表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

1年に3日だけ、浮気を許してください

作者: 一布


「1年に3日だけ、浮気を許して欲しい」


 私の告白に対して、彼はそんな言葉を返してきた。


 高校生のときから、彼のことが好きだった。想い続けていた。


 でも、彼にはずっと彼女がいた。仲睦まじい、恋人同士。互いが、互いを大切にし合っている。好きな気持ちがにじみ出ている。二人の周りだけ、空気が少し暖かい。


 そんな姿を見せられても、ずっと好きだった。


 彼が結婚したときは、さすがに落ち込んだ。


 だけど、結婚から4年後に、彼が独り身に戻って。表情だけで、彼の抱えている寂しさがわかって。


 私は告白した。


 ズルくても、卑怯でもいい。私は彼が好きだし、彼は寂しい。利害の一致があるなら、いいと思った。たとえ彼が、ただ寂しいだけで私と付き合ったのだとしても。私を愛していなくても。


 私が、彼を好きなんだから。


 意を決した私の告白。彼の返事は、イエスでもノーでもなかった。


「1年に3日だけ、浮気を許して欲しい」


 そんな、予想もできない言葉だった。


 彼の浮気相手は、元妻。


 私と彼、そして彼の元妻は、高校の同級生だった。


 彼と元妻は、高校時代から付合っていた。


 私はずっと、彼が好きだった。高校のときから、28の今まで。でも、彼の元妻も好きだった。仲のいい友人だった。


 だから、自分の気持ちを隠し続けていた。同じ大学に進学したときも。卒業して就職した後も。23のときに出席した、彼等の結婚式のときも。自分の気持ちに(ふた)をし続けた。


「おめでとう」


 彼等の結婚式で、笑顔で祝福した。心の中では大泣きだった。


 けれど、去年のクリスマス・イヴに、彼は独り身に戻った。


 10年以上、焦がれていた恋。今なら付け入る隙がある。それを見逃す手はなかった。


「いいよ。1年で3日だけなら」


 こうして私は、彼と付き合い始めた。


 実のところ、人生で初めての彼氏だった。


 10年以上も片想いを続けた私は、完全に恋愛初心者だった。だから、分かっていなかった。


 1年でたった3日の浮気。1年の1パーセント以下。1年の100分の1以下のその時間が、どれだけ自分の胸を締め付けるか。


 1年で最初の浮気の日は、6月1日。彼の元妻の誕生日だ。


 浮気の日に、彼は、左手の薬指に指輪をはめる。普段はしていない指輪。彼と彼女を繋ぐ(あかし)。結婚していたときのように。


 1年で2回目の浮気の日は、7月2日。彼と元妻の、結婚記念日。


 付き合う前は、浮気くらい我慢できると思っていた。だって、1年でたった3日なんだから。


 私と彼は、まだ一緒に暮らしていない。それでも、度々互いの家にお泊まりする。一緒にいる時間は、浮気の時間よりもはるかに長い。元妻よりも私の方が、彼と共有している時間は長い。


 だから、我慢できると思っていたのに。


 浮気されても、私が彼を嫌いになることなんてない。むしろ、付き合う時間を重ねるごとに、好きだという気持ちが大きくなる。高校時代から抱え続けた気持ちは、色褪(いろあ)せることなんてない。


 そりゃあ、距離が縮まれば、今まで見えなかった嫌な部分も見えてくる。彼は目覚めが悪くて、寝起きは馬鹿みたいな顔をしている。料理がまるでできない。びっくりするほどの音痴。自分に好意を寄せている女性に対して、まるで鈍感。


 でも、今まで気付かなかったいい部分もあった。彼は優しくて、包容力がある。私のくだらない話にも、ちゃんと耳を傾けてくれる。仕事の愚痴だって、嫌な顔ひとつせず聞いてくれる。好きなバンドや映画のことを、子供のような笑顔で語る。


 嫉妬で苦しいのに、ますます好きになる。


 付き合って2年目に入る頃に、私は、同棲しようと提案した。


 一緒にいる時間が今よりも長くなれば――元妻なんて足下にも及ばないくらい、いつも一緒にいられたら。


 きっと、もっと余裕を持てるはずだ。


 過去や、1年で3日だけの時間なんて関係ない。彼は、私のものなんだ。少なくとも、1年のうちの362日は。元妻との浮気の、100倍以上の時間が。


 それくらい長い時間、私は、彼を独占できるんだ。

 浮気しても、彼が帰るのは、私のところなんだ。


 ――結果だけで言えば、私の目論みは見事に外れた。


 確かに彼は、私のところに帰ってくる。普段も、浮気の日も、私のところに帰ってくる。


 それなのに、私の心は痛みに打ち震えていた。


 浮気の日に、彼は結婚指輪をする。私がしていない、結婚指輪。それを彼が、左手の薬指にはめる。切なそうに。どこか憂いのある顔で。


 指輪をした彼は、明らかに私のものではなかった。


 元妻のもの。


 元妻とは、ただの恋人なんかじゃない。永遠を誓った相手。


 指輪をして家を出る彼を、私は笑顔で見送った。彼の前では決して泣かなかった。


 彼が出て行った後、ひとりで泣いた。声も出さず、ただボロボロと涙を流した。


 どこまでいっても、何をしても、彼は私だけのものにならない。


 私以外の女の、夫なんだ。


 私と彼の関係が、3年目に入った。

 私は30になった。


 付き合って3年目の、クリスマス・イヴ。


 今日は、1年で3回目の浮気の日だ。1年で最後の、浮気の日。


 彼の元妻の――私の友人の、命日。


 彼女は、4年前のクリスマス・イヴに亡くなった。交通事故だった。


 彼と彼女は、毎年、クリスマス・イヴを祝っていたという。プレゼントを買って、チキンとケーキを用意して。


 暗くした部屋で、ケーキに立てたろうそく。淡い炎の光。銀色の結婚指輪が、炎の光を反射していた。買ったチキンは、美味しそうな匂いがしていた。


 リボンで飾った、互いのプレゼント。ろうそくの光の中で交換していた。当たり前のように、毎年こんなふうに過ごすと思っていた。いつか子供が生まれたら、プレゼントの数もひとつ増えるのだと思っていた。


 でも、そんな未来は永遠に訪れなかった。


 あのクリスマス・イヴの夜。彼女は、チキンとケーキを買って帰路についていた。チラチラと雪が舞い落ちる、ホワイト・クリスマスだった。


 右手にケーキ。左手にチキン。背負ったリュックの中には、プレゼント。荷物の重みは、幸せな重みだったはずだ。最愛の夫と特別な日を過ごすための、幸福のアイテム。


 湿り気のない雪は、気温の低さを物語っていた。路面は、油断すると滑ってしまうほど凍っていた。


 青信号で渡った、横断歩道。スリップした車が、突っ込んできた。


 彼女は咄嗟に、自分の荷物を守ろうとした。夫とクリスマスを過ごすための、チキンとケーキ。プレゼント。自分の荷物を守るために、自分の体を盾にした。


 だから、彼女自身が壊れた。


 彼女と一緒に跳ね飛ばされたケーキは、グチャグチャになった。チキンは、原型を留めなかった。夫に買った最新のタブレットは、画面に大きな亀裂が入って動かなくなった。


 彼女自身の命も散った。


 彼女のプレゼントは――壊れたタブレットは、今でも彼の部屋にある。宝物のように箱に入れられて。一度も電源が入れられることもなく、壊れたまま保管されている。


 私は、彼の寂しさを埋めたかった。好きだから、慰めたかった。死んでしまった彼女には、永久に(かな)わない。彼の中で、彼女は、美化されて生き続ける。


 それでもいいと思っていた。

 今でも、それでもいいと思っている。


 私が、彼のことを好きなのだから。


 だけど、1年のうちのこの3日は、たまらなく悲しい。たまらなく苦しい。呼吸困難になるほど、胸が痛い。


 玄関から、鍵が開く音が聞こえた。彼が、浮気から帰ってきた。


 元妻との時間を過ごして。元妻と浮気をして、帰ってきた。


 時刻は、午後11時になっていた。


 もうすぐ、彼女の命日が終わる。


 リビングに入ってきた彼を、私は、無理につくった笑顔で迎えた。


「おかえりなさい」

「ただいま」


 彼は、小さな紙袋を持っていた。濃い藍色の紙袋。光が反射する素材。


 紙袋を持つ、彼の左手。その薬指。


 彼の薬指には、指輪がなかった。出かけるときは、確かに着けていたのに。


「指輪、どうしたの?」

「……」


 彼は何も答えなかった。ただ、紙袋の中から、ひとつの箱を取り出した。小さな箱。乳白色で、綺麗な装飾が施されている。


 私は恋愛初心者だ。恋人とすることは、全て彼が初めてだった。初めてのキス。初めてのセックス。初めての同棲。もちろん、恋人からプレゼントを貰うのも、彼が初めてだ。


 それでも、彼が持っている箱が何か、容易に分かった。その箱の中に、何が入っているのか。


 彼は、私の目の前で箱を開けた。白銀(プラチナ)の指輪が入っていた。


 私は、プレゼントなんて用意していない。今日は浮気の日だから。彼が、彼女の夫に戻る日だから。


「指輪、どうしたの?」


 再び私が聞いたのは、目の前にある指輪のことではない。彼の左手の薬指にあった指輪。


 彼は、箱に入った指輪を見せながら、今度は私の質問に答えてくれた。


「あいつの実家に行ってきたんだ。指輪は、仏壇に置いてきた」


 生前の彼女が着けていた、結婚指輪。今は、もう一つの結婚指輪と(つい)になっているという。彼女の遺影の前で。


「お義父さんとお義母さんに挨拶してきた。結婚したい人がいる、って。だから……」


 部屋の中は、蛍光灯の明るい光に照らされている。彼と彼女がしていたという、ろうそくの光に照らされながらのプレゼント交換――そんな雰囲気なんて、微塵もない。


 私の頬には、いつの間にか、涙が流れていた。明るいから、泣き顔がはっきりと見られてしまう。化粧もしていないし、髪の毛だってセットしていない。出かけていないから、着ているのはスエットだ。


 クリスマスらしい雰囲気なんてない、生活感に満ちた私。


 そんな私に、彼が言った。


「結婚してくれないか」


 1年に3日の浮気は、今年で終わりだ。指輪が消えた彼の左手が、それを物語っていた。


「俺は、あいつのタブレットを捨てられないと思う。前の結婚のときみたいな特別感のあるクリスマスも、できないかも知れない。でも、君と一緒にいたい」


 少し間をおいて、彼は続けた。


「俺と、死ぬまで一緒にいてほしい」


 箱に入った指輪が反射しているのは、蛍光灯の光。色気も雰囲気もない、明るく白い光。淡く色っぽいろうそくの光とは違う。


 彼女が、彼と過ごしていたクリスマスとは違う。


 でも、それでいい。


 悲しいだけのクリスマスは、今年で終わりにしたい。

 来年からは、ずっと、ずっと、楽しいクリスマスを過ごしたい。


 私はそっと、左手を彼に差し出した。


「これからも、よろしくお願いします」


 涙声になってしまった。

 悲しさはある。反面、嬉しさもある。そんな涙。


 私は絶対に、彼のもとから消えたりしない。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 一年の内たったの三日、しかしあまりにも大きな三日でした。 真相を知った時は胸を締め付けられるような思いでした。 思い出はそのままに前に進む決断をした主人公夫婦を応援したいです。
[良い点] 目を惹くタイトル、読みやすい文、適度な長さ、素敵な登場人物、綺麗な終わり方。とてもいいものを読ませてもらいました。
[良い点] 心に染みるお話でした。切ないもどかしい思いで押し潰されそうになる気持ちが凄く伝わってきました。ラストも良いのだけれど、良いのだけれども、あああっ!って感じで。(表現できない) 感動をありが…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ