しかけは爆弾です③
「すみません」
中高生位の男の子に謝った瞬間。視界の端にとらえた。
ロシア系、百八十センチ越え、黒尽くめの格好。あの言葉通りに捉えれば、相似する部分が多い。
こちらの視線に気づかれることは避けたい。身分も不明、確かな情報も無く追っている相手だ。危険すぎる。色眼鏡が隠してくれるといいが。
あいつか。記憶した特徴の符号度合いから、あいつだろうと確信した。ロープウェイの搭乗口に向かっているようにみえる。
そこにだしぬけ「まもなく、午後の放流がはじまります」というアナウンスに虚をつかれて硬直し、反射で音のしたスピーカーをいちべつしていた間に、見失ってしまった。
汗が噴き出る――。
どこだ。すずなりに集まっている人混みの先、ロープウェイの方向へ目標を探すが見当たらない。搭乗口まで距離はそれなりにあった。瞬きほどの時間では辿り着けるはずがない。
あの図体と異物感だ。腰を落としたりしていない限りはすぐ見つかるか。
どこだ。この暑さに、全身黒尽くめだ。日本人観光客ばかりのここには目立つはずだ。ロープウェイが動く気配もない。
消えた行方の先を追うように、右に左にハンドルする視界の隅に、数瞬固まる。
目の前だ。まさか、相対している。
固まった姿勢を息で緩めながら、ゆっくりと首を向けていく。
はっきりと現れたその男の顔には、同じように黒いサングラスがかけられていて、視線がわかりにくい。
だが、確実にこちらを見ている。
イコライザーされた周囲の音が意識からつまみだされ、自分の鼓動だけがボリュームを上げていく。
左手にぶら下げたカメラに、握りつぶしてしまいそうなほど力がこもり、肩から二の腕、肘から手首にかけて汗が滴り落ちていく。
やはり。確実にこちらを見ている。向き合っている。鼓動が存在感をひとしお強める。
落ち着け。ここは観光地だ。
カメラ小僧など腐るほど居る。その誰もが、夏の昼下がりに照らされ、汗を掻いている。
半袖にフルカウントのジーンズと、よくある格好だと自己弁護し、一般の観光客の振りをして、何か言葉を発した方が得策かと釈明の気持ちになるが、声が出ない。
じりじりと、茹だるような暑さが底無しに感じてくる。
「プレイヤーじゃないでしょ、アナタ」
男が長い両手を広げ、たしかに言った。
静かな絶望の和音に、時が止まる。
直後、大地が鳴動するような轟音が耳朶を打ち、同時に男の右肩が動いた。
間一髪だった。
男の右手から伸びてきたナイフは、左脇あたりを狙われていた。
なんとか反射で腰をひねり、相手の左半身に身を交わすと同時に、男の腰あたりで何かが小さく鳴っているのが聞こえた。
流れのまま、のびた腕をストラップで絡めとろうと両手を持ち上げるが、次は左肘がこめかみをかすめ、勢い付き男の背後にまわる立ち位置になった。
今なら先手をうてる。よろめきながら体勢を整えようとすると、すでに反転していた男は、こちらにナイフを向けながら左手で携帯を開いている。
速い。携帯だったのか。あれは。
眉間にしわが寄ったまま、解しない言語で喋りはじめた男は、カタコト気味ではあったが日本語で「プレイヤーじゃない」と言った。
気づけば、ナイフを握っていた右手で耳を押さえている。鋭利な、サバイバルナイフだ。
恐ろしい想像しか孕ませないようなそのナイフにはっと気が付き、傷を負っていないか、身体のあちこちに触れたしかめながら、自分が思うより動けたことにひゅるると止めていた息を吐く。
落ち着くひまもなく、男のつま先が動き慌てて後ろへステップし見上げると、すでに電話を終え、反転し前に前にと歩き出していた。
行かせるか。と後を追おうとするが足が動かない。
膝が震えている。吸い込む息も震えていた。思えば、刃物と対峙したことなど初めてなのだ。からだの細胞全てが、追跡不可の信号を出している。
次第に周囲の温度をじりっと感じ、一斉に、拍手が聞こえてきた。
「観光放流は以上となります。往復のチケットをお持ちの方につきましては、往路のロープウェイが――」
意識の外にあった喧騒が、徐々に空間を広げていく。