5話 朝のひと時
学園生活二日目。九条和樹の朝は早い。
朝の四時半。九条和樹の朝はこの時間から始まる。第一魔装学園の学生寮の425号室の二段ベッド。その下段で眠っていた和樹は目覚ましが鳴る前よりも早く、目を開くとスクッと上体を起こし、布団を払う。その直後鳴った目覚まし時計を止めると彼はベッドから降りる。
立ち上がり体をほぐした和樹は、洗面所で顔を洗い完全に目覚めさせた後、黒のジャージに着替える。そして、キッチンで水筒にスポーツドリンクを注いで準備を整えていった。
「うし、今日もやるか」
準備を整え、いざ玄関に向かおうとしたとき二段ベッドの上段で黒い影がもぞもぞと動いた。影の正体は布団にくるまった迅であり、彼は寝ぼけ目のまま和樹へと視線を向けて口を開いた。
「…おー、早いなぁ。九条ぉ」
「悪い。起こしたか」
「いーや、大丈夫。眠りは、早い方だからなぁ。二度寝するわ。ふわぁ~」
「おう、起こして悪かったな」
「ん~~」
迅は軽く手を振ると、布団の中に頭を引っ込める。その少し後に寝息が聞こえてきたので、本当に眠りが早いようだ。和樹はそれを確認すると、なるべく音を立てないようにスニーカーを履くと、ドアをゆっくりと閉めて、外に出た。
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まだまだ肌寒く、清々しい朝焼けの空気の中、広大な敷地を有する第一魔装学園《翠蓮》の中で、疾走する影が一つ。
「……………」
短い呼吸を繰り返しながら、一定のペースで疾走するのはジャージ姿の和樹だ。彼は幼いころから続けて日課になっているトレーニングの一つのランニングをしているのだ。しかし、彼の速度はおおよそ一般的なランニングの速度を軽く超えており、時速40kmはあるだろう。
これは魔装使いが持つ特性によるものだ。
彼らは魔力という特殊なエネルギーを宿しており、それらが身体能力を補助しており常人のそれをはるかに上回る身体能力を発揮しているのだ。
時間にして、およそ二時間。ランニングだけでなく魔法や剣術の鍛錬も行い、早朝からみっちりと鍛錬を行った和樹は、学生寮から少し離れた場所にあるベンチで、水筒に詰めたスポーツドリンクを飲んで喉を潤した。
「ふう、ここだとこのルートでいいかな」
今日は入学し寮生活を始めたので、新しくランニングコースを決めるために今日は学園のあちこちを走り回り、お気に入りのコースを探していたのだ。そして、二時間かけてお気に入りのコースを見つけて今日の早朝トレーニングは終了だ。そして、もう少しクールダウンをしてから部屋に戻ろうと考えた和樹に、声がかけられる。
「…あ、おはようございます。九条さん」
声の方に振り向けば、そこには雪華がいた。制服姿ではなく、青いジャージ姿のことから、彼女もトレーニングの為に外にいることが分かる。
「ああ、おはよう。白宮さん。君もトレーニングか?」
「ええ、日課のランニングを。九条さんもですか?」
「おう。今日はもう終わらせたからな。休憩してるとこだ」
「もう終わったんですか?もしかして随分前からしてましたか?」
「二時間ぐらい前からかな。早起きする方でな」
「そうなんですか」
「それで、その子は?ルームメイトか?」
雪華と軽く言葉を交わした和樹は彼女の隣にいる人物に視線を向ける。
彼女は一人でトレーニングをしていたわけではない。彼女の隣には一人の少女がいた。
腰まである金髪をサイドで結んでおり、色白の肌に、おそらくはヨーロッパ系だろうか、日本人離れした美貌の中央には淡い翡翠の瞳が。雪華よりも背が高く170cmはあるだろう。何より目を引くのが、緑色のジャージを押し上げるほどの豊かなふくらみだ。ひときわ強い存在感を放っており、男ならば一瞬とはいえ目を引かれるほどの大きさ。和樹も一瞬息を呑んだものの、すぐに視線を戻して雪華に尋ねる。
「ええ、こちらが私のルームメイトの…」
「ヴィーゼ・エスメラルダよ。よろしくね。カズキ・クジョウ」
雪華の言葉を引き継いで彼女のルームメイトの少女―ヴィーゼ・エスメラルダは名乗ると、和樹の名前を呼び握手を求めてきた。自己紹介の必要はないと理解し、和樹は彼女の握手に応じる。
「ああ、よろしく。エスメラルダさん」
「ヴィーゼでいいわ。サン付けもなしでね。その代わり、アタシもカズキって呼ばせてもらうわ」
「おう」
見た目通り、彼女は快活な性格のようだ。握手を交わした後、ヴィーゼはまじまじと和樹を見つめる。その視線には面白いものを見るような好奇心が宿っていた。
「ふーん、アナタがねぇ」
「?な、なんだ?」
「いーえ、何でもないわ」
意味深な呟きをした彼女は、そうはぐらかすと雪華に振り向く。
「ユキ、今日はどうする?アタシ達もそれなりに走ったし、これで終わりにしない?」
「……そうですね。今日はこれくらいにしておきましょうか」
「じゃあ、アタシはボトルとタオルをとってくるわね。ユキはここでカズキと時間を潰しておいて」
「えっ、ヴィー?ちょ…」
そう言うとヴィーゼは雪華が止める間もなく、ささっと寮へと走ってしまった。
「……あっ、行ってしまいました」
「まあ、いいんじゃないか?ヴィーゼの言う通り。ここで休憩していればいいじゃねえか」
和樹の言葉に雪華は観念して同意する。
「……ええ、そうさせてもらいましょう。お隣座っても?」
「どうぞ」
「では、失礼します」
雪華は少し間をおいて和樹の隣に座ると小さく息を吐いた。
「……ふぅ」
彼女は息を吐きながらジャージの袖で汗を拭う。肌を伝う汗を拭うという一見なんて事のない動作のはずだが、彼女自椎の美貌も相まって艶めかしく映ってしまい和樹は自然と前を向く。
それから、しばらく無言の時間が過ぎ、海風が木々を揺らしは音を鳴らしながら、二人の間を駆け抜けていった。そして、沈黙を破ったのは和樹の方だ。
「…そういえば、もうヴィーゼとは随分と打ち解けているんだな。やっぱ外国人というのもあんのか?」
「そうですね。ヴィーは北欧の国家の一つ、フォルクティア王国の貴族の方らしくて、とても話しやすかったんです」
「貴族様か。お互い名家の令嬢で、通じる部分でもあったのか」
「ええ、そんなところですね」
名家のご令嬢が抱える悩みはどこの国でも同じなのだろう。そういった面で彼女達は話が合ったのだろう。それに加え、ヴィーゼのあの砕けた性格だ。雪華とは対照的だが、通じる部分があってすっかり打ち解けているらしい。二日目にして愛称で呼びあい共にランニングする程だ。仲がいいのは確かだろう。
「なんにせよ、友達ができてよかったじゃねぇか」
「ええ」
色眼鏡なしかつ特別扱いしない友達ができたことは嬉しいのか、ほほ笑む雪華。それを横目で見て、くすりと笑みを浮かべた和樹は、不意に自分が飲んでいた水筒を差し出した。
「飲むか?喉乾いてるだろ」
「え?でも……」
差し出された水筒に戸惑いの表情を浮かべる雪華に和樹も遅れて気づく。
「…あ、すまん。男の飲みかけはまずかったな」
自分が使っている水筒はコップが付いていないタイプのもの。飲むには直接飲み口に口をつけて、言い方は悪いが間接キスをしなくてはいけない。同性ならともかく、異性の、しかもお嬢様に勧めるものではなかった。
すぐに気づき、差し出した手を引っ込めようとするが、他ならぬ雪華がそれを止めた。
「あ、気にされなくても大丈夫ですよ。こうすれば……」
そう言って、彼女は両手を広げて掌に青白い魔力光を灯すと、光の粒子を氷へと変えて更にある形へと瞬く間に造形させる。一秒と経たずに形作られたのは氷のコップだった。
「…問題ありませんよ」
彼女がコップを見せながらそう言う。確かに、彼女の言う通りコップがあれば間接キスをしなくて済むが、和樹はそんなことよりも今の彼女の動きに微かに瞠目していた。
(造形速度が速い。流石だな……)
和樹は今の一瞬に込められた彼女の技量を確かに感じ取った。見ての通り、白宮雪華の魔装使いとしての能力は全てを凍て尽くす『氷』だ。そして、彼女は今その能力で小さなコップを一つ造った。だが、そのサイズであっても緻密に作られており、彼女の魔法の制御能力が高いことが窺えるものだった。
「なら大丈夫か」
和樹は静かにほくそ笑みながら、雪華が作った氷製のコップにスポーツドリンクを注いであげる。雪華はコップを両手で持つとやはり喉が渇いていたのか、一気に呷った。それを横目に見ながら、和樹は感心の声を上げる。
「しかし、白宮さんの魔力制御はすごいな。よくそのレベルまで高めたな」
和樹は雪華が凄まじい努力をして主席まで上り詰めたことを知っている。それに、今の魔法制御能力が才能だけではないことにもすぐ気づけたのだ。彼の賞賛に雪華は頬を緩めた。
「…あ、ありがとうございます。九条さんにそう言われると、嬉しいです」
「…ユキー―、お待たせーー」
遠くからヴィーゼの声が聞こえてきた。見れば、タオルとボトルを抱えたヴィーゼがこちらに戻ってくるところだった。
「お待たせ。はい、タオルとボトル」
「ありがとうございます。ヴィー」
雪華は差し出されたタオルとボトルを受け取ると、早速タオルで汗を拭う。そして、汗を拭いて自身のボトルで喉を潤した雪華を横目にヴィーゼは和樹に近づき話しかける。
「カズキ、ユキから聞いたわよ。アナタとユキは今日決闘をするって」
「ああ、そうだが、それがどうした」
ルームメイトだからこそ知っていると思っていた和樹は、平然と問い返す。問い返されたヴィーゼはニッと笑みを浮かべた。
「いえ、それだけよ。ただ、見た限りアナタとても強そうだし、ユキとどんな戦いをするのか今から楽しみになっただけよ」
それは言外にユキと戦うならつまらない戦いはするといっているようなものだ。その意図に和樹は口の端を釣り上げて笑う。
「ははっ、安心しろ。それは絶対ありえねぇな。それに……」
そう言って、和樹は立ち上がりヴィーゼから雪華に鋭い視線を向けると、好戦的な笑みを浮かべて言い放った。
「俺も白宮さんと戦いたくてうずうずしてんだ。つまらねぇ試合なんてするわけがねえだろ。なぁ、白宮さん」
対する雪華も、真剣な表情を浮かべて言葉を返す。
「ええ、勿論。むしろ、私から申し込んだ決闘です。私が九条さんの期待に添えないか不安ですよ」
そう真剣に返した雪華を見て、和樹は『な?』とヴィーゼに振り向く。お互い、やる気は十分であることを確かに確認したヴィーゼは大きく頷いた。
「そうでなくちゃ困るわよ。アタシは二人の決闘楽しみにしているんだから」
「そうかよ。っと、それはそうとして二人も朝練は終わりなんだろ?なら、とっとと寮に戻ろうぜ。早速遅刻なんて嫌だろ」
「…でも、まだ時間はたくさんあるわよ?」
「…俺はまだ朝飯も食ってないし、女子は支度に時間がかかるもんなんだろ?」
「あら、よくわかってるじゃない」
「妹がいるからなぁ。その辺りの事は何となくわかる」
「妹さんがいるんですか?」
新たな話題に雪華も食い付く。和樹はその食い付きに内心驚きながらも頷いて彼女たちと共に寮へと歩きながら答える。
「…あ、ああ。二つ下の妹が一人に、三つ下の弟がいるな」
和樹は三人兄弟の一番上だ。年の近い妹がいるおかげで、年頃の女の子についての対応も心掛けているのだ。そして、三人とも兄や姉、妹弟がいることで兄弟がいるゆえの悩みなどを話しながら、寮へと戻っていった。