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夏景色  作者: あさひ
第二章 鍵屋玉屋
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鍵屋玉屋⑤



 岩木は勤務に戻ることもなく、上官に報告だけ済ませ半ば強引に早退することにした。


 本来であれば、上官から入った無線連絡から現場に駆けつけなければならないし、よしんば勤務の只中に体調を崩す様なことがあっても、ひとまずは交番の当直室に戻って様子を見ることが望ましい。

 

 しかるに、コロナ感染拡大をうけそれも異例となり、体調不良を訴えるものは報告書さえ提出すれば退勤しても構わないことになっている。


 署に戻り、交代の者に申し送りを手短に済ませていると、同期から救急くらい待てなかったのかと現状を聞かされた。

 

 上官が追っていたもう一人の方、メガネの男もずいぶんと長い間職務質問に抵抗したらしいが、激しい抵抗の末に不審な挙動から結局礼状を取られ、その場で逮捕に至ったらしい。


 尿検査の陽性反応を見せられると、途端に大人しくなったという。


 帽子の男も病院に運ばれたと聞いていたが、おそらく同じような始末になることだろう。


 淡々と、それでいて嫌味たっぷりに逐条を聞かされ苦い思いはするものの、今回の職を掛ける行為それ自体、恒常的に溜まっていく鬱憤とない混ぜになった不穏の塊を発散させようとしたに過ぎない。

 

 果たせなかった今の岩木にとっては、二人の処遇や自分のお役などもはやどうでも良かった。


 このまま一旦帰るべきか、出奔するべきか。

 スマホから現在地が知られてしまうなら、持っていたら危険ではないか。

 ロシア系の男の事が真綿となって首を締め付ける。


 件の動画とアプリは、やはり何度確かめても画面に表示されなかった。

 現職の警察官だからこそ、被害も証拠もないまま相談することの不毛さをよく知っている。


 帰るとしても何処に帰れば――。

 岩木は若い内に離婚を経験している。その際に独身寮を出て重量鉄骨の賃貸マンションに住み始めたが、そのことが、皮肉にもここへきて裏目に出る。


 家はダメだ。警察官が数多いる集合住宅ならまだしも、あんなアルミ柵の腰壁しかない名ばかりのオートロックなんて、道徳前提で護られるもので心許ない。


 署を出て、駅に向かっているところで気付く。スーツの動き辛さを想定に入れなければならないのは億劫に違いない。

 あまつさえ家バレしているなら、道中も同じ危険を孕むんじゃないか。

 

 イメージする。普段から外食で済ますような独身の男。それはひるがえって、寄り道したり遠回りしたり道を逸れるような点が無いことを示している。


 公共交通機関を使用して最短で最速。そんなもの容易に調べられる道順であることだろう。


 後ろから鼻をすする音が聞こえてはっと振り返る。大学生くらいの男の子が驚いて、顔をしかめながら通り過ぎただけだった。左腕のGショックを見る。


 過敏になり過ぎているという自覚が、夜も更けた二十三時半に冷や汗として噴き出す。


 落ち着け。ともあれスーツはダメだ。何処かで服を買って着替えよう。

 辺りを見回して考える。署の裏手の坂を下っていく。

 服装を変えることで、居るのか分からない追手への効果も併せて期待できたらいい。


 だが、この時間で営業している店など、日用品とせいぜい肌着が置いてあるだけのコンビニくらいしかない。


 坂の下にあるコンビニに入ってみるが、思ったとおり下着や肌着しか置いていなく、護身用に刃のあるものを持った方が良いかと考えたがやめて、仕方なく白いTシャツだけ買った。


 トイレでスーツシャツを脱ぎ、Tシャツに着替える。

 汗ばんで湿っているシャツを、貰ったレジ袋に入れようとした時、あ、と頭の中に閃きがあった。


 あそこならある――。


 結局そのまま外に設置されたゴミ箱に、汗ばんだシャツを丸めて捨て、走った。

 記憶が正しければ、あそこなら夜の十二時までやっている。


 ああ、ちくしょう。何やってんだおれは。あのまま署に居た方が安全だったんじゃねえか。

 来客など事故や事件以外あまりない時間帯だというのに。

 ああ、でも駄目か体調不良で帰ってんだ。このコロナ禍で長く居られるわけがない。そもそも証拠が無いんだよな。くそ。引っ掛け問題かよ。全部が裏目裏目に出やがって。


 口の主導権を暴言に任せる事で、落ち着こうとする処世術が岩木にはある。


 あいつは何者なんだ。やっぱりテロリストの仲間と考えるのが順当か。思い出しただけでも膝が笑いそうだが頭から排除することもできない。

 スマホはどうする。捨てるか。捨てるとしたらこの先のプロムナードがある川が良いか。

 持っていても証拠にもならないんじゃ意味がないもんな。


 捨てたとして、だけど捨てたとしておれはいつまで逃げる。あ、そうかおれは逃げるんだな。逃げるとしてもいつまでだ。

 花火大会までか、何日と言っていたかも忘れた。ヤバいな。行かなくても平気だろうか。


 その位は知っておいた方がいい気がする。

 スマホを捨てるにしてもその前に調べるか、そうだ最悪ネカフェもある。いやいやいや、ダメかダメか。あんな袋小路に留まったらそれこそ敵の思う壺だ。バカかおれは。


 問題解決の糸口が見えない。たった一問にガソリンを捨てて走っているような、エネルギーの無駄遣いをしている気がする。


 たどり着いた二十三時五十分。クリーニング店の看板はまだ煌々と輝いていた。

 ガラス越しに見える店内には女性客がひとり、ベンチに座っている。乾燥機の前にいる事から、最後の仕上げだろうと当たりをつける。


 なるべく不審に思われないように呼吸を整えて、レジ袋を右手に店内に入った。やたらと多い防犯カメラに失笑する。

 そういえば、クリーニング店のATM強盗が多発していると聞いた。


 女性客はこちらを一瞥したが、回してたであろう乾燥機の終了のタイマーが鳴り、すぐに向き直った。

 それを受け店内をゆったり歩き始める。狙っているのは洗濯機の中にある服ではない。そんな事をすればすぐに手配されてしまう。

 どこにある。回収されていなければいいが。


 あった。足元のカゴに『忘れ物』と喚起文がある。

 二、三枚あるズボンの中からサイズの合いそうな黒いチノパンを拾い上げ、あったあったと声に出しレジ袋に入れた。

 わざとらしく聞こえないか心配だったが、女性客はもう店を出るところで杞憂に終わった。


 よし。二十秒だ。秒数を数え間を空けて店を出ると、一台の軽自動車が駐車場から滑り出ていく所だった。運転席の女性客を確認し、また歩き出す。


 歩き始めた矢先、ポケットのスマホが震えた。すっかり忘れていた存在にびくっと脊髄が反応して恐る恐る開いてみると、上官からの不在着信だった。


 きっと心配して連絡をくれたんだろう。発着信履歴がリアルタイムで筒抜けなら架け直すことも出来ない。迷惑かけますとひとりごち、ポケットに仕舞った。


 道順は違えど大通りを避けただけで、これも駅につながっている道だ。

 反対方向に向かえばどんどん閑静な住宅街に入っていくことになる。月明かりの道は避けたい。この道を行くしかない。


 そのまま歩いてしばらくすると、またスマホが振動した。

 無責任に現場を放棄したんだ。もしかすると怒っているのかもしれない。


 フェイスIDでロックを解除しすると、上官からの連絡では無く、消えたと思い込んでいたアプリからメッセージの通知が来ていた――。


 なんだ、どういうことだ。消えたんじゃ無かったのか。

 擦り減った神経の指先で通知をタップする。一件のメッセージが表示された。そこにはこう綴ってあった。


 『座席権のことで、一度お話し出来ませんか』


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