1年に3日だけ、浮気を許してください
「1年に3日だけ、浮気を許して欲しい」
私の告白に対して、彼はそんな言葉を返してきた。
高校生のときから、彼のことが好きだった。想い続けていた。
でも、彼にはずっと彼女がいた。仲睦まじい、恋人同士。互いが、互いを大切にし合っている。好きな気持ちがにじみ出ている。二人の周りだけ、空気が少し暖かい。
そんな姿を見せられても、ずっと好きだった。
彼が結婚したときは、さすがに落ち込んだ。
だけど、結婚から4年後に、彼が独り身に戻って。表情だけで、彼の抱えている寂しさがわかって。
私は告白した。
ズルくても、卑怯でもいい。私は彼が好きだし、彼は寂しい。利害の一致があるなら、いいと思った。たとえ彼が、ただ寂しいだけで私と付き合ったのだとしても。私を愛していなくても。
私が、彼を好きなんだから。
意を決した私の告白。彼の返事は、イエスでもノーでもなかった。
「1年に3日だけ、浮気を許して欲しい」
そんな、予想もできない言葉だった。
彼の浮気相手は、元妻。
私と彼、そして彼の元妻は、高校の同級生だった。
彼と元妻は、高校時代から付合っていた。
私はずっと、彼が好きだった。高校のときから、28の今まで。でも、彼の元妻も好きだった。仲のいい友人だった。
だから、自分の気持ちを隠し続けていた。同じ大学に進学したときも。卒業して就職した後も。23のときに出席した、彼等の結婚式のときも。自分の気持ちに蓋をし続けた。
「おめでとう」
彼等の結婚式で、笑顔で祝福した。心の中では大泣きだった。
けれど、去年のクリスマス・イヴに、彼は独り身に戻った。
10年以上、焦がれていた恋。今なら付け入る隙がある。それを見逃す手はなかった。
「いいよ。1年で3日だけなら」
こうして私は、彼と付き合い始めた。
実のところ、人生で初めての彼氏だった。
10年以上も片想いを続けた私は、完全に恋愛初心者だった。だから、分かっていなかった。
1年でたった3日の浮気。1年の1パーセント以下。1年の100分の1以下のその時間が、どれだけ自分の胸を締め付けるか。
1年で最初の浮気の日は、6月1日。彼の元妻の誕生日だ。
浮気の日に、彼は、左手の薬指に指輪をはめる。普段はしていない指輪。彼と彼女を繋ぐ証。結婚していたときのように。
1年で2回目の浮気の日は、7月2日。彼と元妻の、結婚記念日。
付き合う前は、浮気くらい我慢できると思っていた。だって、1年でたった3日なんだから。
私と彼は、まだ一緒に暮らしていない。それでも、度々互いの家にお泊まりする。一緒にいる時間は、浮気の時間よりもはるかに長い。元妻よりも私の方が、彼と共有している時間は長い。
だから、我慢できると思っていたのに。
浮気されても、私が彼を嫌いになることなんてない。むしろ、付き合う時間を重ねるごとに、好きだという気持ちが大きくなる。高校時代から抱え続けた気持ちは、色褪せることなんてない。
そりゃあ、距離が縮まれば、今まで見えなかった嫌な部分も見えてくる。彼は目覚めが悪くて、寝起きは馬鹿みたいな顔をしている。料理がまるでできない。びっくりするほどの音痴。自分に好意を寄せている女性に対して、まるで鈍感。
でも、今まで気付かなかったいい部分もあった。彼は優しくて、包容力がある。私のくだらない話にも、ちゃんと耳を傾けてくれる。仕事の愚痴だって、嫌な顔ひとつせず聞いてくれる。好きなバンドや映画のことを、子供のような笑顔で語る。
嫉妬で苦しいのに、ますます好きになる。
付き合って2年目に入る頃に、私は、同棲しようと提案した。
一緒にいる時間が今よりも長くなれば――元妻なんて足下にも及ばないくらい、いつも一緒にいられたら。
きっと、もっと余裕を持てるはずだ。
過去や、1年で3日だけの時間なんて関係ない。彼は、私のものなんだ。少なくとも、1年のうちの362日は。元妻との浮気の、100倍以上の時間が。
それくらい長い時間、私は、彼を独占できるんだ。
浮気しても、彼が帰るのは、私のところなんだ。
――結果だけで言えば、私の目論みは見事に外れた。
確かに彼は、私のところに帰ってくる。普段も、浮気の日も、私のところに帰ってくる。
それなのに、私の心は痛みに打ち震えていた。
浮気の日に、彼は結婚指輪をする。私がしていない、結婚指輪。それを彼が、左手の薬指にはめる。切なそうに。どこか憂いのある顔で。
指輪をした彼は、明らかに私のものではなかった。
元妻のもの。
元妻とは、ただの恋人なんかじゃない。永遠を誓った相手。
指輪をして家を出る彼を、私は笑顔で見送った。彼の前では決して泣かなかった。
彼が出て行った後、ひとりで泣いた。声も出さず、ただボロボロと涙を流した。
どこまでいっても、何をしても、彼は私だけのものにならない。
私以外の女の、夫なんだ。
私と彼の関係が、3年目に入った。
私は30になった。
付き合って3年目の、クリスマス・イヴ。
今日は、1年で3回目の浮気の日だ。1年で最後の、浮気の日。
彼の元妻の――私の友人の、命日。
彼女は、4年前のクリスマス・イヴに亡くなった。交通事故だった。
彼と彼女は、毎年、クリスマス・イヴを祝っていたという。プレゼントを買って、チキンとケーキを用意して。
暗くした部屋で、ケーキに立てたろうそく。淡い炎の光。銀色の結婚指輪が、炎の光を反射していた。買ったチキンは、美味しそうな匂いがしていた。
リボンで飾った、互いのプレゼント。ろうそくの光の中で交換していた。当たり前のように、毎年こんなふうに過ごすと思っていた。いつか子供が生まれたら、プレゼントの数もひとつ増えるのだと思っていた。
でも、そんな未来は永遠に訪れなかった。
あのクリスマス・イヴの夜。彼女は、チキンとケーキを買って帰路についていた。チラチラと雪が舞い落ちる、ホワイト・クリスマスだった。
右手にケーキ。左手にチキン。背負ったリュックの中には、プレゼント。荷物の重みは、幸せな重みだったはずだ。最愛の夫と特別な日を過ごすための、幸福のアイテム。
湿り気のない雪は、気温の低さを物語っていた。路面は、油断すると滑ってしまうほど凍っていた。
青信号で渡った、横断歩道。スリップした車が、突っ込んできた。
彼女は咄嗟に、自分の荷物を守ろうとした。夫とクリスマスを過ごすための、チキンとケーキ。プレゼント。自分の荷物を守るために、自分の体を盾にした。
だから、彼女自身が壊れた。
彼女と一緒に跳ね飛ばされたケーキは、グチャグチャになった。チキンは、原型を留めなかった。夫に買った最新のタブレットは、画面に大きな亀裂が入って動かなくなった。
彼女自身の命も散った。
彼女のプレゼントは――壊れたタブレットは、今でも彼の部屋にある。宝物のように箱に入れられて。一度も電源が入れられることもなく、壊れたまま保管されている。
私は、彼の寂しさを埋めたかった。好きだから、慰めたかった。死んでしまった彼女には、永久に敵わない。彼の中で、彼女は、美化されて生き続ける。
それでもいいと思っていた。
今でも、それでもいいと思っている。
私が、彼のことを好きなのだから。
だけど、1年のうちのこの3日は、たまらなく悲しい。たまらなく苦しい。呼吸困難になるほど、胸が痛い。
玄関から、鍵が開く音が聞こえた。彼が、浮気から帰ってきた。
元妻との時間を過ごして。元妻と浮気をして、帰ってきた。
時刻は、午後11時になっていた。
もうすぐ、彼女の命日が終わる。
リビングに入ってきた彼を、私は、無理につくった笑顔で迎えた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
彼は、小さな紙袋を持っていた。濃い藍色の紙袋。光が反射する素材。
紙袋を持つ、彼の左手。その薬指。
彼の薬指には、指輪がなかった。出かけるときは、確かに着けていたのに。
「指輪、どうしたの?」
「……」
彼は何も答えなかった。ただ、紙袋の中から、ひとつの箱を取り出した。小さな箱。乳白色で、綺麗な装飾が施されている。
私は恋愛初心者だ。恋人とすることは、全て彼が初めてだった。初めてのキス。初めてのセックス。初めての同棲。もちろん、恋人からプレゼントを貰うのも、彼が初めてだ。
それでも、彼が持っている箱が何か、容易に分かった。その箱の中に、何が入っているのか。
彼は、私の目の前で箱を開けた。白銀の指輪が入っていた。
私は、プレゼントなんて用意していない。今日は浮気の日だから。彼が、彼女の夫に戻る日だから。
「指輪、どうしたの?」
再び私が聞いたのは、目の前にある指輪のことではない。彼の左手の薬指にあった指輪。
彼は、箱に入った指輪を見せながら、今度は私の質問に答えてくれた。
「あいつの実家に行ってきたんだ。指輪は、仏壇に置いてきた」
生前の彼女が着けていた、結婚指輪。今は、もう一つの結婚指輪と対になっているという。彼女の遺影の前で。
「お義父さんとお義母さんに挨拶してきた。結婚したい人がいる、って。だから……」
部屋の中は、蛍光灯の明るい光に照らされている。彼と彼女がしていたという、ろうそくの光に照らされながらのプレゼント交換――そんな雰囲気なんて、微塵もない。
私の頬には、いつの間にか、涙が流れていた。明るいから、泣き顔がはっきりと見られてしまう。化粧もしていないし、髪の毛だってセットしていない。出かけていないから、着ているのはスエットだ。
クリスマスらしい雰囲気なんてない、生活感に満ちた私。
そんな私に、彼が言った。
「結婚してくれないか」
1年に3日の浮気は、今年で終わりだ。指輪が消えた彼の左手が、それを物語っていた。
「俺は、あいつのタブレットを捨てられないと思う。前の結婚のときみたいな特別感のあるクリスマスも、できないかも知れない。でも、君と一緒にいたい」
少し間をおいて、彼は続けた。
「俺と、死ぬまで一緒にいてほしい」
箱に入った指輪が反射しているのは、蛍光灯の光。色気も雰囲気もない、明るく白い光。淡く色っぽいろうそくの光とは違う。
彼女が、彼と過ごしていたクリスマスとは違う。
でも、それでいい。
悲しいだけのクリスマスは、今年で終わりにしたい。
来年からは、ずっと、ずっと、楽しいクリスマスを過ごしたい。
私はそっと、左手を彼に差し出した。
「これからも、よろしくお願いします」
涙声になってしまった。
悲しさはある。反面、嬉しさもある。そんな涙。
私は絶対に、彼のもとから消えたりしない。