鍵屋玉屋①
磨りガラスに差し込んだ朝日は、申し訳程度に垂らしてある紺色のカーテンを通り抜けて、ベッドの上で気持ちよさそうに眠るランタマを照らしていた。
猫は、なんて可愛いんだろう、と毎朝起きるたびに思う。
起こさないようにそっと動くけれど、へそ天したランタマはもう起きていて、にゃ、と短く鳴きながらつぶらな瞳でこっちを見つめてくる。
その姿に、ぐはあ、と声が出た。
これ以上に可愛い生物は居ないと確信しながら、伸びをするランタマのお腹に埋もれる。
猫は、人間が触れ合う生物の中で、最も愛しさを感じる顔の比率をしているという。
大きい耳、狭い額、くりくりと濡れた瞳という顔の造形や、短い手、しっぽの豊かな表情、ちてちてと歩く様子は、親心や庇護欲の強烈な自覚をもたらし、一鳴きすれば、飼い主が嬉々として家来の如く働いてくれる。
さらに猫を飼うとどういう訳か、人間のストレスが三分の一に軽減されるという研究結果も出ている。
そんな尊ぶべき猫の中でも、うちのランタマは世界一可愛いんじゃないか、と親馬鹿に傾倒してしまうのは、全ての飼い主に公正に許された陶酔と自明だ。
もっともその当然視は、猫にとっては理解されていない場合が多く、自分の言う通りに動いてくれるでけえ猫だな、と思われていることもあるらしい。
「きいちゃんはホント、親バカというかバカ親だよバカ親」和平は、長さ一五〇センチ、外径二六センチほどの鉄管に縦にサンダーを入れている。
少し離れたスペースで、同じサイズの鉄管の切れ目を溶接し直した喜一郎が、溶接メガネを額にずらして言う。「バカ親はひどくねえ?」
こうして一度切り込みを入れて再びアーク溶接し直すことで、万が一筒の中で花火の玉が腔発した際に、玉と筒が飛散する方向をある程度絞ることが出来る。
昔は一枚の鉄板を筒状にして溶接していたのだが、職人が減った為、同じ効果を持たせようと今は鉄管を溶接している。
何ヶ月も丹精込めて作った玉が筒の中で誤って開発してしまう事は、花火師にとっても観客にとっても悲しいことだが、直径九センチ程の黒色火薬の打ち揚げ3号玉の発射速度は、毎秒一一四メートルで、時速に直せば四一〇キロメートルにもなる。
発射のタイミングがずれた早打ちの筒を覗いて即死した事故例も少なからずあって、その威力は直撃すればひとたまりもない。
出来る保安はあればあるだけ良いのだ。
「ランタマってメスだっけ? だからいつまで経っても新しい彼女出来ないんだよ」
「違う、ランタマはオスだ」何でメスを飼ってると彼女が出来なくなるのか。
「オスでも一緒だよ。前の彼女と別れたのも、たしか猫が原因だったよね」
「あれはあの女が悪いのよ。あたしと猫どっちが大事なの、なんて馬鹿げた事聞くから」
「何て答えたんだっけ?」
「いや、ランタマに決まってんじゃんって」
「かーっ」寸足らずなカーテンを買ってしまった時のような表情で、手をおでこに乗せた和平が言う。「やっちゃてるわあ」
「何もやってないだろ」
「そんなんフラれるに決まってるよ。やべえ女だとは思うし、ランタマは確かに可愛いけど、一応はほら、大事にしてるよってポーズしとかなきゃ」
「いやいやいや、どう考えてもその質問がおかしいだろ」喜一郎は溶接の光を手で隠すようにして再開する。
「じゃあどう考えたの」
「お前はおれがいなくても家族も友人も居るからいいけど、ランタマにはおれしか居ないんだから、どっちと言われればランタマに決まってる」
「え、それ言ったの?」
「当たり前だろ、笑わせんなよ」この二言は、喜一郎の口癖でもある。
「だめだこりゃ」と和平は首を振る。
ちらっと喜一郎の方を見ると、またおでこに上げた遮光メガネの存在を忘れていることに気付いた。
「きいちゃん」と呼びかけ、トントンと自分のおでこに触れる。
ああ、また忘れてたありがと。メガネを下げ右手を挙げるつなぎ姿の喜一郎を見ると、まったくこの人は。と嘆息せずにいられない。
和平のため息に、でもさ、そんな事聞いてくる方がだめだこりゃ、だろ。と喜一郎は反論したくなるが、思い出すだけでムカムカしてくるので口にしなかった。
好き嫌いばっかりで、団地育ちの自分としてはハングリー精神のカケラもないあんな女、別れて正解だったわ。
うちのランタマなんて「ご飯?」って呼び掛ければ「ごはーーーーん」ってしゃべるんだぞ。「おあーーーーん」位かもしれないし、かくいうご飯はちゅーるのことだけど。良いんだ。
そうだ。今日の渉外が首尾よく進んだらちゅーるを二本あげよう。
最近太り気味でしばらくあげてなかったけれど、今日位は良いだろう。なんてったってひさかたぶりの花火大会だからな。