鍵屋玉屋③
夏の風物詩、花火大会といえば、長くても一、二時間で終わるイメージがある。
そのことから短絡的に、一過性の海の家のように花火師の仕事は夏の間だけ、と思われることがままある。だが実状は全然違っていて、花火の玉に込める星作りから、花火大会にこぎつけるまで結構時間がかかる。
主催者側との打ち合わせが早ければ三、四ヶ月前から始まり、まず契約書を取り交わす。その後打ち揚げ許可申請の手続きを都道府県知事に行い、ようやく大会の基盤が整ってプログラムの作成に取り掛かる。
もちろんその間、工場で色々な種類の花火を作っていく。
尺玉という、打揚げた時にとりわけ大きく開発する花火の玉の製作は、乾燥機や星掛け機などを用いて半年、手作業で行えば長くて一年以上掛かることもある。
プログラムの作成にあたっても、種類のある花火をただ闇雲に打ち揚げればいいというわけでもない。
それではせっかくの舞台の饗宴が、音と光が交錯するだけの印象の浅いものになってしまう。
佳境から盛り上がりのタイミングを計り画一的な並びをさけ、同一種の玉やスターマインを連続させず緩急つけて、また小玉でだれ気味の時は思わぬ方向から絢爛豪華なスターマインを打ち揚げるなどして、観客の期待をアジテーションするようなプログラミングが重要になってくる。
喜一郎は、自分がどこでそいつを入れたら良いか、日がな悩んでいた。
――――日本一の玉。
古くは徳川家康の時代に、明人がイギリス人ジョン・セーリスを長崎から駿府に案内し、立火と呼ばれる、竹筒に黒色火薬を詰め火の粉を吹き出させるものを披露したのが日本の記録のはじまりで、戦国時代に活躍した各藩の砲術師は、こぞって花火作りに精を出し全国で競うように花火作りに励んでいったという。
一六四八年の草葺きや板葺き屋根が軒を連ねる江戸の町では、当時すでに失化を懸念して隅田川の川口をのぞき花火遊びが禁止となっている。
初代鍵屋弥兵衛が奈良の篠原村から江戸に来て、日本橋横山町で店を構えたのが一六五九年。
これは花火販売の元祖は鍵屋以前にいたという証左だった。
単色の洋火時代から明治に入り、塩素酸カリウム、アルミニウムなどが輸入されることで、鍵屋十代目が丸く開く花火を作り、十一代目の弥兵衛の頃に多様な色が出せるようになっていった。
ちなみに玉屋というのは、鍵屋七代目の頃に弟子に店を持たせたのが始まりで、コレラの流行から吉宗の川施餓鬼をきっかけに、後の両国川開きの花火を上流を玉屋が、下流を鍵屋が担当した。
そうして今や独壇場となった日本の色彩豊かな花火は、各地の花火師が四百年余り紆余曲折をかさね切磋琢磨したことで、世界一となったのだった。
その長い歴史の中で打ち揚げられた玉はしだいに大きくなっていき、二〇二三年現在、打ち揚げられた花火で日本一の大きさを誇る花火は、新潟片貝町の正四尺玉。
四尺玉は着地偏差にも寄るが、打ち揚げられると観客の期待をよそに、ひゅるひゅるとゆっくり揚がる。
揚がっていく玉を視界に捉えようと人々はするのだが焦点は往々にして遠く、思わぬ近さで開花する盆はゆっくり開くように、音を置き去りにして視界を優に食み出す。
そのバイアスは、じっさいは距離の遠近に寄るものでは無く、ひとえにその玉の大きさがもたらす視程の錯覚だった。
直径百二〇センチの四尺玉は、打ち揚げ高度八〇〇メートルまで上がり開花時八〇〇メートルの直径を持つ、重さ四二〇キログラムの巨玉だった。
十号玉の開花時直径はおよそ三二〇メートル。
それまで十号玉や二尺玉に目を親しめた観客としては、想像の何倍も大きく開く花火に沈黙を強いられるのが常だった。
これは寸倍違いと言って、たとえば四号玉と五号玉は直径三センチの違いしかないが、容積を比べると一対一・九五となり、重さも約二倍違う。
このことから一寸違えば威力は倍になり、価格も倍程度つけても当たり前と考えられている。
片貝の四尺玉は、一九八五年のギネス登録から八十八年の洞爺湖、二〇一七年のアメリカに破られるまで事実上の世界一で、今でも日本一は片貝の花火だと市井囁かれている。
「冗談だろ」和平は、喜一郎が言ったことを聞き間違えたのかとサンダーのスイッチをオフにして、もう一度尋ねた。
溶接メガネを外し、和平が持つサンダーの回転が止まるまで喜一郎は待つ。
「本気だよ。片貝を越える日本一の玉を揚げるつもりだ」
目尻の笑い皺が特徴的な喜一郎がまれに見せる真剣な顔に、和平は、思わず電源を抜かずにはいられなかった。
「片貝を越えるって……今、何尺って言った」
「尺じゃない。一間だ」
「なんだ一間ね、一間一間」
和平はコードを本体に巻き付けながら、え、号でも尺でもなく、間って言った? とスローモーションの自問に陥る。
「は? ちょっと待って、今一間って言った? 笛吹川では長い歴史の中でも二尺までしか揚がったことないんだよ? 三尺でも四尺でもなく、一間?」
一間とは、六尺である。
「そうだ。一間玉を揚げる」
その言葉が、火薬そのものだった。
唖然としたままの和平に続けて言うと同時に、喜一郎は、自分自身もその言葉の遠心力に振り落とされるような気がした。
「バ、バカ。無理に決まってるよ。直径一八二センチの大玉なんて何キロになるんだ。作るのに何年掛かる、費用は、だいたい、開発時何メートルになるんだ――」
捲し立てる和平の言葉を遮り、膝をついた喜一郎は言った。
「現実的じゃない夢なのは分かってる。だから、頼む、手伝ってくれ」
「一緒に親導を引いてくれ」
「やっぱり無理だ。厳しいよ」
慣れないパソコン作業に苦戦しているところに、後ろから和平が覗き込むようにして書類の束をデスクに放った。
何度頼み込んでも、扇風機のように首を縦に振らない和平にしびれを切らし、もういい役所の時間もあるから。
そう言って喜一郎はツナギから着替え、上着を羽織って工場を出ていこうとすると
「絶対行くな。きいちゃんは話下手なんだからおれが行く」
和平は、いつも無茶苦茶な事ばかり言っては見切り発車する喜一郎の、唯一のブレーキだった。
「いいかいきいちゃん。神明っていう町はね、平安時代から市川和紙として地場産業で栄えた町なんだよ」
和平が外に出たので、喜一郎は仕方なく苦手なパソコンで、プログラムの作成に取り掛かっている。
鳶職時代の、CADで描かれた建築の青写真の体験も手伝ってか、プログラムを青と白の二色だけで作る癖があり、いつも淡白な出来栄えになる。
「その和紙の技術発展を支えた甚左衛門って人を神明社に祀って、命日に花火を揚げたのが神明の花火のはじまりなんだよ」
プログラムには予定時間、花火の種類、協賛会社の欄が縦列にそれぞれあり、煙火工場から道の駅、JR東海、ひいては市川三郷町までの町内会と、協賛がずらっと一覧並んでいる。
「だからね、保安距離もなにもあったもんじゃないよ。だって和紙工場がそこら中にあるんだよ。ねえ、きいちゃん聞いてる?」
「ごめん何て言った?」
「おい、誰のために調べてやってると思ってんだ」
頭を叩いたファイルから、市川三郷町も載っている地図をパソコンの前に出す。
ごめんごめんパソコンに集中してて、とそれを手に取った喜一郎は、しげしげと地図を眺めながら「いいじゃん」とある一点を指差した。
「なんだよ」
「いや、ほら、ここ」
和平が縮尺の大きい地図に目を凝らすと、そこは市川三郷町から離れた、笛吹市の方にある稲荷神社だった。
鍵屋とは、初代の弥兵衛がお稲荷さん信仰が強かった為に、稲荷神社の社頭に置かれた狐が持つ鍵からその屋号がきており、反対にいる狐が玉を持つから玉屋となったという由来があった。
「鍵屋、いるじゃんここにも」
「あのさあ、全然離れてるよ。ここは。そもそも三年振りなんだよ、神明の花火大会って」
「うん」椅子を回転させ腕を組みながら、さも真剣さをアピールしている。
「コロナ禍で出来なくて、やっと収まってきたから開催されるわけ。だいたいそのプログラムも上書きしてるようだけど去年のやつでしょ? 協賛が何処でどの玉を揚げるかなんて、おれたちの一存で決められないよ」
「うん。どこに入れるべきかな」
「わかってる? ほんとに」
「うん。だから頼むよ、力を貸してくれ」
一センチの稲荷神社を拝むしたり顔の喜一郎に、和平は嘆息せずにはいられない。