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第134話 意識がとろける匂い

 女性の鬼人からなんとか逃れた俺は汗だくになりながら帰宅をすることになった。風呂に入ったのにまた汗をかくことになるとは思っていなかった。


 またお風呂に入らなければ、とは思っているのだが、今からカレー炒飯の温泉に戻ると女鬼の毒牙に襲われる可能性が出てくる。なんとか避けていきたいが、時間もない。


 広場を経由して拠点に戻ると若干離れた場所でそわそわしているルカさんと「臭い!」と言ったことに後悔を覚えている子蜘蛛たちがいた。


「ただいま」


 俺がなんでもないように言うと、子蜘蛛たちは一歩踏み出そうとするがすぐに足を引っ込めていた。そこで俺は敢えて両手を広げた。


「おいで」


 すると、子蜘蛛たちは引っ込めることをやめて走ってきた。一人、また一人と胸に飛び込んできた。頭を撫でながら子蜘蛛たちの「ごめんなさい」を聞いて許してあげる。


 俺からはなにも言わない。子蜘蛛たちの気持ちを受け取るだけ。みんなの「ごめんなさい」を聞き終えると、恥ずかしそうに俺から離れ、道を明け渡した。その先にはこれまだ拗ね気味のルカさんがいた。


 いつもピンと張った耳をピクピクさせて嬉しそうにしているルカさんは、今日に限って、ふにゃふにゃと力なく折り曲がり、申し訳無さそうな気持ちを前面に出していた。


 そんなルカさんのもとに歩みを止めることなく突き進むと、ルカさんの頭に手を置き、そのまま後頭部に手を回して抱き寄せた。


「大丈夫、大丈夫。俺は気にしてないですよ」


 俺はルカさんが人一倍、感情豊かなことを知っている。嬉しいときには、はしゃいで、大好きなものには、とことん夢中になる。


 真面目なときには真剣な雰囲気を醸し出す。にんじんを落としたときはこの世の終わりとでも言うぐらい悲しそうな顔をする。


 だから今回のような些細なことでも心が傷ついてしまうことがある。そんなときは責めることはなく、ルカさんを受け入れて話を聞いてあげるに限る。


「ごめんなしゃぁい!!!」


「気にしてないから、大丈夫」


 落ち着くまで抱きしめた頭をぽんぽんしていると、静かに胸にうずくまるルカさん。すすり泣くような声がした。ルカさんはきっと泣いている顔を見られたくないんだろう。


 なぜだろう、それなのにルカさんの様子がおかしい気がする。ピトッと俺の胸に張り付いたルカさんの耳はいつの間にか激しくピクビクと動かしていた。


「ん?」


 耳を澄ませてルカさんの様子を探ってみると、ルカさんの鼓動が異常に早いことに気がついた。それからボソボソとなにかを呟いていた。


「はぁ……はぁ……や、八雲様の濃厚な匂いがっ!はぁ……はぁんっ……こ、こんなの、お、おかしくなってしまいますぅ!!」


 どうやらルカさんは俺の匂いを嗅いで興奮していたらしい。まるで癖になりそうな悪臭を嗅いだときの人間のジャンキーな習性のように、ルカさんはクンカクンカと俺の匂いを嗅いでいた。


 吸うときは勢いよく、それでいて吐き出すときは静かに。俺の匂いを逃さないように。


 いつまでもこうしてられないので、どうにかしてルカさんを離せないか画策する。無理やり剥がすのはなんだか可哀想なので、自分自身、自らの意思で動いてほしい。


 なにかないかと悩ませていると、俺はあることに気づいた。ルカさんに今日分のにんじんを渡していなかった。


「ルカさん?」


「はぁ……はぁ……な、なんでしゅか?」


「にんじん食べません?」


「食べます!」


「じゃあ俺から離れてください」


「それとこれとは違いますよ、えへへへへ」


 どうやら離れる気がないらしい。だからといってここで諦める俺ではない。


「にんじんをあげるには条件があります」


「条件?」


「それは……行儀よく座ることです」


 幼い子供というのはじーっとすることができない生き物だ。親の言うことに反感を抱き、自分がしたいことを突き通す。


 それもあるが、親にかまってもらうにはどうすればいいのか、子供は常に悩んでいる。どこからどこまでが親が怒られるラインで、どうやったら遊んでくれるのか、どうしたら教えてくれるのか。


 親の反応によって子供は行動を制御する。繰り返すことで学びを得て成長できるのが子供だ。


 俺の子蜘蛛は成長もできるし、俺の言うことも瞬時に把握して行動に移してくれる。


 にんじんを食べるためにお行儀よく椅子に座っていく子蜘蛛たち。


「ルカさん?」


「うううう、八雲さまとは離れたくありませんっ!」


「にんじんは食べられませんがいいんですか?」


「よくないですが……八雲さまと天秤にかけたら、にんじんも劣ります。いまはこの至福の匂いを堪能するです!」


 どうやらこれでも俺から離れたくないらしい。ならこれならどうだ?


 俺はテーブルの上に皿を置いてにんじんを一つ、二つ、と置いていく。山のように、にんじんを置くと、好きなだけにんじんを食べていいように指示を出した。


 もちろん、ルカさん以外だ。


「ずるいです!ずるいです!」


 胸にしがみついたルカさんが俺を見てそう言った。上目遣いで可愛いが、これにルールを課したのは俺なので、自ら破ることをしない。


 ルカさんが座らない限り、俺も行儀よく座ることができないのだ。


「なにがずるいんですか?」


「にんじん食べ放題です!なぜこれを今日に限ってやるのですか?」


「それは……ルカさんが俺から離れないからですね……」


「えっ!?嫌ですっ!離れませんよ!」


「ルカさんが離れてくれないと寝れません」


 これは本当だ。ルカさんはうさぎの獣人だが、獣の匂いというよりも女性的な匂いがして眠れないのだ。しかもこれだけ密着していると柔らかいものが当たって、色々と大変なのだ。


「私は大丈夫ですよ!」


 俺が大丈夫じゃないんですよ。


 これだけはやりたくなかったけど仕方ない。天糸でルカさんの身体を後ろに引っ張り、無理やり引き離そうとする。さらに自分の身体からも糸を出して、ルカさんと俺の間に空間を作っていった。


「うわわわ、や、八雲さまっ!?」


「ルカさん、調子に乗るのは良くないことですよ」


 騒ぐルカさんだったが、助ける者はいない。なぜなら俺に長く張り付きすぎたことで子蜘蛛たちが嫉妬の目で睨みつけていたからだ。


 前後を糸のベタベタで囲まれたルカさんは抵抗も虚しく、ミノムシ状態で天井から吊り下げられた。仕上げはお腹いっぱいまでにんじんを食べた子蜘蛛たちがやっていた。


 ルカさんという障害がいなくなったので、子蜘蛛たちの席に混ざり、空腹をにんじんで満たした。泣きそうな顔で俺を見つめてきたルカさんはというと、子蜘蛛たちにいじわるされていた。


 ギリギリ届かない位置に、にんじんをもってきて、ルカさんがにんじんを食べようとする。しかし、食べることができない。できそうでできない位置にあるにんじんを置き、その向こう側には、にんじんを山盛りで食べる俺たち。


「うううう」と唸り声をあげるルカさんに、いつもなら手を差し伸べる子蜘蛛たちだが、今日は許さないらしい。


 目の前に、にんじんを持ってきて、「おいしいね、ルカさん。あれ?ルカさん、食べないの?こんなにおいしいのに……おかしなルカさん」などと煽っていた。


 さすがのルカさんも泣きそうな一歩手前だった。さすがにここは助けるべきか?と立ち上がった俺だったが、子蜘蛛たちが制止してきた。


「だめなのか?」


「だめっ!今日のルカ姉さんゆるさない」


「やりすぎ!」


 子蜘蛛たちの意見を尊重しよう。ルカさんがどれだけ助けを求めていても、今日に限ってはルカさんが悪い。子蜘蛛たちも「救いようがない」と言っている。


 ここで俺が出ていくのはお門違いだ。


「そろそろ俺は寝るかな。いっしょに寝るか?」


「「「寝るぅ!」」」


「わっ、わたしも……」


「だめっ!今日はひとり!」


「ううううわぁぁぁぁんんんっ!!!」


 限界に達したのか、ルカさんは大声で泣き始めた。一人だけハブられ、みんなと一緒に、にんじんを食べることができず、こうして拒絶もされる。


 仲の良い者同士とはいえ、これはやりすぎかもしれない。


 俺はルカさんに近寄り、助けようと手を差し伸べると、子蜘蛛たちにこれまた制止させられた。


「ルカ姉、嘘泣きはよくないよ」


 子蜘蛛の一人がそういうと泣きじゃくっていた声がすんっと収まった。それからは恨めしそうにこちらを睨みつけてきた。


 えっ、こわい。


 ルカさんの本性でも垣間見てしまったかのような気持ちになった。


「ね、寝るか……」


 怖かったので、後始末は子蜘蛛たちに任せることにし、俺は子蜘蛛たちと寄り添って眠り、ログアウトすることにした。


 目が覚めるとやはりというべきか、汗だらけになっていた。ゲーム内で体感したことは身体にも影響する。特に汗をかくようなことがあれば、現実でも汗をかいてしまう。


 ヘッドギアを外して一息つくと、シャワーを浴びに一階へと向かう。この時間になるとお父さんも自身の寝室へ行っていてここにはいない。


 明かりがついていないことを確認して風呂場の前に来ると明かりがついていた。誰かの切り忘れか?と考える間もなく、俺はノックをした。


 俺は一度、ここでなにもせずに入室してえらいことになったことを覚えている。そう、お母さんが着替えていたのだ。俺は謝ることも忘れて逃げようとした。


 しかし、逃げることはできなかった。捕まった俺は次の日、女装して買い物に連れて行かれ、娘として紹介され、女子会に参加させられた。


 こんな屈辱的なことがあってたまるか!今ではそう思う。そのときはなんだかんだ楽しんでた気がする。


 けど、自覚してしまった俺にとっては耐えられないことだ。俺はここで神回避を決める!


「なに?ママ。今から出るって………え?」


「へ?」


 出てきたのは、バスタオルで包まれた妹、(みお)だった。濡れた髪を片方の肩に流し、扉を開けた反対の手にはドライヤーがあった。


「な、なんでここに!?」


 澪は扉をバタンと強めに締めた。驚くまもない出来事に混乱した。


 お互いに沈黙して、数秒後、澪から一言。


「みた?」


「……みっ、みてない!」


「そう……」


 また沈黙がこの場を支配した。


 扉を挟んで数分ほど経ち、その間、動くことができなかった。回避できたはずのイベントが自らやって来たことに俺の理解が追いつかなかった。


 ドライヤーからの風の音、タオルが身体に擦れる音、服を着るときの音が扉の向こうから聞こえてくる。相手が妹なのに、なぜかドキドキしてしまうのは男の(さが)なのだろうか。


 少しすると、扉に隙間ができた。そこからひっそりと顔を覗かせた澪は、警戒心の強い猫のように威嚇している。


「俺が悪かったよ……」


「……ゆるさないから」


 澪の頬がぷくっと膨らんだ。


「ごめん……」


「でも、今度買い物に付き合ってくれたらゆるす」


「そんなことでいいのか?」


「よくないけど、いまはいい」


 起こっているようで、不機嫌にはなってないみたいだ。


「わかった。時間を空けておくよ」


「そのときになったら……」


 扉を開いた澪は俺に指差すと、こう宣言した。


「わたしを一番に優先してよねっ!」


「わかったよ」


 心地よく返事をすると、澪はなぜか居心地が悪くなったのか、目がオロオロしていた。俺のことをちらちら見ながら、澪は俺が来た道を通ってリビングへと向かっていった。


 無言だった澪が少しだけ顔を赤らめていたのは、きっと風呂上がりだからだろう。澪を見送っていると、髪が乾ききっていないことに気がついた。


「寝るなら、髪が乾いてから寝ろよ」


 俺がそう言うと、澪は足を止めて振り返った。


「お兄ちゃんにだけは、言われたくありません」


「……だよな」


 澪はクシャっとバスタオルで頭を拭きながら歩いていった。


 俺もさっさと自分のシャワータイムを満喫しよう。汗で汚れた服を脱ぎ捨てると、颯爽と風呂場に踏み込んだ。若干、甘い匂いが鼻腔をくすぐってきたが、意識しないようにする。


 シャンプーをしっかり泡立ててから、髪から洗っていく。髪が長いせいで時間がかかる。髪に浸透していくのを感じながら、暇つぶしにシャンプーの泡でシャボン玉をつくって飛ばす。


 水とシャンプー水との比率に気をつけるのが玄人のやり方だ。泡の粘度が高いと、割れにくく、それでいて大きなものを作ることができる。実はこの時間代わりと好きだ。


 子供っぽいと思われてもいいと思ってる。だって楽しいんだから、仕方ないじゃないか。誰がなんと言おうとこの瞬間を全力で楽しむ。


 一通り楽しんだら流して再度洗う。ニ度洗いのほうがよりシャンプーが浸透しやすいのだ。理論は唐揚げと一緒。それが終わると、身体をスポンジで洗う。傷つけることになることはお母さんが嫌がるので優しく洗っていく。


 それからフェイスケアをしたら湯船に浸かる。追い焚きされていたからまだ温かかった。ゆっくりと浸かったら、つい声が漏れてしまう。


 鼻歌を歌いながら上がると、肌と髪のケアをしてから出る。ここでも色々とケアをしないと出られない。これがお母さんから課せられた刑罰みたいなものだ。


 髪もしっかり乾かしてからふわふわのパジャマに着替えてから、リビングに向かうと、電気がついていた。


 誰かいるかと思って入っていくと、そこにはソファに倒れ込んだ澪の姿があった。


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