夏景色

第一章 しかけは爆弾です

しかけは爆弾です⑪

　報告書の作成を終え立番に当たっている岩木は、気色ばんでいた。

　これが一番ダメだ。何か作業に没頭していればまだ気が紛れるものの、これはまずい。どうしたって考えてしまう。

　上官に見てもらおうとした件の爆弾男の動画は、その後いくら探したり再起動したりしても見つからなかった。

　陰鬱な気持ちのままの岩木は、製鉄所の煙を見るかのようなまなざしで立番に当たっていて、まったくもって身が入っていない。

　ただでさえ仕事に対するモチベーションが低い岩木は、解決しない問題を抱えて胃腸のあたりに熱を感じていた。

　まじでなんなんだよ。なんでおれが考えなきゃいけねえんだよ。

　つうかユニコーン企業ってなんだよ。セキュリティソフトなんか買った覚えも入れた覚えもねえぞ。ネットもゲームもやらねえっての。人違いなんじゃねえの。それとも署で使ってんのか？　日本政府もAmazonかMicrosoftかのプラットフォーム使ってるっつうし、元辿ればそうなのか？　それともあれか、海賊版の携帯漫画でも見てる時に感染したか？　

　ダメだ考えてもわかんねえし聞けねえし、チンコロするとやべえって言うからこっちはめちゃめちゃ勇気出して上官に言おうとしたってのに、結局証拠がねえんじゃいたずらとも言えねえじゃねえか。

　ああ、イライラすんよ誰かぶっ飛ばしたい気分だぜ。毎日毎日こんなに混みやがって朝は全然通らねえくせになおめえら。

　横断歩道もねえとこ平然とおれの目の前で渡りやがって。

　夜間だわ。こりゃ夜間パトで変なヤツにバン掛けて暴れてもらってボコボコにしてやれたら最高なのによ。

　しかもなんなんだよこの街。ブスしかいねえしよ。

　しかも誰だよでけえ声で歌ってんじゃねえようるせぇな。妙なアレンジしやがってこいつか？　

　あ、何見てんだよアゴすっ飛ばすぞ。いつまでもポーカーフェイスで居られねえんだから見てくんじゃねえ。見るからにわがままボディじゃねえか。あ、しかもこのオヤジあれじゃんいつもいつも飲酒でチャリンコ乗って通りかかる奴じゃん。何て名前だっけな何回も止めてんだよな。言っても分かんねえ野郎にはこの警杖で引っ叩いてもいい許可出ねえかな。

　仮眠してないから眠くて余計にイラつくしまじで早く夜になんねえかな。

　上気した内側の激しい力に任せることで、岩木は悲観への圧力を下げ、考えを猶予した。

　そして、ただ夜を待った。

　夜二十二時、国道沿いの一本外れた脇道を、岩木達はパトカーで入っていった。

　繁華街の暗い裏路地は、仲通りとは打って変わって通行人や車の往来が少ない。朝になるとここは、そこかしこに散らばったゴミを漁る鴉や鳶が、次々に集まってくる。

　徐行しながら見渡していると、二十メートルほど先の小さな交差点の角に、不審な男が二人立っていた。

　二十代半ば、どちらも軽装で一人は帽子、一人はメガネを掛けている若者達だった。

　ただそれだけなら、一般的な若者とも言える。

　だが、巷間言うところの一般的と、警察官の一般的は必ずしも符号しない。

　かといって、不審だな、と思うすべての人物に、十把一絡げ職質するわけでもない。

　じゃあいったいどんな人物に声を掛けるのか。

　警察官が職を掛けるにあたって、寄る辺となる警職法第二条の要求は、対象の『不審性』でありながらも、その職務質問はあくまでも適法の範囲内で行われなければならないとされている。

　こんばんは、ちょっとお時間よろしいですか。というあの声掛けは、ただでさえ理論上は任意活動と限定されているために、そこに強制的な力を働かせてしまえば違法となる。

　違法である、と裁判所に判断されれば相応の処分をうけることになるため、まともな警察官であれば、主観や思い込みだけで出鱈目に声を掛けることはまずない。

　しかしひとたび警察官の観察眼という基準のもとに職質をしたからには、『職質検挙』か『犯罪性の嫌疑無し』の二択が出るまで、何時間かかろうと絶対に諦めない。

　それが亀の子事案と呼ばれる車での長い籠城戦だとしても、警察官は絶対に諦めない。

　とりわけ不審性を強めたのは、風貌ではなく行動だった。二人は、手に持っていたレジ袋を交換し合う形に、お互いに手を差し出していた。

　その直後にパトカーの存在に一人が気づき、目線を逸らす。渡し合おうとしているレジ袋を引っ込めたことで、もう一人もこちらに気付く。

　近づきながら「怪しいな」と言う助手席の上官に、

「逸らしましたね」とスピードを緩め過ぎていき左折した。岩木は様子見でもう一周することに決めた。

　さきほどの通りにふたたび進入したところで、パトカーを脇に寄せ、停める。

　徒歩で近付いて行こうと車を降りた段で、二人組がバラバラに走りだした。

「逃げたぞ」叫んだ上官が走り出し、右に逃げたメガネを追う。

「左行きます！」と岩木は、左に逃げた帽子を追随する。

　交差点を曲がって行く上官が右に消えた。

　歳の割に体力がある。果てまで追ってくれるだろう。

　バラバラに逃げてくれてありがとう、と岩木は思い、左に折れたところで見つけた帽子との距離は十五メートル。見たところ同年代くらいだった。持久戦になれば長引く。

「待てこの野郎！」その声に、帽子が振り返った。向き直り、必死に逃げている。

　待てと言われて待つ奴は最初から逃げないということを誰もが知っている。

「帽子落としたぞ！」と叫ぶが帽子の若者は見向きもしない。

　ただ右手に握ったレジ袋だけは離していない。おい、何が入ってんだその中に。

　なめやがって。

　おれは手も早いが、脚も速いんだよ。普段どんだけ走ってると思ってんだ。

　ストライドを重ねるごとに、どんどん距離が縮まる。距離は七、八メートルほどになっていた。

　だが岩木は、鼠を弄び捕食する鴉のように、速度を緩め追いついてしまうのをやめる。

　帽子は直線だけじゃなくジグザグと、必死に逃げている。

　こうなってしまってはこちらの思う壺で、長期戦になればなるほど不審性は増す。

　現代特有の早めの令状請求も視野に入ってくる。言わずもがな、その際に必要とあれば有形力の行使もやむをえない。

　有形力の行使とは。

　職務質問で声掛けをされた人が、一旦止まったものの応えないでその後歩き始めてしまうような場合、並行して歩いたり、追随したり、立ち塞がったりするようなあの行為。

　それはまだ有形力の行使に当たらない、停止の為の行動である。

　ところが、突然走って逃げたりするような場合、短時間であれば腕を掴んだり肩に手を置いたり、直接接触して停めようとする行為、これが有形力の行使にあたる。

　これは判例でも認められている適法な職務質問であり、された側に回答義務も停止義務も無い任意活動と便宜上はなっているが、それはあくまでも便宜上で、じっさい無視して何事もなく帰る、というのは難しい。

　さらに職務質問中の警察官の行為は被疑者の取り調べとは違うものなので、黙秘権といわれる供述拒否権や弁護人選任権を告げる義務もない。

　例外的にあるのは、肩を掴まれたり、襟首を掴まれたり、荷物を勝手に見られたりという行為が、声掛けと同時にされたり、素直に応えているのにもかかわらず行使されたケース。

　このケースに限って行われた職務質問は検めるまでもなく違法となるが、そんな警察官はまず居ない。

　職務質問というのは畢竟、有形力の行使を踏まえた上で行われるのが現実である。

　最適解は、素直に応じること以外に無い。

　仲通りの方へ逃げる帽子は、ちらほらと居る通行人や、店先に出ている看板にぶつかりながら逃げている。

　恥も外聞も無くなりふり構わず逃げる身振りに、おかしさが込み上げてくる。

　仲通りからまた裏路地へ、どんどん人気のない道へ逃げて行く帽子のすぐ後ろ、距離は五メートルほどに近づいている。

　随分と必死だが、そんなことしたって絶対逃げられないのにな。そろそろだろ。

　案の定、帽子は体力が切れたのか、ビルとビルの狭い路地に入ったところで、足を止めた。

「わかったわかった」息も絶え絶えに、帽子は膝に手を着き肩で息をしている。

「何がだ」後生大事に抱えるそのレジ袋はなんだ。

「いきなり追ってくるからだろ」

「いきなり逃げるからだ」一歩一歩近づいていく。

「何で逃げた」

「身分証が無いからだよ」帽子は上体を上げながら言った。思った通り、同年代の顔つきだった。

「本当にそれだけか」あと一歩で手が届く。

「わかったよ、言うよ」

「なら言って欲しいな」

「不良やってたんだよ、もう辞めたんだ」

　不良とは、未成年でいう不良ではなくヤクザのことだ。

　組に所属したことを警察署に届け出るような者が、元ヤクザだとはまず言わない。

「執行猶予中か」なんだ、ただのチンピラか。

「いや、懲役は行ってもないし執行猶予でもない」

　そんなものは氏名から調べられる。もっとも本名を素直に言う保障は無いが。

「ならなぜ逃げた」その手に提げた荷物のせいか？　それを調べれば署に引っ張れるんじゃ無いか。そしたら氏名なんて一発だ。

「警察官が走って追ってきたらヤクザがする事は、あつかましく居直るか、一目散に逃げるかのどっちかだけだ」

「自覚があるのは、何か逃げなきゃいけないような事でもしてるからじゃないのか」

「何もしてねぇよ」

「じゃあその荷物も見せてくれるか？」

　そう告げると、数瞬のためらいの後、観念したかのようにレジ袋を差し出した。

　行儀いいじゃねえか。とそれを受け取り中身を見てみると、成形を失ったコンビニのツナのおにぎりとサンドイッチ、タバコが一箱入っているだけだった。

　なんだこりゃ。こんなもんで何で逃げたんだ？　視線を上げ帽子を見るが黙ったままこっちを見つめている。

　タバコか？　これに何か入ってやがるのか？　

「見てもいいか」とタバコを取り出す。

　帽子が首肯するのを認め、適法適法と反芻しながらタバコの箱を開ける。

　だが、中身は違法性も脱法性も無い、ただのタバコだった。嗅いだりしてみても草の青臭さのかけらも無い、どう見てもただのセブンスターだった。

「……なんで逃げた？」タバコを袋に戻し、聞く。

「いやだから追ってくるからだろ」

　卵が先かニワトリが先かみたいな話しやがって。もう一人の方か。

　しばらく男の挙動に注意を払っていると、応援を呼ぶ上官の無線が聞こえた。

　ちっ。任同をかけて身分を確かめたいが時間も惜しい。

「もう一人の方はどうだ」と威圧すると、

「名前も何も知らない」とにべもない。

「……まあいい。何も無いなら次からは素直に応えてくれ」

　仕方なくしぶしぶレジ袋を帽子に渡すと、

「わかった」とだけ帽子は言い、来た道を戻っていく。

　その後ろ姿に舌打ちをする。

　なんか釈然としねえ。こりゃもう一人の方だろうな。そいつ捕まえたらまた呼び戻してやるから待っとけよ。

　帽子が角を曲がるのを見届けた所で、無線に手を伸ばした瞬間、ふっ飛ばされるような人影が横切った。その影は、今まさに角を曲がった帽子だと頭で分かる。なんだ今のは。

　その角から、男がのっそりと出てきた。一八〇センチ強はある、サングラスをかけたヨーロッパ系のがっちりとした男だった。その手に、レジ袋がぶら提げられている。

　突然の出来事とその風貌に、無線に手を掛けたまま動けなかった。

　男は封を開けたサンドイッチをペラペラと揺らしながら、アルカイックスマイルを浮かべている。

「なんだおま――」

「コレだ」カタコトの日本語でそう言った男は、サンドイッチをこっちに放り投げた。

　足元に落ちたパンがめくれ、中から透明な小袋が滑って出てくる。ドレッシングがついたその小袋には、白い粉末が入っているのが覗いて見える。

　右足を一歩前に出しながら、「ニホンのポリスはやさしい」と男は言った。

　アルカイックスマイルを貼り付けたまま、次は左足を出す。

　「それに、あまい」男はレジ袋を捨て、携帯の画面をこっちに向けている。動作全てが、至極ゆっくりに見える。

　五メートル程の近さに男が来た時、見覚えのあるぼんやりとした画面に意識の周波数が合う。

――およそ不審と思われる嫌疑的な言動を確認した場合には、私の友人がお手伝いに向かうことになりますので、あしからず――

　昨日見た爆弾男のセリフの一部が、背景のイラストと声色を伴って脳内に流れ込んでくる。

　現実と既視感との関数は、体感的には瞬きほどのあいだバグを起こしたに過ぎなかったが、血が湧き立つには充分な時間をもたらした。

　i.e.,こいつは……ヤバい！　

「メグミイワキだな」

　その言葉に、瞳孔がこれ以上無いくらい開いたような錯覚を起こした。

　自分の名前が引き金となって、全身をバネに男に向かって足を出した。

　つもりだった。

　思考の葉脈が途切れたかのように反対方向に向いた身体に、唯一の正常性を備えた一瞬の迷いが働いたが、それもすぐに消えた。

　鼠を弄び捕食しようと夢中になっている鴉を、長元坊が俯瞰しているテレビ番組を思い出した。

　男が現れてからというもの、周囲の空間が恐怖に腐食していくようだった。

　あの帽子を嘲った側から、恥も外聞もなく走り出す側へと寝返る滑稽さの一雫、味わう余裕も無かった。

　何かを考えるエネルギーを全て逃走に。聴覚以外の感覚を、必死に前へ前へと送り出す。

　目の前の大通りが逃げ水のように遠く感じる。追ってきている音を聞く散漫さも持てない。

　捕まっていないはずなのに、距離はあるはずなのに、足が空を切るように、さっきから一歩も進まないまま、巨大な手のひらに空間ごと押さえ込まれているような窒息感を感じた。

　ぉおおおおお……！　

　逐電の咆哮と共に大通りに脱出し、慣性で走ってからこわごわ振り返ったが、路地から男が出てくる気配が無かった。

　岩木はパンク寸前だった。