43 人魚姫の舞踏会
「よかったんでしょうか。あんなにやってしまって」
「いいんじゃねえか。どいつもこいつもパトリックを舐めすぎなんだよ」
まあ、舐められることになった原因は俺とシスティリアの件なんだけどな。
「貴族ってのはどいつもこいつも風評ばかりでものを考えやがって。パトリックが強いのなんざ、剣振ってるの見りゃわかるだろうがよ」
俺とシスティリアがささやきあっていると、決闘の舞台では王子がようやく負けを認めた。「参りました」の一言を言うのに随分時間がかかったもんだ。何かを賭けてるわけでもなかったのにな。
パトリックは立会人の第一騎士団長に何かを言うと、俺たちのほうにやってくる。
「お疲れさまです」
「敬語でなくて構わないと言っただろう、レオナルド」
声をかけた俺に、パトリックが涼しい顔で言ってくる。
「あ、いや、なんか癖で」
「いいけどね。決闘に勝ったんだから王子殿下に詫びのひとつも要求していいんだが、そんなことをしてもエメローラさんは喜ばないだろう」
パトリックがシスティリアの隣に座るエメローラにちらりと視線を送ってそう言った。
「はい、あの……この度はわたくしのために大変な目に遭わせてしまい……」
「気にしないでください。僕が好きでやったことです」
憎いほどクールにパトリックが答える。
「エメローラさん。こういう時は謝るよりも感謝するものですよ」
「そうですね。パトリック様。わたくしの名誉のために危険を冒してくださり誠に有難うございます。心より感謝致します」
「どういたしまして。ですが、もとはといえば、エメローラさんが僕をかばってくれたことがきっかけです。僕のほうこそあなたのお気持ちに感謝したい」
「え、と……それは、その……」
珍しく、エメローラが言葉を濁してうつむいた。
「その、我慢がならなかったと言いますか……つい手が出てしまいました。かえってご迷惑をおかけすることになってしまい、なんと申せばいいのか……」
「構いませんよ。たいしたことじゃありません」
「……いや、十分にたいしたことだと思うけどな」
宮廷舞踏会の最中に王子相手に決闘をやって、けちょんけちょんにやっつけた。法に触れることをしたわけじゃないが、今後どんな影響があるかわからない。
「そんなことより、せっかくの舞踏会なのです。エメローラさんのこれまでの練習を無にするわけにはいきません。早く会場に戻りましょう」
「そうですね。こんなことで、エメローラさんの努力をふいにするのはもったいないです」
パトリックの言葉にシスティリアが同調した。そのシスティリアは俺の隣で立ち上がり、少し離れた場所に立つ貴族の夫人をちらりと見る。わりとあからさまなその視線とアクセントの置かれた「こんなことで」の言葉には隠しきれない敵意があった。
白くなった指で扇子を握りしめ、青白い顔で幽鬼のように立つ貴族の夫人――エルドリュース公爵夫人の脇を、俺たちが揃って通り過ぎる。システィリアの母親がシスティリアをぎろりと睨むが、当のシスティリアは俺の腕を取って城の廊下に向かって急いでいる。俺の義母に当たるとはいえ、さっきのようなふるまいを見せられてはこちらから挨拶する気にはとてもなれず、俺はシスティリアに引かれるままに廊下を行く。
俺たちが宮廷舞踏会の会場である城のホールに戻ると、ぎょっとしたような視線がいくつも飛んできた。
「レオナルド。踊りましょう」
システィリアは実に堂々とそう言って、俺を引っ張ってホールの真ん中へと進んでいく。
ちょうど楽団の演奏が途切れ、俺が散々練習させられた曲へと切り替わる。
「では、パトリック様。よろしくお願いします」
エメローラの声に振り向くと、俺たちから少し離れたところで、エメローラとパトリックが手を取り合って立っていた。どうやら二人で踊ることに決めたらしい。エメローラのお目当てだった王子はさっき誰かさんが入念に叩き潰してしまったので、他に踊れる相手がいないのだ。べつにパトリックがそれを狙ってやったとは思わないけどな。
ノーラとワッタは会場の隅でにやにや笑ってこっちの様子をうかがってる。
「僕でよろしければ、よろこんで」
パトリックがわずかに微笑んで答えている。何度も練習で組んだだろうに、エメローラはその笑みに微妙に視線を逸らしていた。
俺は苦笑しながらシスティリアへと向き直り、
「俺と踊っていただけますか、お嬢様?」
「ふふっ。光栄に思ってくださいね? わたしは意中の相手としか踊りませんので」
システィリアの薔薇のような笑みとともに、楽団の演奏が始まった。
ノーラの蓄音器はすばらしい発明だが、やはり宮廷楽団の生演奏となると雰囲気が違う。音を聴くというよりは音に晒され、音に揺さぶられるような感覚だ。
「よく聴きながら踊ってくださいね?」
システィリアが練習の時から何度も言っていることを繰り返した。
俺は今になってようやくそのアドバイスの意味がわかった。当たり前だが、ダンスは音楽に合わせて作られたものだ。身体を決められた通りに動かすだけなら音楽はいらない。俺は曲に合わせて踊る楽しさを、この時になって初めて掴みかけていた。
「楽しいな」
「でしょう?」
俺の言葉にシスティリアが微笑む。
俺とシスティリア、エメローラとパトリックの踊る周囲は、他のペアが自然に避けるせいで広くなっている。要は周囲から浮いてるわけだが、俺たちの誰一人としてそんなことは気にしない。もともとそうなるだろうと覚悟はしてたからな。まあ、いろいろあったせいで想定よりさらに浮いてるような気はするが。
その開いたスペースに、何を思ったかワッタに手を引かれ、ノーラまでもが参戦した。宮廷舞踏会は貴族の男女が踊る不文律があるが、女同士で踊ってはいけないというルールもない。ただなんとなく空気を読んで、そういう場違いなことをしないようにしてるだけだ。場違いな真似をしでかすとかいうのは、王都の狭い貴族の世界ではほとんど死活問題のように思われてるらしい。だが、今闖入してきた二人がそんなことを気にするはずもない。かたやドワーフの少女、かたや奇人博士である。そんなに熱心にダンスの練習をしてたようには見えなかったノーラだが、ワッタ相手になんとか男性パートを踊っている。音楽に乗ってるというよりは、歯車式の時計のように決められた通りにかっちり身体を動かしてる感じだけどな。ワッタのほうはノリノリなので、二人は時に足を踏み合い身体をぶつけ合い、笑い合いながら踊ってる。
「レオナルド。踊ってる時はわたしだけを見てください」
「ん、ああ、悪い」
気が散っているパートナーにシスティリアが注意してくる。
「そんなにノーラ姉が気になるんですか?」
「あんだけ目立つペアに踊られたら気にもなるって」
フロアの注意も、ワッタとノーラのペアに集まっている。さっき王子を完封したパトリックとエメローラのペアも注目の的だ。エメローラが人魚だということも、じわじわと貴族たちのあいだに広まってるみたいだな。
それに比べると、俺とシスティリアのペアに注目する者の数は少ない。駆け落ち(正確には違うが)した「エルドリュースの至宝」と彼女を射止めた平民出の成り上がり男爵の年の差カップルは目立つにちがいないと覚悟してきたのだが、悪目立ち具合では他の二組に負けるらしい。
ただ、そんな俺たちを見守ってる貴族や令嬢も、少ないながらもいなくはない。たとえば、システィリアの父でるエルドリュース公爵は歓談をやめて俺たちのダンスに見入ってるし、システィリアと同年代くらいの令嬢の何人かがこっそりこちらに視線を向けてもいる。ネール商会のリンドから、システィリアに好意的な令嬢の人相を事前に聞いておいたのだが、そのうちの何人かの様子を確認できた。システィリアを嘲けるような令嬢も多い中で、幸せそうに踊るシスティリアを見て涙ぐんでる娘が何人かいる。システィリアはけっして友達がいなかったわけじゃない。本人は公爵令嬢という肩書があったから付き合ってくれていただけだろうと思ってるようだが、リンドによれば中にはかなり活発にシスティリアを擁護してくれている令嬢や夫人もいるらしい。
「ちょっと。誰を見てるんですか、レオナルド?」
「すまんすまん」
「もう、すまんじゃないです。やっぱり、わたしよりノーラ姉のほうがよかったと思ってるんじゃないですか?」
システィリアが頬を膨らませて冗談半分に、だが、どこか本物の不安をにじませる口調で聞いてくる。
「は? なんでだよ?」
「だって……レオナルドはわたしには相談しないようなこともノーラ姉には話してるみたいですし」
「そりゃ相手によって話題は変わるだろ」
システィリアの鋭い指摘を、俺はなんとかはぐらかす。
「ノーラ姉はもともと他国の人で、貴族だったわけじゃありません。だからレオナルドには親しみやすいのかなと……」
「貴族じゃなければ親しめるってわけじゃないし、貴族だから親しめないってわけでもない。システィリアと結婚したいと思った気持ちに、システィリアが貴族かどうかは関係ない。まあ、ノーラがなにかと気安い相手なのはたしかだけどな」
ノーラはたしかに客観的に見て美人で、正直ドギマギすることもある。ノーラは自分が美人だと自覚してるくせに、妙に無防備なところがあるからな。
ただ、話してる感覚としては、男友達と話してる感じに近い。
「俺が愛してるのはシスティリアだけだ。これまでも、これからも」
「……な、ならいいですけど……」
「顔真っ赤」
「う、うるさいですね。ほら、ちゃんとリードしてください」
俺たちは会話を途切れさせ、ただ音楽に身を預けながら、相手の動きに集中する。そうしていると、これが現実とはとうてい思えないような、甘美な酩酊感に襲われる。
「夢みたいです」
「奇遇だな。俺もだ」
夢のようなひとときは永遠のようにも一瞬のようにも感じられた。
曲が終わり、ダンスが終わったことで、初めて俺は夢が弾けたことに気がついた。
気づけば、ホールは静寂に包まれていた。
誰もが俺たちに注目している。
息を呑んで、何かに打たれたかのように俺やシスティリア、エメローラ、パトリック、ワッタやノーラを見つめている。
その静寂を、ひとつの拍手が破った。
ホールの壇上から聴こえてきた拍手は王のものだ。中庭からいつのまにか戻ってきてたらしい。
王に続いて、ホールの目立つところにいたエルドリュース公爵も手を叩く。
王と貴族の領袖の拍手に、貴族たちのあいだからも拍手が鳴り出した。
雷雨のように響く拍手の中、俺たちの中から歩み出た人影があった。
エメローラだ。
エメローラは壇上へと向き直ると、優雅に礼をしてみせた。
拍手が鳴り止んだところで、エメローラが口を開く。
「国王陛下。そして本日ご来場の皆さま。わたくしはエメローラ。普段は海を住み処とする人魚に御座います。このすばらしい集まりを祝して、どうかわたくしに一曲歌わせていただけないでしょうか?」
エメローラの堂々とした言葉に、壇上で王が頷いた。
「うむ。エメローラ姫よ。伝説に名高い人魚の歌を直に聴けるとは光栄だ。一曲と言わずぜひお聴かせ願いたい」
「恐悦至極です、国王陛下。それでは、わたくしの敬愛する母の歌を」
静まり返った城のホールに、エメローラののびのびとした声が広がっていく。寄せては返す波のように、エメローラの声は広がったかと思うと、聴く者を引き込むかのように小さくなる。そしてまた、ひたひたと静かに、あるいは白い波頭を立てて、エメローラの声が迫ってくる。
エメローラは歌った。
母エメローナの抱いていたシグルド一世王への想いを。
運命によって結ばれなかった恋人たちの悲嘆を。
その苦くも甘やかな思い出を胸に抱いて海底で暮らす母の姿を。
エメローラの母はその身を「分けて」、娘であるエメローラを生み出した。
人魚の神話にある海底の女神アマツニナは、想い人である地上の神タケミオルタと会えない寂しさに、その肉を魚に食わせて人魚という話し相手を生み出したという。
アマツニナと同じ悲嘆に身を沈ませた人魚エメローナは、女神の為した奇跡を再現したのだ。
(そうか、だから……)
エメローラに「母」はいても父はいない。
人魚エメローナは一生涯独身だった。
その無聊をかこちて、エメローナは「娘」を生み出した。
それを、人間の基準で母娘と呼んでいいのかはわからない。エメローラは自分は母親によく似ていると言っていたが、エメローナの身を分けて生み出されたのだったら親子以上に似ていてもおかしくない。
廊下で王子から侮辱の言葉を浴びせられた時にエメローラが言葉に詰まったのは、この話を持ち出しても真に受けてもらえるとは思えなかったからだろう。
語るべき時に、語るべき相手に、然るべき語り方で語って初めて伝わることもある。天性の語り部であるエメローラにはそのことがわかっていたのだ。
エメローラの母は、最後まで王を恋うていた。
そこまで最初の恋にこだわらず、次の相手を見つけたってよかったんじゃないかと思わなくもない。
だが、エメローラの母にとってそれは譲れない想いだったのだろう。
貴族社会には女性に貞潔を求める風潮があるが、そんなくだらない話ではもちろんない。
エメローラの母はただ、王のことを生涯で唯一の相手だと思い定めてしまったのだ。一度想いを定めてしまえば、もうそれを動かすことはできなかった。心の奥底に深く根を張った想いは、時の流れにも風化することなく、最期の時まで人魚の胸のうちで燠火のように燃え続ける。
かくして人魚は、海の底でおのれの恋に殉じて亡くなった。
「うう、悲しすぎます……」
俺の隣でシスティリアが泣いている。
それだけじゃない。会場のあちこちから女性のすすり泣く声が聞こえてくる。いや、男たちの中にも声を上げて泣いているものたちがいた。システィリアの父親である公爵も涙ぐんでハンカチを取り出してる。
人魚エメローナの死とともに歌は転調し、今度はエメローラが主役の物語が始まった。
母の約束を胸に地上に向かう不安と期待。
湖で巡り会った「素敵な夫婦」――俺たちのことだが。
アスコット村ののどかな光景と親切な村人たち。
迎えに現れた貴公子は、実に紳士的にエメローラを王都へといざなった。
王との会見と、それに打ちひしがれるエメローラ。
恋とは何か? 愛とは何か? エメローラは自分がその答えを持ち合わせていないことに気がついた。
自分に恋をする資格はないと半ば悟りつつも、母の想いをないがしろにもできず、エメローラは王子と会う決意をする。
人魚とは異なる文化、異なるダンスにとまどう様子を、エメローラはむしろコミカルに歌い上げた。エメローラにとってダンスがどれだけ大変だったかなんてことは一片たりとも語らない。
そして迎えた舞踏会。
いよいよ出会った王子とは「行き違い」があり、エメローラをかばったパトリックは王子と決闘することになってしまう。
エメローラはついに結論を見出した。
母の想いには応えられない。
エメローラは母ではないし、王子はシグルド1世でもない。
エメローラは幻想の中の母に別れの言葉を投げかける。
想いを伝えてくれてありがとう。
でも、わたくしは別の道をいく。
いや、それは一見別の道のように思われるけれど、実は母の歩んだ道と同じなのだ。
自らの気持ちに最後まで殉じた母のことを、わたくしは哀れとも愚かとも思わない。
むしろ、なんてしあわせな人だったのだろうと、今さらながら尊敬の念を深くする。
そしてその叶わなかった想いの深さに触れることで、わたくしもまた自分の気持ちに素直でありたいと思うのだ。
エメローラの歌はそこで終わった。
会場は静まり返り、ただ貴族たちが涙を流す音だけが聴こえてきた。
気づけば、俺自身も泣いていた。
悲しいだけじゃない。胸に熱いものがこみ上げてくる。悲しみを超えて、明日を生きたいという前向きな気持ちが湧き上がり、隣にいる女性が愛しくて愛しくてしかたがなくなってくる。いつのまにか、俺はシスティリアを抱きしめている。人目もはばからず唇を重ねた。
そんな無作法を咎める声はどこからも上がらない。会場のそこここで、夫婦が、恋人同士が手を結び、抱き合い、互いの名前を呼んでいる。
「……参ったね、これが愛か」
「エメローラ、すごい!」
背後から、そんなノーラとワッタの声が聞こえてきた。




