5.自ら招いた危機的状況
5.自ら招いた危機的状況
「今日はねえ……お勉強だよ……。」
ミナミンの家での蜜月生活が始まってから2週間ほど経過したある日、居間のソファでくつろいでいた俺の鼻先に、突然ミナミンが真っ白い板を突き付けた。なんだなんだ?俺……何かしでかしてしまったか?
見るとそれは光沢のある……真っ白の恐らくプラスチックボード……一緒に黒のマジックを持ってきたところを見ると、百均かなんかで買って来たB5サイズ位のホワイトボードではなかろうか……。
そう言えば多分今日は……週一の休日……何処かお出かけでもするのかと思っていたのだが、何が始まるのだ?先週は……弁当とペットフードを持ってちょっと遠くの公園でピクニックだったな……リードがつけられたままだったとはいえ、芝生の上を走り回ることが出来て、結構爽快だった。
今日もピクニックが良かったのに……と思ったらあいにく本日は雨か……。
窓に視線をやるとレースのカーテン越しに、結構本降りの雨の様子がうかがえる……そういや先ほどから雨が窓を叩く音が結構不快だったのだが……犬の耳でも聞きたくない音は意識の中で遮断はできるようだな。
「そうなんだよー……残念ながら本日はあいにくの雨……しかも結構な土砂降りだから公園はお預け……なのだよ。夜にはやみそうだから、やんだら近所を少し回ってあげるからね。」
俺が身を乗り出してソファの背越しに窓の外を窺ったので、察しのいいミナミンは俺が外の様子を知ったことに反応して話を続けて来た。
どおりで……本日はいつまでも部屋着のスウェットパンツのままだと思った……ミナミンは仕事以外はほとんど化粧をしないで出かけるのだが、流石に近所の散歩以外は、それなりの余所行きに着替えるからな。
「グループでただ一人仲良くしてくれる子がいてね……その子にポップのことを話したら……すっごく賢いんだよーって……自慢しちゃったんだよね……。
だってーっ……ポップは賢いでしょ?トイレだって1回で覚えたし……近所の高台の公園ではおしっこもうんちもダメだって教えたら、ちゃんと守ってくれてるでしょ?ほんとはねえ……おむつを兼ねたエチケットパンツを穿かせなきゃって買ってあるんだけど、ちゃんと守ってるから使ってないの。
ポップは賢くて話すことちゃんと理解するんだよって言ってみたら、だったら文字や計算を教えたら覚えるんじゃあない?って言い出したんだよ。そんな賢いペットがいるのなら話題になるし……グループが注目される起点になるかもしれないって……だからダメもとでやってみようって……だからね……お願い。
まずは……名前を覚えようね……ポップ……は、こう書くんだよ……。」
ミナミンが水性マジックでホワイトボードにポップと描いて見せる……おいおいおい……そりゃあ確かに俺は前世の記憶を引き継いでいるから……しかも前世は人間で日本人だったから……カタカナくらいは勿論書けますよ……漢字は学校でもスマホやタブレット使い過ぎで、読めるけど書くのはかなり怪しいけど……。
だけどまさか……犬として生まれ変わっているのに、その知識をひけらかすわけにはいかないだろ?下手に有名にでもなって、前世の記憶をそのまま持っているとか認識でもされたなら、良くて見世物……四六時中生活環境を中継されて、常にメディアのさらし者……悪くすれば何処かの研究所にでも連れていかれて、実験動物にでもされかねない。ミナミンと離れるのは絶対に嫌だ。
かといって……ミナミンに恥をかかせるわけにもいかない……グループでただ一人の友人らしき相手のようだからな……その彼女にも嘘つき呼ばわりされて、完全に孤立でもしたなら大変だ。それにミナミンのグループが注目されてメジャーになることは、推している俺としては大変喜ばしいことではある。
ふうむ……ここはどちらにも取れる程度に調整して描いてみるか……
「はい……これでやってみて……。」
ミナミンは俺の右前足の爪や肉球に水性マジックを塗ったくり、ホワイトボードをその下にあてがった。こんなんで……ペットであるワンちゃんが、ほんとに文字を書くと思っているのだとしたなら……ミナミンは相当な天然だろうな……いや……純粋……なのだ。
「きゃあっ!かかか……書いた……ほんとに描いた……。」
仕方なく右前足を小刻みに動かして、ホワイトボードに幾多の線を描いてみた。縦線の長い十字と、その下に短いハの字を描き、その右側に横棒と横棒の右少し下側を起点として左下側へ斜めに下ろしていく線を描く。
文字としては全く成り立ってはいないが、かなり贔屓目に見てやれば、カタカナのホの字とフの字に無理やり解釈できないことはない……筈だ。破裂音を示す半濁点の丸は、さすがに書かない方がいいだろう。
「すすす……すごいね……ちゃちゃちゃんと……ポ……ポップって……よ……読めるよ。ててて……天才!」
ミナミンは嬉しそうに満面の笑顔で俺の体をぎゅっと抱きしめると、俺の右前足につけた水性マジックを、ウェットティッシュで丁寧に拭きとってくれた。
「すっごいね……ポップの肉球スタンプが撮れるくらいかなって思っていたんだけど……それだって普通のワンちゃんだったら言ってること何にもわからないんだから、無理やり手をボードに押さえつけるくらいしか、やれないからね……だけどポップだったら自分から肉球押すんじゃあないかなって思ってたんだ。
今スマホでポップが書いてるとこ撮っておいたからね……私が手を持って書かせたんじゃあないって証拠になると思うんだ。まずは書いたのを写メして……ハルルンに映像とともに送ってみよう。」
ミナミンは抱擁していた俺を開放すると、今度はスマホを操作し始めた。
し……しまった……ただ単に右前足をホワイトボードに押し当てるだけでよかったのか?そんな程度しか期待していなかったのに予想外……というか、期待を遥に上回る成果……となってしまった。
まずい……まずいぞ……このままではマジで実験動物として、研究所行き……になりかねない。
確か人間に最も近い霊長類であるチンパンジーの何とかちゃんは……40くらいの単語を理解する……とかで……研究所のアクリル板で遮蔽された部屋の中で研究対象として飼育されている映像を、科学番組かなんかで見た記憶がある。
俺が今しでかしたことは、検証すれば文字としては成り立っていないだろうが、それでも俺がやろうとしていた意志は理解が出来る……つまりはミナミンが示した通りに、ポップという俺の名前の文字を教えられて、それを正に書こうとしていた事……と解釈できるのだ。
それが成功して……きれいな文字であろうがなかろうが関係ない……少なくとも俺は先ほどの時点でミナミンの意向を汲み、それに従おうとしていたことが録画されているのだ。
まずい……まずいぞ……折角前世の記憶を残したままにしてくれた、神様にだって申し訳が立たない。
何とかして……誤魔化さねば……うーん……どうしよう……取り敢えず……
「ワンッ!ワンワンッ!」
取り敢えず吠えて注意を引き、尻尾を目いっぱい振ってみる。
「うん?どうしたの?」
見上げると、ミナミンがやさしい瞳でじっと見つめてくれた。
「はっはっはっ」
息も荒くしてから、右前足で先ほどやったみたいに十字をカーペットになぞった後で、ハの字と横棒と斜めの線を描く。その後猛烈ダッシュで、その場を両前足で思い切り引っ掻いてやる……まるでその場に宝物が埋まってでもいるかのように……必死で地面を引っ掻く仕草をカーペット上でやって見せる。
じいちゃんの家では中型犬を飼っていて、小さなころに遊びに行ったときにはその背中に乗せてもらったりして遊んでいた。それなりに大きな犬は賢いし、人にも優しくしてくれるので、よく遊んでもらったものだ。
その犬は良く庭で犬の習性なのか穴掘りをしていたが、決まってやる前にぐるぐるとその場で回ってから、一心不乱に両前足で土を掻いていた記憶がある。あれは……穴掘りする前の儀式的なものではないかと……以前に何かを埋めた場所を探っているのか、あるいはこれから穴を掘るに適当な硬さの土を選んでいたのか……
何にしろ……そんな儀式的な行為のまねっこということにしてみる……
「駄目だよう……そのカーペットはまだ新品なのに……あれ?じゃあ……さっきの仕草は穴掘りする前の準備運動的なものだったのかな?目新しいホワイトボードを見せたから……それを掘って見たくなっちゃった?そういえば……今日は公園に行けないからね……公園だったら砂場を掘るくらいできたのにね。
そっか……私の勘違いだったのかな……あっ……まずいまずい……ハルルンに、メール送っちゃったなー……急いで追伸しなくちゃ……えーと……もしかしたら勘違いかも……。」
ミナミンがもう一度スマホを操作し始めた……何とかなりそうか……な?
そりゃそうだ……犬が完全に飼い主の言葉を理解することなど……散歩の呼びかけやご飯にトイレなどは、繰り返し見たり聞いたりする仕草や単語でわかるにしてもだな……日常の会話迄理解していたならちょっと怖いだろ?誰もがちょっとした勘違い……と考えを改めるはずなのだ。
ふえー……危ない危ない……ミナミンを喜ばせたい気持ちは満々なのだが、度が過ぎると安穏とした生活が送れなくなってしまう可能性大だ。今後は何か言いつけられたとしてもそ知らぬふりを徹底するとしよう。
それから数日間は、ほぼ何事もなく過ぎ……毎日午前中から出かけて夜遅く帰ってくるミナミンを見ていると、大変そうだなあとつくづく感じる。そんな時は大げさなくらいに玄関のドアを開けた途端に大はしゃぎで出迎えして、少しでも喜んでいただこうと努力を重ねている。
勿論その時にはぺろぺろとミナミンの顔じゅう舐めまくり、役得をしみじみと感じている。ミナミンは帰宅時には化粧をほとんど落としてくるので、舐めても安全……というか、お化粧を舐めている感じはしないのがいい。
<ピンポーン>
「はーい……。」
早朝……ミナミンの朝食が終わろうかという時間にチャイムが鳴り、ミナミンが急いで玄関へと向かう。
誰だろう……宅配便にしては時間が早すぎる……かといって、事務所のマネージャーがマンションの部屋にまで迎えに来たことなど一度もないから、そんなんじゃあない……はずだ。
ミナミンも一応アイドルグループの所属なので、事務所に所属してマネージャーもついているようだが、7人グループに対してマネージャー一人だけの様子。まあ……全国どころか近郊のステージツアーなんてこともないようで、ひたすら商店街の地下ステージで公演しているだけだからな……よく言う……会いに行けるアイドルとして売っているだけだから、マネージャーの仕事もそんなに多くはないのだろう。
というより日々の公演のチケット代や握手券にグッズの売り上げ程度では、個人的なマネージャーをつけられるほどの余裕はないのかもしれない。だから……マネージャーのお迎えなど全く期待できない。
第一本日は週一の休日のはずだ。ちょっと遠くの芝生のある公園で、思い切り駆け回るのを楽しみにしているというのに……なにか用事でも言いつけられては困るな……今日は天気予報でも晴れで温かいというのに。
「おっはーっ……ワンきゅんも……おっはーっ」
暫くして元気よく入ってきたのは……ミナミンではなく、知らない女性……だった。誰だ?
「ポップ……びっくりした?私が所属しているグループ、シュープリーマーのリーダーで、仲よくしてくれているハルルンだよ。ほらっ……ご挨拶して。」
黒のストレートロン毛で化粧もけばけばしていなく、大きな目にすっと伸びた鼻すじ……ちょっと肉厚の唇は若そうだが怪しげな色気を感じさせる。典型的な美魔女は……更に巨乳だった。
黒のタンクトップから覗く胸元は正に谷間……今の俺ならそこに頭から吸い込まれていくのでは?と、イメージが鼓動を早める……デニムのショートパンツは自ら切ったのか、下着が隠れる程度しか長さがなくてしかも切り口はそのままで、ほつれかかっているのがまたリアル……。
生足はあくまでも細く……胸元の重量感をどうやって支えているのか、疑問にすら感じるほどだ。
あれだけ通ってステージは見ていたはずなのに……実をいうとミナミンしか見てはいなかった……他のグループメンバーは巨乳であるという認識以外は、しげしげと眺めてみた記憶もないので、ほぼ印象がなかったのだが、こうやって間近に見ると、流石アイドルグループのリーダーだとしみじみ納得する。
はっ……まずいまずい……見惚れている場合ではなかった……
「はっはっはっ……。」
ダッシュでハルルンの足元へと駆けこみ、足元をうれしそうにぐるぐると何度も回って見せる。
「へえ……かわいい……抱っこしていい?」
「勿論だよ……えへへへ……」
俺がかわいいと褒められてうれしいのか、ミナミンも満面の笑みだ。
「ひえーっ……お顔ちっちゃいねえ……ちゅっ……あれ?拒否られた……嫌われてるかな?」
「そんなことないようー……尻尾振ってるし……喜んでるはずだよ……ちょっと貸して見て。」
「ほいっ」
空中でバトンタッチされ、ミナミンの腕の中へ……ここからは猛烈アピールだ……
「きゃははっ……くすぐったいって……ほうら……この子はチューとかお顔舐めるの大好きなんだよ。」
思い切り尻尾振りながらぺろぺろとミナミンの顔じゅうを舐めまくる。しかもその間流し目で、ハルルンの悔しそうな顔を眺めながら……。
ハルルンがどれだけきれいだとしても、ミナミンの透明感を併せ持つ尊い美しさには敵わない。俺のミナミン愛は全く揺るがないだということを、猛烈にアピールさせていただくのだ。
「ふうん……ミナミンのこと、ほんとに大好きなようだね……これは……あたしとじゃあキスしないって、痛烈に振られたみたいだね。」
ハルルンは少しだけ肩を落とし、唇をへの字にゆがめている……失笑しているようだ。悪いが……俺のミナミン愛は揺るがないのだ……。
それよりも……ミナミンはグループ内でもミナミンと呼ばれているだな?まあ……皆の美波でミナミンですって言うのが彼女のキャッチフレーズだからな……自己紹介の時の声が上ずってたり小さかったりで、余りまともに聞こえてはこないんだけど……。
「えーっ……そんなことないよう……ほら……ハルルンのとこへ行って、キスしてあげて。人見知り……するのかなあ……。」
「だいじょぶだいじょぶ……そんな事よりも……ほんとに賢いみたいだね。
ご主人様まっしぐらって……普通は犬とかだと、お客さんみたいに初めての人には興味津々なはずなのに、あたしとミナミンではまるで態度が違うからね。
でも……いい傾向だよ……名前の他には何を教えたんだっけ?」
ハルルンはすぐに笑顔を取り戻し、何度も俺の体を嘗め回すように見つめた。
「えーと……あれから私の名前を教えてみたんだけど……駄目で……それからカタカナだけではなくひらがなも教えてみたけど……やっぱり駄目だった……ホワイトボードを出すといつものように少しだけ右手を動かしてからは、穴掘りばかり……あれは錯覚だったと思うよ……。」
そうなのだ……何とか穴掘りで誤魔化せたかと思ったのだが、しつこく今度はミナミンの名前をカタカナで教えられ、その後はひらがな……いい加減文字を書くのは無理だろ……分かってくれ……とか思いながら、いつものように十字を書いた後にはの字を書いて横棒……もうめんどくさいのでこのままひたすらカーペットをほじくるように両前足で勢いよく掻いてやった……これであきらめたはずなのだが……。
「まあ流石にね……字なんて書けるはずないと思っていたけど、やっぱりね……まあいいわ。
でも……トイプードルって結構賢いらしいし、後ろ脚立ちしてジャンプするような芸もするようだから、ちょっと仕込んでみない?そんな動画を上げてみたら、結構評判になるかもよー……。
自分の名前を書く犬っていう動画は……検証実験中って予告をしてからはことごとく失敗したけど食いつきはすごかったからね。」
ハルルンは近寄ってくるとミナミンの腕の中の俺の頭を、よしよしと軽く撫ぜながらにやりと笑った。
なんと……会話の様子から察するに、俺が文字らしきものを描いた映像はネット上にあげられたようだな……但しその追随がことごとく失敗し、勘違いとして引っ込めざるを得なくなったのだろう。
仕込むって……一体何をさせられるのだ?まさか……火の輪くぐり……とかか?ひえーっ……
「じゃあまずは……その……芝生のある公園とやらに一緒に行ってみよう。動きのある芸だと、狭い部屋の中じゃあ、覚えられないだろうからね。色々芸を覚えたら、公園連れて行ってもらえるって理解すれば、覚えこみも早くなるはずだからね……楽しいって思っていれば、何だって覚えられるはずだよ。」
ハルルンは調教師然とした理論を展開し、俺たちはそそくさと公園へと向かう事となった。