ノーラの連行
ノーラの家を出る頃には日も暮れかけていて、時間的にもちょうどよかったので俺たちは適当な飯屋で晩飯を食べることにした。
クリスが選んだ店は時間帯もあってか、かなり盛況な様子だった。
案内された席から壁に貼られているメニューを見る。何となく書かれている料理についても分かるようになってきたので、適当に注文してみる。
「そういえばおぬし、酒は飲まんのか?」
ふとクリスがそんなことを尋ねてくる。
確かに言われてみればクリスもステラも果実酒のようなものを頼んでいた。
年齢的にもクリスはともかくとして、俺と同い年なはずのステラも酒を飲むというのは少し意外だった。
けどまあ言われてみればそうだよな。当然だけど、こっちの世界にはこっちの世界の決まりがある。
「俺の生まれた国では二十歳まで飲んではいけない決まりだったから、そもそも飲んだことがないんだ」
「へぇ、意外。男の人って、みんなお酒が好きなんだと思ってたわ」
ステラが小さく驚いたように言う。
そんなやり取りをしているうちに注文した飲み物と料理の一部が運ばれてきたので早速乾杯をして、二人は酒を、俺はお茶を飲んだ。
というか運ばれてくるのが早い。まだ数分しか経っていないような気がする。
ちなみにステラはとりあえず一口だけと言う感じだったが、クリスはすでに半分くらい飲んでいる。
「ふむ、何とも律儀というか真面目というか、まあおぬしらしいがのう。とはいえこっちの世界ではそのような決まりはないのじゃし、もう帰れない世界の決まりに縛られる理由もあるまい?」
もう帰れない世界、か。そうはっきりと言われたのは実は初めてかもしれない。
ただ予想以上に響かないあたり、それはすでに俺の中で整理のついた話ということなのだろう。
「まあ確かにそうだな。けど珍しいな、クリス」
「ん?」
「普段はあまりそうやって、俺に何かを薦めたりしないだろ?」
「……そうじゃな。基本的に儂はおぬしがその目で見て選ぶものを尊重するつもりじゃからのう」
なるほど。それがこの旅におけるクリスの基本スタンスということらしい。
そうして俺に極力先入観を与えないように、クリスが配慮してくれているのはありがたい話だ。
でもまあイニスカルラの宿屋の飯が微妙とかそういう話は、正直先に言って欲しかった気もするけど。
「あ、それってもしかして前に言ってたクリスの旅の動機の話だったりする?」
「ああ、そうだな。異世界から来た渡り人の俺が、この世界をどんな風に見るのか。そこに興味を持ったからクリスは俺と一緒に旅をすることになったんだ」
「まあ今はそれだけではないが、根本の動機は今もそれじゃな」
「へぇ……でも、それは分かるかも。私もシンの独創的な考え方にはいつも驚かされるから。今日だって何回もそんな場面があったし」
どうやらステラからもそんな風に思われていたらしい。
まあ好意的に受け止められているようなので、特に気にすることではなさそうだけど。
「……それでシンよ、せっかくの機会じゃし酒を飲んでみてはどうじゃ?」
ふと会話が途切れたところで、クリスは逸れた話題を本筋に戻すように言った。
クリスがそうやって俺に何かを薦めるのは、たぶんイニスカルラの露天風呂以来なはずだ。
つまりクリスにとっては、酒はそれに匹敵するほどに、この世界を象徴とする文化ということなのだろう。
確かにこの世界はそこまで娯楽に溢れている感じはしないし、酒は嗜好品として重要な立ち位置にあるのかも知れない。
「クリスがそこまで言うなら、少しだけ……で、どれがオススメなんだ?」
俺は壁のメニューを見ながらクリスに尋ねる。
「そうじゃのう……やはり最初に飲むならセパルムじゃな」
「え?」
……ん?
「……おいクリス、何かステラが動揺してるんだが?」
「気のせいじゃろう」
「いやその主張はさすがに無理がある」
たぶんきつい酒を俺に飲ませて、その反応を楽しもうという感じなのだろう。
クリスは俺とステラの関係をからかったり、性格的には結構いたずらっぽい面がある。
とはいえそこまで分かっていたら、俺だってさすがにクリスのいたずらに引っかかることは――。
「はいセパルム一丁!」
「早っ!」
――なんてことを考えている間に、すでにセパルムという酒が俺の目の前に運ばれていた。
そういえばこの店、注文が出てくるのが異様に早いんだった。
それにしてもいつの間に注文してたんだ、クリスは。
「どうした、飲まんのか?」
「いや、だってこれかなりきつい酒なんだろ?」
「確かにそうじゃが、ほれ、周りの客を見てみるがよい。男は大抵そのセパルムを飲んでおるじゃろう?」
クリスに言われて他の席の客を見ると、確かに多くの男性客はこのセパルムという酒を美味しそうに飲んでいた。
「セパルムはこの世界で酒といえばまずセパルムを指すというくらい昔からよく知られた酒じゃ。若干クセのある苦みと、最近は甘い果実酒も多く出回るようになったことで女性人気は落ちたようじゃが、別に変な酒ではない」
「うん、クリスの言ってることは本当よ。私は前に飲んで一口でギブアップしちゃったけど、セパルムが好きって人はたくさんいるから」
ステラもそんな風に言う。
クリスとしては初めて酒を飲む俺に対するいたずらという意図もあったのだろうけど、まずはセパルムから飲んでみる方が、この世界の酒を知る意味では良いという側面もあるみたいだった。
「じゃあ……あまり気は進まないが、飲んでみるか」
「うむ、その意気じゃ!」
「口直しは用意しておくわね」
安心すべきか不安になるべきか、若干迷うことをステラが言いながら、何やら注文を通していた。
セパルムの見た目は透明な炭酸水のようだけど、香りはあまり経験したことのない感じで、薬用酒とかにありそうだった。
特に不味そうという感じでもないので、俺は意を決して木製のコップを持ち、そのまま勢いで飲んでみる。
「……ん? 案外いけるぞ、これ」
「そうか、それは良かった」
「で、本音は?」
「シンの悶える姿が見れなくて残念じゃ」
俺が尋ねるとクリスは正直に答えた。クリスのそういう所は嫌いじゃない。
その後は俺も何杯かセパルムをおかわりをして、初めての酒を楽しんだ……のだと思う。
という風にあまりはっきりしないのも、俺はその後の記憶がほとんど抜け落ちているからだ。
俺が気付いたときにはもう翌朝で、宿泊している宿の部屋のベッドの上で目覚めていた。
ここまでどうやって戻ってきたのか、全く覚えがない。
「うっ、頭が痛い……」
昨日のことを思い出そうとすると、不意に頭痛に襲われる。どうやらこれが二日酔いというものらしい。
「あ、シン、目が覚めた? はい、これお水」
そう声をかけて俺に水を差しだしてくれたのはステラだった。
「悪い……というか俺は、昨日あの後どうしたんだ?」
「シンはお酒の飲みすぎで倒れたのよ。それにしてもびっくりしたわ。その前まで普通に喋ってたのに、いきなりテーブルに突っ伏して動かなくなるんだから」
「……それは、何というか、ごめん」
「いいのよ別に。迷惑をかけてる回数なら私の方が断然多いし、そういうのを気兼ねなく出来るのが仲間でしょ?」
「ああ、そうだな。だったらここで言うべきなのは、ありがとう、か」
「ふふ、どういたしまして。あ、あとでクリスにも言ってあげてね、シンのことは二人で運んだから。それにしても、いきなり身体強化魔法が役に立っちゃったわ」
そんな風に冗談めかして笑うステラ。その笑顔に俺は一瞬見惚れてしまう。
ただそれは別に俺が悪いわけではないはずだ。たぶんステラが美人なのが悪い。
どうでもいい責任転嫁をしつつ、俺は部屋を見渡してみる。
そういえばクリスの姿が見当たらない。
「クリスはどうしたんだ?」
「ちょっと軽く散歩してくるって一時間くらい前に出ていったわ。何か軽くつまめるものも買ってくるって言ってたけど、たぶんそろそろ戻ってくるんじゃないかしら?」
初日のノーラの件もあるし、色々な人が集まるヴェリステルは決して治安が良い街ではない。
といってもクリスなら大丈夫だろうし、さすがに心配はいらないだろう。
なんてことを考えていると、ちょうどいいタイミングでクリスが戻ってくる。
しかしそんなクリスによってもたらされたのは、思いがけない悪い知らせだった。
「大変じゃ! ノーラが連行されてしまったのじゃ!」
「連行だって? 一体誰に――」
「ユーニス教会騎士団じゃ! しかも教皇直属の≪神槍≫ベアトリスの部隊がわざわざノーラ一人のために出てきたこともあって、街では今大変な騒ぎになっておる!」
クリスの慌てようからも、それはかなりの異常事態だということが分かった。
しかし現状ではあまりにも情報がなさすぎて何も判断のしようがない。
ただ俺の目の前には、今にも泣きだしそうな顔をしているステラがいた。
「シン、どうしよう……ノーラが……」
「ああ、分かってる」
そうは言ったが、実際のところ事態の背景は何一つ分かっていない。
ただノーラのところにユーニス教会騎士団がやってきて、彼女を連行したという事実だけがある。
それは正当なものなのか。だとすればノーラは一体何をしたのか。
そういった事情さえ分からない。もしかしたら正しいのはユーニス教会騎士団かも知れない。
けれどそんなことは今の俺には重要ではない。
さっきまでは輝いていたステラの笑顔が、今は曇っていることこそが重要だった。
――もしかしたら俺はこれから、悪事を為すことになるかも知れない。
そんなことを考えながら、俺は一度大きく嘆息する。
この世界の定めた正義と大切な仲間なら、俺が優先すべき方はどっちだ?
答えは分かり切っていた。
大体ノーラみたいな隠し事はしても嘘はつけない優しい子が、本当に悪い事なんて出来るはずもない。
「状況はさっぱり分からないけど、俺はとりあえずノーラを助けようと思う。何か異論はあるか?」
俺はそう尋ねるが、二人から返ってくるのは無言の肯定だった。
――そういえばいつだったか、俺は過去の自分に誓ったことがある。
ここで何をするかは、自分で決める、と。
それは物事の善悪も、自分の責任で判断して行動するという意味だ。
だからこの世界で正しいとされることが、どうしても正しいと思えなかったとき。
そのときはきっと、俺はこの世界でいうところの、悪となるに違いなかった。




