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富岡先生 城西探索記

作者: 坂井瑞穂

 静岡大學終年次、余希求訓導実習於逆茂木初等學校

 同校在郡下最僻地也

 富岡先生、毎勤務於逆茂木村輒操舵軽貨車

 其行程、自本宅内城西村貳時間也

 某時余訪先生于向城西村、本文之某時滞在記也。


 いにしえの文豪に倣いて古語にて綴ったところでこれを諒解せしめざれば、ウビフ語オロチ語に同じきこと、以後簡潔平易をもって執筆に臨む次第。

 六月末の土曜日深夜、私は明週からの教育実習にのぞむため静岡市内の下宿を出て、一路西へと原動機自転車(げんチャリ)を走らせた。行く先は周智郡城西村にある逆茂木小学校、教育実習生となる私の担当責任者である富岡和範先生を訪るため、今後三週間にわたる実習の細かい打ち合わせなど直接の面談が必要ということで、前日の日曜日に自宅に来るよう指示されていたのだ。

 先生の家は城西村松島の今田神社鳥居前と聞いていたが、道なりにゆけばそのままつけるであろうと、安直に考えていた。しかし城西村へは国道152号を通らなくてはならず、この国道とは名ばかりの酷道が頻発する自然災害による不通や転落事故のためにここを通過するドライバーたちを恐怖のどん底に落としているのを知っていたから、私は時間に余裕をもって少々早めに出たつもりであったが、周智郡に入ったと思う頃に時計を確認するともう午前三時をまわっており、気のせいか一番鶏の刻の声を耳にした。

 富岡先生の勤務する逆茂木小学校も二年前までは逆茂木村立の学校であったものの、この間逆茂木村があまりに僻地であるために独立した自治体として成立が困難となったとして城西村に編入する措置がとられた経緯をもっている。だがしかし編入したからといって実際の道のりが短縮されるわけでなく、城西村中心部の先生宅から逆茂木小学校まで軽バンで林道走行、片道二時間以上を要するという。ちょったした崖崩れや決壊ならば後回しにされる林道を毎日片道二時間かけて、富岡先生は山を越え、谷を越え、隧道を越えて逆茂木地区へと通勤している。

 逆茂木小学校は僻地度級数6の極僻地指定学校である。それまで県内に二校あった最高5等級僻地学校(水窪町立門桁小、熱海市立初島小)を上回る不便さが新たな算定方法で指摘され、安倍郡下の按察使(あぜち)村、柿ヶ島村、小余綾こゆるぎ)村の学校とともに6等級僻地として指定されたのである。

 もっともこれら四か村は昭和三十年代までは南朝の隠れ里として伝わる、いわゆる実在しない村と考えられていた。だが周智郡下にひとつ、安倍郡下に三つ村があることが判明し、当時の第三次全国総合開発計画(三全総)と首相主導による日本列島改造論が注目された時代背景もあり、それまで地上の楽園の暮らしを謳歌していた杣人たちも、現代社会の一員として位置づけられることになったのだ。

 逆茂木村については近年まで到達記録さえなく、その存在も否定する学者や政治家が現れたりしていたが、当時駆け出しの新聞記者だった作家の鱈野目豹泉(たらのめひょうせん)氏が秘伝とされてきた植物の赤い竜胆❴サカモギリンドウの和名❵の調査に勝坂側から山に入り、見事秘伝の竜胆の赤い花とともに室町時代以来外部と往来がなかった逆茂木村を発見するに至ったのである。

 私が逆茂木小学校に入るのは明日月曜日の朝だが、そこへと辿る序章にすぎぬ、先生宅のある城西村までの酷道152号深夜走行、正直いって私の精神力は早朝に城西村に到着した段階でその大半を疲弊させてしまっていた。わかりやすくいうと怖気づいてしまったのである。

 来る途中、件の酷道152号は周智郡に入ると谷山村、龍山村、瀬尻村、大輪村、山香村、下相月村と小規模な村が連続する。これらの村がこの時代にまで合併することなく各村単位で存続してきたのは何より行政の指導もあるだろうが、この国道、危険酷道のレッテルを貼られ、事あるごとに問題視される152号線が戦後開通するまで地域を貫流する天竜川の水運、船運が唯一の交通手段とされてきたことに起因している。

 そして何ゆえこの地方の道路網の整備がほかの地域よりも著しく遅滞したのかといえば、それはこの一帯、北遠地域とよばれるこのあたりの脆弱な地質が原因なのだと言いきれるのである。他に例をみない複雑な地層構造、そして日本列島のアキレス腱とまでいわせた活断層の集中、さらには震度1程度の地震で引き起こされる崖崩れが、数年前の不運な死亡事故を誘発したとして酷道のイメージを余計に悪化させてしまっている。私の走行中は地震こそ起きなかったものの、ヘルメットに上からの落下物を得た衝撃が、そのたびに私を戦慄させ二度三度と落車しそうになった。

 明るさを増した早朝四時半、先生の家の門を叩くにはまだはやい時刻といえたが、これまでの道中を思うと城西村の割と穏やかな風景が私の今後の安寧をいくらかでも約束してくれているように感じられて、無意識のうちに今田神社の手洗い鉢の脇にある切り株にふと腰を下ろしてしまった。

 確かに道を甘くみた、油断もあったろう。だがここより下流の村、龍山郷から瀬尻村、山香村あたりは二度と深夜に原チャリで走行しようとは思わない。地図上では天竜川に沿って国道が通行しているようにみえても、実際は川沿いに進むと、崖や岩盤に悉く出くわし、それらを迂回するために進行方向さえ不安にさせられる。時折見かける青いおむすび型の国道標識にいっときの安心は得られるものの、道はすぐに行き先表示のない二股、三股や行き止まりを繰り返す。その度に遥か上空を見上げ、星明かりと見紛う天界集落が醸す家の光が航路の澪標となって私を助けてはくれたものだが、朝になってその集落の所在を地図上で再度確認するとそこはなんと国道から高度差六五〇メートルの、ほぼ垂直上空の急斜面の村であった。

 梅雨の合間にしては爽快なほどの朝陽が輝き、乾いた風が心地よく頬をうち流れていく。誰もいない神社の境内は時の経過を忘れさせる佇まいである。農協の職員であろうか、地味な制服姿の小肥りな中年紳士が鳥居を潜って近づいてくるのが見えた。朝の散歩だろうか、くらいにしか思わないほど私は寛いでいたがその紳士は私の顔を見てはすこし微笑んでみせ、はて、どこかでお会いしたでしょうか、と疑問を投げ掛けてくるふうであったが、肝心の私がさっぱり思い出せないでいる素振りを見せてしまったものだから、

"富岡です、お待ちしておりました。"

 と丁寧な挨拶を頂いたときは拍子抜けした気分が先に立って、返礼もしどろもどろにさせてしまうところであった。尤も前もって先生のお写真は頂いてあったし、それで以前どこかで会った錯覚をおこしたのであろう。われながら迂闊であった。

"すぐにあなただとわかりましたよ、国木田君。身長一九三センチなんていうのはこの村の住民にはいませんからね、さあどうぞ。"

 富岡先生はちょうどきょうの朝陽の光のような晴れやかな表情で私を自宅に招き入れてくれた。

 立派な神社も構えているし、来るときに少し手前に村役場入口の看板も見た。城西村の中ほどの集落なのだろう。想像したよりもはるかに平坦な印象を受けるが、遠くに眼をやるにつれ急な岩山がいくつも聳えている。家家が密集して建てられているからそれほど目立ちはしないが、自分がいまいるこのあたりも相当に傾斜した土地のようである。先生のお宅は神社を小川で隔てた南側の、六段から十一段にどっしりと積まれた石垣の上にあり、国道側にまわって入り口の階段を昇ると時代を感じさせる旧家が現れた。その民族資料館調の出で立ちに思わず感嘆の声をあげてしまうところであった。

 いわゆる古い民家というものは五軒十軒の間取りを標準にすると聞いたことがある。先生の家の建物もいまでこそ金属板の屋根に葺き替えられているが、もともとは茅葺きか何かだったのであろう。聞けば築一〇〇年とのことである。ほんのり淡い墨色を纏った引き戸を開け、私は囲炉裏端の部屋に通された。

"調査書を見て驚いたんだけど、随分と個性的な境遇なんだねえ。ええと、生まれは−−"

"出身は千葉県銚子市、ということになっていますが、生まれたのはノルウェーのトロムソという町なのです。それも出生届を出したのがトロムソであって、実際に生まれたののはトロール船の中だったそうです。

 父親が遠洋漁業船に乗り込んでいた関係で、出産予定日の近づいた母を出張先のノルウェーに滞在させるつもりが予定より早産になってしまったようなのです。調書にも書きましたが父の実家では母を嫁と認めなかったので私も銚子の家に出入りしたことはありません。家族で帰国したのちは暫く東京の下町、朝顔市で有名な入谷に住んでいました。その後父の転勤に伴い山口県に移り、岩国、柳井、田布施、加佐登、防府、下松と中学の三年間で計六回、目まぐるしく転校を繰り返しました。

 高校に進むときも父が大分県佐伯市にあるヤマト冷熱工業という冷蔵庫製造会社の取締役として招聘され、自分と弟も付いていくことになりました。高校は佐伯上条高校です。一応進学校で通ってはいますが体育専科もあって運動が盛んな学校です。"

"なまえは国木田--"

"鉄生(てつお)です。"

"なんだか国木田独歩を思い出すなあ。確かあの文豪も総州銚子に生まれ、東京の下谷、それから山口、大分と渡り歩いていったんじゃなかったっけ。"

"ですから自分は下谷ではなく入谷で−−"

"独歩さんの本名は確か、ええと−−"

"国木田哲夫です。哲学の哲に(おっと)、私はといえば屑鉄の鉄が生まれると書いて、それで鉄生です。詰まりはカネ失いが生まれてしまった、というわけなのです。"

"ははは、それは面白い。いい語呂合わせだ、いや、失礼。"

"で、その高校時代ですが、私はサッカー部所属でした。全国大会にも出ました。"

"ちょっと待って、三年前の全国選手権大会は見ていたからよく覚える。確か佐伯上条高校は静岡県代表の掛川高校に勝って、当時はものすごい番狂わせだとか報道されていたんだ。"

 物静かで温厚そうな先生だと思ったが、スポーツの話題ともなると結構熱血なとこもあるようだ。

"あの試合、中継をずっと見ていたよ。決勝点を取った大柄な選手が仲間たちと喜び合うこともなく、鬼のような形相で仁王立ちしていたからね。確か背番号12番、あの選手が国木田君だったのか。"

"ありがとうございます。憶えていてくださって、非常に光栄です。ですがあの試合、まだ後半が始まったばかりの時間でしたし、相手も静岡県代表の学校ですけん、喜んでいられるような場面やなかった、そげな状況でした。

 あの試合のあと、うちのチーム内には静岡の代表に勝った、いう達成感、或いは満腹感みたいな空気が流れはじめたんです。悪い予感は的中しました。次の準々決勝で兵庫県代表の仙案濃高校相手に1-6とボロボロに負けました。ですが実力的に上条はあそこまででしょう。仙案濃高校にはいま日本代表に名を連ねている香川真司、和田堅志朗、小幡季生、富永虹七が揃っていたわけですから。"

"静大へはどういった経緯で入ったの。やっぱりサッカー関連なのかな。"

"さあー、改めて聞かれますと答えられないものですね。静大は、学内をみますと県内のサッカー熱が、なんでここだけ、いうくらい冷めていますし、個人的にも大学でサッカーを続けるつもりはありませんでした。じゃけん、すいません、失礼しました。急に豊後訛りを出してしまいました。

 いま思い出したんですけど、高校のときも遠征試合や合同練習の合宿などがあってなんども静岡へは来ているんです。そのとき知り合った青山いうやつが、静大に来い、そう言うた気がします。じゃけん、これって大学の志望理由にしてはパンチありませんよね。

 自分が静大を受験するに至ったきっかけか、ううん、やっぱ説明できん運命的なものかなあ。すみません、答えになっていませんでした。"

"いずれにしても国木田君は親御さんが、一定の法則性を含めた願いをもって名付けたものだとぼくは思うよ。"

"自分もそれはあると思います。弟のなまえも秀二(しゅうじ)、いいますし、僕自身意識して文学を目指そうか考えた時期もありました。ですが改めて勉強しようにも文学というものは全くもって掴みどころがないのです。

 自分のような薄学な凡才の立ち入る領域ではないのだと次第に分かってくるのです。"

"いやあ、国木田君は凡才ではないでしょう。薄学ということもまさかあるまい。意を決して最僻地の学校で教生になろうと考えるのだからね。"

"それなのですが、僕は自分で選択した行動の、その出発地においてすでにたじろいでしまっているのです。先生には申し訳のたたぬことではありますが、武者震いをおこしているといいますか、期待と不安が同率首位に並んでしまったようなものなのです。"

"それなら大いに結構なことじゃないの。"

"例えば昨晩のここへ来るまでの道のり、確かに自分は道をなめていました。酷道の悪名高い国道152号線を軽く認識しすぎていました。ですが実に凄まじいものでした。至るところで崖崩れや路面の陥没や浸水に出くわすばかりか、それらの迂回路を捜そうにも全くといって説明がないし、あちこちに分れ道があって混乱するし、トンネルに入れば中のほうが崩落していて通れないのです。

 あれは酷道なんて生易しいものではありません。廃道です。"

"152号線は去年、拡幅工事がおわって、走りやすくなっているはずなんだけど、国木田君が走ったのは天竜川の右岸、左岸のどっちだろう。"

"川がずっと左にありましたから、左岸です。"

"あちゃー、それは旧道だ。"

"通り雨がきて途中の桂山集会所、いうところで雨宿りをしましたが、こげなもんが落ちていました。"

 私は<森水キャラメル>の古い空き箱を先生に見せた。森永(もりなが)ならぬ森水(もりみず)キャラメルの箱をである。

"珍しいものを見つけたね。これは戦後すぐの占領軍統治時代に進駐軍が見よう見まねで作ったもの、オキュパイドジャパンの産物だよ。本当、国木田君と話していると退屈しない。"

 富岡先生が私の静岡大学入学当初の頃のこと、というより青山のことをもっと聞きたいというので話を続けた。

"入学式の前日に半期分の授業料を納めて、入学の手続きを済ませに教務課へ行くとそこに青山がいました。なんだか自分を待っていたような様子でしたが、そのとき僕には少々誘導されている違和感というか、表現のしようがないただならぬ気分にさせられました。なぜならそれ以前に一度会ったきりの、素性すらよく知らない彼が、すでに僕の身近な存在として振舞っていたからです。初めは裏になにか、島尾敏雄の<贋学生>みたいな悪意でもはらませているのではないかと疑いもしましたが、それも杞憂だったようです。静大にはほかに知り合いもいませんでしたし、教養科目の講義も隣り合わせで受ける、そんな毎日で大学生活が始まりました。下宿も割と近くで晩には大学の生協へ行って一緒に食事をすることも多かったものです。

 そんな青山にふと、自分たちのプロジェクトを手伝ってくれないかと誘われました。最初、学生運動かなにかだろうと思いましたが彼が言うには、この春に閉校となった県内の山あいにある中学校を動画撮影するから、それで自分にビデオ機材を回して欲しいというものでした。学校は佐久間西中、先生もご存知と思いますが、天竜川水系のダム開発で白神や山室、佐太といった集落がすべて水没して一気に人口希薄地帯となってしまったところです。

 撮影機材は僕が持ち、青山の指示で西中のメンバーたちが歌って踊ってミュージカル風に進めました。ビリー=ジョエルのフォアロンゲストタイム、日本語の歌詞で歌いながら校舎内を片っ端から、思い出の詰まった教室をひとつずつ紹介してまわる、そんな動画として仕上がりました。ビリー=ジョエルの歌にもそのように倉庫かどこかで歌いながら踊るものがあるのを知っていましたからきっと似たようなことをするつもりなんやろうと、僕もすっかりその場の雰囲気にひきこまれてしまいました。出来を見てみると結構な良い仕上りで、鉄生君は図体がでかいから機材がぶれずに済んだのだと皆で言うてました。西中の連中も青山に感謝していたようですし、僕も楽しいプロジェクトに参加できてよかったと思うてます。"


 佐久間西中 閉校によせて


 去りゆく歳月(とき)を知る 我らが校舎(まなびや)

 刻の声 耳に届くまで 今宵我ら駆け巡る


 机の落書きは 我らが書いたもの

 ふざけあってペンを片手に 未来へ届けとなぞった


 OH OH 長きにわたり OH 見守ってゆく


 この机 この黒板 我らの宝物

 いつだって 誰だって、ここへ戻ってくるのさ


 OH OH 長きにわたり OH 見守ってゆく


"撮影と編集を終えたのが午前様で、西中のグループと別れたあともう一か所付き合うてくれと青山に誘われました。飯田線の佐久間旧線が分岐する、長いトンネルの手前の峰集落を分けた廃道みたく荒れとるところ、そこが洞窟の入口でした。

−−鉄生君は図体がでかいからケービングは向かないかもしれないな−−

などと言うもんやから、僕も躍起になってしまい、そげなことはない、と応じました。自分かて狭いところを苦手とは思っていなかったし、大分の佐伯あたりにも鍾乳洞や海食洞とかいっぱいあって、高校時代に同級生とようけ探検に入っていましたから。"

"峰集落の裏手の洞窟っていうと久根鉱山あたりかな。"

"おっしゃるとおりです、先生。青山はその洞窟が奥のほうで久根鉱山の坑道と繋がっていると言うとりました。久根鉱山は二十年以上前に閉山になって、いまは坑口から流れ出る水を浄化する施設があって、坑道は封鎖されています。彼は坑道内の銅鉱石運搬用トロッコの写真を見せてくれましたが、洞窟側から入ったのでしょう。自分はあまり奥へは行きたくありませんでしたが、青山が嬉しそうな足取りで進んで行くものですから自然とつられてしまいました。そのとき見つけた石がこれです。"

 私は濃いピンク色の原石を先生に手渡した。

"なんだろう、綺麗な色の石だね。宝石なの、久根鉱山の近くで採れるんだ。"

"これはコバルトカルサイトという方解石の一種です。もうひとつ淡い緑色の石も見つけましたが、こちらは微量ながらも放射能が出ていて危ないから自分が持つといって、彼は分けてはくれませんでした。それが青山にとっての目当ての代物だったのでしょう。洞窟の中で大喜びしていました。そのとき石の正式な名称をなんと言ったのかわかりませんでしたが、後で調べました。銅スクロドフスカ石という名でした。スクロドフスカとは放射線研究者のマリー=キュリー夫人の旧姓から命名したものです。"

"さっきの箱もそうだけど、次から次と宝物を見つけるんだね。僕はこの土地に四十年近く住んでいるけど久根鉱山あたりにそのような輝石が出土するなんて考えたこともなかったよ。"

"ところがその青山が夏季休業(なつやすみ)を境に大学に出てこなくなったんです。教務課には何の届けも出てなくて全く連絡の取りようがなかったので龍山郷にある彼の実家を訪ねてみることにしました。村のもっとも上の集落、白倉に青山の家がありました。"

"名字からして龍山あたりかな、と思ったけど白倉だったのか。"

"ですがこのとき自分は青山のお母さんから重要なことをふたつ知らされました。ひとつは彼はすぐに戻れないが心配いらない、ということ。そしてもうひとつは青山諭(あおやまさとし)がお母さん、青山道子さんの実子ではない、ということでした。"

"国木田君、僕はうちが兼業の茶産農家ということもあって白倉の青山さんの家も知っている。道子さんは若い時分に胸を患って、いまも独身でいるはずだ。確かに父親は浅蔵、母親はせいという名だ。他所の子を養子にしていたというのならわかりそうなものだが--"

"青山のお母さんは僕を信用してくれて、本当のことを話してくれました。あいつはランジェリーデザイナー亀井陽子のこどもだそうです。青山道子さんは大阪でブティックに勤めた経歴もあって亀井女史とは懇意のようなのです。亀井女史になにか理由ができて、自分の息子として育てることになったらしいのですが、僕の印象では青山のお母さんがどことなく亀井陽子に似ていると感じました。"

"うーん、ちょっと解せないことがあるんだ。亀井陽子って結構有名だし雑誌とかにも頻出しているじゃない。僕が知る限りだと、息子の存在を果たして隠したりするだろうか、ということだ。芸術性の面でもかなり進歩的といえそうだし、結婚しないでこどもを産んだからって、もっと堂々としているんじゃないかと思うわけ。"

"その青山、青山諭ですが、僕はやつの行動からなにかヤバいことがあって帰ってこれないんやないかって心配したんですが、お母さんは落ち着いていました。そして言いました。時間はかかりましょうがあの子は必ず戻ってきます、って。実の子でなかろうとしっかりと理解してくれているんです。

 それなのに親不孝者ですよ、青山は。"

"国木田君は安倍郡の按察使村や小余綾村へは行ったことあるの。"

"いいえ、データが少なすぎます。怖くて行けません。僕はあいつがあのへんにあるといわれている亜空間や異空間の歪にでも入り込んでしもうたのかもしれん、と睨んでいるんです。

 身体は無事でいても、相当に厄介なことが考えれます。もし仮にですよ、何かの拍子に土星や天王星の公転軌道みたいなものに乗っかってしまうようなことになったら、ひと冬を越すのに三十年以上を要することもあり得るわけなのですから。

 彼のことはお母さんの言葉を信じて気長に待つことに決めました。"

 富岡先生は感慨深げな顔をして、時折相槌を打ったりしながら私の話を聞いてくれていたが、一度立ち上がって紙袋を持ってくると、中から御幣餅を一本ずつ取り出しては囲炉裏の隅に挿していった。

 私が家に通されたときも何本か挿してあったと思うが、あの御幣餅はどうなったのであろう。先生の家では焼きたての御幣餅を道行く人に売ってでもいるのだろうか。 

"だんだんとよめてきたぞ、国木田君がどうして逆茂木村で教育実習を受けようと考えるまでになったのか。普通ならば村の出身でもなければ、ここ城西村にだって敢えて入り込もうなどとはしないものだ。"

"自分は、研究と呼べるほど立派なものではありませんが、南朝系の貴種流離譚には関心を持っております。調べた限りでは逆茂木村の住民は、足利の残党の子孫である可能性をもっているとされており、僕自身、否定はしませんが現状、断定もできかねます。"

"そうだねえ、僕がはじめて逆茂木小学校に赴任したときも、その不思議な出で立ちに喫驚したものだけれど−−

 おっと、御幣餅が焼けたみたいだね、一本どう。"

 そう言って先生は私に小判型の御幣餅を手渡してくれた。美濃地方の銭型をふたつ串に刺したものよりも食べごたえがありそうである。

"この御幣餅は熊野修験者たちが齎したとも言われているんだ。保存食というよりも、もとは神前への供物だったのだろうね。だとすると何ゆえ熊野修験とともに供物の柿の葉寿司が入ってこなかったのか、の議論になっちゃうけど、それはさておき御幣餅によくにた食材は北日本各地にも見られるんだ。

 新潟県の<ひこぜん>や福島県の<しんごろう>がそうだ。僕は若い頃全国各地を旅したからそれらを知ってはいたけれど、逆茂木村にある高氏(たかうじ)神社で奉納がおこなわれるときの供物を<じんごろう>と呼ぶのだそうだ。

 一方奉納神楽も変わっていて、この付近一帯で行われている花祭りや花の舞とは明らかに別系統のものだとわかる。<ヤマタノオロチ>を連想させる蛇踊りはこのあたり、というか静岡や愛知の神楽では全く存在しないんだ。

 素人の見立てだがあの蛇踊りは僕には石見や備中の神楽に共通性があると思われるね。だがいまのところ、わからないことだらけだといっていい。"

 先生は大きな御幣餅を二本一気にかじりついてしまうと、さらに話を続けた。

"城西村の<城>とは鴬巣城のことだけど、ここも言うなれば謎だらけなんだよ。"

"うぐいす じょう、ですか。"

"うぐすじょう、だ。近年は戦国時代が人気があって武田信玄や織田信長が注目されているけれど、鴬巣城は武田と織田が合戦するより百年以上前の建武新政期に建てられたとされていて、尹良(ゆきなが)親王の皇居であったとも言われているんだ。

 逆茂木村へ通じている道路を尹ヶ(ゆんがす)林道というのだけれど、それは一帯の山を古来尹ヶ巣の森と呼んでいたことに由来する。"

ですが先生、逆茂木村は足利氏の末裔とされる高氏一族が開鑿したところなのでしょう。藤原系の足利氏は途絶えていますから、足利といえば源氏の系統といえます。"

"確かに国木田君の言うとおり、逆茂木村の住民の大半は高氏姓なんだけれど、水窪奥領家にいまも住まう高氏一族とは系統が異なるわけ。あっちは足利氏由来の古文書も存在するし、室町期からつづく河内源氏の歴とした子孫なわけだけれども。"

"僕は不思議に思うんです。平家の落人伝説は全国各地にイヤというほど存在してますけど、源氏の落人なんて聞いたことがない。源氏は壇ノ浦の戦いで平氏に討ち勝って、それで鎌倉幕府をたてたのだから落人として逃げ延びる必要がない、などというのは浅薄な考えで頼朝、頼家、実朝の源氏三代や範頼、義経、それに父の義朝、祖父の為義とほとんどが非業な最期を遂げているんです。つまりは落人となる要素は多分にあると−−"

"それも一理あると思うけど、南朝の隠れ里の護り手が足利系統っていうのがどうもひっかかるんだ。これが楠木一族の末裔とかならしっくりくるんだけどね。"

"甲州萩原のかなり上のほうに一之瀬村ってありましてね。そこの楠木一族がなにかと隠れ里関連で云々されることもあるんですけれど、畷ヶ原で滅亡した楠木一族との繋がりともなると、僕はあまり信憑性はないと思うんです。

 それよりさっきの平家の落人の話に戻りますけど、同じ平家でも将門や国香を指して平家の落人とは言いません。将門由来、とか別のものとしてみなされています。だとすると清盛とその一派、ごく少数がなにゆえ落人伝説において重要とされているのか、なんですけど、やっぱり安徳天皇の存在が大きいんやないか、そこに行き当たるわけなんです。

 水窪の山向こうの信州の坂部村でしたっけ。源氏系の熊谷家が<熊谷家文書>なんて古文書を遺している。ちょっと読ませて貰うたことがありますけん、あまりに詳しく書かれていてもう驚きましたけん。"

"国木田君、それは<熊谷家伝記>でしょう、坂部のは。<熊谷家文書>といったら石見銀山の大久保長安とかの話になっちゃう。"

"いやあ先生、すみません。混同してしまいまして、恥ずかしい。"

"いずれにしろ伝説がそこにあるからには、是が非でも後世に伝えるべき要件がそこには存在した、と君もそのように考えているわけだ。

 ちょっと飲みものを持ってくるね。"

 富岡先生はコクリと頷いて立ち上がった。囲炉裏に吊るしてある自在鈎の、横木の魚が少し揺れてこちらを向いた。囲炉裏の魚は<火の見>の魔除けだそうだが、仏師が木魚を叩くのと同じ謂れなのだという。

 先生が歩いていった、襖に仕切られた隣の居間に掲げられた扁額がちらっと見えた。<虚己受人>と書かれてあるが果たしてどういう意味なのであろうか。

 暫くして先生は抹茶色の飲みものを持ってきた。コッカフジのジュースだという。コッカフジとは北遠地方の方言でサルナシのことを指して言うそうである。飲んでみるとやはりキウイフルーツに似たサルナシの甘い清涼感になんともいえない気分にさせられた。それと台所のほうがさっきから賑やかになっている。どうやら奥さんがお使いから帰ってきた様子だ。

−−家内とは見合いで−−

 そう話す先生はいくらか遠慮気味に、頑強そうな上半身を震わせた。富岡先生の奥さん、佐紀子夫人は同じ天竜川水系、大古瀬川流域にある豊田郡半場神妻村の出身、花の舞祭事の総代を務めたことのある小笠原賢二、イネ子夫妻の次女で、家庭科教員として半場中学校に勤務していた当時富岡先生とお見合いをし、結婚したのだという。

 先生は見合いの席ではじめて会った気がしないと直感したそうだがそれもその筈、かつて先生が半場中学で庭球部の顧問をしていたときに、前年度に卒業した女生徒にこてんぱんに打ちのめされたことがあったというが、先生を完膚なきまでに意気消沈させた張本人が当時の小笠原佐紀子選手であったというわけである。

"あとから聞いた話では家内は高校時代に、ちょうど来日していたトレーシー=オースティンやビリージーン=キング夫人の練習試合の相手に抜擢されて、そのスマッシュが強烈で彼女たちを震撼させたというんだから、僕なんかが太刀打ちできなくても不思議はないわけ。

 家内は腕が鈍るからときどきテニスコートにたちたいなんていうけど、僕は相手をするのは真っ平御免だ。腰砕けになって身体がどうにかなってしまう。"

"まあー先生、そうおっしゃらずに。先ほど出ました甲州一之瀬村では地元の民宿組合が呼び物として立派なテニスコートを整備したんです。一之瀬村は立地条件が過酷なだけでなく、国道を分ける村の入口に<おいらん淵>なんていういわく付きの場所があるから、行楽客も怖がって皆逃げ帰ってしまうそうなんです。

 先生方もご夫婦でおいらん淵観光をかねていらしてみては−−"

"奥地の民宿村も、客に逃げられてはねえ。楠木一族の末裔も踏んだり蹴ったりなんじゃないのか。だけど家内のテニスの相手は国木田君、君がやってくれ。"

"僕がですか。実をいうとテニスはほとんどやったことがありません。東京入谷の小学校時代、人気漫画<エースをねらえ>の影響でしょうか。できたばかりのテニス部に入部希望者が殺到してラケットを奪い合う事態になってしまったのです。自分にはついぞ一度も廻ってくることはありませんでした。"

 先生と私が時折笑いを交えて話に昂じていたのに気を留めたのか、奥さんが入ってきた。短い髪をショートボブに決めた、快活で都会的な風貌の、将来の伴侶となる先生をかつて平伏させたとは到底思えない、明るくたおやかな方である。

"本当はね、家内が国木田君のことを心配してたの。静大の学生がいきなり逆茂木村に行くわけだから。四年前に城西小で実習する予定だった学生も、ここの土地が険しく感じられたのだろうね。辞めて帰ってしまったんだよ。逆茂木村とは違い、ここなら電車でも通ってこられると思って繰り返し説得に努めたよ。でもすぐに泣き出してしまうんだ。女の子だったし、僻地校での実習を希望していたわけではなかったろうからね。たまたま城西小に当たったのが不運だったのか、家内も話し相手になったりして引き留めようとしたんだけれど、だめだった。"

"まさに辞職坂レベルの出来事ですね。辛いことです。"

"その点国木田君は6級僻地を希望すると最初から意思表示してくれたし、僕としても外の世界から隔離されて刺激の少ない逆茂木村のこどもたちに、心に残るものを与えて欲しいと願っているんだよ。"

 先生は会話の間も手を休めることなく囲炉裏の燃え尽きた炭を灰均しで恰も筆でなぞるように右左と滑らせて見事な灰の模様を描いてみせた。自在鈎から鉄瓶を外し、それを五徳の上にのせると横木の魚を再び私のほうに向け替えて、先ほどまで御幣餅を並べて挿してあったところへ何やら縁側から串刺しにしてあるものを携え、今一度そこに挿して並べた。

 私が知っている小さな銭型の御幣餅を美濃地方のものだと指摘した先生は、この土地の保存食として定着している御幣餅がさぞ自慢であるかの振舞いで、

"よく焼けているよ。"

 と再度私に一本くれると、残りの四、五本を近所のご隠居たちにと、早速配ってきたそうである。

 囲炉裏に顔を近づけてみるとこんどのは、焼き鳥のようだがどうも違う。聞けば蝙蝠の串焼きなのだという。この附近には至るところに洞窟やほら穴があって、蝙蝠が、その習性で大抵は群れて生息しているから、竹竿の先端に小麦粉を練ってこしらえたトリモチをつけるだけで簡単に五、六頭は捕らえられるという。

 蝙蝠は中国や東南アジア諸国ではごく普通に食材として出回っているというし、インドやスリランカではカレーの具にするそうだが私ははじめて口にする。御幣餅に塗るものと同じ荏胡麻味噌をたっぷりとつけて朴の葉で包んで蒸し焼きにすると三十分くらいで香ばしいほどに焼きあがる。食感としては焼き鳥よりも兎の丸焼きに近いと思われる。

"これが家内の大好物でねえ。"

 先生は火箸を片手に、串刺しにした蝙蝠を焼きムラがでないように裏表と交互に向きを替えている。私には都会的な装いで可憐な微笑みをみせた佐紀子夫人が蝙蝠の串焼きにかぶりつく姿は想像すらできないが、囲炉裏端に挿しておくと家事の合間に二本三本と平らげてしまうそうである。

"美味しいでしょう。"

 先生は自慢げである。

"イケますよ。自分もやみつきになりそうです。もしかりに鶴や白鳥の鳥肉が食べられたら、やっぱり美味しいんでしょうかねえ。江戸時代に将軍への貢物としてしか捕獲が禁じられて以来、食材ではなくなってしまったようですが、聞くところに依れば頬が落ちるくらいの上味だそうですからね。この蝙蝠も相当なものです。"

 私が想いのほか珍味に歓喜し、続けて日輪の描かれた盃に注がれたどぶろくをひとのみにするのをみとどけ、

"ちょっと夕方の会合に顔を出してくるから、ゆっくりしてて。"

と富岡先生は立ち上がり、いそいそと外へ出ていった。

 家の奥のほうから小さなこどもたちの声が聞こえてくる。先生夫妻にはふたりの娘がいるが、逆茂木小学校勤務となってからは通勤に時間を要してしまい、娘たちと遊んでやれなくなったのが寂しい、と話していた。

 私はといえば、先生との会話をひとつずつ思い出しては復唱したりして、勝手に悦に入っていたものの、どぶろくの効果が出はじめたのか緊張感が抜け、先生がいないのをいいことに両脚を囲炉裏のほうへと投げだし、座布団を尻の下に敷きなおした。

 東京入谷は勿論のこと、山口でも大分の佐伯でもこのような立派な囲炉裏に触れたことはない。瀬戸内や九州地方の場合、旧家に囲炉裏があっても夏ともなれば火を入れぬと聞いている。富岡先生は囲炉裏の火を絶やすことなく、そして決して燃え盛るまでにもさせない。手練が為せる僅かな火の加減、私の付け焼き刃の手作業では真似のできるものではないと、通説に感じるところである。

 先生が寄り合いに出かけて暫く、日輪の盃を手に私は考え込んでしまい、時の経過すら見失った様子である。酒に酔ったのかとも思ったがたったのどぶろく一杯である。白濁したとろみに酔いしれたのかもしれないが、かつてはこういった酒を自家製造できたのであろう。合法かどうかを気にすることもなく、一汁一菜と同様自給自足の範疇でこしらえては平らげる、そんなもののひとつであったのだろう。

 酒のことばかり考えていたものだから何時になったのかも分からないでいた。奥さんによれば先生はもうじきお帰りになるそうだが、それまで二階にある書斎の本を読んでも構わないと言ってくれた。

 本棚を覗くとまず田山花袋、志賀直哉、横光利一の名が眼に入った。それからジョルジュ=デュメジル、富岡先生は文学がお好きなようである。しかしヴェルナー=ハイゼンベルクの<部分と全体>や美術評論書と思われる<キュビズムの研究>は果たして何を目的に読まれているのであろうか。小学校で教える内容にしては高尚な学術であるといえるし、単なる好奇心か、まさかそれはあるまい。

−−右に火焔 左は氷河 吾<炎>を避くるに水に陥る−−

 私は背表紙にこのように表題が記された筆者不明の薄手の本を手に取って、一階の囲炉裏端へと降りた。実際の表題は括弧書きした炎の文字が三つの火という珍しいものであったため、それが眼を引いたのである。

 ちょうど先生がお帰りになったところで、興味が湧いたので読ませていただきたい旨を告げると、その本の作者はなんと富岡和範先生自身であった。私家本として数冊だけ印刷したものだという。

"国木田君はどう思うのだろう。たとえば<瞋恚に燃え焦がれる>というようなことを--"

"宇治拾遺物語ですか、混沌としていて自分にはよく理解できません。"

"二十代の終わりの頃だったかな、心に芽生えたものを書き留めておこうとしたのだが、いざ文章にすると上手くまとまらない。

 結婚するときなんだか後ろめたい部分があって、家内には正直に伝えたんだ。これは僕の深層心理なんだってね。"

"奥さんは、何と。"

"全然わからない、だって。でもわからなくたっていいことなんだよね、そういうのって。日々の暮らしのなかで埋没せんとするものがすべてが注視に価するものではないのだし、拾い上げてばかりいたらきりがない。僕もあまり深く考えるのはやめることにした。その本は君にあげよう。"

 家の外が次第に夜の静寂に覆われてくるのがわかる。どこから舞い込んだのかか一匹の蛍が光彩を煌めかせながら、家の間を仕切る方丈のところで羽根を下ろした。

"ことしもいよいよだね。この村はいろいろな蛍が大発生するんだよ。"

 見つけたのは一匹だけだが、注意深く観察するとほかにも舞い込んできているようだ。玄関の土間あたりにも何匹かが光彩を放っている気配がする。

 私が蛍の饗宴に喜んでいると、パジャマ姿のタカ子ちゃんが降りてきて、暑苦しくて眠れないと言った。先生は幼い娘を膝の上に座らせ、二回三回と頭を撫でた。

"タカ子は蚊帳が怖いんだよな。蛍が入ってくるのはいいんだけど、ついでに他の虫も入ってきちゃうからね。でも線香や殺虫剤でやっちゃうと蛍まで死滅させることになるから、どうしても蚊帳を張ることになる。

 僕も小さい頃、爺さんに黙って入ってろって言われて、妙な圧迫感を覚えたりして、本心、あまり居心地のいいものではなかった。

 タカ子、眠れないのなら音楽を聞こうか。"

 先生は自室からカセットテープを持ってくるとそれをレコーダにおさめた。フェリクス=メンデルスゾーンの<真夏の夜の夢>序曲がほのかに流れはじめた。

"僕もこどものとき、眠れないことがあると、この曲を聞いたものだ。

−−Midsommer dream--

 ちょうどいまの季節にピッタリだね。ミッドサマーとは本来は夏至のことなんだから。でもメンデルスゾーンの曲は<真夏の>と訳されちゃってる。

 シェークスピアの原書を和訳した福田恆存がクレームをつけたんだけど、いろいろとじたばたあって、それで本の題のほうは<夏の夜の夢>というわけなんだ。

 日本人の感覚からすると夏至の今の季節はちょうど梅雨と重なるから、西洋ほど夏至を重要なものと意識してこなかったのかもしれないけれど、それでも僕はこのメンデルスゾーンの曲のほうは<真夏>でもいいんじゃないかって思っているんだ。

 一年でもっとも暑い旧盆の頃に、じっと耳を澄ますと聞こえてくるんだよ、松虫や鈴虫の鳴く声がね。暦の上ではもう立秋を過ぎているのだし、当然といえば当然なんだけど、なんだかこの序曲の出だしあたりの、バイオリンの合奏が虫の声のように聞こえてくるんだね。

 嬉しくなって表へ出ると夜空に満月が煌々と輝いている。うちの周りには石垣もあるし、シェークスピアの喜劇みたいに主人公たちの婚礼を祝福に、ライオンと月光と石垣が一斉に騒ぎ立てるあの場面のように、ああ、ここにライオンがいたら、なんて無いものねだりをしていたものだからね。

 その点今夜は明日から学校で獅子奮迅の活躍をする国木田君もいることだし、役者はすべて揃ったといえるなあ。"

 先生は我を忘れたかのように熱弁を奮っていたが、気がつくとタカ子ちゃんはすっかり眠り込んで、父親の胸に頭をもたれさせていた。

"さてと、この子を布団に戻してくるね。"

 先生はそう言って、タカ子ちゃんを抱きかかえたまま立ち上がると、私のほうを振り向いて、

"サッカーの試合、もうすぐ始まるよ。ワールドカップ、イタリア大会の。"

 と、つけ加えた。

"地上波でやるんですか。"

 私は驚いて、声を滑らせてしまった。ワールドカップの試合はすべてチェックしていたつもりであったが、やはりというか見落としていたのだった。

 <虚己受人>の扁額がある隣の部屋の隅に置いてあったテレビを、先生はこちら側からよく見られるように襖を大きく開いて、上手く向けてくれた。普段はテレビを囲んで家族の団欒、ということはしないそうである。土地が山あいということもあって映りが悪くなることもしょっちゅうあるという。

 先生のお宅では、家が地場産業の基点になっていることもあり、電話の加入は村では早いほうであったそうだが、それでも近隣の通信手段はたいてい有線放送で事足りるとのことである。

"囲炉裏のこっち側にくれば、よく見えるよ。"

 と私を、画面がよく見える場所へと促してくれた。テレビは随分と古い型のように思われたが、これは昭和四十年前後に登場したサンヨー20型<薔薇>という型のものだ。

 画面が映るとサッカーの試合は両チームの国歌斉唱が流れるところであった。

"サッカーはあまり詳しくないけど、この試合はどうなの。"

"優勝を占う意味では間違いなく鍵になる一戦です。"

 FIFAワールドカップ、イタリア大会は数日前に開幕したばかりであったが、前回チャンピオンのアルゼンチンが初戦でカメルーンに敗れ、同じく前評判の高かったソ連もルーマニア戦を0-2と落として早くも混戦の様相を示しつつあった。

"自分はこの試合の勝者が優勝に絡んでくると予想しています。"

 事実、専門雑誌にもきょうのウディネ、スタディオフリウリで行われるウルグアイ対スペイン戦が鍵になると書かれていた。

 しかし試合が始まると両チームの様子は全く私を失望させるものであった。ウルグアイのフランチェスコリ、ルベン=ソーサはスイミングの帰りであるかのごとく動きが悪い。ルベン=パスも以前の輝きが失われ、一方的に攻めている割に得点まで至らない。一方のスペインはさらにひどく、まるで宇宙服を着て試合に臨んでいるかのような動きなのだ。押されっぱなしとなるのは至極当然で観戦するのも嫌になるくらいの有り様である。

−−一体どうしたのだ、どうしたというのだ、サンチスもミッチェルもエミリオ=ブトラゲーニョも−−

 そんな凡戦が続くうち、優勢にみえていたウルグアイがペナルティキックのチャンスを獲得する。だがこの決定機をキッカーのソーサがあえなく外し、試合はスコアレスドローにて終了した。

 どうやら私はウルグアイ対スペイン戦の消化不良試合に落胆し、そのまま囲炉裏端で眠ってしまったようである。せっかく先生が布団を敷いてくれたというのに失礼極まりないことをしてしまった。

 寝冷えをせぬよう慮ってのことだろう。目覚めた私には布団がかけられてあった。その心地よい感触に布団をよく見ると、貼り布に<東毛たやま ロクヤ布団>のラベルがあった。さすが富岡先生の家では良いものをお使いになっている。

 家の外の、神社脇の石垣の下あたりからだろうか、車のエンジンをかけた音が響いてくる。先生は四時台には出るからと言っていたが、耳を澄ますとエンジン音は車二台分聞き取れる。

 私は出発の準備を先生ひとりにさせるわけにはいかぬ、と思い急いで靴を履き車の音がした石垣のほうへと小走りした。

"お早う、国木田君。誠に申し訳ないのだが--"

 先生は私と顔を合わせるなり屈強そうな身体を遠慮気味にちぢめて言う。そこには佐紀子夫人もいて車の準備を手伝っているかのようでもあった。車は二台、軽バンと軽トラ、不具合でもあるのかと思ったが両方とも元気いっぱいの排気音をあげている。どうしたのか疑問を拭い去れないでいると、こういうことであった。

 先生は通勤に軽バン、軽トラのどちらをも使うそうだが、本日は私という大柄な独活の大木が控えているから、後部座席がゆったりしている軽バンを出そうとしたらしいが、きょうは奥さんが軽バンを必要とするとのことである。

 佐紀子夫人が代表をつとめる<ズッキーニレディース>は先進的な農家主婦のグループで、自家製の無農薬野菜や手づくりの惣菜を佐久間ダムのほとりや山香村の旧乗船場で即席仮店舗を出して販売すると、これが想いのほか好評となった。ほぼ同時期に浜松市の繁華街で試験的に出店したらそれも瞬く間に完売になったという。その後山香村の仮店舗は常設扱いとなり、わざわざこの店を目当てに遠出してくるバイクツーリングのライダーもいるということである。

"悪いわねえ、国木田さん。"

 奥さんは笑顔でいうが、心配なのはそちらのほうである。メンバーのご婦人がたを六人、軽バンに載せたらそれこそ道路交通法違反になってしまう。それに六人のうちの、くじ運の悪いどなたかが後ろ扉側の、六番目の座席に嵌め込まれる設定になるのだ。私が言うと、奥さんは、

"大丈夫、そこは一番若いユッコちゃんの指定席だから。それに水窪警察署って結構のんびりしてるのよ、精々現場注意ですみそうね。"

 と至って鷹揚である。

"それより国木田さんは大丈夫なの。軽トラの助手席、狭くないかしら。"

"いえ、僕やったら慣れっこです、軽トラは。"

 痩せ我慢ではない、つもりである。私は高校時代に佐伯市南方から宮崎県へと続く日豊黄金海岸の河内浦、蒲江浦、波当津浦あたりの、泥濘んだ悪路で有名な海岸道や、山のほうでは傾山の懐へと導く宇目村へと、同級生の家の軽トラに相乗りさせてもらってほうぼう出かけている。

 かの独歩翁がそのあまりに短い赴任期間のために見ることすらかなわなかった、豊南各地の穴場と称される史跡や名勝を尽く私は探訪した。ゆえにオブローダとしての資質くらいは持ち合わせていると自負している。

 ほんのりと東の空が明るさを湛えるころ、富岡先生の運転する軽トラは林道の勾配を一気に駆けのぼり、瞬く間に城西村は谷底へと消えた。

"ほら、下のほうに見えるかな。鴬巣城があんなに下になっちゃうんだ。"

 昨日の夕方、先生が家の前で指し示した鴬巣城は見上げるほど上空に、落陽を浴びて輝いていたものだった。そしてこの先林道は逆茂木地区まで数えきれない蛇行を繰り返し、尹ヶ巣の森をひたすら行くのである。

 逆茂木村と安倍郡の三か村が6級僻地指定となる以前、県内で最も不便といわれた門桁地区は、標高一七〇メートルの水窪本町を基点に山住神社がある一一〇五メートルの峠まで急坂をのぼり、四五〇メートルまで下るという険しい道のりであったが、逆茂木地区の場合はこのアップダウンを三回繰り返し、最後に七〇〇メートルほどのぼって着くこととなる。

 先生も赴任間もないころには燃料切れの不安も手伝ってか軽トラの荷台に四四ガロンのドラム缶を積んで通勤していたようである。逆茂木地区には給油所と呼べる贅沢なものは存在したせず、鴬巣城が見えなくなるあたりから終点の逆茂木集落入口までおよそ四八キロの間、一軒の家も存在しない。

"やっぱり国木田君には、はっきりと言っておかなくてはならないな。今回の教育実習に関してなんだけど、僕だけでなく学校ぐるみで君を歓待するに至ったこともね。

 僕は前任の石打先生のあとを受けて逆茂木小に着任して、来年の春で丸三年になる。希望者がいれば自動的に僕が押し出されるかたちになるというわけだ。君が無事教育実習を終了し、ことしの秋の採用試験に受かって、赴任することとなればかなりの確率で逆茂木小になるんじゃないかって、僕なりに計算していたわけ。

 歓待の裏に淀んだものがあるようで国木田君には申し訳ないことなんだけど、どう転んでもいまの教育行政では僻地の学校は行き詰まってしまうからね。"

"いえ先生、自分はそのために来たのですから。来年本採用となるとかは別の話で、実習期間中でも先生のお役に立てるのであれば宿直でもなんでもやりますよ。奥さんだってタカ子ちゃんだって口に出さないだけで我慢強く、先生が家の近くの学校に転任するのを願っていることでしょう。それが普通なんじゃないですか。"

"城西村の中学には寄宿舎がなくってね。だからどうしても逆茂木小の児童は卒業すると水窪中学へ進むの。あすこには<友朋寮>っていう立派な寄宿舎もあるしね。いまは石打校長が寮長もかねているから手筈が整いやすいんだ。"

 水窪中学校の石打校長は富岡先生の先輩だそうだが、その名からして厳しい鬼先生を連想させる。

"けど、なんで逆茂木村は水窪本町に編入せんかったんでしょうね。"

 私は素朴な疑問をぶつけてみた。

"さてね、話はあったみたいだけど、いろいろあって反対意見も多かったということらしい。逆茂木村も水窪本町も主要産業は林業でしょう。地権問題やら複雑に絡み合っているようだし、人情的にも逆茂木の高氏一族は水窪奥領家の傘下には入りたくなかったってことかなあ。六百年の時を経ても縮まらない深いわだかまりみたいなものが残っていると感じることがある。"

"実は僕、大学で超弦理論のゼミに参加しているんです。"

"ほう、すごいこと、研究しているんだね。っていうと、やっぱり按察使村のとか小余綾村のことを調べているのかな。"

"だって説明がつかないじゃないですか。辿り着けたり着けなかったり、このご時世にそのような不確かな村が存在するなんて。村が現れたり消えたりするようなもんですやん。"

"ブリガドーンて映画があったけど、イギリスだったっけ。そういう言い伝えと違うの。たとえばクラインの壺みたいな物理現象を作用させるものが村の入口に存在したりして。"

"ゼミに参加している学生は大抵はそのあたりから入ってきますが、紐状理論とか六次元定理でも解明できん、言うてます。せやけど小余綾村なんて最寄りの清沢村から実際は一二キロくらいのところにあるのはわかっているんです。それなのに行けたり行けなかったり、不確定性が強すぎるのか、磁場の影響なんか、地軸との関連なのかもしれん、言うてるやつもいます。

 僕は仮設として、天王星の地軸と公転軌道の素比理論から証明できんか、やりはじめたところなんですけど。姿をくらました青山のこともありますし。"

"本当に不思議なことがあるもんだ。そこだけが全く違う別世界だなんてね。でもあまり深入りしないほうが賢明なんじゃないかな。わからないことがあまりに多すぎる。国木田君に何かあったらそれこそ教育界の損失だよ。"

 軽トラは何度かノッキングを起こしたが、そのたびに運転に慣れた先生が空ぶかしを繰り返しては急を凌ぎ、登り一二三パーミルの急坂も難無く駆け上っていく。

 この間話に夢中になって外の景色を見逃してしまったが、この一帯、尹ヶ巣の森は奥仙境にありながら林道沿いに高く聳える針葉樹はどれもみなしっかりと枝払いがなされ、上品な美林を形成させている。さすが皇族がさすらった土地でもあり、僻地とはいえやはり先進林業地帯なのであろう。金原明善の志を受けた龍山郷の青山宏村長のごとき優秀なる林政家、あるいは軽量地理学の権威が逆茂木村にはいるのかもしれないと感じた。

 午前七時二十分、標高九四〇メートルにある逆茂木小学校に到着、雲ひとつない青空のもと、校庭には幾人かのこどもが遊び授業開始の運びを待っている様子である。

"さあ、着いたよ、ここが逆茂木小学校。車酔いはしなかった。"

"全然、僕は大丈夫です。"

"そう、そうこなくちゃね。ほら、あの横断幕、こどもたちが書いたの。"

 先生が指し示した方向を刮目して見ると、<歓迎、国木田鉄生先生>と掲げられている。私は一瞬赤面したが意を決し、富岡先生について校舎へと進んだ。見た感じではここの校舎も相当に古い造りのようである。既に取り壊されたであろう佐久間西中の建物と同じくらいか、私が板張りの廊下に見入っていると数名の児童がこちらへと歩み寄り、富岡先生に何やら懇願している様子である。困ったことが起きたのか、私はその場をじっと観察したが、どうやら<かずし君>という男子児童が窮地に立たされている模様だ。

"だからあ、<みずくぼ>じゃないの、<みさくぼ>なの。かずし君は間違い。"

 ひとりを取り囲み、多数がさえずる。もう大合唱である。富岡先生は彼らを黙って見ている。私はこどもたちの気をひくつもりはなかったが、自然と言葉が出た。

"なあ、みんな、確かにそうやな。じゃが、かずし君は間違えてはおらんよ。ここの近くにある町、近い、ちゅうても歩いては行かれんけどな、水窪と書いて<みさくぼ>と読むよな。みんなの言う通りじゃ。

 じゃけんど静岡県にはもう一箇所、同じく字で水窪と書いて<みずくぼ>と読むところもあるけんな。裾野市、っちゅう富士山の近くの町じゃけん。

 じゃけんかずし君は正しいし、みんなも正しい、いうことや。"

 私を取り巻いていたこどもたちは十二、三人はいたであろうか、みな納得した表情で退散していったが、となりにいた富岡先生の満足げな顔が印象的であった。

"早速、初日から一本とったね、国木田<先生>。"

 逆茂木小学校では普段、全校朝礼はやらないというが、きょうは日和もよく、私の自己紹介も必要だからと、富岡先生の急遽提案で全校児童を校庭に集合させることとなった。

 私は二十三人の児童の前で、軽く挨拶をするつもりでいたが、

"きょうから教育実習をする国木田ノッポ先生だ。"

 と、富岡先生がこどもたちを笑わせたものだから、いつまでも私は彼らの、

--くにきだのっぽ、くにきだのっぽ−−

 の大合唱の前に、なかなか自己紹介をはじめることができなかった。

 こうして私の教育実習は幕を開け、初日を迎えたのである。


 教育実習は延べ二十二日間に及び、無事終了させることはできた。大学に提出した実習経過報告書に詳しく述べてあるのでここでは書くことはしないが、和やかな雰囲気に包まれてスタートした教育実習も決して順風満帆というわけにはいかなかった。私の蹴ったサッカーボールが女子児童の顔面を直撃して、謝っても謝っても泣きやんでくれなかったり、そんなことの繰り返しに終始したのである。

 だが富岡先生はじめ、逆茂木、城西、両村の各方面のかたがたのお蔭で、教育実習は優評価をえられることができた。まさに感謝しきれぬ思いである。

 だが結論をいうと私は静岡県の教員採用試験を受けなかった。秋口に出される県教委の方針で、新年度の採用は退職人数分とうたわれた。静岡県だけではなかろうが近年の若年人口減少や各地での学校統合のせいもあって教員は余剰となっているようである。このごろは日教組もかつてのような勢いがない。

 学生の間でも、県外出身者は採用されない、そんな良からぬ噂が蔓延ることもあった。私は就職浪人をするつもりはなかったが、すべては県教委が決めることである。

 富岡先生は最初は助教諭、臨時教員として教育現場に立ったとおっしゃったが、昔は学校独自だったりその地方で採用されることもあったらしいが、現在は県の一括採用で、その後各地へ赴任するというかたちが取られている。私としても教育実習の<実績>が採用を有利にさせるとは考えていなかったし、先生も後任として私にすこしは期待するところもあったかもしれないが、それだけ激務であったということなのだ。

 皆が皆、就職活動で南船北馬の真っ最中、私は大学四年の秋頃には市内両替町の喫茶店に入り浸りを始めていた。教職を諦めた私に文筆家への道を後押しするからと、何時間でも店の席で頑張って創作を徹頭徹尾やれ、と<帰去来>の店主が言ったのをいいことに、それまでは吾れ文士に能わず、などと謙虚でいた自分の性根がネジ曲がったかのごとく有頂天に振舞ってしまっていた。

 説明不要と思うが<帰去来>とは独歩翁の作品である。店主の名は滝浪さんというのだが独歩翁が好きで己の店に命名したのだそうだ。二つ返事で貴君を後押ししたいと言われたときは少々照れくさかったものである。

 しかしこの店で粘って書いたものが運良く<ふじのくに静岡新人文学賞>の最終候補に残った。受賞こそしなかったが、私はある種の手応えを得た。書いたのは<柏嶺心中>という題名の恋愛ミステリーで、清王朝皇帝の姪と東北地方の電鉄会社の倅との心中事件をモデルにしたものである。

 これには滝浪店長も大いに喜んでくれたが、私はこの後予期せぬ困窮を迎えてしまうこととなる。はじめはなんのことかわからずにいたが、大学の厚生課に呼び出され最悪退学処分もあると告げられたとき、おおよその見当はついた。

 私はすでに解決した事件をモチーフにかなり意味深な物語を設えていたのだった。若い恋人たちは手を取り合って心中したのではなく、知ってはいけない秘密を知ったがために抹殺された、そして彼らに手をくだしたのは青幇の末端組織であると、私は断言したのである。

 直接現地におもむき多数の証言も得ていたから内容には自信を持っていたが、やはりというか、横槍を入れる連中が大学側に圧力をかけてきたのだ。飄々と綴っているがこのころ私は見えぬ敵に怯え、小説など二度と書きたくないと萎縮していたものだった。

 <帰去来>へ行くこともなくなった。滝浪店長はそれでも私の文才を信じ、梶山季之のようにだってなれるものを、と残念がっていたが、その作家を知らなかった私は書店でひとつふたつ文庫本を求めたが、多少の興味はひいたものの、決して全霊を捧げるに価するものではないと覚った。

 以後、四十余年(よんじゅうねんあまり)、私は鳴かず飛ばずを繰り返している。だが改めて見つめると、浮沈の少ない生き方こそが己の性に合っているようである。まさに、揺蕩えど沈まず−−−、というところであろうか。


 FLUCTUAT NEC MERGITUR


それから余談になるが、あの青山、青山諭はなんとか無事を確認した。というよりも偶然再会してしまったのである。

 愛知県布川村の花祭りを見に行ったら、そこで囃子の笛を吹いていたのだ。その日私は急いでいたし、彼にしても祭事のなかの役者のひとりであったわけだからあまり話はしていない。もしかしたらそのときすでに湧きつつあったお互いの妙な距離感のようなものが、それ以上近付くことを無意識に避けたのかもしれない。以来青山とは再び音信不通である。


 一方富岡先生は私が教育実習生となった翌年に逆茂木小学校を退任した。転任ではなく退職ということであった。詳細は知らないが後任の教員がみつかったのであろう。先生は家業の茶生産その他の特用作物の改良に挑戦したいと話されていたが、いよいよ本格的に地場産業の担い手として基盤を固めていくことになる、私にはそう読み取れた。

 城西村方面に詳しい隣人には、富岡先生が自宅を開放して私塾をひらき、こどもたちに学習指導をしているとも聞いている。逆茂木小学校までの遠距離通勤は嘸ぞ大変であったことだろうが、教員を退職したのちも慕ってくる児童生徒はいるものである。

 私が只ダラダラとうだつの挙がらない日延べに終始しているから、それこそ富岡先生にはなんの報告もできぬまま、遂に人生の秋を迎えるまでになってしまった。先生は相変わらず精力的に、晴耕雨読の充実した暮らしを築いていたに違いない。

 このころともなると特殊法人<雲を耕す会>の専務理事他、いくつもの肩書を掲げ、それこそタイ国の首都バンコクが実は果てしなく長い名を冠されているように、富岡先生もまた輝かしい称号、薫陶、徽章に彩られた実年期を迎えられる、はずであった。だが−−−−−−

 私が富岡先生の物故を知ったのは三年以上を経た昨年のことである。

 里帰りだとか格好をつけて北欧へ出かけ、何も覚えていないから、結局ただの物見遊山に終わり、帰国して急に城西村と逆茂木小学校が恋しく思われた、その矢先であった。

 いま私はどうしても納得のいかぬ怪現象に悩まされている。それはあるほどまでにひとから慕われ、誰からも愛された富岡先生を、なにゆえその死を嘆き悲しみ、偲び、讃えようとしないのか。

 先生には生前、砂塵ほどの知己友人がいたはずなのである。彼らすべてが示し合わせて、おし黙って貝になっているわけでもあるまい。やはり怪現象としか考えられない。

 私が教生としてはじめて逆茂木小学校へ向かうときに車の中で先生と話したクラインの壺か、さもなくばメビウスの紐のようなものが城西村あたりには存在して、先生に与えらるるべき称号も薫陶も、そして徽章も、さらには善良なる隣人の賞賛や敬愛をも、片っ端から異次元空間へと放擲せり、ということか。これでは富岡先生も浮かばれぬ。

 実は先生は近年、新たな研究をはじめていたのである。天竜川水系と佐久間ダムの将来を見据え、あの巨大な佐久間ダムが役を終えて撤去されたのちの、清冽極まる天竜川の、あるべき姿を描いていたということなのだ。

 この分野は誰かが受け継ぎ、実践していかなくてはならぬ類いのものであろう。

 私は憂う。城西村は、そして山紫水明なる北遠の山里は実に惜しい御仁を失った。まさに私の胸中、かの独歩翁と全く同じである。

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