40 それぞれの沸点
吹き抜けになったホールには着飾った貴族たちがひしめき、いくつものグループを作って、上気した顔で社交のひとときを楽しんでいる。あるグループでは白髪の老紳士同士が孫娘を紹介しあい、べつのグループでは軍属らしい青年貴族たちが自分たちの武勇伝を語り合う。王家の歴史を描いた絵が壁一面に掲げられている前で、歴史には微塵も興味のなさそうな若い貴族の娘たちが、男からのダンスの誘いを、そっけない顔を取り繕いながら待っている。
三階分は優にある王城のホールには、知り合いに出くわして高くなった声や、緊張しながら目上の貴族に挨拶する声や、娘たちが何かを笑い合う甲高い声や、誰かが誰かの名前を呼ぶ声などが渾然一体となって響きあい、慣れない礼服に身を包んだ俺の耳を圧倒する。
人が多い場所でも、自分に関連することはなぜかよく聞こえるものだ。俺がシスティリアを伴ってホールに入った瞬間から、「エルドリュース公の⋯⋯」「エルドリュースの至宝」「システィリア様」などの声だけは、この混乱の中でも俺の耳まで届いていた。「バッカス? 誰だそれは?」なんて声もな。
俺たちに続いて、エメローラが会場に姿を現わすと、小さいものだがどよめきが上がった。
人魚と先々代王の約束のことは公にはなっていない。では何に対してどよめいたのかというと、それはもちろんエメローラの現実離れした幻想的な美しさに対してだ。
貴族の令嬢たちが競い合うように着飾った中にあっても、エメローラの美しさは頭一つ以上抜けている。エメローラの持参した例の異国情緒を感じさせるドレスもまた、注目を集める要因だろう。だがやはり、まず目を引くのはエメローラのピンクパールの髪や曇った琥珀色の瞳や白く丸みを帯びた美貌である。そののちに、だいぶ経ってから、その女性が一風変わったドレスを身につけていることにようやく気づく。
これまで噂すら聞いたことのなかった美少女の出現に、若い男性貴族を中心にひそひそ声がかわされる。「誰だ?」「さあ?」エメローラのことを知るのは国王陛下と王子殿下くらいなので、当然ながらエメローラの正体はどの貴族にもわからなかった。
一方、舞踏会の花である貴族の令嬢たちもエメローラに注目した。
エメローラの美しさは同性にも強い印象を与えているようだったが、令嬢たちがエメローラに注目したのは別の理由によるものだ。エメローラをエスコートしているのが、昨今その動静を噂されている美貌の剣士パトリック・ローリントン伯爵だったのだ。パトリックは見るからにうやうやしい態度でエメローラをエスコートしている。その様子は、まるで異国の姫を遇するかのようだった。
システィリアをめぐる決闘の件があったとはいえ、パトリックは今回の舞踏会における貴族の令嬢たちの「お目当て」の一人である。そのパトリックに丁重にエスコートされて入場してきたあの見慣れない娘は何者なのか? 令嬢たちは推測に推測を重ねるが、男性たち同様、その答えを知る者はいなかった。
まずはシスティリア、次にエメローラとパトリックに集まった注目に対し、そのあとに続いた入場者に注意を払ったものはさほどいないようだった。だがもちろん、彼女らはそんなことは知らないとばかりに、絢爛豪華なホールの様子や並べられた豪勢な食事へと意識を向けている。言うまでもなく、ワッタとノーラの二人である。ドレスに身を包んだ二人はともに目を惹く容姿ではあるのだが、ワッタはまだ幼い上にドワーフであり、ノーラは奇人として名の通った博士である。この舞踏会で意中の相手を落とそうと意気込む貴族たちにとって、この二人は、なるほど珍しい人物ではあるものの、ライバルでも攻略対象でもありえない。
俺たちは事前の打ち合わせで、舞踏会に留まる時間は極力短くすることに決めていた。
エメローラを好奇の目に晒すのは気の毒だし、人魚と先々代王との約束を漏らされたくない王にとっても迷惑だろう。俺やシスティリアにとっても、この舞踏会では気楽に話しかけられる相手がまったくと言っていいほどおらず、長居しても気まずいばかりでいいことがない。公爵令嬢だったシスティリアが俺と駆け落ち同然に結婚したことは王都の大きなゴシップでもあり、好奇の目を向けられるという意味ではエメローラに勝るとも劣らない。もっとも、父であるエルドリュース公爵もこの場にいるので、システィリアに直接ちょっかいをかけてくる貴族はいないだろうが、通りすぎざまに嫌味や皮肉を言ってくる程度のことはありうるだろう。そんな時に男爵の俺ではシスティリアを十分にかばってやれるとは思えない。むしろ一代限りではあるが伯爵と同格とされる「博士」であるノーラのほうがそうした睨みは利くだろう。パトリックは今日はエメローラにかかりきりだし、そもそもパトリックから婚約者を奪っておいて、その婚約者を自分で守れないのでは情けないにもほどがある。
貴族たちがひしめく中を俺とシスティリア、パトリックとエメローラが進んでいく。ワッタは自由に楽しんでいいと言ってある。ノーラは俺たちから少し離れてついてきて、それとなく気を配ってくれている。
俺たちの前にいた貴族たちが、自然と道を開け、ホールの奥へと向かう俺たちを横目でそっとうかがってくる。システィリアをエスコートしてるのは俺なので、まるで貴族たちが俺を避けたようであるが、もちろん貴族たちが見ているのは俺ではなくシスティリア――いや、システィリアの父であるエルドリュース公爵の影だろう。今日ばかりは使えるものはなんでも使う覚悟の俺は、ただ前を向いて、ホールの奥、緋色の絨毯の敷かれた階段へと向かう。左右から弧を描いてベランダ状の二階部分に至る階段の先には、もちろん国王陛下の姿があった。
「ご歓談中失礼致します」
俺は側近と話す国王陛下に声をかける。
「おお、バッカス男爵か」
「このたびは身に余る爵位をいただき、誠にありがとうございます。この場を借りて妻ともども改めてお礼申し上げます」
「うむ。それで、例の話だが⋯⋯」
国王陛下が俺の背後をちらりと見る。
「このたびは斯様な晴れの場にお招きいただき誠に有難うございます。無理なお願いをお聞き届け致しましたこと、このエメローラ、心より感謝申し上げます」
エメローラが王の視線を受けてそう言った。
「構わぬ。不義理を働いたのはこちらなのだからな。約束のことはさておき、我が息と一目でも会っておきたいとのことだったな。その気持ちはわからぬでもない。もっとも、不肖の息子ゆえ、危惧を抱かぬでもないのだが⋯⋯。
おい、シャディスはどこにおる?」
「は。さきほどバルコニーに出られるのを見ましたが⋯⋯」
王の言葉に側近が答えた。
「ふむ。それならばちょうどよい。エメローラ殿、ご足労であるがついてきてもらえるか?」
「はい、もちろんです、国王陛下」
「一人では心細かろう。その方らもついてくるがよい」
「お気遣い痛み入ります、国王陛下」
王は俺やシスティリア、パトリックの同行も認めてくれた。
温厚で誠実という評判通り、王はエメローラへの気遣いも忘れない。もちろん、今日のこれで最後であり、その見届け人は多いほうがよいという現実的な判断もあるのだろうが。
王直々の案内で、俺たちは会場を出て廊下を進み、少し離れたバルコニーへと出た。
園庭によって綺麗に整えられた中庭を見下ろせるかなり広めのバルコニーだった。
バルコニーは、中庭に掲げられた明かりと、廊下側から漏れる明かりとで、うっすらと陰がかかっている。その中に、王族の衣装に身を包んだ長身の美男子がいた。暗い色あいの癖のない髪と女性のように白い肌。年齢は二十三と聞いていたが、その容貌に漂う頽廃の影のせいか、もうすこし年上のようにも見えた。
「シャディスよ。休んでおるところ済まんな」
王は息子に対しても丁寧な口調でそう言った。
シャディス王子はその王を心持ち鼻で笑うような態度だったが、言葉だけは丁寧に返した。
「いえ、構いませんよ、父上。いついかなる時でもシャディスは父上のお役に立ちましょう。
それでは、そちらの女性が?」
王子はエメローラに一瞥を送ってそう聞いた。
「うむ。人魚の姫エメローラ殿だ。先々代の王であったシグルド1世王が彼女の母と互いの子孫を結婚させるという約束を結んだ。その当の相手である」
「お会いできて光栄です、シャディス王子。わたくしはエメローラと申します」
エメローラがにこりと笑って淑女の礼を取る。
王子はエメローラの笑みにも表情を変えず、冷ややかに言った。
「ご苦労なことだな。そんな昔の約束を、証文一枚を頼りに果たしにこんなところまでやってくるとは。見上げた馬鹿正直さだ。あるいは、王妃となって遊興三昧に耽りたいか?」
「なっ⋯⋯シャディス! 言葉がすぎるぞ!」
シャディスの言葉に、王が顔を青くしてたしなめる。
「わたくしはただ、母の気持ちが知りたかったのです。結ばれることはないとわかりながら恋に落ち、その気持ちを生涯大切にしていた母の気持ちを」
「そんなもの、知ったところでどうなるというのだ? それでも知りたいというなら教えてやるがな、恋だの愛だのいうのは快楽を得るための名分にすぎん。男はただその女を抱きたいという気持ちを『恋』という言葉にくるんで表現し、女もまたその男になら抱かれてもよいと思うとその欲望を『恋』という言葉に置き換える。
だがな、『恋』などというものはすぐに飽きる。『恋』に飽きれば、『愛』というもうすこし長持ちしそうな言葉を持ち出して、ぐずぐずの関係を糊塗しようと試みる。むろん、そんな努力にも早晩飽きと限界がやってくる。そうなるとだな、『愛』を裏切り、他の女、他の男と情を交わすことに強い快楽を感じるようになるのだ。しかしまあ、それとてすぐに飽きることに変わりはない⋯⋯」
そう答える王子の目には、庭の明かりも廊下の明かりも移っていなかった。むなしさを放蕩で忘れることができた時期はとうに過ぎ、放蕩にすら飽きて、おのれのむなしさを持て余している。俺よりもパトリックよりも若いというのに、まるで死期を悟った老人のような目をしていた。それも、人生に満ち足り幸福にこの世を去っていく老人の目ではなく、長く生きたが人生に喜びなどまるでなかったと誰にもぶつけることのできない不満を呑んで死のうとしている老人の目だ。
「母は、恋に飽きることはありませんでした」
「それは、その恋が結ばれずに終わったからだ。よい想い出だけが胸に残り、都合の悪いことは時とともに忘れていく。種族からして違う男女が、常に和合し、仲睦まじく愛し合っていたとは思えんな。それとも、人魚には人間の男に人外の快楽をもたらす手管でもあるのか?」
シャディス王子の言葉に反応したのはパトリックだった。
「⋯⋯失礼でありましょう、王子。女性に対して、そのような」
「ふん、ローリントン伯爵だったな。婚約者を元部下の非正規騎士に寝取られたと噂の。おっと、本人たちを前に言うことではなかったか。失敬失敬」
王子の言葉にパトリックはもちろん、俺もシスティリアも奥歯を噛む。だが、パトリックがエメローラを思って侮辱に耐えた以上、俺たちが怒るのは筋違いだ。
「母はシグルド1世王を手練手管で籠絡したわけではありません。二人は真に想いあっていたのです。だからこそ、このような約束を残したのです」
「俺はそんな約束は聞いてない。俺だけじゃない、親父だって聞いてなかった。だろ?」
王子に聞かれ、王は言葉に詰まりながら、
「⋯⋯聞いておらなかったわけではない。幼い頃に聞かされたがゆえに、真に受けておらなかっただけだ」
「そりゃ同じことだろ。俺だって、十やそこらの時にそんな話をいきなりされたら、からかわれてると思うに決まってる。だいたい、本気で約束を守る気があるんだったら、こそこそしないで約束を公表してればよかったんだ。結局俺の曾祖父さんは曾祖母さんの顔色をうかがって、人魚との約束をひた隠しにしてたってことなんだよ。約束を結んだ本人にそんな程度の覚悟しかなかったってのに、なんでなんの関係もない曾孫の俺が、自分の伴侶を勝手に決められなきゃならねえんだ? そんなに人魚と結婚したかったんなら、曾祖母さんを殴り倒してでも嫁に迎えればよかったんだ」
「無茶を言うな、シャディス。王とて何もかもを自由気ままに決められるわけではない」
「そりゃ、何もかも自由なんてことはねえだろうけどよ。曾祖父さんは、王妃が有力な貴族の娘で、外戚だった当時のエルドリュース公が怖かった。だが、その程度で諦めるんなら、その程度の想いしかなかったってことだろうが。本当にその人魚を愛してたんなら、罪でもでっち上げてエルドリュース公を斬れよ。価値のあるもんを代償なしに手に入れられるわけがねえだろう」
シャディス王子はそこでちらりとシスティリアを見る。
「悪いな、てめえのところの先祖の悪口言ったみたいでよ」
「いえ、そんな⋯⋯」
さすがのシスティリアも、これには返す言葉が見つからなかったようだ。
「だが、そこんところは、曾祖父さんより代々のエルドリュース公爵のほうがよくわかってそうに思えるな。人魚にうつつを抜かしてる曾祖父さんに、愛されることはないと知りながら娘を差し出して権勢を得たのが当時のエルドリュース公爵だ。うまくやったもんだよな。きっと当時から曾祖父さんは人魚などに入れ上げるロマンシストで王の器にないとでも陰口を叩かれてたんだろうさ。そこに、貴族の代表格である当時のエルドリュース公爵が娘との縁談を持ち込んだ。周りの貴族も、曾祖父さんの父親である当時の国王もその提案を歓迎しただろう。さすが、王国建国以来の大貴族。腹芸だけなら王家を凌ぐ」
「そ、そうですか⋯⋯」
システィリアは困惑した声でなんとか返す。
「シャディス、あまりそういうことをまだ若い女性に言うでない」
「俺は褒めてるんだって。それに、システィリア嬢はいまではバ⋯⋯なんだったか、そう、おまえだよ、おまえ」
王子がいきなり俺に顎を向けて聞いてくる。
「バッカス男爵です、王子殿下」
俺は内心のムカつきを抑えつつ、冷静にそう言葉を返した。貴族のものの言いようにいちいち腹を立てていては非正規騎士など務まらない。こういうのもひさしぶりだなと、場違いな懐かしさを覚えてしまった。
「そう、バッカスだ。エルドリュースの至宝と讃えられたシスティリア嬢も今ではバッカス男爵夫人であって、もうエルドリュースの人間じゃない。
ああいや、それでも俺は、システィリア嬢にエルドリュースの血を見るね」
「どういうことでしょう、王子?」
「おまえ、その男を振ってこっちの男のもとに駆け込んだんだろ? やるじゃねえか。俺の曾祖父さんがへたれてできなかったことを、女の身でやってのけた」
「そ、それはどうも⋯⋯」
「その男」でパトリックを、「こっちの男」で俺を示していう王子に、システィリアが困った声で相槌を打つ。
「俺の曾祖父さんが一人の人魚のためにそこまでやったんだってんなら、俺だってちっとは感動を覚えなくもねえさ。ま、曾祖父さんが人魚とくっついてたら俺はこの世にいねえけどよ。ってことはつまり、俺は曾祖父さんがへたれた結果としてこの世に生を亨けたってことか。笑えんな」
王子は唇を吊り上げて、「くくっ」と感じの悪い笑い声を漏らした。
その王子に、エメローラが言う。
「母はずっと、あなたの曽祖父様のことを想っていました。約束の日を心待ちにしていたのです。母はわたしに人間の言葉を教え、あなたの曽祖父様との想い出を語り、今日という日に備えていました。でも、今日という日を迎えることなく、病で亡くなってしまったのです。母の気持ちは本物です」
「かもな。俺の経験から言っても女のほうが情が深い」
「では⋯⋯」
「だがな、そんな話が俺になんの関係があるってんだ? 顔を見たこともない曾祖父さんに義理立てして、おまえを妃に迎えろってのか? ばかばかしい。死んだ女の感傷につきあってられるかってんだ」
「そ、そんな⋯⋯」
悲しげに眉を寄せるエメローラに、王子が言った。
「ふん、そんな顔をしてると魅力的だな。妾でよければ囲ってやる」
いきなりの放言に、俺たち全員が絶句する。あまりの言い分に、王もとっさに王子を叱責できなかった。
「メカケ、とはなんでしょうか?」
この中で唯一、話を理解できなかったエメローラが聞く。
「教養のない人魚だな。本妻以外の愛人ということだ」
「おっしゃる意味がわかりません。夫婦はひとつがいのものです。なぜ妻とはべつに愛人が必要なのでしょうか?」
「必要か必要でないかではない。俺はほしいと思った女は手に入れる。それだけのことだ。まあどうせ、どいつもこいつもすぐに飽きるんだがな」
王子の言葉に、さすがのエメローラも眉をひそめた。
「あなたは何人の女性とおつきあいされているのですか? すべての女性を、ただひとりの妻と同じように愛せるとおっしゃるのですか?」
「ぶしつけなことを聞くな、人魚。そんなのは俺の勝手だろう。
だいたいだな、俺ばかりが欲をかいてるわけじゃねえ。俺とつきあう女のほうだって、王子とつきあうことに魅力や実利を感じてるんだよ。
まずは、虚栄心が満たされる。王子様を射止めたわたしはなんて魅力的な女なんだろうってな。
次に、権勢だ。王子様とつきあっていれば仲間うちででかい顔ができる。王家にもちょっとは口がきける。もし子どもを孕めば、いざって時には自分の子を王にできるかもしれん。うちの王家はどういうわけか子が少ねえから、嫡子が流行り病かなんかでぽっくりいけば、好機が巡ってこないともかぎらねえ。教会の連中がやってる富籤と同じさ。そうそう当たるもんじゃないが、当たれば一気に大儲けってわけだ」
「そんな⋯⋯」
「俺は嫌がる女に無理強いしたことは一度もねえ。そんなことをしなきゃならんほど女に不自由はしてないんでね。たいていの女は俺が声をかければころっと落ちるんだからな。ベッドの上でもちゃんと満足させてやってるよ。俺と付き合って損をしてる女はいねえのさ」
肩をすくめて王子がうそぶく。
「王子。彼女らは、まともな貴族夫人として扱われるという名誉を損なっているのではありませんか?」
硬い声でそう言ったのはパトリックだった。
俺は思わず冷や汗をかく。王子に向かっての発言としてはかなりヤバい。世渡りを心得たパトリックらしくもない皮肉のこもったセリフだった。度重なるエメローラへの暴言に、パトリックは我慢の限界を迎えかけているようだ。
強い視線で王子を睨むパトリックに、王子は意地の悪い笑みを浮かべ、パトリックに詰め寄って言葉を放つ。
「へっ、言うじゃねえか、ローリントン伯爵。さすが、女を寝取られた男の言うことは違うね。しかも、人魚なんぞに入れ込んで、自分を裏切った夫婦と仲良く舞踏会にまで乗り込んできやがった。その面の皮の厚さだけは見習いた――」
パン! と乾いた音がバルコニーに響いた。
その音には静寂が続いた。
背後の廊下の奥から、ホールで宮廷楽団が奏でる音楽がかすかに聞こえてくる。
それ以外は、ただにわかに吹き出した冷たい夜風の音と、顔色を失い息を呑んだ俺たちの沈黙とがあるだけだ。
エメローラは、手を振り抜いたままの姿勢で王子に言った。
「わたくしを侮辱するのは構いません。もともと無理を承知で申し上げたお願いです。ですが、こんなわたくしによくしてくださったパトリックを侮辱するのは許せません」