2.出生
2.出生
うん?なんだ……ここは……生暖かいような感覚に包まれて……あれ?今……ふわりと持ち上げられたような……何処か閉鎖したところから解放された安堵感とともに、体が中空へと舞い上がるかのような不思議な感覚が……周囲では何か動いているようだし耳の奥ではうゎんわんと残響のような音が響いている。
だがしかし……目は見えず耳もよく聞こえないばかりか……状況もはっきりとはつかめない。ふわふわと浮いているような……漂っているような感覚……一体どうなっているのだ?俺はどうなってしまったのだ?
…………………………そうだ……死んでしまった後に天界で……特別に来世を優遇してくれるという神の言葉につられ、長く苦しい……というかただただ同じことの繰り返しの、退屈なだけの修業を何年も何年もやらされたのだった……そうして、ちょっとしたことで神のお小言を喰らい……
うん?どうなったんだ?あれ?くっ……苦しい……い……息が……ぐっ……ぐわっ……
「ぐふっ!……げふっ!げっ……みゃー……ぎゃー……ぎゃー……」
突然肺が大きく開き空気が体に取り込まれるとともに、それまでに使われていなかった器官内に残った水分の影響なのか、猛烈にせき込んだ……くっ苦しい……が、数回咳こんだ後にやがて呼吸は正常に……
そうだ……これは出生だ……母親の胎内から俺は……生まれ出たのではないのか?
神は俺におとなしく修業を続けさせることは困難と判断し……修業の成果に満足していなかった様子だったが、地上へ戻るよう告げられたのだ……まあ……見放されたのだったな……だったらここは恐らく魔法世界……俺は魔法世界の住人の子として生まれ落ちたことになる……。
ううむ……両親のことについて条件つけておくべきだったかな?やはり金持ち……というか、金はもちろんあったほうがいいが、平凡な地主夫婦……では魔法の才能に欠ける恐れがあるからな。超一流の冒険者夫妻の間に生まれ落ちた2世……つまり魔法界のエリート……なんてのが良かったな。
まあ、その辺りの調整は言わずもがな……うまくやってくれているはずだ……なんせ俺の望みは、巨悪から不遇な人々を救い出す、魔法使いのヒーローだからな……そのために地上と同じ時の流れに調整してもらった天界で、計算上はなんと十年間もの長きにわたって辛い修業を続けたのだからな。
神は俺が取得した成果に満足はしていなかった様子だが、俺としては十二分以上の成果が上がったと自己評価している。世界を征服しようとする魔王とだって、対等以上に渡り合えるだけの魔法の実力はあるはずだ。
だがそれもこれも……生まれ落ちた環境に、かなり左右されるからなあ……潜在魔力量は十分に与えてくれていたとしても、貧しい家庭で食うや食わずの毎日で幼いころから働きづめ……なんて環境だったら、魔法の修業の余裕すらないかも知れない。
いくら天界で修業を積んでいたとしても、生まれ落ちた体で実際に修行をして、唱える呪文の正確さや発揮される魔法効果の反動に、体を慣らしておかねば十分な威力は望めないと言われていたからな。
田舎町の地主の一人っ子として生まれ落ちて、おら冒険者になるだ!なんて言い出そうとした途端に猛烈な反対にあい……そんな環境だったら困るな……お前は先祖代々と続いた土地を守るのだよ!なあんて言い含められ、魔法の修行なんてとてもとても……だったらまずい。
かといって親の反対をも押し切って家出同然に冒険者ギルドへ……なんてのも親不孝みたいで嫌だしな。やはりここは、エリート冒険者夫婦の跡継ぎとして生まれ落ちて、親公認で冒険者修行の毎日……父親は稀代の剣士で、厳しいながらも我が子を毎日鍛え上げてくれる。
母親は有数の魔導士で、幼いころから攻撃魔法も防御魔法も英才教育をしてくれる……そうして魔法学校へ通いだすとたちまち頭角を現しエリートに……学園のマドンナ的存在にある日突然打ち明けられパートナーに……なんせ剣の腕も超一流で上級魔導士の実力を持つエリート中のエリートだからな……。
彼女とともにSクラスの冒険者パーティに所属して、西へ東へ……胸湧き踊る冒険の日々……なんて未来が……約束されているのだ……はあ……なんという幸せ……。
それから数日……というか……一日のサイクルすらもまともに認識できていない……なんせ目は見えないし耳もよく聞こえない……それでも本能が招くのか、いい匂いにつられて動いていって夢中で吸い付くと……暖かな飲み物が口の中一杯に広がる……舌の感覚もまだ確かではなく味もはっきりしないが恐らくこれは母乳だ。
寝ては起き……少し動いて母乳にありつき……また寝て……そんな繰り返しを何度も重ねて行き……やがて少しずつはっきりと音が……周囲の雑音が認識できるようになってきた。人の会話らしきものも少しずつだが鮮明に聞き取れるようになってきている……ううむ……両親の声だろうか……。
それにもまして匂いが……周囲を優しく温かな感じのするいい匂いに包まれていて……すぐそばに温かなぬくもり……恐らく俺の母親の匂いなのだろう……ミルクの匂いのような……おいしそうな香りだ。
体の右側も左側も温かなぬくもりに包まれている……あれ?動くぞ……生きている?俺の兄弟かな?三つ子……とかなのか?聞いてないよー……まあいいさ……兄弟多い方がにぎやかで楽しそうだ。
前世の俺は一人っ子だったからな。
ところがそれから……時が経つにつれて左右のぬくもりが少しずつ減って行くではないか……あれ?じゃあ……兄弟と一緒のベッドではなく、ヒーター付きの保育器かなんかに入れられていたのか?もしかして虚弱児とかで、小児ICUみたいな特別な保育器とかに入れられていたりして……。
まあともかく……体は少しだが動くようにはなって来たようだ……四つん這いにはい回る程度でまだ目は見えず、すぐに保育器の壁にぶち当たってしまうみたいでほとんど自由はないがな。
聞こえてくる言葉のような音が耳の奥で不快にわんわん言っているのは、恐らく言語体系が異なるからであろう……なんせ魔法が飛び交っている様な異世界への転生を望んだわけだからな……そこの言語が日本語なわけない。
まあ……いずれ耳が慣れてきて、言葉として意味づけが始まって行くはずだ。そう考えてみると逆に前世の記憶をそのまま引きずってきたのは、成長の妨げの要因の一つとなってしまうかも知れない。なんせ下手に知識があって言葉を日本語や英語に結び付けようとしてしまうがために、微妙な発音やニュアンスを取得できない可能性があるからな。
赤ん坊のまっさらな脳だからこそ、入ってくる情報を加工せずに包み漏らさずすべて引き込み記憶して、徐々に言語や周囲の景色として体系づけて行かねばならんのだが、前世の記憶がそれを邪魔してしまう可能性大だ。
もしかしたら3歳や4歳になっても言葉をしゃべりださず……発達障害の子供だと勘違いされてしまうかも知れんぞ……参ったなあ……生まれてまもなくはまっさらな赤ん坊の脳で、成長期に入ったころになってようやく神様が降臨して前世の記憶をよみがえらす……なあんて設定にしておけばよかった。
「あら、かっわいい……この子は男の子?1人だけなのね……」
ほうら……聞こえてきてしまった……何でもかんでも日本語として聞いてしまう……そりゃあかわいいでしょうよ……生まれたばかりだし……ってホントに日本語?
「はい……もう他の兄弟は全て引き取り手が決まって、この子だけが残っているのですよ。ちょっと他の子に比べて成長が遅いというか……ミルクの飲みも少なめで……体が小さいのですが……それでも今のところ体に欠陥も見つかっていないし、風邪とかも引いていないし案外丈夫な子のはずですよ。
もう目が開いて周りが見え始めるころですから……今ぐらいから飼い始めるのが躾もしやすいし、引き渡し会は本日が最終日なので……お勧めですよ。」
ふわりと体が宙に……胸の辺りを何か柔らかくて温かくものに包まれて……突然宙に浮いたような……あれ?どうなっているんだ?急に明るくなってきて……目が……目が……見えるような感じが……。
ううむ……だけど……うまく焦点が……合わない……ぼやけて……でも……なんだか……顔?……しかも女の子の……顔……何処かで見たことがあるような気が……少しずつ……本当に少しずつ焦点が合い始め、ようやく見えるようになった対象は……あれ?俺の推し……の子?
立花美波……曽根賀谷商店街のご当地アイドルとして誕生し、当初は商店街の売り出しなどにタイアップして商店街はずれの広場で歌謡ショーを行っていた。それなりに人気が出た後は、商店街の地下施設に特設ステージを設け、週末は毎週ステージを行うにまで成長したアイドルグループ シュープリーマーの構成員だ。
グループ内での人気は構成員7人中7位と低迷しているが、俺はご当地アイドルとしてデビューしたときからのコアなファンの1人だと自負している。
なんせかわいいのだ……涼しげな眼もとにすっきりと通った鼻すじ、厚みはないが大きくも小さくもなく丁度良いバランスの唇に加え、ふっくらとした頬にも拘らずシャープな輪郭の頬骨から顎のライン……小柄なのだが体形のバランスはよく、全体的にすっきりとした印象を受ける。
構成員の他の子は美人系が3人とかわいい系が3人で、どの子も胸が大きくてスタイル抜群……どうしてもそちらに人気が偏ってしまうのは致し方ないのか……だが俺としてはあの子の放つ透明感が大好きで……デビュー当初からずっと推しを続けていて、劇場が出来てからは毎週末劇場に通っていた。
はあ……よく似た子がいるものだ……まあ、この世界の何処かには3人はそっくりな人間がいると、何かで聞いたことがあるからな……ましてや異世界にまで視野を広げたなら、それはもう……瓜二つの人物が存在していたとしても不思議ではない。
生まれて日が浅い俺を抱き上げるということは……まさか……母親?いや……さすがにそれはないだろう……見た目は俺が知っているミナミンと瓜二つだから19歳……多少前後するにしても十代後半そこそこで間違いはないはずだ。
それに……俺がいつも乳を飲んでいるあの温かなぬくもりと、同時に味わう安心感……安らぐような香り……が今は感じられないから、母親ではないはずだ。
それでもこんな状況で俺を抱き上げるというくらいの関係だから、かなり親しい間柄……だったら兄弟……姉なのか?年の離れた……ふうむ……なくはないな……あるいは母親の妹……つまりは叔母さん……とかかな?血縁関係にあると……成長してから告白……とはいかないか……折角出会えたのに残念。
だがこれは……ある意味ラッキーだ……なんせあこがれの推しとそっくりな女の子が、この異世界で俺のすぐ近くに存在しているのだ……どうせ……俺は今はまだ赤ん坊だから歳が離れすぎていて、とても相手にして頂けないというか……成長する前に向こうは誰かのものになっていることだろう。
それでも俺は推しにそっくりなこの子と繋がりを保って、彼女を支えて行こうと思う……ここで出会えたのも何かの縁なのだ……俺はこの子を全力で応援するぞ……バイトでも何でもして稼ぎまくって、課金でも何でもしてやるさ……。
ただ外見がそっくりというだけで……決してその容姿が好みだから推している……とは思いたくはないのだが、所詮は推しのアイドル……付き合っている彼女とかとは違い、普段の生活や趣味に加え性格だってほとんど分かってはいない。公式ホームページで紹介される趣味や特技などを知っている程度。
ただ単にステージ上の彼女の仕草などを見て、客の声援に恥じらったりするとシャイだな……とか、メンバーとの受け答えを見て礼儀正しいとか奥手なんだな……とか想像を膨らませているに過ぎない。
商業活動……と言ってしまえば極端だが、あくまでも彼女が繰り広げる劇場のステージ上の姿に加え、握手会の時の対応などを見て、彼女の人となりを俺なりに想像して作り上げているにすぎないのだ。
俺はディープなファンとかではないから彼女の私生活まで追っかけて、立ち入ろうとして困らせたりするようなことはしなかったし、あくまでも推しとファンとの関係の上で彼女を必死に応援していた。
だからまあ……外見だけで好きだったと言われてしまえば否定できないし、今だって瓜二つの外見というだけで彼女のことをろくに知らないのに応援すると心に決めている。だがまあ……いいじゃあないか……俺はこの世界で超一流の魔導士になれるはずだし、恐らく超ハイクラスの冒険者として認識されるはずだ。
その実力を余すことなく使って、彼女を推していくのだ……。
「じゃあはい……この子にします。」
「ありがとうございます……引き取り手が見つからないと、連れて帰らなければいけなかったので助かります。外出用のバスケットとか、家でのケージなどはご用意済みでしょうか?あちらに業者さんが出店していますので……そちらでご相談ください。まずは……手続して予防接種……それから鑑札を受け取って下さい。」
「ああ……はい……さっきちらっと見て……バスケットはもう選んであります。ケージは……リビングはあんまり大きくないんですけど、どれくらいの大きさのがいいですか?」
「小型犬なので成長してもさほど大きくならず、小さめで十分ですよ……普段はお部屋で自由にさせますよね?」
ああ……また空耳的に日本語のように聞こえて来た……まだ耳が慣れていないのだろうな……とか考えていたら……突然、それまで体を覆っていた服……というか布を剥がされまっ裸……いくら赤ん坊でもひどい……虐待ではないのか?
文句を言う……勿論赤ん坊なのでしゃべれないのだが……間もなく四つん這いの状態で頭を押さえつけられ、何処かに運ばれると……痛い痛いっ……首の裏側に針?いやっ……注射だな?なんと乱暴な……予防接種なら腕にするのではないのか?それとも……生まれたばかりの赤ん坊は首筋……なのか?
その後すぐに狭い箱に閉じ込められ……蓋をされてしまった。これは……移動用の抱っこ紐とかおんぶ紐とかの類ではないな……乳母車かとも思ったが……蓋なんてないはずだし……うん?前方が何だか明るい……これは……ガラス?いや……透明なアクリル板か?
まだ空いたばかりの目を凝らして必死にその明かりの先を覗き見ようと凝視し始めると……徐々にピントが合い周りの景色が色づき形作られていく。
閉じ込められた空間前方から差し込む光は……窓を通してのもののようで、その先には先ほど俺がこの世界で初めて見た人物……俺の推しの子にそっくりな女の子が覗き込んでいた。
押し込まれた俺の姿に満足するかのように爽やかな笑顔を見せた後、近くの男性と執拗に会話を続けている。
「では……ケージは本日午後三時のお届けでよかったですね?」
「はい……まずはこれからこの子を美容室に連れて行かなければならないから……その頃がいいです。
では……よろしくお願いいたします。」
彼女がそう言うと、俺の体が重力に逆らうかのようにふわりと浮き……恐らく閉じ込められた箱のようなものが持ちあげられたのであろう……そのまま空中浮遊するかのような、ふわふわとした感覚が続いていく……あれ?俺の両親は?超一級の冒険者であるはずの俺の両親はどうしたのだ?
まさか……産後のひだちが悪くて母は他界……父は葬式の準備に忙しくて、となりの家の娘に俺の引き取りを頼んだ……なんてことになっていないだろうな!
だが……それにしても彼女の服装……俺が住んでいた日本の……しかも現在そのものの服装……花柄ワンピに素足にヒールの高いサンダルって……およそ冒険者の出で立ちではない……お隣さんの家庭は冒険者家族ではないのだろうかな……???
いや……まだ若いから学生で……これから冒険者を目指すのかな?そんなところかもしれん……だったら俺の姉の線もあり……という事だな……。
だが店は……いや……店というよりも……周囲の状況が見えてきて初めて感じたが……何処か広い体育館のような場所……病院の相部屋みたいな感じか?いやもっと……広かったような……。
最後に応対したのは口調から言って何かの店……男の店員だったが、異世界だから髪の毛の色が銀髪メッシュの入った明るめの茶髪は分かるが、服装は白シャツに厚めのズボンに胸まであるサロペット風エプロン……って……料理教室じゃあないんだから。
産婦人科の病院じゃあなかったのか?異世界だから冒険者仲間の回復系の僧侶に産婆の代わりをお願いしていたのか?それにしたって……女性の産婆さんが良かったのではないのか?
ううむ……あれこれ思案していたら、それまでわんわんきゃんきゃんと耳障りな雑音が消え、今度はプワーだのゴォーだのと言う騒音に一瞬で切り替わった。まるで都会の雑踏のような……周りの景色を正面の覗き窓から確認しようとしていたら、すぐ目の前に黄緑色の物体が流れるように移動してきて止まった。
うん?服部タクシー?あれ?自動ドアが開き俺の体は吸い込まれるかのように車内へ……恐らく彼女がタクシーを止めて乗り込んだのであろう……まさかまさか……あり得んあり得ん……。