鍵屋玉置②
花火師になりたい――。
少年時代、自分の夢を学校の先生や友達に語ると、かっこいいね、良いね、と言ってもらえた。
まるで、もうスタートを切ったんじゃないか、踏み出したんじゃないかと特別さを孕んだようなみんなの言葉尻に、ささやかな誇りを見出せた。
中学を卒業し、公立高校のわずかな授業料が家庭を逼迫するほど火の車と知った時、頭の出来が良かったわけでもなく、進学を諦め就職することに決めた。
学歴を問わず雇って貰えて寮付きであれば何でもよかった。
どんな仕事が出来るのかコンビニで求人情報誌を立ち読みしていると、十六歳で出来る仕事で寮付きとなると、だいぶ限られてる事が分かった。
条件に添った業種は建築業だけで、ある程度篩にかけた中から『高橋架設』という鳶職の会社に決めた。
コンビニに設置してある公衆電話から担当者の番号に電話すると、野太い男性の声が出た。二、三言葉を交わしただけで、今日の十八時に事務所に来てくれとさっそく面接の催促をされた。
明記された住所通りに訪ねてみると二階建ての一階に時計屋が入った、少し大きな一軒家ほどの建物だった。
紺に白字の看板に『高橋架設』とある。
脇の階段を上がってノックをすると、ガチャ、と内側からアルミ枠の扉が開き、見るからに柄の悪い金髪の若い兄ちゃんが出てきた。
「誰?」聞かれたが、鋭い目つきにたじろぎモゴモゴしていると
「面接だ、通してやれ」と電話と同じ声が金髪越しから聞こえた。
ああ、面接ね、どうぞと無愛想に通してもらった事務所の中には、同じように柄の悪い従業員らしき数人が、所在なげに立っていた。
「ほらお前らもう帰れよ」電話の声の主のその言葉に、みんな揃ってとわらわら帰っていく。
担当者は、声の輪郭から想像したそのままのがっちりとした体型で、四十半ばといった風貌だった。
案内された椅子に座り履歴書を机に出すと、せっかく認めた履歴書を一瞥すらせず
「明日から来られる?」と打診してきた男は、会社の代表だった。
入社から二年経ち、あのスピード面接は業界では当たり前の出来事だったとを知った頃だった。
「喜一郎は一緒に上でバラシな」作業計画書と危険予知シートに、危険箇所とその日の作業内容を記入しながら五つ年上の先輩が言った。
マンションの外壁塗装やタイルの張り替えの工事で、その日は建物の外部に架けられた足場の解体だった。
組み立てることを〈架け〉と言い、解体することを〈払い〉と業界では言った。
最上段からバタバタとバレていくブレスや枠を持っていくと、先輩がまとめてロープにかけ降ろしていく。そのロープさばきは、会社で一番速いとみんなが言っていた。
「速いというか、みんなみたいに溜めないだけだよ。コンスタントにバレて来たものを降ろしていけば、それが一番無駄なく速い気がするんだ」五、六本のブレスにとっくりをかけ、上端でいわしを切りながら言う先輩はかっこよかったし、じっさいどの現場よりもバラシ終わるのが速い気がした。
昼の休憩時、昼飯を忘れた事に絶望しうずくまっていると、タッパの蓋の裏に色々なおかずを乗せた先輩がやって来た。
「みんなに寄せ弁してもらった、食え」と笑った先輩に、涙が出そうになった。
「マジっすか〜」なんていい人達なんだと全員に感謝して周った時には、お辞儀した顔をあげられなかった。
そんな休憩中、ロープの縛り方や結び方を弁当片手に指南してもらっていると、本当にこの人はロープの扱いが上手いんだなと感心しているかたわらで、うずうずと性が出た。
「先輩のこと会社で一番ってみんな言ってますよ。この勢いじゃ日本一になっちゃうんじゃないですか」思った事を、口にせずにはいられない性だ。
「バカ言え、競争じゃないんだ」
「ありえなくないですよ。他の会社の人もみんなロープは先輩に教えてもらった方が良いって言ってますもん」
「おれが教えられることは教える」
「なりたくないんですか、日本一の鳶」先輩が朝早くに作ったという、しょっぱい玉子焼きを味わいながら詰め寄った。
「誰が決めるんだそんなもん」先輩は笑う。
「たしかに」つられて笑った。
「でも」と先輩は、箸の手をあぐらの右足に休めて言った「なりたい日本一は、ある」
その年の暮れも無事に終わり、松の内を過ぎた土曜日に先輩の送別会があった。
年末ぎりぎりまで出張に行ってた自分としては、本当は年内にやりたかったんだけど忙しくてな、と言った社長の思いやりが身に沁みた。
歩いて数分の居酒屋で、従業員総出の送別会だった。
ビール片手に談笑するみんなを横目に、出てくる料理を片っ端からウーロン茶で流し込んでいると、事務員のお姉さんが横に来て特に何も語るでもないのに少しそわそわした。
お腹を満たしたあとは、ビンゴの賞品に釘付けになって有効穴を揃えることに血眼になった。一人一枚配られるビンゴカードなのに、二枚持っていたのは先輩がくれたからだった。
「まったく欲がない奴め」と先輩の肩を叩く社長は、少し残念がっているようにおどけてみせた。
宴もたけなわ、新年会も兼ねた送別会は三本締めでお開きになり、店を出て各自ばらばらに歩き出した。
お腹いっぱいだ、眠いし帰るか、と寮に向かって歩いていると、後ろから肩を組まれてよろけた。
「挨拶なしとは、ずいぶんだな」先輩だった。
その時になって、抑えていたものが溢れた。悲しくないわけない。寮も隣で現場も一緒でずっとお世話になった。ただ泣いて見送るのが一番嫌だった。消去法に、若さが出た。
「なんだまた泣いてるのか」言ってくれるな。そう言われると、もうとめどないのだ。
「本当、おれ、先輩にお世話になりっぱなしで、お礼全然出来てなくて」熟語を途切らせないようにするだけでせいぜいだった。
「お前のセンスが良かったから、おれも助かったよ」
「辞めて、何するんですか。どこの、会社行くんですか」
「どこの会社にも行かないよ」また笑いながら言った。
「喜一郎お前、花火師が夢だったと言ったよな」突然の言葉に、へやあ、と変な声が出た。
「何ですか、急に」涙を拭いて先輩を見る。
「昔の鳶職はな、打ち上げ花火の前で踊ったり、人払いしたり、人員が不足してれば一緒に手伝ったりもしたらしいぞ」
「え、そうなんですか」知らなかった。
「おれの好きな本にこんな言葉がある『君たちの後ろには、過去という一本道がある。君たちの前には、未来という交差点がある』どうだ、良い言葉だろう」めずらしく胸襟を開いた先輩は、酒くさかった。
「さすが直木賞だ」と目尻にしわをよせた。
すると反対方向から
「おーい主役が帰るとは何事だー」と先輩を呼ぶ声が飛んできた。
数人の声に振り返って、あ、やべえ、と漏らす先輩に
「早く行ってきてくださいよ。おれが怒られますから」ほらほら、行った行った、肩の手をほどき促した。
だな、行ってくるわ、と歩き出して数歩、こちらに向き直って、じゃあなと手を振った。
「今までありがとうございました」深くお辞儀をして感謝すると、余計に先輩との思い出が加速した。
うつむいたまま、顔を上げられずにいると
「なってみろよ、花火師。日本一の花火をおれに見せてみろ」
ばっと顔を上げて見た先輩は、真剣ではあるけれども、寄せ弁をしてくれた時と同じ濡れたような眼だった。
忘れようと一本道に置いてきた鼓動を、後ろから拾ってくれたようだった。
胸の鼓膜が破れたかのように、どんどんと込み上げて来る想いの休符に
「おれが、なれると、思うんですか」となんとか言葉にした。青になったんですか、交差点は。
「当たり前だろ。笑わせんなよ」と先輩は笑った。
あとな、と続けて、今度は仕事の時の、熱く渇いた真剣な眼でこう言った。
「おれも日本一になってやるから、見てろ」