しかけは爆弾です⑩
鏡哲也は、帰りのバスで回収するアンケート書類の束をチェックしていた。
キャンセルもゼロ、発着も滞りなくプラン通りに終えられた仕事だった。確かに、いつも以上の評価数を取れている。
その段になって、鏡は初めて部下に及第を出した。
緊急事態宣言を発表した国からの徹底した封じ込めは、零細企業ながらも鏡が取締役を務める旅行代理店にとって、直接的な締め付けでしかない〈県外への外出禁止〉を要請した。
必要経費を見込むとほとんど無くなる雀の涙ほどの補助金は、経営難から落ち込んだ自分の給与をいくらも回復してくれなかった。
辛酸を舐める思いで一年、痩せ馬に鞭を打ちながら一年。
コロナ後何度か組んだツアーが埋まってきて、やっと今期黒字の兆しが見えてきた所だった。
目に涙をうかべながらハイタッチをしている部下達を尻目に、今回のツアー参加者を改めてリストアップしなおして鏡は会社を出た。
会社と言っても、学生からの同級生である真壁が企業したこの仕事は、家内産業で始まった十年前と今も変わらず、三階建ての二世帯住宅をそのまま会社として登記している。
取締役だけが停められる駐車場は、とりもなおさず一軒家の狭小な車寄せで、鏡の軽はそこに停めてある。
自家用車に小太りの身体を滑らせ、シートにまどろみ長く息を吐く。
今の社内の空気を胸に入れておきたく無かった。
顧みると、労いの気持ちは折りにふれて少なからず湧いてくるのだが、今まで部下を褒めたことがない意地を自覚から掻き消したくて、チャンネルをFMに合わせた。
渋滞情報が終わったところで、楽曲のリクエストコーナーだった。
聞き覚えのあるヒットソングを聴きながら、鏡は、焦げ跡のついた足元のマットに無関心を表したまま、セブンスターに火をつけた。
その焦げ跡は先日、一息つきながらなんとはなしにラジオを流していたところに、待ちあぐねていた首相の宣言解除の発表があった、集中力の産物だった。
そのニュースの土産の焦げ跡は、閑古鳥が鳴いていた地獄の日々への終止符の証印にも見えた。
「本当失敗ばかりで、褒めるところがないよ。どこで褒めるんだ」
行きつけのカラオケ居酒屋で、旧友に愚痴をこぼしながら聞いた。
「失敗は行動したから起きたんだよ。望んだ結果に怒る前に、ベストを尽くしてチャレンジをしたんだから、そこを褒めようよ」
「嘘だろ。何て褒めるんだ」ほろ酔いの鏡はハイボールをあおる。
「いいじゃない、ナイストライで」と背中を叩いてきた旧友の言葉を思い出した。
ギアをドライブに入れて、車寄せから出る。
職住近接の観点から、鏡は五年前に、道が空いていれば車で十分とかからない住宅街の建売を購入した。フラット35が通るギリギリのタイミングで、経済的にも時間的にも余裕のある買い物とは言えなかったが、スーパーや小中学校も近く、身の丈に添った篩い分けと言えた。
我が家に向かって少し走っていると、カーナビから着信を告げるコールが鳴った。
ラジオからハンドレスに切り替えもしもしと電話に出る。
「もう帰ったか?」真壁からだった。
「ああ、おつかれ。今出たとこだ、どうした」鏡は電話の音量を上げる。
「朗報だ。バスが決まった」
「本当か、本数は」
「当初の見積もりで行く、十本だ」
「十本か、わかった」
「それだけだ、じゃあ明日な」と言い真壁が電話を切った。
べつだんすぐの案件じゃない。数日先の日帰りだ。明日の朝でもいい話だったが、わざわざ終業後に連絡をよこしてくるあたりに、自分には無い真壁の細やかな気配りを感じた。
この規模の会社で日に十本のバスは、簡単なことじゃない。
旅館の貸し切りも決まった。夏に向けてのツアーも好調だし、温泉も開く。夏が過ぎれば紅葉だ。その前にススキもある。
ツアーパンフレットを渡した返事で、やっと戻ってきましたね、と破顔した外注のバス運転手の気遣いが忘れられない。
空白だらけの序盤に、次々とスケジュールの石を置いていくことで、後ろ向きに働いていた想像力がやっと陽性に傾きはじめる。
張った帆が、明日という方角からの風に吹かれ、ようやく推進力を取り戻した気がした。
タバコを掻き消しラジオに戻すと、大きくしたままの音量でFMが流れた。それを絞ることもせず我が家へ向かっていく。
しばらく走って、無意識に歌っていることに気づいたのは、タバコを吸っていたためにどれも全開の窓越しから、すれ違う人の視線を集めていたからだった。
ただ鏡は、あまり人の目を気にしない質でもあった。
夕暮れの県道は昼の静けさを失って、雨後のタケノコのようにそこらじゅう車で覆い尽くされている。
軽い渋滞に半ば停まりかけているこの状況だというのに、カーラジオから流れ出る曲にハモったり、アレンジしたりして、機嫌の良い自分を全面的に享受した。
調子っぱずれのリズムに乗って身体を揺らしていると、左から鋭い視線を感じた。
どうよ、おれの真心込めたご近所迷惑は、と何の勝負か勝ち誇った顔でちらっと見てみると、立番の制服警察官がものすごい形相でこちらを睨んでいた。警杖を握る右腕には、明らかに余分な力がこめられている。
鏡はそっと窓を閉めた。