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41 疑惑

「許さない! 許さないと来たか! ではどうする!? 王子である俺に手を上げておいて、ただで済むとは思ってないだろうな、人魚!」


 王子の言葉は、単純な怒りとは違うようだった。そこには隠しきれない「喜び」が混じっていた。その証拠に王子は頬を張られた顔で笑っている。これで退屈な日常が終わり刺激的な時間がやってくる。そんな快楽の予感に身を焦がして王子は叫ぶ。


「おい、おい! どうしてくれるんだ!? 人魚の国はわが国に宣戦布告でもするつもりか!? ははっ、そんなことができるはずもねえか! ならばおまえを侮辱罪で牢獄に放り込んでやる! そこのローリントン伯爵も同罪だな! かばいあいたいなら牢獄の中で好きなだけかばいあうがいいさ!」

「いい加減にしろ、シャディス!」


 王が珍しく大声を出した。いつもとは違う、威厳に満ちた、相手を従わせずにはおかないという確固たる意思のこもった王としての声だ。


「貴様が散々エメローラ殿を侮辱したのであろうが! 沙汰は追って言い渡す! 貴様は部屋に謹慎しておれ!」

「おい、ふざけるなよ、親父! てめえだってその目で見ただろう!? その人魚が俺の顔を張り飛ばすところをな!」

「何を情けないことを自慢げにほざいておるのだ! わしは何一つ見ておらん! わしは貴様が発した侮辱の言葉を聞いただけだ!」

「いいのかよ、王が明々白々な嘘をついて!」

「いいか、シャディス! わしは見ておらんと、そう言っておるのだ! 王であるわしがそう証言しておる! ここにいるバッカス男爵夫妻もローリントン伯爵も同じように証言するであろう!」

「汚ねえぞ! 王家への侮辱をなかったことにしようってのか!」

「実際にそのようなことはなかったと、わしはそう言っておるのだ! いいから貴様は自室に戻れ! 従わねば兵を呼んで拘禁させるぞ!」


 爆発したように始まった王と王子の応酬に、俺たちはのけ反り声を挟めないでいた。

 だが、王が言う通り、もし証言を求められれば、俺たちは当然王の言った通りの証言をする。エメローラが王子にビンタを喰らわせたなんて事実はなかったと。

 だいたい、女性に頬を張り飛ばされたと訴えれば、王子自身の醜聞になるのである。たしかにエメローラを王家侮辱罪に問うことはできるだろうが、それは同時に王子が女性に頬を叩かれるような真似をしたと立証する結果にもなるのだ。

 だから、ことをこの場で収めようという王の判断はしごく正しい。エメローラにとっても王子にとっても、もちろん王自身にとってもな。


 王子も、さすがに不利を悟ったか、ニヤケていた顔が徐々に渋面に変わっていく。

 しかし、その顔が突然笑みに変わった。

 王子は俺たちの背後に誰かを見つけ、その誰かを見て味方が現れたと思ったのだ。

 俺たちは弾かれたように廊下側を振り返る。


 そこには、美貌の夫人が立っていた。

 年齢は三十代後半から四十くらいだろう。純白のドレスを身にまとい、締め付けたコルセットと大胆に開いたえりで、豊かな胸の谷間を強調している。

 その口元を房のついたすみれ色の扇子で隠しながら、猫のように吊り上がったエメラルド色の目を、愉悦の形に歪めていた。まるで、他人の弱みを見つけ、その相手をどういたぶってやろうかと考えているかのように――。


 そこでふと、俺は目の前の女性に見覚えがあるような気がした。

 もちろん、この年代の貴族の女性の知り合いなんて俺にはいない。

 だが、たしかにどこかで見たような気がしたのだ。いや、違う。この女性は、俺の知る「誰か」によく似ている。

 プラチナブロンドの髪と、エメラルドの瞳。整った美貌。

 その顔立ちは、俺の妻のものによく似ていた。

 俺は弾かれたようにシスティリアを見る。


「お母、様⋯⋯」


 システィリアが呆然と声を漏らす。


「あら? どなたか存じませんが、わたしの娘ではないようですわね。あなたはバッカス男爵夫人なのでしょう?」


 女性が、システィリアをなぶるようにそう言った。


「おやおや、カトリーナじゃないか!」


 女性に実に気安くそう声をかけたのは、もちろんシャディス王子である。


「シャディス王子。エルドリュース公爵夫人と呼んでほしいと申し上げたはずですが?」

「僕のほうこそ、シャディスと呼んでほしいとお願いしたよね、カトリーナ」

「なっ⋯⋯ちょっ⋯⋯お母様、まさか、シャディス王子と⋯⋯?」


 王子と女性の親しげな様子に、システィリアが信じられないという顔で女性に言う。


「誤解なさらないでほしいわね、男爵夫人。わたしは軽々しく不貞を働くような女ではないの。たとえ王子がお相手であろうと、このようなお誘いは迷惑千万。ずっとお断りし続けているのですよ?」

「そうさ、カトリーナはずっと僕につれないんだ。でも、だからこそ面白い。話もよく合うし、親しくさせてもらってるよ。そういった含みは抜きにしても、ね」


 いつのまにか王子は自分のことを「僕」などと言っている。年上の女性を口説くにはそのほうがいいということか。さっきまでと豹変した――しかし深いところでは一貫している王子の態度に、俺は気味の悪いものを感じていた。


「で、カトリーナ。いや、エルドリュース公爵夫人。あなたはたしかに見ていたよね? この娘が、あろうことかこの国の王子であろう僕の頬を張り飛ばす瞬間を!」

「ええ、しかとこの目で見ましたわ。王家を侮辱するようなふるまいは、いかなるものであれ許されません。王はお優しい方ですからことを丸く収めようとなさっていらっしゃいますが、わたし、このことは隠してよいような事柄ではないと思いますの。王家への侮辱は王への侮辱。王国全体への侮辱でもあるのですから。ひいては王国を支える貴族すべてへの侮辱でもあります!」

「⋯⋯エルドリュース公爵夫人よ。見ていたのならわかるだろう。今回の件、もとはといえはこやつが悪い」


 王が苦々しい顔で女性――カトリーナ・フィン・エルドリュース公爵夫人に言った。


「あらあら。そうでしょうか? たとえどんな理由があっても、やってはならないことが世の中にはあります。夫や婚約者を裏切ってべつの男のもとへ走ることもそうですが、王子の顔を張り飛ばすなどということもそうですわね。わたしは、そのようなことを見過ごすには、あまりに倫理的にできているようですの。常日頃からお誓いしているように、わたしは王国貴族として国王陛下に心よりの忠誠心を抱いておりますから、そのご子息がどこの誰ともしれぬ女に殴打されたとあらば、そのようなおそろしいことはとうてい――とうてい、この胸にしまっておくことはできませんわ!」

「言い触らすとでも言うつもりか、公爵夫人。だが、ことはバッカス男爵夫妻やローリントン伯爵も見ていたのだぞ?」

「そのお三方はえたいのしれぬ女性を連れてきた当の本人たちではありませんか。公爵夫人でもあるわたしの証言と彼らの証言と⋯⋯どちらが信用されるかはおわかりでしょう」

「いったいどうしたいの言うのだ! このようなくだらぬことで(いさか)いの種を蒔きたいのか!」

「諍いの種を蒔いたのはそちらのお嬢さんではないかしら? ローリントン伯爵への侮辱は見過ごせぬ。そう申しておりましたわね? そのために王家と戦うというのなら結構な覚悟ではありませんか。公正な裁きの場に引き出して、賢明なる方々に王家侮辱罪がいかに高くつくかということを教えていただこうではありませんか」


 公爵夫人の言葉に、エメローラの顔が今さらながら青くなる。


「もちろん、そのような娘を王宮へと連れてきたバッカス男爵夫妻にも責任を取っていただく必要がございますでしょうね」

「⋯⋯システィリア嬢は公爵夫人の実の娘であろう」

「そのような娘は知りませぬ。わたしはただ、王国のため、国王陛下のため、世の公正のために申し上げているまでのこと。それも、ただ事実をありのままに話すと申しているだけのことです。なぜそれを国王陛下おん自らが咎められるのでしょう?」

「そ、それは⋯⋯」


 口の回る公爵夫人に、王が言葉を詰まらせる。

 そこで、王子が口を挟む。


「待ってくれ。たしかに、その娘の責任を問うのは当然だが、それ以前に僕はローリントン伯爵からも侮辱を受けた。彼の言い分では、僕は僕が付き合う女性たちを不幸にしているらしい。きわめて許しがたい侮辱だ。その侮辱に僕が当然の反論を加えたところ、そちらの女性が怒って僕に手を上げたというわけなのさ」

「それでは、ローリントン伯爵とその娘は⋯⋯?」

「さあ、僕にはわからないが⋯⋯。しかし、おかしいね。その娘は、母親が僕の曾祖父さん――シグルド1世王とのあいだに約束を結んだと言って、僕は彼女の婚約者なのだと主張した。そのくせ、ローリントン伯爵とよろしくやっていたのだとしたら片腹痛いにもほどがある。とんでもなくふしだらな娘だ。その口で、よく恋だの愛だの言えたものだ」

「王子っ! そのような事実はありません!」


 パトリックが強い口調で否定する。

 王子はパトリックの言葉を鼻で笑い、急にエメローラへと矛先を変えた。


「だいたいだね、エメローラ殿の母親がシグルド1世王と恋仲だったことを認めたとすれば、当然疑問が湧いてくる。もしエメローラ殿の証言するように彼女の母親が結ばれることのなかった王を想い続けていたのだとしたら⋯⋯どうして()がいるんだい?」

「そ、それは⋯⋯」


 エメローラが言葉に詰まった。

 たしかにそれは、俺やシスティリアも気づいてはいたことだ。エメローラの母親はシグルド1世をずっと想っていたというが、ではエメローラの父親は誰なのか? 時代からしてシグルド1世ではありえないはずだ。エメローラの母親もまた、王と結ばれなかった後に、別の相手と巡り合ったのだろう。

 だが、そのことを非難するのはおかしいと思った。シグルド1世とて別の相手と結婚して子孫を設けているのだから、エメローラの母親にだけそれをするなと言うのはおかしい。自然のなりゆきからしても、恋破れた後にべつの恋を見つけるのはまったく悪いことじゃない。

 ただ、その場合、なぜエメローラの母親は、新たな夫ではなくシグルド1世のことを想い続けていたのかという疑問は湧いてくる。しかもエメローラの母親は、新たな夫とのあいだに設けた娘に対し、その父親とは別の男とのロマンスを語りきかせていたことになるのだ。

 もしそれが事実なら、エメローラの母親のやっていたことはあまりまともとは思えない。だが、エメローラと接している限りでは、エメローラの母親がそんなにもねじれた精神状態にあったとは思えないのだ。

 エメローラの父親が誰かについては、俺もシスティリアも結局聞けずじまいでここまできてしまった。まさかここでそれを突かれるとは……。


「ふん、語るに落ちるとはこのことだ。曾祖父さんもエメローラ殿の母親も、それぞれ新しい相手を見つけたのだ。ならば、それでいいではないか。ラブロマンスの最中に一時の感情で作ってしまった証文なんて、真面目に取り扱う必要はない。そっと屑かごにでも放り込んでしまえばいいだけさ」

「ちがっ⋯⋯ちがいます! お母様は、本当に、命の尽きる日までずっと陛下のことを⋯⋯!」

「じゃあ、()はなんなんだい? その母親の娘を名乗る君こそが、母親の気持ちが移ろった動かぬ証拠じゃないか!」

「それは⋯⋯誤解です! 人魚には⋯⋯その、人魚には⋯⋯!」

「わかってるさ、誰にだって事情はある。君を不義の子だと責めるつもりは僕にはない。だが、君が勝手に主張してるだけの『母親の気持ち』を尊重してやる義理もない! これ以上恥をかく前に素直に海に帰ったらどうだ、ふしだらな人魚め!」

「いい加減にしろっ!」


 王子の糾弾を遮ったのは――パトリック。


「僕はエメローラの気持ちを信じる! エメローラが母親はシグルド1世王をずっと想い続けていたというならその言葉を信じる!」

「ほう、言うではないか! だが、どう信じろというのだ? エメローラ殿の言ってることは矛盾している! 論理的な矛盾だ! 貴様は矛盾したことをどちらも同時に信じるとでも言うのか!」

「僕が信じるのはエメローラのことだけだ! エメローラがそう言ってる以上、嘘ではない!」

「貴様がそう信じるのは勝手だがな、ローリントン伯爵! それを他の皆が信じるとは限るまい! それとも、是が非でも証を立てると言うつもりか? 王子であるこの俺に向かって?」


 「是が非でも証を立てる」――それは、追い詰められた貴族の最後の手段を使うということだ。

 つまり、またしても決闘だ。

 決闘で勝てば、勝者の言い分が正しいものと認められる。たとえ理屈など通ってなかったとしても、だ。

 もちろん、決闘は挑む側だけでなく、相手が受けてこそ成立する。相手は負ければ無理な言い分をも通されるとわかった上で決闘を受けるのだから、そのリスクはわかってる。それでも決闘を受けるのは、絶対に勝つ自信があるか、あるいは自分の側の言い分にも穴があり、決闘で嘘を塗り固める必要があるかだろう。

 だが、王子の場合はそうではない。さっきからのはしゃぎようを見ればわかる。王子は単に血が見たいのだ。貴族の女を口説いていいように快楽を貪っても満たされない。そんな頽廃の中で、生死を賭けた「遊び」がしたいのだろう。


「ま、待て、ローリントン伯爵!」


 慌てて割って入ったのは王様だ。


「話はこの場で収めよう! エルドリュース公爵夫人にはしかるべき何かを与えようではないか! それでこの話は終わりだ!」

「あら、わたしはべつに陛下から金品をせしめようだなんてつもりはありませんのよ? ただ、ふしだらな小娘どもに王子が煩わされるのは我慢ならないというだけのことです」


 公爵夫人は愉快そうにエメローラとシスティリアを見て言った。


「さあ、どうする、ローリントン伯爵! その娘を信じると言ったのは嘘か! それとも、その娘を潔白と信じつつも、命を賭ける度胸がないか! あるいは、衆目の前で剣の名門ローリントン伯爵家の当主ともあろうものが一敗地に塗れることがおそろしいか!」


 王子はさらにパトリックを挑発した。

 王はすがるような目でパトリックを抑えようとするが、


「そこまで言われては是非もない。シャディス王子。パトリック・フィン・ローリントン伯爵はあなたに決闘を申し込む!」


 決定的な言葉が、パトリックの口から放たれた。

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