4.蜜月生活
4.蜜月生活
「まずは名前ね……名前を決めましょう……えーと……何がいいかな……。」
神様とのやり取りの最中は時が止まっているかの如く周囲は真っ暗で、何も動くものがいなかった。そうして神様との通信が途切れると同時に周囲が明るくなり視界が開けるとともに、勢いよくシャワーで体中のシャボンを流されているという現実に戻された。
その後ドライヤーを体中に当てられて毛を乾かされ、軽くトリミングしたらどうやら終了……すぐにペット美容院を後にして彼女の住むマンションの1室迄、タクシーにてご帰還……移動用のバスケットから出されて解放された気分を味わう間もなく彼女にぎゅっと抱きしめられ、更に間近にその顔を近づけられた。
部屋着に着替えた彼女は、プリントTシャツにスウェットパンツとラフな格好だが、スレンダーだが抜群のスタイルは、だぶついたシャツとパンツを通してでも十分に伝わってくる。
しかも……先ほどまでは外の排ガスとか他人の化粧やコロンの匂いで気づかなかったが、彼女から流れてくる石鹸の香りが何とも心地よい。
ひえー……めっちゃかわいい……今日は休日なのだろうからほとんど化粧っ気がない……鼻のいいはずの犬の俺でも化粧品の嫌な臭いがほとんどしない……すっぴんと言ってもいいくらいなのに……それなのにまつげ長ー……目でかーっ……顔ちっさ……。
小型犬のしかも子犬の今の俺と……顔の大きさそんなに違わない……というのは大げさにしても……ドアップで見るからこそ、彼女の顔の造作の見事さをしみじみと感じる……うーん芸術作品と言ってもよい。
「そうだな……今はそうでもないけど……美容室へ行く前まではお顔の毛が伸びていて、目がどこについているかもよく分からないくらい……頭全体が真っ白い毛に覆われて丸くて……それでも耳の両側にだけ茶色の毛が少し混じっていて……それがアクセントになってたけど……。
膨らんで弾けたポップコーン見たいだったから……そのままだと長いしコーンじゃあ変だし……ポップにしようっと……いいかな?今日からお前はポップだよ。ポップって呼んだら、ちゃんと返事を返すのだよ!」
「ワフッ……」
取り敢えず返事をしてから顔をぺろぺろと舐めまくる……
「きゃーっ……へ……返事した……賢いねえ……ポップって名前だって、分かるんだね?
気に入った?ポップって名前……?」
「わ……ワフッ」
気に入るも何も……ポップだろうがコーンだろうが……どっちでもいいさ……どうせこの人生は、次なる夢の舞台までの繋ぎでしかないのだから……十年……長いけど……それでも彼女のような美少女の顔を毎日眺めて過ごせるのであれば……悪くはないさ……。
「きゃーっ……大好き!大好きだよ、ポップ!チュッチュッ」
ひえーっ……彼女が……憧れのミナミンが……俺にチューしてくれた……しかも口と口の……(まあ俺は子犬でしかないけど……)本格的なチューだぞ……更に……なんと彼女は俺の後頭部を右手でその胸にぎゅっと押し付けた……そんなに大きくはないのだがそれでも柔らかなふくらみは心地よく……。
俺の下あごから喉にかけて、彼女の温かくやわらかな感触に包まれる……十年……長いようにも感じていたが、彼女の機嫌を取ってかわいがっていただければ……素晴らしいご褒美が返ってくるのだ……初日から昇天……うーん……こんな日々が続くのなら飼い犬生活も悪くはない……な……。
<ピンポーン>
「はーい……」
丁度その時チャイムが鳴り、彼女がパタパタと玄関へと向かって行った。
「さっき頼んでおいた荷物が届いたよ……ちょっと待っていてね……。」
彼女はそう言いながら玄関と何度も往復して、居間へと荷物を運び入れた。
「いい子だねえ……うーんかわいい……それでね……えーと……トイレは……ここだよ。この部屋は事務所が借りているマンションだから、汚したら大事だからね……ちゃんとお散歩には連れて行ってあげるけど……お仕事中とか……私がいない時はここでするのだよ。分かった?。」
彼女が先ほど届いた俺の体の数倍はありそうなプラスチックトレイに厚手の紙を敷いた場所を指さし、何度もトイレはここ……と、しつこく俺に指示を繰り返す。
「わんっ」
理解したのできちんと返事をしておく。分かったなら分かったと、無視せずにきちんと返事をしておくことが、初期の人間関係には重要だ。コミュニケーションをきちんと取らねば、後々関係がギスギスしてくるからな。以心伝心……等ということは、どんなに親しくなったとしてもあり得ないと俺は信じている。
「それでね……普段は自由にしていていいけど、私がお出かけの最中は悪いけどケージに入っていてね。」
さらに俺の体ごと上からステンレス製の檻を被せられ、閉じ込められてしまった。檻の上方は開いてはいるが、俺の体よりも2倍は高いケージ……とても飛び越せる高さではない。
そうか……お出かけの際はトイレの心配もあるからケージの中か……仕方がないのか……。
「クーン……」
「ええっ……言ってること……分かるの?そうだね……ケージに閉じ込められるの嫌だよね……うーん……でもねえ……トイレをきちんと覚えられたらトイレも外に出して、1人の時もケージに入れないでおくからね。早くトイレを覚えるのだよ……。」
彼女がケージの上から俺の体を抱き寄せて、外へと連れ出してくれた。
「ワフッ!」
「よーしよし……いい子いい子……よーし……じゃあねえ……お散歩行ってみようか。
ちょっと待っててね。」
彼女はそう言うと、居間の奥の引き戸を開けて中へと入って行った。
戻ってきた彼女は、フード付きのスウェット上下(スウェットの上着をTシャツの上から着ただけ)になっていて、先ほど設置したケージ脇のロープを取り俺の両前足をロープが二股に分かれた先の穴に通した。
成程……前足の脇部分をホールドするタイプの散歩紐か。これだと首を絞めつけられないからペットは楽だな。さらに4本全部の足に何だ?靴下?いや……散歩用の靴か……そうか……この部屋は汚せないと言っていたからな……を履かせられた。用意周到だな……。
「じゃあ行くよ!」
彼女が引くリードに導かれるように、ちょこちょことたどたどしい歩き方で必死について行く。これまでずっと狭い囲まれた空間で過ごしていたからな……たまの散歩とか、目も開いてなかったし生まれて間もなかったから連れていかれた記憶もない。だから、さほど歩く場面はなかった。
そりゃあまあ……兄弟がいたころはもっと動いていたはずだったが……。
次々兄弟が居なくなり周囲のぬくもりが消えてからは、母親の乳も独り占めだったから素早く動くこともなかったし、じっとしていればそれでよかったからな……というか……その時点では自分が犬だと知る由もなかったからな……トイレだっておむつしているつもりで、適当に済ませていたからな。
彼女は玄関先で大きめのサングラスをかけると、更につばが大きいキャップを深くかぶった。変装用というか……恐らくかなりの美少女なので、歩いていてナンパで声をかけられないための準備だろう。
彼女に抱きかかえられたままエレベーターに乗り、1階のエントランスからマンションの外へ出る。マンション1階出口脇には小窓があって、恐らく管理人室であろう……彼女が一礼して外へ出て行ったところを見ると、ペットOKのマンションなのだろうな……警備員風の服装をしていたから、警備は厳重そうだな。
「一応……ペット用のウンチ袋も買って持って来たけど……ウンチはなるべく部屋でしてね。ペット屋さんが言っていたけど、街路樹の影の草むらの奥でウンチをされると……とるのが大変らしいからね……。
そうだな……次からお散歩は……部屋でウンチをしてからにしようね。そうすれば安心だから……。」
彼女はたどたどしい足取りの俺に合わせるように、なるべく小股でゆっくりと歩いてくれているが、それでもこちとら生まれて日が浅い子犬……彼女の何倍もの速さで足を繰り出さねばならない……しかも前足と後ろ足……常に4本分繰り出すのだから結構大変だ。人の時の記憶が残っていなければ……自然と動くのだろうがな……
「ハッハッハッ……」
恐らくまだ10分も歩いてはいないのだろうが、運動不足が祟っているのか既に息切れしかけている。
「こっちだよ……。」
マンションを出て一つ角を曲がるとちょっとした上り坂で左側が常に高いコンクリートの壁のようであったのだが、そこで彼女が左方向へ向いた……なんとそこには……見上げるほどの高さの階段の羅列が……ガーンッ!反射的に尻込みし、少し後ずさりをした……。
「えーっ……もう疲れちゃったの?でもまあ仕方がないか……ここの一段はポップの体よりも高いもんね。
ちょっと怖いのかな……仕方がない……。」
そう言いながら彼女は背中側から俺の体を持ち上げ、反転させて仰向けに抱きかかえられた。
「暴れると落ちたら怪我するから、じっとしているんだよ。」
ふいにうつぶせになろうと体を反転させようとしたが、しっかと抱きかかえられたまま彼女は階段を上って行く。ひえーっ……きょ……恐怖……高いよー……怖いよー……がちがちに緊張して体が固まる。
「ふうっ……着いたー……ほうら……見てごらん……いい眺めでしょ。街が一望できるんだよ……ちょっとベタだけど……嫌なことがあった時は、結構ここへ来るんだ……。」
彼女は後ろから俺の前足の両脇を両手で抱え、俺に住んでる街並みを見せてくれた。宙ぶらりんの姿勢の俺は景色どころではなかったけど、取り敢えずおとなしくしていた……。
「じゃあ……帰ろっか……歩ける?」
暫し夕暮れ時の景色を楽しんだ後(俺は途中から尿意を催し、まさかこのまま……するわけにはいかず我慢……)ようやく解放されて正に地に足がついた……ふうっ……やばかった……漏らしそうになったほどだ……。
「ああっ……駄目だよ……ここは公園だから、おしっこもうんちもしちゃダメ!めっ!」
急いで立ち木へ近寄り片足を上げようとしたら、すぐさま彼女に抱き上げられてしまった。なんとっ!皆が集う公園だからペットの排泄物はお断り……という事か?ううむ……仰向けで抱きかかえられ、この状態で漏らしたなら俺の体どころか彼女の服まで汚してしまう……がっ……我慢だ……。
高台からの街の景色とは逆方向へ視線を移すと確かに公園のようで、大きな砂場とジャングルジムに滑り台などの遊具が置かれていた。子供が遊ぶ砂場にペットのおしっことかされてはかなわんという事か……下手するとペットの連れ込み自体も禁止になりかねないからな……。
「はーい……着いたよ……ケージへ入れてあげるから、ションションしましょうねー……。」
帰りの道中、彼女は俺を抱きかかえたまま地面には降ろそうとはせず、そのままマンションの自室まで連れられて帰って来た。そしてケージの中へと押し込まれた……トイレの躾の時間だ。分かりました……。
「きゃーっ……みっ見ちゃダメだったよね……ごめんね……我慢してたんだね。次からはちょっと考えるね。」
教えられたトイレに入って片足上げて用を足そうとしたら、悲鳴を上げられてしまった。し……しまった……いくら子犬とはいえ、レディの目の前で用を足すだなんて……でも我慢の限界だったし……。
ごっ……ごめんなさい!次からは彼女の視界に入っていない瞬間を狙って、用を足すようにしよおっと……。
それにしても……このトイレ……よくできているな……ちょっと厚手の紙のようなものだが……子犬のおしっこ1回分位あっという間に吸収して、表面サラサラだ……臭いもそんなに残ってない。
本能的に片足あがってしまったから、シートからはみ出るくらいに右寄りに位置修正したが狙いはばっちりシートど真ん中だった。
「あーっ……やっぱりワンちゃんだから……自分の縄張りの匂いを確認するのかな?でも残念ながら消臭タイプのペットシーツだから、そんなに臭いは残らないはずだよ。
今はまだトイレを覚える最中だからケージの半分がトイレだけど、いずれちゃんとトイレを覚えたらトイレは外に出すし、ケージの中でも快適に過ごせるようになるんじゃあないかな。」
彼女はケージの柵越しに俺の体を抱き上げると、頭をそっと撫ぜていい子いい子してくれた。ふわーっ……気持ちいい……そのまま力を抜いて彼女の腕に体を預け、胸に頭を押し付けて目を閉じた……なんという……なんという……正に至福!ペットの子犬……全然悪くないぞ!むしろ……いちゃもんつけてきた神に感謝だ!
それからはミナミンとの蜜月生活が続いた。
地下劇場の公演は俺の通っていた時の記憶では、平日午後6時からの1公演。土日は午後3時からの公演後に6時からの夕方公演で終了だ。毎週水曜日がオフ日だが、平日は公演日は全て午前10時からレッスンがあるので、ほとんど休みがないと言ってもいい。
平日昼間は毎日レッスン漬けですー……だなんて、熱烈なファンからのお誘いを断る時の、握手会での決め言葉かと思っていたが、何のことはない……毎日彼女が9時半には出て行くことを考えると、本当にレッスン漬けの日々であるようだ。
それでも帰宅時間が平日は毎日午後10時前ということは、ミナミンはメンバーからの誘いも断って、毎日速攻で帰宅しているのであろう……俺が待っているからだ……う……うれしい……。
毎日ミナミンは帰宅すると真っ先に俺のトイレであるペットシートを取り換えてくれて、他の場所で粗相をしていないことを確認するといい子いい子してくれる。それからまずは俺の晩飯……と言ってもペットフードと飲み水をただ単に俺専用のトレイに開けてくれるだけだが、それでも食べなさいと言って俺がうまそうに食するところをじっと見ていてくれる。
本当はミナミンに抱えられてミナミンと同じものを食べたいところだが、ペットは体が小さいし代謝も人間とは異なるから、人間用の味付けでは塩分や糖分が過多になってしまうらしく、ミナミンがかわいそうだけどこっちを食べてねと言って出してくれる。ペット屋に言われたのであろうな……。
まあでも……生まれた家で与えられていた、離乳食やペットフードに比べたら少しは高級なのかな……香りもいいしおいしい……十分いけると感じている。
俺が全て平らげて満足そうにすると、ようやく自分の食事の支度にとりかかるのだ。米は炊飯器で炊き、野菜を刻んだり肉を焼いたり炒めたりと……レトルトではなくちゃんと自分で調理しているようで感心だ。
見ているとご飯は多めに炊いて、余った分は小分けしてラップに包んで冷凍……チンして食べると毎日炊かなくて済むようだ。成程……俺も生前そんな知恵があったなら……と言っても俺なんて、米は炊飯器で炊けてもせいぜいレトルトカレーかけて食べていたくらいだったがな。
本日の夕食は……漂ってくる香りから想像すると、恐らく煮物……昨日はハンバーグだったし、その前はギョーザを皮に包んで楽しそうに作っていたな……基本的に料理の最中俺がまとわりつくと危険と感じるようで、俺はその間ケージに閉じ込められているので、遠くからの様子と香りだけで正確な献立は知らない。
それでも間違いなく洋食に中華に和食と……メニューは豊富なようで、ミナミンはきっといいお嫁さんになるのだろうな……。
調理中に引き続き、ミナミンの食事の最中も俺はケージの中で、じっとミナミンの様子を盗み見ていることしかできない……恐らくミナミンが食べているものを欲しがるから……人間と同じものを与えるわけにはいかないので、仕方なくケージに押し込めているのであろう。
まあ……抱きかかえられて目の前からいい香りがしているのに、お預け!とか、さっき食べたでしょ?とか言われて与えられない辛さに比べたら、ちょっと離れたケージに閉じ込められて食事の詳細を知らないほうがかえってましと言えるか……。
他人がおいしそうに食べているのを見ると、おいしそうだな……とか、食べてみたいなあとかいう衝動に駆られてしまうだろうからな。
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