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夏景色  作者: あさひ
第二章 鍵屋玉屋
18/19

鍵屋玉屋⑦


 焦燥感に絞り込まれた視野角いっぱいに、凹凸の鉄の屋根が架けられている。

 額に滴る汗が目にしみて、片目を擦った。


 屋上の屋根の端部から羽出してある、庇用の鉄骨の端まで追い詰められたことで、岩木はこれ以上後退する場所を失っていた。

 

 ピントのかすんだ視界の正面中央、男は地上九〇メートルの風と遊んで、こちらを見据えている。

 

 横を向いても、庇の鉄骨が一定間隔で羽出して並んでいるだけで、とても飛び移れる勇気もなければ、その意味も無い。


 もう逃げ代が無い。幅二十センチほどの鉄骨の上では、ナイキのパンダすらもはみ出していた。


 工事現場だったのか、夜間作業用の簡易ライトが鉄骨の遥か下の大地に佇み、煌々と輝いている。

 これが昼なら、立ちくらみを起こしているに違いない。

 取り戻した視界を、屋上の男に向け直すと眩惑した。


 投光器の光がまばらに差し込んでいる。それを背中に受け止めた存在感は夜に誇張されて、男の等身を大きくしている。


 風が脅す。地上の何倍もの体感で。

 何か聞こえた。今喋ったのは自分だろうか。それとも目の前に居るこの男だろうか。


 鉄骨の脇に張られた、墜落防止用のロープに触れている。じっと黙ったままの男はそれを見て、器具にぶら下がったロープの緊張器を一気に緩めた。

 文字通りの唯一の頼みの綱で、掴んだままバランスを崩しかけ死の恐怖が爆発した。

 

 即座に中腰になってなんとか耐えることが出来たが、男が右足を踏み出してきた。

 

 ああ、あれだ。デジャヴだこれは。お願いだからやめてくれ。

 もう退がれないんだおれは。来ないでくれ。

 来るな来るなと叫びたくなるが、喉は摩擦すらしない。

 

 また、何か聞こえた。自分だけではなく、男にも聞こえたようで、声の所在を探すように辺りを見回している。


 男の顔が横を向くたびに、向こう側の投光器がちらちらと直線上に表れて、瞼を細める。


「飛べ!!」突然の絶叫に全身が固まる。なんだ。今の声は。声の主が目の前からではない事を、男の挙動から察知する。


 鉄骨にしがみついたまま音の震えた方向を見やると、右下五メートルほどの、空中に位置する内開きの扉の中に、別の男が居た。


 淵に立って、もう一度「飛べ!!」と叫んでいる。

 震える膝を立てて、直立した。だがそれは身体の無意識な立ち振る舞いであって、岩木は困惑した。


 まさか、飛ぼうというのか。下の男は見たこともない奴なのに、めがけて飛ぼうとしているのか。上手くあそこに飛び込める事など出来る筈がない。距離は無いが角度的に絶対に無理だ。落ちれば九〇メートル真っ逆さまだぞ。


 身体が勝手に構える。今すぐにしゃがんで鉄骨にしがみつきたいのに、思い通りに舵がきかない。ただ呆然と自分の身体の動作を眺めているだけで、観客のようだった。


 意を決したように構えたことで、男が即座に反応した。緩めたロープを跨いで勢いよく向かってくる。


 男は闇を大きくして、到達しようと手を伸ばしている。

 

 速い鼓動はさらに速くなり、頻脈の打音が周囲の音を上回った時、両足のパンダは鉄骨の淵を蹴り、飛んだ。


 嘘だろ――。


 それは右下の扉の方向ではあったが、屋根から反り出た鉄骨からはやはり全く届かず、容赦ない落下速度から扉の男すら視認出来なかった。


 舵のきかない呪いを恨む暇もなく、大地に佇んだ夜間ライトがどんどん近づき眩しくなってくる。


 大地がぶつかる瞬間、岩木は目を閉じた。





 閉じた筈の目が、反対に強く開く。

 夜間工場用の簡易ライトの光は煌々とやはり眩しくて、瞼を細める。


「お客さん、大丈夫?」


 遠い所から戻るのをゆっくり待って、運転手は声を掛けた。


「は」ここは、タクシーの中か。落ちたのは、今のは、夢か? 尋常じゃない顔の汗を腕で拭うと、掛けていたサングラスが座席下に落ちた。拾いながら運転手を見る。


「随分うなされてたよ、おっきな声まで出してびっくりしたよ」

「ねてい――」喋ろうとするが声にならずに、激しく咳き込んだ。


「大丈夫かい?」

「大丈夫、大丈夫」

「寝てたのか、おれは」


「お客さんも疲れていたんだろうね」

「一時間位寝てたよ」


 一時間。左腕のGショックは一時三十分を指している。そうすると箱根まであと少しというところか。

 窓の外に目を向けると、テールランプの続いた進行方向の先に眩いライトが二つほどあるだけで、場所がよく分からなかった。


「いやだねえ、工事だってさ」

「工事?」

「交通量が多いから夜間にやるのは仕方ないけど、ここは一車線だし、もう一時間くらい足止めされてるよ」

「なんだって? 工事渋滞で一時間ここにいるのか」


「それに、事故だってさ」

 運転手が指差す電子掲示板に、オレンジ色で一キロ先事故、という点滅文がある。


「一時間も居るのかここに」

「そうだねえ、徐々に進んでるんだけど脇道も無いからねえ、ここは」

「こんな事なら東名から行けば良かったかなあ」


 事故渋滞に一時間。背筋がざわついた。

 スマホを開き恐る恐るMAPをタップする。

 一時間もこんな所に居たなんて冗談じゃない。眠ってしまったのは悪いが起こしてくれてもいいだろうが。

 もし近くまであいつが来てたらどうすんだ。


 すぐに繋がらないネットにイライラしていると、コンコン、すぐ真横のドアがノックされた――。


 恐ろしい夢の起きぬけにまだ頭がのぼせていたが、のけ反るようにドアから身体を離した。


「すみません。工事車両出したいので少し停車お願いします」

 上下青色の警備服を着たガードマンが、窓越しに会釈していた。

 歩道沿いに工事車両出入り口の工事看板が立っていて、脇の短いスロープ先の木製門扉が開いていた。


 門扉の前に置いてある、小さい街灯に照らされた、自立看板に『旧大隈重信邸』並びで『陸奥邸』と読める。

 

「ああ、わかりました。どうせ渋滞だからね、どうぞどうぞ」

 呑気な声で返す運転手を尻目に、過敏になり過ぎたままの自分に苦笑した。


 ほんと、どいつもこいつも、心臓に悪い。


 再度MAPが開くのを待っている間に水を流し込む。


 看板には『吉田邸この先』とも書かれていた。


 表示された現在地は大磯。ふざけやがって、箱根なんかまだまだじゃねえかと毒づきながら、赤い点が近辺に居ないか探していく。


「はー」助かった。

 戸塚駅から大きく変わっていないロシア男の所在地を確かめると、岩木はようやくそこで深呼吸した。



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