも応えず、ラスは雨の滴を全身いっぱいに受けて石のように動かない。




       ◇◇◇



「知らない言語の本を読んでみたが、分からんな……。グノーモンに訊いてみるか」

 言うや否やエルは本を抱えて図書室を出る。グノーモンの居る所に通じる階段に近づいた時、エルは自分の眼を疑った。

 名彫刻家の作った像のように美しく、そして幽々しいオーラを纏う中性の見た目の人が立っていた。

 かの人に気圧されたか、エルは一瞬呼吸を忘れ、慌てて我を取り戻す。そうして、かの人がラスを抱えているのに気付いた。それに、かの人から放たれる膨大なマナが場を支配している。

「まさか、あなたは……」

 エルは、一人くらいしか心当たりが無かった。いや、一頭と言うべきだろうか。

「ご明察だな。私はグノーモン。寺院は私には狭いからね、中に入る時はヒトの形をとっている」

 グノーモンの銀の髪の先端から光が落ちて、エルは二人がずぶ濡れになっているのに気付いた。しかもラスは気を失っているようだ。

「その人をどうするつもりなのか?」

 エルやラスに関わろうとしないはずの竜が彼女をこうして抱えていることに、エルは一種の不安を心に抱いた。だが、まもなく不安は打ち破られることになる。

「目の前で死なれるのでは私の気が済まない。……この者は、気を失うまでずっと私の前に座していた」

「確かに、具合が悪そうだな。……手は出していないんだな?」

「安心してくれ。命を奪うようなことは、もう私は君たちにはしないと決めてある」

「そうか……」

「この者はここに置いておく。この者は結局、自分の心の弱きに向き合うことができなかった。……それまでだ」

 彼女の頭を手で支えて、グノーモンがラスをゆっくりと石の冷たい床に下ろす。下ろされたラスの服から雨の水が流れ出て、彼女の身体を中心に水溜まりができる。

「それで、エルよ。何用かな?」

「あ……。その、雨だったんだな」

 実は、図書室で本の世界に入っていたエルの耳には大雨の音すら届いていなかったのだ。

「グノーモン様は、その、風邪引かないか?」

「竜は雨程度で風邪を引かぬ」

「……でも、やっぱり用はまた晴れた時にするよ」

 結局、エルは人間の物差しでグノーモンの身を心配する。エルは優しいのだな、と感じてグノーモンは微笑する。

(根は善人だ。今までの尖った性格は、彼の環境や思い込みによって作られたものだ。この男は、もしかしたらあの者のようにここを出れるかもしれん。……だが)

「私はあそこに戻るよ。エルも、具合に気をつけよ」

「あ、ありがとうございます」

(今までも、エルのような者は数人かいた。だがその中で自分の心に向き合えたのは唯一人だけか。……期待はし過ぎない、ようにせんとな)

 振り返って戻っていくグノーモンの顔を影が差したようにエルは見えた。

(グノーモン……?)

 彼の視線はすぐに足元に向けられた。ラスだ。彼女が目を覚ます気配はない。

(だが、呼吸はある)

 エルが屈んで、彼女の息や脈を確かめる。その後に、ある考えが浮かぶ。

(グノーモンはここに置いておくって言ってたが、俺がまたここに来るときに死体があったら嫌だな)

 せめてどこかに運べれば良い、と思い、エルはとにかくラスを抱えようとする。だが、鍛えていない貧弱な筋肉は彼女を支えきれない。

「くそ、鍛えておけば……いや、そんな時間は無かったな」

 ロイスの体躯を思い出し、同時に妬む。……エルはその後に、あれは奴隷の身体だ、と付け足すのを忘れなかった。

 丁度、階段の横に部屋がある。仕方なく、エルはラスをそこへ引きずって運んだ。

「こいつには似つかわしくない部屋だが……まあいいか」

 この部屋は高位の者の為の部屋らしく、気が落ち着けるような広がりを持っている。部屋の窓の下には中庭があるため、もしラスがこのまま死んだら死体を突き落として下で土葬なり火葬なり出来るな、とエルは踏んだのであった。




       ◇◇◇




 寒い。寒い……。冷たい。冷たい。

 それが、気が付いたラスの第一感だ。未だ雨の降りしきる夜の中、纏まりのない頭をなんとか働かせて、身を起こす。妙に身体が重いと思い、身に纏わりつく邪魔な濡れた服を全部脱ぎ捨てる。身を震わせながら、部屋を出る。はっきりしない頭で寺院の中を、まるで幽鬼のように彷徨う。冷たい闇の中に、光が現れた。輪郭がぼんやりと見えているが、火のようだ。餓えた動物が獲物を見つけたような目をして、火に近づく。

(火、火。火火火……)

 火がラスの視界いっぱいになったところで、突如肩が何かに捕まれる。続いて、耳元に轟音が入ってくる。ラスは驚いて、思わず耳を塞ぐ。そうして、足をばたつかせて何かに抵抗しようとする。-が、力が入らず、膝から崩れ落ちる。

「……ろ! あ……! ひが……く、おま…は……」

 轟音が徐々に人の声色に変わる。ラスの瞳も、まだはっきりと物を見ることは出来ないが、其処に人がいるのだと捉えることができるようになった。

(……人……?)

 そこで初めて、其処にエルが居るのだと気付く。しかし、その驚きは脳を覚醒させるには足りなかった。元より、完全に風邪を引いてしまっているのだ。力を振り絞って逃げようと考えても身体に力が入らず、思考も逃げてしまう。纏まらない頭で、なんとか火の近くに座る。

「……こえていないのか? ったく、まあいい。くれぐれも、……でくれよ」

 その声と共に、暖かい、毛布のような感触のものが身体を包んだとラスは感じる。彼女の視界がその形を徐々に鮮明にしてくる。エルが、暖炉の火をくべて手元の本に読みふけっている。時々、火が揺らめいて彼の懸命な眼差しを輝かせる。

「お腹すいた……」

「後にしろ。どっちみち今は暗くて料理しづらい」

 そう言う彼も眠いのか、徐々に瞼が下りてくる。時折、本に顔を埋めては気が付いて上半身を跳ねさせる。

「……限界か。寝る……」

 エルは、椅子を引いて毛布を何重にも重ねてその中に包まり、地面に横たえる。温かい光を受けて、優しい寝顔が浮かび上がる。

 ラスは、自分の瞼が重くなっているのに気付かないまま眠りについた。




       ◇◇◇




 再び気が付いたラスを襲ったのは、強烈な飢餓。腹の中に巨大な空洞があると感じている。喉は水分を失って乾ききり、息をするごとに激痛が走る。口内は却って涎が大量に分泌され、瞳は食い物を求めてせわしなく明るい部屋の中を見回す。生の極限状態、余計な理性が排除されてただラスを本能のみが支配する。腕と脚に力が入らないのか、起き上がろうとしても横に倒れてしまい、失敗する。

「どこ、か……たべ、ものっ……!」

 這いずって、なんとか部屋を出ることに成功する。

「醜いな」

 声が、彼女の頭上からした。紛れもなく、エルだ。

「……危害を与えないと約束するか?」




       ◇◇◇




 何故、ラスを生かすのか。そのことについてエルは悩んで悩んで考えて考えて、答えは出なかった。出なかったけれど、取り合えず自分はラスを生かしたいのだという意識があることを受け入れた。

(なんでだろうな……)

 だが、ただで彼女を生かすわけにもいかない。生かすなら、約束が必要だ。そこまで考えて、初めてエルが口を開く。

「……危害を与えないと約束するか?」

 足下の餓えた女は、こくり、と首を下に振った。

「よし、待っていろ」

 調理室に向かいながら、エルは思案する。

(……俺の心の中に、自分の認めがたいものがある。それに触れようとすると胃酸が喉までこみ上げてきやがる……!)

 しかも、それは彼女と接するたびにエルの心に近づいていく感触がするのだった。今、エルは懸命に胃液を抑えて呼吸を整えながら調理室に向かう。

(野菜スープ……って、どう作るんだっけ)

 記憶の断片から、母と過ごした日々をなんとか拾い集めてレシピのピースを一つづつ嵌めていく。

(えーと、こう……か?)

 一つでも嵌め間違えたらやり直し。まるで壊れやすい硝子に触れるような手つきで調理を進めていく。

(なにやってんだろな)

 寺院に来てから、彼がそう首を傾げるのは何度目だろう。もう十回を超えているかもしれない。自分の行動に疑問を持ちつつも、何か形容しがたいものに突き動かされて動きを止められない。

「やった……か?」

 エルの目の前には、良い香り立ち上るスープが出来上がっている。石のトレーを引き出してスープを載せ、ついでにナイフと果物を載せる。一連の作業が終わってから、ラスの元へと急ぐ。ラスは、最早瞳を半分にしている。

「おいっ、ゆっくり流し込むぞ。少しずつ、飲め」

 頭を抱え起こして、椀の縁を彼女の唇に宛がう。乾いた彼女の唇に、徐々に艶が戻る。

「っぶ、げほ、ごほっ」

 飲み込む方法をも忘れてしまったか、ラスがせき込んでスープを吐く。

「っくそ、おい、本当に僅かずつだからな。飲み込まなくていい!」

 それから長い時間、エルはラスの命をなんとか繋ごうと奮闘した。

 ようやくラスの肌色が良くなって健康そうないびきをかきはじめた頃、窓によりかかったエルは紅蓮の空に目を奪われてしまう。太陽は霧に阻まれているせいか、霧に囲まれた寺院は暗い。天の光と地の闇の境界線が、エルの視線の先の霧の壁にできている。

(あっ)

 まるで社会の縮図みたいだな、とエルは思った。地上には希望なき象徴の闇が貧民や隷属の民、天には希望ある象徴の光が王侯や貴族を表している。そうだ、俺はこんな世界を変えたくて———

(……どうして変えたかったんだろう)

 今まで生を駆け抜けていく中でいつしか忘れ去ってしまった理由。遠い遠い過去の記憶を探ろうとして、心の奥辺に手を伸ばす。

 刹那、全身が泡立つ。鼓動が加速する。

(其処に触れたくないのか、俺は……)

 俺の本能が拒否している。思い出すことを。鎖が俺の脚を捕らえて「これ以上、踏み込まないでくれ」と言っているようだった。

 踏み込んだらどうなるのか。

 そこに、自分自身が壊れてしまうような何かがあると感じ取って、エルは手を引く。

(危ない……)

 命が脅かされるわけでもない。だが、心は確実に死んでしまうだろう。——エルはそれきり、光と闇の境界線から目を逸らした。




       ◇◇◇




 ラスの瞼が、ゆっくりと押しあがる。天国のように光が眼に溢れる。光の中に人影がうっすらぼんやりと浮かび上がる。

「え……る……?」

 半ば反射的に飛び出たその名前に、人影がこちらを振り向く。

「契約は忘れていないだろうな」

 まとまりのつかない思考は契約という言葉を聞き逃して、脳の覚醒に一生懸命だ。ラスの視界が徐々に輪郭を帯びていく。光条に線が浮かび上がり、彼の姿形が明確になっていく。地面に横たわって床と平行になった視線の先にカップが下ろされる。

「飲めよ。死にたくないんだろ」

 その言葉通りにラスが上半身を起こしてカップに口をつける。

(……あれ、契約? あ、そうか)

 そこで、飢餓状態にあって意識が混濁していたときの記憶が鉄砲水の如く押し寄せてきた。大量の情報処理に頭脳が追い付かずに、ラスは頭を抱えた。

「える」

 頭の痛みに耐えつつも、儚い女性は彼の貌を見る。———それから、自分の胸に手を当てる。

(あれ、なんだかちがう……)

 違和感に、彼女が首を傾げる。彼女自身に。いつもなら男性を見ては喚起される嫌悪と憎悪の意が、今は沸き上がって来ないということ。彼の貌を、抵抗なく、手が水をすり抜けるように、見れる。

「お前のその目は初めてだな」

 彼女の側に座っている彼が、しかめ面で彼女の瞳を覗く。

「お前が覚えてるかどうか曖昧だからここでもう一回言っておく。お前と俺はお互いに危害を与えない。これはお前が意識が混濁してる時に結んだ。もう変更はない」

 保障の無い契約だが、無いよりはマシだろうというエルの心算である。約束事は、法律関係だけでなく人の心をも拘束する。精神が弱ければ弱いほど拘束されやすい。心が程よく弱っているラスなら契約が効くと踏んで結んだ。確かに契約は後々効いてくることになる。だが、エルが意図した理由からではない。

「……そうね。ちょっと風に当たってくる」

 微笑を湛えて、ラスが部屋を出ていく。出ていきざまにエルが果物を投げ渡した。

(今はこの気持ちに整理をつけたい)

 回廊を渡って礼拝堂に出る。舞い立つほこりに鼻をつまみながら扉を開けて、胸いっぱいに新鮮な風を受ける。———彼女の思考がクリアになっていく。

(ああ、そうか)

 天央に太陽が来ている。雨に濡れた雑草の大地が輝く。———世界が光に溢れている。

(男すべてが悪いわけじゃなく、すべての男を恨む必要はなかった)

 エルの行動が示していた。ラスを性消費物としてではなく、一人の人間として扱っていた。ラスには、そういう男は初めてだった。

(良かった、世界は全てが全て汚れきっているわけじゃない)

 世界の頂点から太陽が光を注ぎ込む。ラスが、光を満面に受け止めて、輝いていた。


 ドクン。


 刹那、彼女の頭の中に流れ込む記憶。それは、ラスがエルに危害を加え殺そうとしていた記憶。彼女の心臓が急に縮まり、彼女の膝が大地の泥につく。

「はっ、はっ、はっ」

 彼女自らの愚かな思い込みで罪なき彼の命が損なわれるかもしれなかった。

「……しまった」

 彼女の凄惨な過去の積み重ねがラスをめくらにして、知らず知らずのうちに大罪を背負う羽目になるかもしれなかった。意識の目から剥がれたヴェールは、皮肉にも彼女の愚かしさを露わにした。彼女の愚かしさは徐々に彼女の心臓を押しつぶし、精神に苦痛と拘束をもたらした。


 眩き光の下に居ることが耐えられなくなって、ラスは寺院の影に逃げる。



       ◇◇◇




(俺はこれから、どうなるんだろうか)

 気が付けば、寺院に来た当初は持っていた自殺願望は海に溶け込む墨が如く薄められていた。かといって、寺院の外に出ようなんて考えただけでも胸を掻きむしりたくなるくらいに苦しくなる。

(一生をここで過ごすしかないな)

 最初に考えていた他の自殺方法を全て棄てて、本を読みつくすまでは死ぬまいと決意を改める。

(しかし、不思議なものだな。俺という死にたがりが死にたくなくなるなんてな)

 天央の太陽の光が、まるで部屋中を満たそうととばかりに部屋に差し込んでくる。目下の悩みはといえば、相変わらずラスのことになる。エルは、その問題について一縷の望みを見出している。

「さて、契約が本当に効いたかどうかだな」

 改心までしてもらおうとは考えない。だが、考えようによっては日常の諍いごとがひとつ消えてむしろ楽しみごとがひとつ増えるかもしれないのだ。

「どうなるか、楽しみだな」

 頬杖をつきながら独り言をつぶやくエルは、これからの生活に思いを馳せて、口角を上げている。




       ◇◇◇


 回廊の壁に遠い間隔で現れる小さな窓から黄昏時の霧の壁を眺めつつ、エルは調理室へと歩く。彼の鼻を野菜スープと思われる匂いが支配しているのが、エルにとってはやや不思議である。

(もっとも、誰がやっているかは分かるけどな)

 自分の分が果たしてあるか、と淡い期待を抱くエルであった。その期待はすぐに当たることとなる。

「お、ラスが作ったのか」

 水蒸気が支配する空間に足を踏み入れたエルが、テーブルの上に置かれた料理を見下ろす。調理室の奥に、金に埃を被せたような髪の女の後ろ姿が見える。

「エル。……貴方の分もあるぞ」

 少し意外そうに目を丸めながら、エルが調理の跡に目をやる。台の一ヶ所に纏められた玉ねぎの皮、まな板に浮いている肉の脂。

「ふ、どういう風の吹き回しだ……?」

 悪戯っぽく笑みをラスに向ける。ラスのことを少々警戒しているせいか、エルは椅子の背に手をついたまま座らない。

「今までの自分、少し考えたら確かにおかしかったなって……」

 尚も背を見せたまま、ラスが言う。なんか声調が変だ。エルは試しにスープの膜に指を伸ばしてなめる。

(なんだか塩辛いな? この寺院に毒になるものは無かったが……)

 まあ、生まれ育ちの違いだろう。エルは味の違いの理由をそう結論づけて、視線をラスに戻す。

「どうした、食べないのか? 作ったのに?」

 ラスが首を回して顔だけをエルに向ける。その瞳を見た時、エルは先ほどの結論が間違っていたことに気づいて眼を大きくした。

 ラスが泣いていた。静かに目から滴を流していた。姿勢は冷静を保ち、口は一文字に結ばれている。そうして、頬に涙の流れたあとが残っている。

「……食べよ。エル」

 最後の一品をトレーに載せて、ラスが運ぶ。ラスが着席したところで、エルも着席する。座りざまにエルは、ラスの手元を確認して武器の無いことを確かめた。

「それで、今までの自分がおかしかった、というのは?」

「うん……。どうして今までの私はあなたをむやみに襲っていたんだろ」

 伏目がちのラスに対し、直視するエル。

「一体、何があったんだ? ラス・アルミア」

 次に紡ぎ出されたラスの声は弱弱しいものだ。

「昔語りになるけど、いいかな……」

「ああ。スープが冷めても構わない、話して」

 こうして、ぽつりぽつりと語り始めるのだった。




       ◇◇◇



 私は、王国の交易都市の外れで生きてきた。3人の仲間と一緒に生き延びてきた。……言うまでも無いけど3人も女よ。親の顔は知らない。確か15年前くらいに物心がついたら其処に居たって感じ。




 ……外れ、というのは娼婦街だった。交易都市に集まるのは様々な人々。商売で儲けようとする富める者、そのおこぼれに与ろうとする貧しい者。一番高い位の娼婦は富める人と対等にやり取りができる。だけど、位の低い娼婦は男にただ嬲られるだけ。そして全ての娼婦に言えるのは、男の意向ありきの商売だってこと。だから、私は男が羨ましかったし憎かった。




 自分の身体を売ったことがある。まだ腹に居る子を堕ろしたこともある。……私を買った男はみんな、酷かった。低位の娼婦だったから、いっぱい殴られたし好き勝手にされた。正直言って、男に良い思いをさして貰えたのはエルが初めてだよ。時には飯屋の棄てた残飯を漁ったり、時には盗みを働いて日銭を得たこともある。それでも、3人の仲間が心の支えになっていたから生きてこれた。




 けれども、3人の仲間たちと決定的な別れの時がきた。思い出したくない。……けど、話さなきゃね。

 ……ある日、わたしは3人とは別に行動していた。そしたら、いつも集まるはずの場所に3人は現れなかった。娼館に行って尋ねてみると、とある富豪の目の前を通ったので奴隷にされたという。




 気が付いたら、その富豪の屋敷の門を叩いていた。私も捕まって、富豪の前に突き出されて……。

 色々酷くやられてさ、終いには檻の中に入れられたよ。……。




 嫌だ……あの光景は今でも思い出したくない……。




 ああ、ごめん。でも、これだけは言わないとね。




 3人、その檻の中で息絶えてた。




 1人は舌を噛み切って自殺、あとの2人は激しく暴行された跡があった。




 激しく慟哭した。絶対、あの富豪の男がやったんだ。いや、あの富豪だけじゃない。あの男に付いていた下っ端の男どももきっと色々やっていた。いや、それ以前に男という生物が身勝手すぎる。




 この世界を、この世界に産まれついた運命を、この身が割れんばかりに呪って、叫んだ。救いなんてなかった。




 ……私は、仲間の1人が息絶える直前まで作っていた逃げ道から逃げた。その後の記憶は、霧の壁が目の前にそそり立っているのに気が付いたところまでトんでいる。




       ◇◇◇



 語り終えたラスの瞳いっぱいに涙が溢れて、今にも決壊しそうになっている。

「察しはついていたが……。それならあの頃のお前の態度も納得いく」

 想像以上の凄惨さに、エルは身を震わせる。いつしか、闇の帳がおりた外から冷たい空気が流れてくる。そうして、エルが湯気の消えた野菜スープに口をつける。

「冷めちまったな。少々手間だが俺が温めなおす」

 エルがシンクに立ってラスの分までスープを一つの 器に入れて、魔法で火を熾して温める。

「なんか、俺が邪魔しちまったな」

 語り終えて沈黙するラスに、尚も語りかけるエル。

「お前だって伝説を聞いて来ただろうな……。俺という男がやって来ちまって嫌だっただろな」

 エルが饒舌なのは、とにかく声を出して自分の気分を落ち着かせようということである。だんだんと、彼女について脳の中で整理する。

(そうか。こいつは俺に似ている)

 その日を懸命に生き抜き、上を目指していたのと富める者との対比の立場にあるという点でも共通している。———早い話が、同じ落伍者であるということだ。

 そこまで整理をつけて、彼がラスを振り返る。

「ほら、温め直したぞ」

 ラスの目の前に置かれたスープから湯気が立ちのぼっている。エルがゆっくりと、器に口をつける。

「お……スープ美味しいな」

 何気ない一言に背を押されるかのようにラスの手がスープにのびる。器を両手で柔らかくつつみ、持ち上げて縁に口をつける。温かい汁が流れ込んで、彼女の、鉄のように冷め切った身体の細胞をすり抜けて温かみがゆっくりと全体に広がってゆく。

「うん、おいしい」

 瞳のダムが温かみにとかされて、涙が決壊する。

「ううっ、う……」

 懸命にこらえながらも涙を流すラスを、エルは静かに見守る。




       ◇◇◇




 2人の和解から二日後。エルはテラスで、倦んでいる。微かな風が耳元に鳴り、僅かばかりの土が渦に舞う。

 日光を反射する瞳は、何かを見出そうと懸命に動かされている。

(どうしたものか……)

 寺院ではやることが少ない。読書も良いものだが、それだけではその日を満たすには足りない。新たな興味関心が、エルには必要なのだ。

 そうこうして倦んでいる時、彼の頭の上で新たな風が生まれた。———グノーモンが、飛翔したのだ。

 龍の翼の下に孕まれた風は剛く、しかしエルに届くころには柔くなっている。龍の飛翔は渦を巻き、天高く昇っていく。

「———あ」

 エルの中で何かが弾けた。

 そうだ。簡単なことだったのだ。この寺院は未だに謎が多い。ならば謎を解明していくのも一興ではないか。

 彼は、彼自身でも気が付いた頃には走り出していた。




「ラス、ちょっといいか……?」

 妙に息を荒くしたエルが来たので、ラスは少々困惑している。彼女は、自分が今まで身に付けていたボロボロの服を直している最中だった。

「どうしたの、エル?」

 遠慮げに漂う瞳を見て、エルはすぐに佇まいを直す。

「あ、急に駆けてきて悪かった。……ここの生活って、やること無いよな」

 本来、エルは女性との会話が苦手である。相手が少し前までいがみ合っていたラスであることも手伝ってか、少々会話の間合いを取り損ねているようである。

「そだね……」

 いけない、彼女を困惑させてしまったか、とエルがたじろう。———早速本題に入ることにしたようだ。

「この寺院のこと、調べてみないか?」

「え? あっ、そうか……。とても興味あるね」

 微かに震えつつも、光の差している眼差しがエルに向けられる。———その瞳に何か思うところがあったか、エルが目をそらす。

「で、どうやるの?」

「そうだな……。グノーモンに訊いてみるのもいいかもしれないが、折角だから自分たちで色々分析していきたい」

 ラスが、ん? と首を傾げたのは、自分たちで分析していくというところだろう。彼女には、まだその具体的方法が思いつかないのだ。

「まあ、具体的にどうするかは後で考えよう。そうだな、夕飯の時にでも」

 ラスの部屋を後にして、エルは図書室に向かう。

「そういえば、ラスの奴は文字読めたっけ……?」

 心の内に贅沢な悩みを抱えながら。静謐に歩を進める。

 ———ドクン。

「!」

 エルが、急に自分の胸を掴む。

(またかよ……)

 光と闇の境界線を見た、あの日から異常な鼓動が時々起こるようになった。物理的に胸の具合が悪いという感じではなく、精神の奥から鋭利な刃が抉ってくるようだ。

(それに)

 奥底から湧いてくるのは刃だけではない。得体のしれない、自分の精神を蝕み責めてくるようなラメントさえ聞こえてくるようでもあるのだ。

「……耐えねばな」

 脂汗をにじませながら、独り図書室に向かう。



       ◇◇◇



「読めない」

 ラスが、そう呟いた。文字の羅列を目の当たりにして混乱しているようである。

「やっぱり、か……」

 そもそも、文字が読める平民の存在など稀である。エルはその例外であって、平民は文字が分からないのが常だ。———例に漏れず、ラスもそうである。

 このことはエルの頭痛の種になっている。エルは今まで学ぶことしかやってこなかった。教える、ということが今の彼にとって困難なことに思えるのだ。

(まずは、話し言葉と書き言葉を照らし合わせるところからか?)

 寺院に残されていた書字板を取り出して、ラスの目の前に置く。

「これ、箱型の蝋燭?」

「違う。文字を書くためのものだ」

 え、とラスが声を上げる。確かに、富めぬ者にとって蝋燭とは灯を点す為の物でしかない。書字板としての用途さえ知らなくてもおかしくはない。

「蝋はキズを入れやすいだろ? だからこうして」

 小さな石を取り出して、蝋の上に本のそれと同じ文章を刻んでいく。

「あ、ほんとだ。こういう風にも使えるんだね」

 その声を聞いた時、エルは心の底から躍りたつようなメロディーが湧き出た気がした。無意識なものであったのでギョっとしたが、

(ああ、これが教える喜びってやつか)

 と、頬に笑みを浮かべる。

「そうだな、ラスはこの文章に何が書いてあると思う?」

 彼女は顔を上にあげて、うーんと唸る。

「えっと……、天才や神様にしか分からない暗号?」

「あっはっはっはっ」

 すぐにラスがそっぽを向いてしまったので、エルが慌てる。

「ああごめんごめん。別に分からなくてもいいんだよ」

「笑ったくせに」

「うっぐぅ……」

 確かに否定できない。それでもと、咳払い一つしてエルが向き直る。

「昔話の一つくらい聞いたことはあるだろう? これにはフェリグレライの伝説記が書いてあるよ」

 ラスの瞳に光が宿った気がした。

「文字、といっても大層なもんじゃあない。文章に書かれている全てのことは普段俺たちが話す言葉と同じさ」

「え、同じ……?」

 と言っても、具体的に想像することは難しいだろう。試しにと、エルはラスが持つ本の一節をなぞる。

「———其れは深きアルトゥネスの湖より出で、夜の中に妖しい輝きを放ちながら全てを誘惑する歌を歌った。その歌は船乗りの心を侵して、自らの居る湖の奥底へといざない沈めていった」

 エルの声はまるで詩を歌うように、空間に浸透していった。剛と柔を併せ持って空間を流れる彼の声に、ラスは束の間に口を開けたままでいた。

「声、凄くいいね」

 エルの手が止まる。文字に伏せた瞳をゆっくり、彼女の眼差しに向ける。……眩しい瞳だ。

「そ、そうか?」

 エルはすぐに視線を文字に伏せる。何故だろうか、彼はラスを直視すると心臓が跳ねてしまう。此処に鍵盤があれば一心に乱れ弾きたくなるくらいに、恥ずかしくなってしまうようになったのだ。

 こほん、と咳払いしてからエルが彼女に向き直る。

「とにかく、書き言葉と話し言葉の本質は同じだって分かったか?」

「うん。……言葉を形にできるって魔法みたいだね」

「魔法ではないけどな。さぁ、続けようか」


 ———この会話中、エルはどこか柔らかくて暖かい不協和音を胸に抱いていた。おそらくラスもそうだったであろう。殺伐としていた時は過ぎ、二人の間のわだかまりもすっかり消え失せている。不協和音が消えぬうちに味わっていたい。二人は同じことを思っているとも知らずに思うのだった。




       ◇◇◇




 陽が堕ちて黒の支配せしめるかと思える寺院にて、ラスが独り蝋燭の火を元に本を解読しようとしている。エル、彼の教えを基に脳内で文字と音をリピートしながら読み解いていく。

「……なんで頭痛くなるんだろ」

 頭を使うことは往々にして頭痛の元になる。いわんや使われずの頭をや。彼女は今、未知なる痛みと戦いながら解読を進める。文字をリピートするたびにエルの顔を思い出す。

「やさしいなぁ……」

 懇切丁寧。彼の教え方を一言で表すとこうなる感じだった。ラスと生殺の時を過ごしていた彼からは想像がつかなかった。

 ふと、何故彼がこの寺院にやって来たのだろうか、と彼女は考える。

(まぁ、私と似たようなもので外の世界で生きることができなくなったんだろう)

 当然の帰結。初めて寺院にやって来た頃の、妙に刺々しかった態度からも推測できる。ラスの瞳には、あの頃のエルは理不尽の巨靄を纏っているように見えていた。世の中の憂いを一身に背負って、ともすれば彼自身が不幸の化物になってしまいかねないよう。

「辛いもの、かな」

 ラスは思い出すだけで手が震えて刃を探し求めてしまいそうな自分の過去をエルに重ねる。ラスとは違うだろうが、彼にも夜の黒で全て塗りつぶしてしまいたいような過去があるのは明らか。

「……ま、いいか。どうせ触れてはいけないし触れることもないだろうし」

 頭をふるふると震わせて、続きを再開するのであった。




       ◇◇◇




 曇天の下、外郭の霧の壁を背にしてエルは寺院を眺める。悠久の時を経て、尚朽ちず。静かに幽かで、揺るぐことの無い力が其処にある。

(魔法か、設計か)

 力の正体は何だろう。外に在る一切に手出すことなく、目の前にただ力が停滞している。唯、不動の力のみが其処にある。

「此処に、何があったんだ」

 永遠の深き霧に囲まれて、無人の寺院。王立図書館にも正式な記録は無く、ただ伝説のみ。ボロボロになった布に包まれて、確かにあるはずの歴史其れ自体もホコリをかぶって朽ちかけている。

(やりがいがあるな)

 ふ、と頬を緩めて笑みを浮かべる。振り返って、霧の壁。今までに何度か試したことがあるが、結局外側に出ることは出来なかった。

(あるいは、出ようとすれば化物が口を開けて待っているのだと思っていたが)

 だが、といっても出る気は元から無い。この寺院の中に身を落ち着けているだけで本当に充分なのだ。

 指先に雨粒が弾ける。首筋を雨が伝る。最初は忍ぶように、徐々に激しく雨が打ち放たれる。エルは、その中ただ立っている。天を仰いで立っている。

(全て、洗い流される)

 心の中に潜む虻虫すらも、心の壁に張り付いた黴すらもざあっと流されていく。すみずみまで雨の水が行き渡って、零れ出ていく。

(自分の存在が、透けてゆく)

 色の淡き内に融けてゆく。そんな幻覚さえもする。現に戻らなければいけない魂を、まだ、とエルは放しておいたままにする。草葉を踏み分けながら、精神は霧と雨の灰色を泳ぐ。

(まだだ……まだ……まだ……)

 雨粒をかき分けて、魂は天の高きを目指す。100m……200m……300m……。まだ、泳いでいたい。まだ浮遊していたい。雨がエルの存在を透けさせて、彼自身の精神が浮揚しながら天の高きへと目指そうとしている。


「エル。戻らないと」

 その一言が、エルの魂を現の地上へと引き戻した。ラスだ。自分の行いに自覚を感じて、エルが驚く顔をする。それから、ばつ悪そうに顔をしたに向ける。

「悪かった。……呑み込まれていた」

 呑み込まれていた? ラスのおうむ返しの疑問に、エルが再び顔を天に上げる。

「雨って、なんか不思議な引力あるよな。こうしていると、心が、すうーーーっと天に引き上げられて昇りそうになる」

 つられて、ラスも天を仰ぐ。

「降りしきる雨の流線が俺を天に誘うんだ。俺はそれに見入って、そして魂までをも解放してしまうところだった」

 エルは顔を下げ、視線をラスに動かす。

「お前の声掛けが無ければあのまま俺は固まっていた。ありがとうな」

 ラスは少しはにかんで、エルに寺院に戻るよう促す。


       ◇◇◇


 ———寺院、夜。闇の巨棺かとも思える図書室。相も変わらずラスが本の解読に苦労している。

「ん、この本は……」

 題名が気になって、頁を開く。———都市の貧民を描いた童話だ。


 とある王国の貧しい町に、人を想う美しい女性がいた。王子は貧民の女性に惚れるが王族や側近の猛反対に遭う。王子は自らの地位を捨てて、女性と共に遠い土地へと旅に出る。


 —————……ハッピーエンドだ。


「良かったぁ、最後は幸せに終われて。私は……」

 ランタンの灯以外がどっぷり漆黒に浸っている空間を見回す。

(私は、この女性のようにはいかないけれど、せめてこの寺院の中で幸せに)

 生きていこう、という言葉を、脳内で紡ぐことができなかった。


 呪いの口が、彼女の耳で囁いたから。


 ランタンと共に火が落ちて、消える。




 今、囁かれた言葉が聞こえなかった。否、聞こえなかったことにした。———……、だ れ 。

 声色はエルのものではない。しかし、遥かな記憶の向こう側に手を伸ばせば思い出せるかもしれない。

 私の身体は凍てついた。後ろに存在するナニカが恐ろしくてたまらない。


 闇が私の心の表面を舐めるように触れる。精神が質量を持って重くなる。懸命に、テーブルにしがみついて腰を椅子に落ち着かせる。


 月の僅かな明かりしかない空間。背後から闇の手が私を絡めとろうとする。気を抜けば、あっという間に後ろに引かれて飲み込まれそう。視界は揺れて、眼球はせわしない活動する。

「だ、だれ……?」

 絞りだす、糸のようにか弱い声。

 一拍置いて、私の心が空白になった。脳裏で、盆がひっくり返って水が零れる映像を見た。


『わ す れ た の』


 瞬間、生涯の罪悪を全て搔き集めたような、毒々しくて鉛のような感情に身が染まっていく。今、いちばんやってはいけないことをしてしまった。ごめんなさい。


『か っ て に し あ わ せ に な る つ も り』


 闇の手ひとつ。私の右肩に置かれて千切らんと掴む。


『【わ た し た ち を お い て』】


 呪譜が二つに重なりて、耳元から凍土の冷気を流し込む。首から背を伝って、生きて良い実感が体温と共に冷やされ失せていく。


『【〈ひ と り だ け』】〉


 闇の中から三人分の瞳が浮かび上がる。私が見られている。恨意の目を受けている。裁定の目を受けている。胸が痛い。痛い。苦しい。なぜか、罪人の繋がれた手のように両手首がくっついて離れない。


『【〈し あ わ せ に な る ?』】〉


 仲間たちが死んでから以降、彼女らの死に触れようとしなかった。亡骸からただ背を背けてばかり。嘗ての思い出さえも捨て去って。———その事実が。罪悪が。後悔が。重責が。逃げて来た足跡を振り返る度に、自分は赦されない気持ちが堆積する。気持ちが重くなって身動きが取れなくなっていく。


〖許さない。永遠に赦されない〗


 過去の全てが眼差しを持って、私を中心に取り囲む。見ないで。目の前に、黒い私がいる。消えて。地から筵が伸びて私の足を貫く。痛い。手首は鎖に囚われている。放して。痛い。きつい。怖い。見られたくない。


〖許さない。赦さない。赦されない〗


 黒い私が徐々に近づく。怖い。いなくなって。重圧が圧し掛かる。お願いだから。悪かったから。私の貌を見まいと、瞳を下に向ける。


〖背けるな。お前———〗


 顎に手が掛かって、顔を上に上げられる。


〖私は赦されてはいけない、永遠に〗


 大罪の貌があった。


 ごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんすこしだけわすれていましたごめんごめんごめんごめんごめんあああああああああああああああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああああああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああああああああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああああああああああああああああああああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああああああああごめんごめんごめんああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああああああああごめんごめんごめんごめんああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああああああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああああああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああああああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああああああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめん





 ーーー暗き檻に、呑み込まれてゆく。




       ◇◇◇


 迷わぬ者は例外。苦しまぬ者は数少なし。神たる知恵の円環に触れること能わず、人々は知らずの内に自らに楔を打つ。

 苦しむのは何故か。誰かが首を絞めようとしているのか。正体不明の病に侵されているのか。——この二人に限っては、否。エルは未だ巨大な楔に気づかず、ラスは気づかずの内に千の棘に自ら飛び込んだ。此処に神の知恵の円環は無い。救いの歌うたうものも居ない。手差し伸べる者無き寺院にて、再び悲愴の時が訪れる———


       ◇◇◇


 風が青空に通り過ぎて行って、何か大切なものが通り抜けてしまったとエルは感じた。追いかけようとするけれど、それは遥か昔から既に一番深きファロースの谷底ほどに離れてしまっているような気がして足を止めた。宙を漂う手を見つめて、握りしめる。

「なにやってんだか」

 調理室の窓枠に目を落とす。ラスがまだ来ない。スープは冷めた。

 寝てるかもしれない。それならば起こすのは無粋。そう思って、彼は廊下に足を進める。

 気分は上向いてきている。廊下の途中の埃被ったピアノに指を叩き踊りたい気分だ。

 何も気にせずに図書室に踏み入れた瞬間、重力が重くなった。

 闇が、其処に、あった。闇が、絶望が、人に……ラスに纏わりついていた。より正確に言えば、室の一番光があたらない隅っこにうずくまって、ぼさぼさの髪を更に乱して、顔を太腿の間に埋めていた。


「ラ、ス……?」


 近寄りがたく、エルは手を宙に漂わせて名前を発することしかできなかった。

「あ、エル……」

 赤く潤った眼差しがエルに向けられて、ようやくラスは顔を上げた。

 エルは、この先に踏み入れ難い彼女の心の領域が在ると直感する。ここから先は薄氷の領域で、少しでも踏み外せば暴風域と化して今までの全てが壊れる。引き返すか。その択はエルによって消された。踏み入れないままでも、彼女が壊れていく音が聞こえた。何故か、エルはその音を聞き逃しておくことをしなかった。

「ど、うした……?」

 身の冷えるような冷気が頬を掠る、そんな幻覚さえ現実に感じながらもエルは声を出す。ただ、理由なくとも彼女の為に。

「う、うん……。なんでもない」

 か弱く、砕け散りそうな声を発して、ラスは立ち上がる。足をふるふると震わせながら。

 彼に合わせるともない彼女の眼差しを、彼は懸命に見つめる。逸らしたら、激しい自分への失望の内に自分を燃やしたくなるからだろう。

「スープ、温め直すよ」

 エルは絞りだしてこれか、と自分に失望を覚える。ああ、願わくば自分が神のごとき口を持てていれば。

「いい……。作ってくれたんだ、ありがとう」

 ラスが、寄る辺なき足を地面になんとか突っ立てながら進んでゆく。その後ろ姿を見送ってから、ああクソ、とエルは彼女の後姿の幻影を追いかける。



       ◇◇◇



 夕方、黄昏の日を右頬に受けてエルは目蓋をつむる。

 ラスの異常事態。気にならない筈がない。

(此処には龍と俺しかいない。他に誰かが来た痕跡もない)

 では、彼女のあの顔は何だったのか。

(……唯一あり得るのは、後悔か)

 悲しむなら過去のことでしか悲しみようがない。

(なら、干渉すべきではない?)

 干渉しないままで解決するような類いの表情ではなかった。

(だが)

 彼女のこもる殻の割り方を間違えれば、彼女までもひび割れてしまう。そんな悲劇など招きたくない。

(ならば)

 変わらず接しよう。彼女のことを徐々に知っていこう。今はそれしかない。

(それにしても)

 何故、今の俺はこうなっているのか。いつのまにか彼女のことに取り入るようになった。なってしまった。

(自分はいったい)

 エルという名前の自分という人間は、一体何なんであろうか? 少し前と統一せぬ態度。変わりゆく自分の性格。変わっている? いや違う、まるで回帰しているような感覚。

(回帰してゆくごとに)

 何かもまた、迫りくる。ともすれば一瞬で斬り裂かれそうになる、切迫した危機感。……まただ。




 今は……まだ目を逸らしていたい。



         ◇◇◇



 冷たい石床。曇天をラスが見上げている。手すりに沿う彼女の袖の布が風にたなびく。寺院のテラスの空気は静かで、重い。

「寒いな」

 彼女の背後にてエルが身を震わせる。

「エルさん」

「最近……具合悪いのか?」

「ううん」

 彼女が一際小さな白い息遣いを出して、ゆっくりと流れていく。

「私、ひどい人間だね」

 エルは黙したまま。彼女の言をただ、待つ。

「私、思っちゃったんだ。生きたいって。でも……」

「生きるわけにはいかない、ってことか?」

 ラスが言い淀み、唇の震えるのを察してエルが先回りする。こういう時、答は大抵これに収斂する。

「うん。みんな死んじゃった。だからね」

 テラスの下をラスが見下ろす。———エルの胸を、切ない緊迫感が奔る。

 ラスはふるふると首を振るわせ、足を後ろにずらす。

「はあ。だめだ」

 儚げに右目をつむって、彼女がベンチに腰を下げる。

 エルは何か言葉をかけようと口を開き、無音のままに口を閉ざす。

「思ったんだけど」

 ラスが、ぽつり、と漏らす。開いている左の眼がエルに注がれる。




「エルって、やさしいんだね」




 ざらりとして、泥々しい嫌な感触がエルの心を撫でた。

 彼女に嫌悪感を、ではない。やさしい、という言葉にイヤなかんじがしたのだ。妙に懐かしくて、でもなんだか遠ざけていたい。なんとなく自分の手元に留め置かなければならないような気がしているが、それ以上に彼の足が彼女の紡いだ「やさしいんだね」という言葉から離れたがっている。まるで、自分が崩してしまった砂の城から目を背けるように。

 気が付けば、彼の眼前には回廊の壁があった。90度回転、回廊に沿う。急な行動に驚く彼女を置き去りにして、目から零れる涙に掌で蓋をして。


 西の空の雲が引いていく。エルの涙の眼を光と影の境界線が二分した。


「そうか……」


 彼は思い出した。かつての自分を。


「そうだった、俺は……」


 格差溢れる世に憤って勉強を始めた頃の、やさしかった自分を思い出したのだ。

 知識をつければ高みに至れると、地位を得れば力を得れると。

 頑なに信じて、走りぬいて。

 迫りくる現実に、怯えて。


「そして、俺は……」


 彼自身の手が震える。目を見開いて、手のひらを見つめて。頬が痙攣して、顔が強張る。


 頑なに信じて、走りぬいて。

 迫りくる現実に、怯えて。

 感情を擦り減らして、精神は焼き鈍された鉄のように冷めていって。

 最後には、虚構の孤高心のみを抱えた煤だらけの人形に成り果てた。

 そうしてできあがったのが、現在のエル・ハウェ。


「俺は、俺はああああああああああああああ!!!!!!!」


 彼は、彼自身の人生を嘆いた。




          ◇◇◇




 飛び降りろうとした時、私の服の首の襟を指でひっかけ引っ張られたような気がした。細くてか弱い、透き通る色のかの指。

 分かっている。仲間たちが本当に私の死を望んでいないことを。でもだからって、私が生きていくことを私が許せるとは思えない。だって、あの一瞬に仲間たちを忘れて幸せな未来を思い描いてしまったから。私の大罪が仲間の貌を伴って精神を侵食する。仲間は裏切れない。でも私の大罪は死を望んでいる。死という名の裁定を。


 白く透き通るようになってしまった指に願いを乞う。「死なせて」と。


 私の足はまだ手すりの内側にある。私の大罪は拭えない。それでも、私の首の裾を引っ張る微かな引力が私の死を望まない。

 だったら、だったら、どうすればーーー……。


「どうすれば、私が死ぬのを許してくれるかな」


 白く透き通る風が吹く。私の涙を攫って。

 徒に罪を重ねても死を許してくれる筈はない。ただ塞込んでも死を許す切欠など来る筈がない。

 なら、どうすればいいのか。

 贖罪の道の果てにしか、答はないと。


 唯一つの道に踏み出そうとする足を、黒い罪の手が引っ張っていた。




      ◇◇◇




 暗い個室の中、エルは毛布の中で泣いている。

「あ、え、ひっく、えぉう……」

 彼は、彼自身を裏切っていたことにいまさら気づいたのだ。

「あっ、うぅ、えぇ」

 在り得た道全てを閉ざし、繋げておけたはずの縁を全て絶ち切って。

「うぅあ、ああぁあぁ」

 あらゆる道の一つに過ぎない道のみを唯一つの道と断じて。

「あああぁぁぁぁぁ」

 勝手に転び、勝手に泥にまみれ、それら全てをほかのせいにして。

「えぇっ、あぅ、ううぅぅぅ」

 傷と泥だらけになって。


 傷と泥の上に虚栄と傲慢を纏って。


 虚栄と傲慢の重きに足を囚われて。


 グノーモン寺院の地に停滞して。


 今まで自分を築き上げたモノの脆きに自壊を始める。



        ◇◇◇



 私のベッドで、私は罪の手に枷かけられた足首を撫でる。

 道は見えた。だけれども、踏み出す為の資格がない。罪人に善人を導けようか。堕天使が天使導くことないのと同様に、罪人は善き人を導けない。


 違う。そうじゃない。


 本当にそうだとすれば、とうの昔から贖罪は許されざる罪として神の名のもとに禁じられているはずだ。

 贖罪は地獄への架け橋。罪人が地獄に自ら飛び込むことを許す唯一の道。自ら足を踏み出して地獄に堕ちることこそわが心への解。贖罪は私にとっての、地獄に繋がる、自分にとっての救済。

 だから、これからわたしがしようとしていることは罪に足枷かけられるようなことじゃない。

 足が軽くなる。黒い指がほどけてゆく。

 足を踏み出そう。これからわたしが歩む道は真っ白で、炎の中に入ってゆく道だから。




 日は落ち月の光さえも支配しなくなった、寺院の宿泊施設の廊下を彼女は歩く。


 カッ、コッ、カッ、コッ。


 古びた靴の裏が冷たく床を打つ。ランタンの火が闇を拓いていく。

 エル・ハウェが見せた謎の行動、私は救わねば。彼は苦しみ始めた。私が、やさしいって言った時に。


 もしかしたら。


 彼にも、絶望があるのかもしれない。或いは彼自身への失望か。

 私は、人の心を知らない。私が知っているのは、人の姿をした獣の心だけ。彼は人間で、私はその心を分からない。それでも、私はやり遂げなければならない。

 手の指先が震えて、冷える。

 彼は、何かを思い出したように目を見開いて、怯えた。獣に追われる小動物のように、彼は何かに襲われた。おそらくそれは、彼の抱える恐怖なのかもしれない。トラウマなのかもしれない。彼の精神に深く癒着して切り離せぬ過去かもしれない。

 いずれにせよ、彼が苦しむのなら私は彼を救わねばならない。

 だって彼は善人だから。

 だって彼は罪人ではないだろうから。

 罪人である私には、贖罪として彼を救う義務がある。



 「エル」

 彼のベッドの中、毛布の中にうずくまった彼がいる。枕は濡れて、敷き布団は皺だらけの歪。目に光は無く、涙がランタンの光を反射するのみ。

 怖い。彼の心に触れるのが怖い。今にも崩れそうな心に触れて、私が間違えて崩してしまうのが怖い。彼が崩れてしまうのが怖い。

 白い道は、か細い。


「エル、何かあったか、聞かせてもらえない?」


 細く脆い道を、踏み出す。




        ◇◇◇



 ……話したくない。ちょっと待ってくれ。


 ……分かった。くそっ、まだ涙が収まらない。

 

 ……ああ、なんで忘れていた。俺の最大の過ちを。

 なんで、この記憶を封印していたんだろう。

 言ってどうにかなるものじゃ…ない。

 でも、向き合わないと。だから、君に……話す。


 俺の生まれは、ラウーゴ村だ。

 俺は農奴の子、本来なら自由な身ではいられない人間。

 だけど、村の教会の先生が教育熱心な方でよ。村の子に文字を、数字を教えようとしていた。俺の村では知識ある者は領主に認められ、農奴を脱することができた。ま、年に一人読み書きできる人が出ればいい方だったがな。

 俺は好奇心旺盛で、たくさん勉強した。勉強が好きだったんだ。


 子供の頃のある日、村を災害が襲って。渦巻く暴風で作物がだめになった。


 俺も領主もふくめて、村の数人かは王城に行った。王様に税の引き下げと援助をもとめるために。


 そこで俺は見た。


 他の地域から運ばれる大量の穀物、数多くの金銀財宝に飾られた謁見室。

 王の地に、不足している物は何一つなかった。

 俺たちは訴えた。当時の王に。

 だが、受け入れられなかった。


 それどころか、唾を吐き捨てた。農奴の土で城が汚れる、と。


 俺は反発した。叫んで、じたばたして。でも謁見は終わり、俺たちは無理やり王都の壁の外に放り出された。その帰り道、先生は俺に言った。


 知識は力、悔しさは原動力になる、と。このかくも格差激しき世界で生き残りたいなら学びなさい、と。


 その時から、俺の学ぶ理由は変わった。この世界を救う為に、俺の力を捧げよう、と。


 だが、それがいけなかった。俺の義憤は義務に変わっていった。義務は使命へと。使命は俺を縛り付け、他の一切の関りを勉学から切り離した。

 俺の目には、村の同い年の友達が徐々に何知らぬ阿保共に見えてきた。俺の勉学を応援してくれた親も、寂れた村に停滞する大人に見えてきた。先生は教会の中で教えることしかしない怠惰者に、領主は体制の中でのらりくらりと生きてきた狸に。俺の目は狂っていた。……今の今まで気づいていなかった。


 そもそも、試験に落ちたのは当然だった。俺が文字を覚えたのは10歳で、その頃には貴族は高度なことを学び始める。先生が受験を止めたのは当然だったんだ……っ。

 俺は友達を罵った。親を罵倒した。先生を怒鳴った。領主に中指を突き立てた。

 友達が異質なものを怖れるような目で離れていったのを思い出した……。

 俺の前で頭を抱えてうずくまる親を忘れない……。

 先生と領主の諦観の目が焼き付く……。

 兵士として村を出てきた、俺に残された唯一の知り合いのロイスさえもここに来る前に振り払った……!


 俺は中途半端だな……。農奴にも、市民にも、貴族にもなりきれないまま、自分をこの世の誰よりも高貴な存在だと思い込んで、成りきって。


 何者にもなれなかった。俺は。全てハリボテだったんだ、俺が自分で塗り固めた自分の虚像は。


 自分の虚像の為に、俺は自分の今までの関り全てを断ち切った。


 いまのじぶんには、もう、なにもない。


 ここにいるのは、愚者だ。

 


      ◇◇◇



 私は困惑している。彼の細く訴えた言葉を脳内で反芻する。

 彼には帰ることのできる場所がある。彼を受け入れてくれる人もいる。彼を最後まで見捨てなかった人もいる。彼は帰れる。誰かがいる場所へ帰れる。

 そもそも、一つののぞみが潰えたくらいだ。誰も彼から何も奪っていない。彼は何も奪われていない。

 このグノーモンの寺院の深い霧を抜けて、馬車に乗って村まで戻って、みんなに頭下げて、帰れる居場所に帰ればいいじゃないか。

 何もなくなったわけでもないのに、彼は全て無くなったかのように嘆いている。


 でも、私は人の心を知らない。私が知るのは人の形をした獣の心だけ。だから、私は彼が悲しんで嘆いている本当の理由をわからない。


 それでも、彼の心を悲しみから救えなければいけない。


 では、彼は何故悲しんでる? 私の仲間だったらどう思うだろう。家族を、友を、恩師を捨てる気持ちはどんなものだろう。捨てたくて捨てたんじゃないのか。私の仲間ならどう考えるだろう。私は捨てたことない。私の仲間ならそんなことはしない。だから、私にはわからない。でも、彼にとっては悲しいんだ。だったら、悲しむ必要のないことを伝えればいい。あなたが思っているそれは、少なくとも私にとっては恥じることではあっても悲しむべきことじゃない。彼が希望を持てるように、固く念入りに言葉を紡いで、彼に繋がる救いの一本の糸にしよう。


「大丈夫だよ。エル、貴方は愚者じゃない」


「その、こん、きょは」


 そうだ、エルは愚者じゃない。ここに来て、彼は私に色々なことを教えてくれた。話を聞いてくれた。私を生かしてくれた。


 色々なことを教えてくれる人が愚者である筈がない。話を聞いてくれる人が愚者である筈がない。私を生かしてくれる人が愚者である筈がない。エルが愚者である理由なんてないんだ。


「仲間たちの亡骸をおいてここに逃げて来たわたしを、目に見える男がすべて敵に見えたわたしを、あなたはそれでもわたしといっしょにいることをえらんでくれた。わたしにいろいろなことをおしえてくれた。わたしのはなしをきいてくれた。わたしをいかしてくれた。わたしの目には、あなたは愚者として写っていない」


 エルはうろたえて、身体全体、そして声帯を震わす。


「で、でも、同い年のやつらの目には、親の目には、先生と領主の目には、おれは愚者として写ってるんだ。自分の分をわきまえない、自分の身の程を知らない、そして平然と自分の大事なものを捨てる莫迦として。そ……それは、俺が、愚者じゃない、というのは」


 目をうろつかせて、手は震えて、声は涙声に。未だ彼は深い悲しみの中にいる。彼は自分が神だと勘違いしたドブネズミであることに自ら気が付いた。気が付いて、彼の過去を振り返った。そこにできていたのは、自分が振りまいてきた罪と言う名の汚れが一本の道となった彼の人生だった。彼はそのことに絶望し、悲しみ、彼自身を愚者という名の監獄に押し込めようとしている。


 それでも、私は彼を救おう。彼を愚者という名の監獄から引っ張り出すのだ。


「私にとって、あなたは仲間以外の人間ではじめて私に優しくしてくれた人間。既に終わった私の人生に、それでも光を差してくれた人間。だから、あなた自身を愚者と呼ぶのはやめて」


「でも……、俺の過去は……」


 涙の量が一層あふれてくる。もう一息かもしれない。彼の罪のある過去から彼自身を解放させれば、彼は救われる。彼の罪は彼自身によって贖罪可能だと、まだ罪人の自責を脱ぎ捨ててもと居た世界に戻れると教えてあげなければいけない。

 私は彼のベッドの上に腰を落とし、彼の頭を膝にのせて抱える。彼の髪の流れに沿って撫でていく。


「……ラスぅ……」


「ね。それに、あなたの罪は、あなた自身によって償えると私は思うの。このグノーモンの寺院の深い霧を抜けて、馬車に乗って村まで戻って、みんなに頭下げて、そしたらあなたはもう罪人じゃなくなると思うの」


 そうだ。彼の罪は、まだ引き返せる罪だ。彼自身がそのことを自覚してくれればいい。


「……あたまをさげて、どうにかなる問題じゃない……」


 彼の声に少し怒気が混じっている。さっきよりも身体の震えが少し大きくなっている。


「あなたはなにも奪われていない。なにも失っていない。ただ少しの間、あなたの家族と友人と大人たちを遠ざけてしまっただけ。だから、今度はあなたが彼らに歩み寄ればいい」


 彼の涙の啜り声が止まる。私の膝をつかむ彼の手の震えが大きくなる。


「……それで、贖えると思っているのか」


 彼の精神が上向いてきている。最後の一声で、彼は完全に立ち直り明るい未来を歩めるようになる。その背中を、私が押すんだ。


「贖えるよ。あなたの思っている絶望は、あなたの思っているよりも軽い」




「……軽い?」


 頭部に強い衝撃。そのまま私は、地面に衝突。


 見上げると、エルが立っていた。泣きながら怒って。



  ◇◇◇


 

 こいつは何を言った? 俺の絶望を、軽いだと? 自らかつての大切なものを捨て去ってしまったということに気付いて自覚して俺は悲しくなった。自分が恨めしくなった。俺は自分の人生に絶望した。自分が正しいと信じて、周りが間違っていると信じて進んで来た人生の旅路が己が罪にまみれていたと気付いた時には、もう取返しはつかなくなっていた。罪の赤黒い色で家路は塗りつぶされて見えなくなり、己が足は虚栄の泥にまみれ固められて動かなくなっていた。思い出の中の誰もいない寺院の中で、俺は己が罪を一人寂しく嘆くしかない。俺の心に希望はない。あるのは絶望と後悔と罪悪感と自分への失望だけ。悲しい負の感情だけで俺は成り立っている。そんな俺を見て、ひとり嘆くしかない寂しい男の元にこいつはやってきて、俺の絶望を軽いと言った。それが今言う言葉か。俺が己が罪を悔いている姿勢をこいつは踏みにじった。俺が自ら地獄に向かうしかないと諦観したのをを無碍にした。だから許せない。赦さない。


「俺のことを何も知らないでそうほざくか、この愚者が!」


 ラスは呆然とした目つきで俺を見る。なんだその目は。人の心を土足で踏み荒らすのが悪い。

 涙をぬぐいながら、俺はこみ上げる怒りを口に吐いた。


「その目は何だ」


「え、その」


「人が苦しみ悲しんでいるときに、軽い絶望と言うのはなんだ、なんだ、なんだ!」


 身体の衝動を抑えきれず、部屋の卓上にあった本を掴んで地面にたたきつける。俺の手をラスの首へと近づける。


「なぜだなぜだなぜ言ったなぜ言ったお前は俺よりも偉いのかああああ!」


 ガシ、と彼女の首を掴んで締めようとする。締め付ける力を徐々に強めていって、彼女がか細い呻き声をあげる。


「俺の悲しみは、俺の絶望は、重い! この世界の何よりもな!」


 と、ラスの足の裏が俺の腹に触れていることに気が付いた。力強く蹴りだされて俺は首から手を離し、冷たい地面に背中をぶつけた。背中の痛みをこらえながら立ち上がると、彼女の姿は無くなっていた。


「俺の気持ちを軽いとのたまうだけでなく、俺を傷めつけやがって……ああ、なんだよおおおおおお!!!!!」


 怒りが爆発し、机を倒し、枕を投げ、シーツをビリビリに破り、壁に拳をぶつけた。怒りが収まらず、破壊が加速する。机の脚を折り、枕を爪で裂き、破ったシーツを部屋中に散らし、破れた壁の穴を抉る。叫びながら壊す。壊す壊す壊す。

 怒りが収まった頃には、空は一等星が位置を変えていた。一時間ほどくらい経ったのだろうか。破れて読めない本、抉れて羽毛が飛び出て眠れないベッド、外から暑さ寒さを呼ぶ壁の大穴。もう役目を果たせない机。全て、俺の怒りが壊した。

 そうだ。この破壊は俺の怒りそのものだ。俺の悲しみそのものだ。ラス・アルミアが余計なことをしたから。俺の心を踏みにじったから。だから、結局はあいつも俺の世界には要らない―――。


『い ら な い ?』


 何かが耳元で囁いた。同時に心臓が痛くなって、思わず跪く。驚いて振り返るが、誰も居ない。


 いや、ちがう。


 おれが、ここにいるじゃないか。


『そ う や っ て い ま ま で も す て て き た』


 ……ちがう。あれは、ラスが俺の心を踏みにじったのが……


『父 は? 母 は? 友は?お隣の人たちは?先生は領主はロイスは』


 ちがう。いや、ちがうのがちがう。おれはまたおなじことを……


 心臓が、こころが、いたい。


『ラ ス ア ル ミ ア も』


 こころがこわれそうでいたい。……おれ、は……


 ラスの首を絞めた時、彼女は泣いていた。


『ま た す て た ね』


 おれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいラスごめんごめんおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいラスアルミアごめんおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれがわるいおれラスごめんラスごめんラスごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ


 ——再び重ねた罪が、瞳の光を消す。




       ◇◇◇


 負の感情の黒色に塗れた精神が、暗く冷たい湖の底に重く沈んだ。男は今や重ねた罪を自覚し、自分の首に枷かけられた鎖が地獄まで続いていることに気が付いた。全てを救うべく天を目指す上り坂を歩いていたつもりが、世の中のこと何一つ見えぬ愚者だと自覚して初めて自分仕掛けの色眼鏡をとったとき、彼は下り坂を歩いていて後ろには罪の足跡が続いていた。そして、彼はもう自分の内に正しさと希望を見出すのを止めた。

 自分を罪人だと決めつけた女は在りもしない贖罪の道を歩き出して踏み外して、そして地獄に転落する錯覚をする。彼女の脳内の瞳に映るのは、死と言う名の処刑台への道。たった一つの、しかし彼女にとって大きな事件が今だに尾を引いて彼女に錯覚と幻覚を見せ続けている。仲間たちの死の事実が、彼女に罪と死の幻を見せ続けて歩かせ続け、人生と命の断崖へと彼女を導いている。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 一人の人間の、リアルな心理描写が描かれていて、心が抉られるようでした。エルの気持ちはとても理解できます。自分も国家試験の勉強をしていました。どれだけ頑張っても頑張っても結果が見えず、つらい…
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