表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

竜の花嫁

作者: かずさ

 澄んだ空気に染み渡る日光。真っ青な空には絵具を溢したような雲が広がっている。くるぶし丈の草原には名もわからないような草花が咲き誇り、遠くのアルペン山がどっしりと今日も身構えている。この場所でよく見る景色。私はこれが大好きだ。

 うんと伸びをして肺の中の空気を入れ換えると、そのまま私は山の向こうを見つめる。

 さて、彼らを呼ばなくては。

 右手の親指と人差し指でわっかを作り、それを口に少し含んで音を出す。

 程なくして、たくさんの影が空に浮かぶ。それは次第に大きくなり、遂には私の何十倍の姿となって、周りに降り立った。

 吹き抜ける風が、肩まで伸びた金の髪を揺らす。私の蒼い瞳に映すのは、愛おしい仲間たちの姿。

「おはよう、みんな!」

 私は毎日、そうドラゴンたちに声を掛ける。


   ***


 ドラゴン。硬い鱗に、鋭い牙と爪。その見目は種種様々で、空を自由に飛び回る翼を持っているものもいれば、陸を風のように駆ける俊足のものもいたり、国をまたがるアルペン山の様に大きいものもいれば、人の手のひらに収まってしまう小さなものもいる。

 彼らの誕生には、少し世界の歴史に触れなければならない。

 太古の時代、世界には魔女と呼ばれる人々がいた。彼女らが使う奇跡の技――魔法で、まじないや薬などを作り、人間の生活を助けてくれていた。

 しかし、何も能力を持たない人々は不安だったのだろう。得体の知れないその力が。

 始まりは些細なことだったのかもしれない。人間が、魔女に石を投げた。魔女が、魔法を使って応戦した。それは大きくなり、魔女狩りと称されるまでとなってしまった。その文字の如く、数の多かった人間は魔女を躍起になって探し出し、処刑した。

 そしてあるとき、一人の魔女によってドラゴンが創り出された。

 ドラゴンは恐ろしい力を持つ兵器だった。魔女の命令ひとつで幾つもの国が焼かれ、人々を更なる恐怖へと陥れた。

 しかし、留まることのなかった魔女狩りによって、ついに彼女たちは姿を消してしまった。ただ、ドラゴンたちが人間の敵として残ってしまったのだ。

 だが人間たちもただでやられ続けるわけにはいかない。魔女がいなくなった今、頼みの綱は魔女たちの血を引く竜遣いエールデのみだった。

 そこで当時の王は、竜遣いエールデたちに協力を仰いだ。まだ魔女狩りの風習が残っていたため、国からの安全を報酬としたそれは人間の、そして竜遣いエールデたちの数を減らさないための苦肉の策だった。本心としては、今でも駆逐したいところだろう。だがそれを行い、ドラゴンまでも太刀打ちする力は、人間にはない。

 それから数世紀が経った今、竜遣いエールデたちは人里離れた場所でドラゴンたちの世話をしている。逃げて野生化したものもいるが、それは狩人によって葬られている。いわば、これは保護でもあるのだ。

 全てがかみ合って、互いを崩すまいと均衡を保てている。

 ドラゴンが家畜のように扱われるのは不満だが、一緒にいられるのはこの仕組みがあってこそ。

 そんなことを思いながら、私は皆の名前を呼んでいく。

「爺さま! シベリア! ローラン! おはよう!」

『ぬしは朝から元気じゃのう』

 他の皆が挨拶を返す中、周りより突き抜けて大きい爺さまはからかうようにそう言った。

 ドラゴンたちは、とても高い知性を持つ。人の言葉を理解し、こうして会話できるのだ。音として言葉は交わせないが、魔法の一種として相手に伝えることは造作ないらしい。その中でも爺さまは最年長で、爺さまが話すことは私の知らないことばかりだから、少し会話が楽しみでもある。

「そうかなー、私は若いからね」

『なんじゃ、ぬし、儂に喧嘩を売っておるのか』

「えへへ」

 溜め息をつく爺さまに、笑顔を返す。いつものやり取りだ。

『さーな、ごはん。ようい、できたよ』

 不意に、傍らに寄り添う一頭のドラゴンがそう話しかけてきた。

「ありがとう、ウィル」

 ドラゴンにしては小さな体躯を撫でると嬉しそうにきゅる、と鳴いた。

 ウィルは私が幼いころからいつも一緒にいた、私の相棒だ。小さな翼はあるものの、自由に空を飛ぶ空型ヒンメルとは違って、陸型ボーデンに分類される。空を飛べない代わりに硬い甲羅を持つ、比較的小さなドラゴンだ。そうとは言え、大型動物ぐらいの大きさはあるのだが。何かというと、姿は亀に似ているかもしれない。

 ウィルはまだドラゴンとして幼いが故に、人の言葉使いが怪しい。

「じゃあ、これ配っちゃうか。……ってウィル、つまみ食いしないで。さっき食べたでしょ」

 餌が入ったかごを突っつき始めた相棒を窘めながら、合図である指笛を鳴らす。すぐに、私の周りに十数のドラゴンが集まった。

 私は、竜遣いエールデの見習いとして毎朝ドラゴンたちとこうやって会話をしている。無論、ただ話すだけではない。ちゃんと様子を見て、いつもと変わりがないかを確認しているのだ。

 会話を交わしながら、私は餌の入ったかごを渡す。普段、彼らは自身で狩りを行って生きているが、私のところでは体調管理も兼ねて毎朝の食事を出すことにしている。他の竜遣いエールデは、毎食出すところもあれば、一切食事には関与しないところもあるという。

「あれ? 爺さま、食欲ないの? また変なものでも食べた?」

 ウィルが運んできた干し肉と野菜が入ったかごをドラゴンたちに渡し、皆の食事を見ていた。爺さまのかごの減り具合が、遅いのだ。

 以前、爺さまは有害物質を飲み込んで食事が出来なかったことがある。大事には至らなかったものの、はらはらしたものだ。

『おぬしの蕃茄の香りが原因じゃろう。まったくここは嫌な場所じゃ』

「ごめんごめん。でも実ってきたんだよ。見る?」

『阿呆。近づけもしないわ』

「そうだったね」

 ドラゴンたちの、唯一の弱点と言っていい。彼らは、蕃茄――トマトが大の苦手だ。それはもう、近づけない程。彼らにとって、毒と等しい存在なのだろう。

 だから、竜遣いエールデは、副業としてトマト農家を営んでいることが多い。言うまでもなく、自分の身を守るためである。私の家もそうだ。

 ドラゴンはどんなに大きな外傷を負うより、トマトを食べる方が致命傷になってしまう。そのためドラゴンの視界は、かつてはモノクロだったのだが、トマトを認知するために赤だけが映るようになったという。私がうっかりして傷を作り、ましてや血を流すもんなら、ウィルの慌てようはすごいものだ。ドラゴンは赤い血を持たないため、赤に触れる機会はほとんどない。だからこそ、危険な赤をより認知しやすい。そうやって自身たちを守ってきたのだろう。

「ウィルは平気なのになあ」

『とまと、たべれるよ!』

「美味しいのに……」

『ぬしは儂等を殺める気か』

「冗談です。爺さまは早く元気になってね」

『善処しよう』

 竜遣いエールデは、一体のドラゴンを相棒に選ぶ。それは防衛のためでもあり、ドラゴンと上手くやり取りをするためでもあるのかもしれない。相棒にと選んだドラゴンには、幼竜の時にトマトへの耐性を持たせるのだ。どうやら幼いうちに免疫を作ってしまえば大丈夫らしい。逆に爺さまのように数世紀も生きていると、極端に弱い。

『さーな。おなかへった』

 そうこうしているうちに、時間は結構過ぎたのか、ウィルが声を上げた。昼ご飯にしては少し早い気もするが、きっと朝早く食べたご飯をこの相棒は消化しきってしまったのだろう。

「ウィルはもうちょっと待ってね。これ終ったら一緒に食べよ?」

『むー』

 少し剥れながらも、了承してくれたウィルを撫でてあやす。

 さて、そんな相棒のためにも早く終らせてしまおう。私は他のドラゴンのところへと足を向けた。


「うん、今日も皆大丈夫みたい」

 また明日と挨拶を交わし、私は飛び立つ皆をウィルと共に見送った。

 私のところで管理しているのは、ウィルを含めて十五頭。

 彼らは一国など容易に滅ぼせるのだろう。

 だけど、私には人と同じにしか見えない。爺さまは物知りで、シベリアはつんとしているけど、本当は優しい。エリッタは勝気で、よく弟のビークと喧嘩している。ウィルは唯一無二の相棒で、親友。

 皆みんな、私の大切なヒトたち。

 なのに、どうしてもののように扱われなければならないのだろうか。どうして対話もろくにせずに、害するものと決め付けられなければならないのだろうか。

 戦争をしたのかは過去で、彼らは何もしていない。私たちも何もされていない。

『さーな。ごはん』

「はいはい」

 急かす様に突っついてきたウィルに、深く悩んでいるのが馬鹿らしくなって考えるのを止めた。こうして一緒にいられればいいじゃないか。

 優しい風が頬を撫でた。誘われるように空を見つめ、小さくなったドラゴンの影を見る。見慣れたはずのそれは、いつもより少し遠く感じた。


   ***


 アルペン山のふもとにある私の住んでいる家は、周りより少し小高い丘の上にある。裏は広い森で覆われていて、家の隣にはウィルの寝床である小屋が建っている。晴れて天気の良い日は、ふもと町を見下ろせるこの場所は、少し不便だけれど私は気にいっている。

 午前の仕事を終えれば、午後までは休憩という名の自由時間だ。家へ戻り、昼食の準備をしながらも、今日は何をしよう、と窓の外を見た私はあることを思いつく。

 天気も良いのだから、このまま昼ご飯を持って外出してしまえばいいのだ。そうと決めた私は、かごに野菜と鶏肉を挟んだパンをつめ、ミルクの瓶を持つと家の前で待つウィルの元へ走った。

「ウィル、遊びに行こ!」

『ごはんは?』

「こんなに晴れてるんだもん、外で一緒に食べよう! ウィルと、皆の分持って!」

 そのままウィルを連れ、私は小屋の東側へと降りた。少しも経たないうちに、広い畑が見え出す。鬱蒼と茂る緑に、点々と浮かぶ赤。収穫が間近に迫った、トマト畑だ。

「じっちゃーん!」

「サーナか」

 目的の人物を叫べば、畑の中からひょこりと見知った顔がこちらを見た。隣には、私と同じようにドラゴンがひとりいる。

「もう仕事は終わったのか」

「うん。あのね、お昼持ってきたの。今日、天気がいいから外で皆で食べようと思って」

「ちょっと待ってろ。ここ終わったら休憩にするから」

「うん!」

 また水撒きを再開したじっちゃんを待つために、私は畑から少し離れた平地に立つ一本の木の下に座った。程良く日光を遮るこの場所は、いつもの休憩場所である。

 じっちゃんは、私の育ての親で、ここの農主である竜遣いエールデだ。ドラゴンの扱い方がとても上手く、竜遣いエールデとしての私の師でもある。じっちゃん、と私が呼びながらも、実際はまだ若く、私がそう呼ぶ度ちょっぴり複雑そうな顔をするのを知っている。

『サーナ。お勤めご苦労様』

 ウィルと共に涼んでいると、りんとした声が聞こえた。振り向くと、想像した通りの姿がそこにある。

「えへへ、トレンカに褒めてもらうの嬉しいな」

 その声の主は、さっきじっちゃんの隣にいたドラゴン――トレンカだ。じっちゃんの相棒で、ウィルの母親でもある。ウィルよりは一回り大きい体躯に、欠けた頭部の角。私が幼いころから、ずっと一緒にいてくれたドラゴンだ。両親のいない私にとって、母のような存在でもある。

『ぼくもやったんだよ! ほめて』

『ウィルもよく頑張ったわ。サーナをちゃんと手伝えた?』

『うん!』

 トレンカはウィルを褒めるように舌で舐めた。舐める行為は、ドラゴンの親愛の証である。一見母猫が子猫を毛づくろいする様子に似ているが、ドラゴンの舌は硬く、鱗を持たない皮膚など簡単に削る。トレンカが私にやらないのも、それが所以だ。

 片づけを終えたじっちゃんも合流し、皆で座ると私はかごを開けた。

 いただきますを揃え、私はさっそくパンへ手を伸ばした。甘辛く味付けしてある鶏肉とトマトの酸味は、容易に私にふた口目を促す。仕事をした後のご飯は格別だ。

「どうだった」

「皆のこと? 今日も変わりはなかったよ」

「そうか」

 ちゃんとはしていないが、私の簡素な報告に満足したのだろう、じっちゃんもパンに一口齧り付いた。

「あ! あのね、シベリアが今日初めて笑ったの。今までにこりともしなかったから、なんだか嬉しかったなー」

「そうか、よかったな」

「うん!」

 わしゃわしゃと私の頭を撫でるじっちゃんの手のひらは大きい。髪の毛をぼさぼさにする手つきは容赦がないけれど、それはじっちゃんのひとつの愛情だと思っている。

『シベリアは、少し気難しいところがあるものね。あの子を笑わすなんて、サーナは何の話をしたの?』

「別に、普段のことを話しただけだよ」

『あらんの、ねごとについて』

「おい。何を話してる」

『ふふ、アラン、寝相は昔からよくないわよね。よく朝は仕事をすっぽかしていたし』

「トレンカはこれ以上余計なことを言わないでくれ。俺の沽券に関わる」

『あら? アランに沽券なんてあったかしら?』

 トレンカとじっちゃんのやり取りはいつもこうだ。私に見本を見せようとびしりと立つじっちゃんを、容易にトレンカは崩すのだ。ふたりは十年以上の相棒と聞く。きっと信頼の為れだろう。そして私はそんなふたりが大好きだった。いつか、ウィルとこんな関係になれたらいいな。そう思えるからだ。

 お昼を平らげ、一息ついたころ、じっちゃんは私に畑の続きをやるよう言った。

「午後から俺は出かけるから、留守を頼むな」

「はーい。町へ行くの?」

「ああ。収穫した野菜を売りに行く」

「わかった。気をつけてね」

 私もたまに手伝いで一緒に町に行くこともあるが、たいていは留守番だ。家を空けておけないというのが一番の理由だろう。

 野菜の入った大きなかごを背負って町へ下りて行くじっちゃんを皆で見送ると、今度は私の番である。

 畑仕事を任されている。午前の続き、ということは、主に野菜の収穫だろう。勢いよく立ちあがり、んー、伸びをすると肺の中の空気が全部入れ替わったみたいで、自然とやる気は満ちていた。日が暮れる前に早く終らせてしまおう。ウィルを連れ、畑に向かっていたときだった。

『姉ちゃんのばか!』

『なんやて!? も一度言ってみい!』

 ぎゃいぎゃい言い争っているのは、エリッタとビークだ。ふたりはよく草原で日向ぼっこをしているが、今日はそんな雰囲気ではなかった。ぐるる、がるる、と互いを威嚇している姿は、正に喧嘩中、というところだろうか。これも日常茶飯事のことで、またか、と私は苦笑いを溢した。

『うちの方ができる!』

『僕の方ができるもん!』

 ヒートアップしている状況に、少しまずいかもしれない。そう止めようと口を開いたときだった。

『うちに任しい言ってるんや!』

『姉ちゃんの意地っ張り!』

 ふたりは、翼を大きく広げて高く吠えた。

 瞬間、吹き荒れた突風にサーナの身体が一瞬浮いた。ウィルにつかまっていなければ、きっと今ごろ空を漂っていたことだろう。風が止まった、その先は想像したくはないが。

 とてつもない風の力は、ふたりの魔法だ。直接見るのは初めてではないが、史実に破壊の力と刻んだだけあって、ただの風の魔法のはずなのに、私は目を開けるどころか、息すら満足にできなかった。

『止めなさい!』

 ごう、とトレンカが吠えた。瞬間、ふたりの動きがピタリと止まり、それに伴って風も次第に止んだ。残ったのは、葉が散って少しはげた木と、髪がぼさぼさの私だ。せめて畑に影響がなかったのが救いだろうか。正気に戻ったのだろう、辺りの状況にエリッタはしゅんとして、ビークはすこし涙目になって謝った。

『ごめん、サーナ』

『ごめんなさい』

「いいよ、大丈夫。でも喧嘩はもうちょっと静かにね」

 はーい、と声を揃えて言ったふたりは、競争するように空へ飛び立った。きっと別の方法で力比べでもするのだろう。

「すごいなあ、やっぱりトレンカは」

 トレンカはかつての時代、ドラゴンたちを統べていたというゾンネの末裔らしい。その声はどんなドラゴンにも届き、従わせるという伝説がある。

 でも実際はそこまでの力はなく、伝説は伝説よ、とトレンカは笑って言っていた。

 もちろん、その血を引いているウィルにも力が受け継がれている可能性はあるのだが、今はその傾向はない。トレンカを見て、『すごいすごい!』とはしゃぐ相棒は、威厳も怖さもすごさもない可愛いものである。

「ウィルもいつかできるといいね」

『がんばる!』

 ふんす、と鼻を鳴らしたウィルに、私は笑って撫でた。


   ***


 それから、数日が過ぎたある日のことだった。

 ウィルに手伝ってもらいながら畑仕事をしていたところに、微かに奇声が聞こえた。ドラゴンの鳴き声に似たそれに、ばっとウィルが頭を空の方へ向けた。私もその先を追って見る。青空の中、いつもは見慣れない大きな影が、そこにいた。

「ドラゴン!?」

 ここらでは見ない種別だ。少し小さめの体躯に大きな翼、長い脚。おそらく空型ヒンメル陸型ボーデンの混血と言ったところだろうか。

 そのドラゴンは、私たちの眼前に墜落とも捉えられるように降ってきた。その体には、多くの傷があってドラゴンの青い血に濡れている。そのため、上手く着陸すらできなかったのだろう。

「じっちゃん! 大変!」

 一人ではどうすることもできない。そう判断した私は、家にいるじっちゃんを呼びに行った。家の中でも音が聞こえたのだろうか、トレンカと共にじっちゃんも私の方へ向かっていた。

「どうした、何があったんだ」

「わからない。でも、空からいきなりこのドラゴンが降って来て……」

 二人を伴って、私たちはさっきの場所まで走った。青い血だまりに沈む一体のドラゴンに、じっちゃんは少し目を見開いた。そしてそのまま何も言わずに、ドラゴンを診始める。その表情は、少し厳しい。

『サーナは、濡れた血を拭いて頂戴。このままだと気化してあまりよくないわ』

 凛とした指示に、私は思わず背を伸ばした。声の主であるトレンカが、手負いのドラゴンを優しく介抱する。

「トレンカ、これでいいの?」

『そうよ』

 トレンカの指示のまま、私は作業を手伝う。

 ふと、手負いのドラゴンの足に、不自然に布が巻き付いてあるのを見つけた。所々青い色で染まったそれに、怪我をしているのなら取り替えた方がいい、と私はゆっくりと解く。

「あれ……?」

 ただの布だと思っていたら、中には一面、文字が書かれていた。私の知らない言葉だ。だけど黒いインクで荒々しく綴られたそれは、どこか私の不安を煽る。

「ねぇ、じっちゃん」

 手当てがひと段落ついたころを見計らい、私はじっちゃんに布を手渡した。

「このドラゴン、こんなものを持っていたの。足にしっかりと巻かれてた」

「なんだ? 随分と汚れてるな」

 青く染まったそれに眉根を寄せながら、じっちゃんは布を広げた。黙っている所を見ると、きっとじっちゃんには読めるのだろう。

 その間に、私は眼前のドラゴンを注意深く見る。この姿に、見覚えが合ったからだ。

「このドラゴン……、ヴィーデさんの相棒だよね……?」

 ヴィーデさんは、じっちゃんの古くからの友人で、同じように竜遣いの人だ。何度か合った事があり、優しくしてもらっていた。

「その布……。何て書いてあったの?」

 僅か一枚の便箋を再び封筒に戻すと、じっちゃんは目を伏せた。

「ヴィーデが……、王家に反乱を起こした」

 その言葉に目を見開く。ヴィーデさんは、優しい人だった。以前からドラゴンのことを想って、王家に少し反抗したこともあったという。

 確かに、王家のドラゴンたちへの扱いは酷いものだ。昔はそうでもなかったようだが、今ではただの危険生物、いや生き物としてすら扱っていない。娯楽の道具として殺されたという話も聞いたことがある。

 しかし、私たち竜遣いエールデは逆らうことができない。逆らえばより多くのドラゴンが殺されるだろうし、何より自分の身が危なくなってしまう。

 反乱とは、どういうものなのだろうか。あまりにも現実から離れたそれに、何も思い浮かばない。ただ、ヴィーデさんの無事を祈るだけ。

「何も、起こらねェといいんだが……」

 ポツリとそう呟いたじっちゃんの声は、何かを予期しているようにも聞こえた。


   ***


竜の、花嫁モーネント?」

 私がこの場所に来て、まだそう時間が経っていないころ。初めて聞くそれは、どこか惹かれる言葉だった。腕の中で、まだ抱ける大きさだったウィルがきゅるりと鳴く。

「それなあに? すごいの?」

『すごいなんてものじゃない』

 爺さまはかぶりを振って、竜の花嫁について話し出す。


 あるひとりの魔女は、とても大きな力を持っていた。そして彼女は同じ魔女たちを愛していた。だから魔女狩りによって同族を減らされていく苦しみを味わいたくなかったのだろう。人間たちに抗うため、彼女はドラゴンを創り上げた。

 ドラゴンは賢い生物だった。また、情がある優しい生き物だった。魔女の命令とはいえ、好んで殺しはしなかった。彼女も殺しを命令することはなかった。

 しかし、魔女たちの憎しみは彼女の想像以上に深いものだった。ドラゴンたちの意思を侵食するほどの呪いの力で、人間たちを追い込んでしまった。

 そこでまた、その魔女は立ち上がった。彼女は魔女と等しく人間も愛していたのだ。だから、今度は人間を追いこんでしまったことを後悔し嘆いたのだろう。彼らの呪いの糧である魔力を、更に強い力――彼女の肉体を捧げることで、彼らを縛る魔女の命を抑えようとした。

 ドラゴンたちを、身を呈して操るその姿。

 畏怖と敬意を込めて、ドラゴンたちは彼女のことを「竜の花嫁モーネント」と呼んだ。


「じゃあ、さいきょーの竜遣いエールデは、竜の花嫁モーネントってこと?」

『――ああ。彼女は、正に最強と呼べるだろう』


 爺さまから聞いたそのことを、私は想像を膨らませていた。

 竜の花嫁モーネントは、すごいヒト。

 竜の花嫁モーネントは、憧れのヒト。

 いつの時代でも、幼な子は英雄に憧れる。私もそのうちの一人だったのだ。

「ねぇ、じっちゃん。私、将来ね、竜の花嫁モーネントになりたいの」

 だけど正しく彼女は贄だった。竜遣いエールデを志願する私が、憧れを向けていい者ではなかったのだ。

 家に帰って嬉しそうにそう言った私の頬を、じっちゃんは思いっきりひっぱたいた。茫然とする私に、じっちゃんは唾を飛ばして怒鳴った。

「二度とそんなことを言うな!」

 じんわりと熱を持っていく頬に、持っていた高揚感が枯れるように萎む。そして、どこか悲しそうに怒るじっちゃんの顔を見て、そこでようやく自分は言ってはいけないこと言ってしまったのだとわかった。

「ごめんなさい」

 しゃくりを上げて泣き出した私に、じっちゃんは「すまない」と一言呟き、そのまま奥の部屋へと引っ込んでしまった。

 私の傍らで、ウィルが心配そうに寄り添ってくれていた。頬とは違う、生きているウィルの熱に、私は縋るように抱きしめてわんわんと泣いた。


「サーナ。覚えておけ」

 腫れた頬もすっかり治ったころ、ぽつりとじっちゃんは口を開いた。

 そのとき、私は銃を教わっていた。銃はドラゴンに対抗する一つの術だ。竜遣いエールデは扱えなければならない。一級の腕前を持つじっちゃんの指導は、厳しいもので無駄な会話などされたことなかった。

 不思議に思って上げていた銃口を下ろし、顔を上げるとじっちゃんと目が合う。

竜の花嫁モーネントは、すごい竜遣いエールデだ。だけど、それが全てじゃない」

 その言葉に、先日の話が続いているのだとわかった。私はおとなしく耳を傾ける。

「彼女は偉大だった。だけど情けが大きすぎたんだ。全てを守った代わりに、その綻びが今までずっと続いている」

 難しい言葉が続き、私は思わず首を傾げる。じっちゃんはそんな私の様子に、言葉を選んでいるようで少しうなった。

「……彼女はドラゴンを葬ることだってできたはずだ。だけどそれを選ばなかった。もし、ドラゴンがいなかったら、」

「え、そんなのいやだよ。ウィルと、トレンカと、爺さまと会えなくなっちゃうの?」

「もし、の話だろ」

 いなくなることを思い浮かべ目を潤ませた私に、じっちゃんは少し慌てながらも話を続ける。幼い頭ながら、きっとこれは銃を扱う以上に大切なことなんだと、理解していた。

「ドラゴンたちは、魔女の命令に縛られているんだ」

 魔女の命令。人間への憎しみでできたそれ。


 ――だからもし、それに縛られて暴走してしまったら。


 その先の、言葉が紡がれることは、ない。

「……そうしたら、どうなるの?」

「……お前には、まだ早い話だったかな」

 くしゃり、と頭を撫でた手のひらは、とても大きかったのを覚えている。


 竜遣いエールデだけが、ドラゴンを操れるなんてそんなの嘘だ。ただ、俺たちは先人からその知識を受け継いだに過ぎない。

 じっちゃんは、よくそう呟きを溢していた。

 確かに、捨て子だった私は魔女の血を引いているかどうかは知らない。それでもドラゴンたちと話しをできるし、教わった魔術まがいのまじないだって使える。魔法の有無は関係ない。

 魔女は表舞台から去った。

 なのに、何故この世界はその呪いに縛られているのだろう。


   ***


 手負いのドラゴンがここに来てから数日後。私とじっちゃんはそのドラゴンの様子を見に来ていた。

 あの後、ウィルやトレンカに手伝ってもらいながら、傷を癒すためにも、と環境がいい小屋へと運んでいた。それから、毎日手当てを続けている。

 当のドラゴンは、小屋の中ですやすやと眠っていた。

 その様子によかった、と言葉を溢す。

「手当てをしたら、後はドラゴンの自分の回復力だけが頼りだったからな」

 どうやらじっちゃんもほっとしたようだ。

 ふと、ヴィーデさんのことを思い出す。今、ヴィーデさんはどうしているのだろう。このドラゴンが傷だらけだったことを考え、最悪の事態を想像してしまい、首を横に振った。

 そんなことはない。きっとこのドラゴンを迎えに来てくれるだろう。

 ――ヴィーデさんは無事だよね。

 だけど、私はその一言を隣に立つじっちゃんに聞けずにいた。


 小屋から出ると、曇り空が私を迎えた。すっきりしない天気になんだかもやっとしたまま家へ戻ろうとしたときだった。

 不意に聞こえてきた車輪の音に、振り返るとこちらに一台の馬車が向かっているのが見えた。郵便なんかではない、ぴりぴりした雰囲気に不思議に思って見ていると、停車した馬車から数人の見知らぬ人が降りた。誰もが鎧に身を包み、槍や剣を携えている。明らかに、普通の人ではない。

「あの人、誰……?」

 訪問者の先頭に、一等着飾った人が居た。赤いローブを身にまとい、装飾めいた鎧を身にまとったその人は、少しこの場所には浮いて見えた。よく見ると、そのローブには竜を模した紋章が刻まれている。

 五角形に、竜を二本の剣で挟むように、ある意味刺すように描かれた紋章。私ですらそれはよく知っている。この国を率いる王家の証だ。それを身にまとっているということは、彼は王家の人間なのだろう。

「サーナ。畑の作業先にやってろ」

 おそらくじっちゃんもそれを確認したのだろう。険しい表情を浮かべ、私を置いて家へと急いだ。

「え、私お茶出しくらい手伝うよ」

「やってこい」

 私が言いきる前に、じっちゃんは低い声で言い放った。いつもと違う怖い声に、頷いて返すことしかできなかった。

 そのまま突っ立って見ていると、じっちゃんは数人を家へと招き、ドアを閉じた。家の前には、あの王家の人のだろう、二人の従者が取り囲むようにいた。これでは帰ることもままならない。諦めて、私は畑へと足を向けた。

 畑の前で寝転んでいるトレンカとウィルを起こさないよう、私はジョウロを片手に、土を湿らせてゆく。

 水が空になったら汲み、撒く動作を繰り返して、どれくらい時間が経ったのだろうか。ちらりと家の方へ視線をやった。

 玄関には、まだあの人たちがいる。

 その後一通り作業が終わっても、私は帰れずにいた。じっちゃんが頑なに拒んだことだ。きっと私は聞かない方がいいのだろう。

 コトリと傍らにジョウロを置き、座り込む。ジョウロの先から点々と水が落ちて染みを作った。

 私の中にも、黒くて暗い、染みが――不安が広がって行く。

 何が起こるのかわからない。怖い。体を丸め、ぎゅう、と自分を抱き込んだ。

 いつの間に起きたのか、ウィルが不安そうに寄り添ってくる。そこで初めて、自分が震えているんだとわかった。そのままウィルの体温に寄りかかると、そのままぴとりとくっついてくれた。

「ねえ、ウィル。あなたはいつまでも一緒にいてね」

 くるる、とウィルは優しく鳴いた。


   ***


 家の周りから人が消え、彼らが乗って来た馬車が遠ざかるのを確認してから、私は家にいるじっちゃんを問い質した。

 歯切れが悪かったものの、彼はどうやらこの国の末の王子だったようだ。どうしてこんなところに、と聞いてもはぐらかされるだけで結局その真意は聞けなかった。

 そのまま数日の時が過ぎた。今日の朝も、じっちゃんは口を固く閉じたまま、何も言おうとはしなかった。私は聞くのを諦め、家を出るしかなかった。

 ウィルとトレンカを連れ立ち、畑へと向かう途中、私は何かがこちらに近づいて来るのを見つけた。

 カタリカタリと音を立てて止まった何か――馬車を見て、私はこの間のことを思い出す。

「また、あの人たち?」

 王子の彼こそいないが、以前より武装した狩人と思しき人が加わった集団が出て来る。

 関わりたくない。そう思ってウィルとトレンカと共に引っ込もうとしたときだった。その人たちは私たちを見ると、こちらに近づいて来たのだ。

 私の中で、警鐘がガンガンと鳴り響く。嫌な予感しかしなかった。

「……何の御用でしょうか」

 だが王家の手の者だ。無碍にはできない。最低限の敬意で対応するが、その人たちは腹が立つことに返事もしない。それどころか舐めまわすように私たちを見つめる。

 正直、気味が悪かった。追い返そうと口を開いた途端、何と彼らはトレンカに縄を掛けようとしたのだ。

「ちょ、ねぇ! 何をしてるの!?」

 思わずトレンカの前に出る。しかし、「邪魔だ」と冷たく押しやられてしまい、トレンカと離されてしまった。

「こいつか?」

「間違いない」

「連れて行け」

 ――連れて、行け? その言葉が、頭に響く。それは、まさか。頭は皮肉にも冷静に結果に辿り着き、最悪の未来を想定する。

『逃げなさい!!』

 縄を掛けられそうになったトレンカは、抵抗しようと暴れ出す。それに伴って彼らも武器を取ってトレンカに降り下ろした。複数人に囲まれ、動く度に傷が増えて辺りに血が滴る。人と違って、赤くない暗い青色の血。

「やめて! トレンカを連れて行かないで!」

 ウィルと共に狩人の一人に飛びかかるも、軽くあしらわれてしまう。私も一介の人間に過ぎず、そしてウィルもドラゴンといえどまだ幼い。もっと凶暴なドラゴンを相手にしている狩人には敵うはずがないのだ。当然の結果だった。動くたびサーナの懐の中で主張をするようにハンドガンが重く揺れたが、理性の残った頭でそれを黙認した。これは人に向けていいものではない。

 どうしたら止められる。そう思考を巡らせていた時、後ろから聞こえた足音に振り返ると、じっちゃんが焦り顔でこちらへ向かっているのがわかった。

「じっちゃん!」

 ほっとした。じっちゃんなら、なんとかできる。そう安心しきっていた。

 がしゃり、とじっちゃんは持っていた銃を向けた。――トレンカへ。

「……え」

 ぱん、と乾いた音と同時に、トレンカから小さく血飛沫が上がる。そのまま、トレンカは抵抗することなく倒れ込んだ。

「……どうして?」

 目の前で起きたことに付いていけず、じっちゃんの方を向く。

「ご迷惑をおかけしてすみません。麻酔を打ちこんだので、しばらく起きることはないでしょう」

 じっちゃんは淡々と狩人たちにそう言った。意味がわからなかった。どうして、じっちゃんはトレンカに銃口を向けたの?

「ご苦労だったな」

 麻酔が効いているのだろう。トレンカは無抵抗のまま、縛られて彼らが乗ってきたであろう馬車へと乗せられていく。

「何をしてるの!? 止めないの!? ねぇ!」

 ぱん、とまた乾いた音がした。さっきとは違って、痛かったのは私の頬だ。じっちゃんの手が払われたのを見て、平手を打たれたのだとわかった。

「サーナ。少し黙れ」

 頬がじんじんと痺れる。堪えきれず、涙が落ちた。拭うことも忘れて、ただ、殴られたショックと、トレンカがいなくなるという現実がまだ飲み込めずにいた。止めることなんてできなかった。


「どうして、どうして撃ったの」

 馬車が遠ざかり、見えなくなって、ようやく私は口を開いた。

 理由を知りたかった。だが知っても治まりようのないだろう怒りが、私の内側をじりじりと焼く。

「献上したんだ。……あそこで暴れたら、連れていけないだろう」

 じっちゃんは、ばつの悪い顔をして言った。

 そこで私は気づく。先日の王子の訪問が、これを示していたことを。

 王家に逆らえないことは知っていた。

 でも、こんなものなのか。

 こんな簡単に、捨ててしまうものなのか。

 そう思った瞬間、私は怒りをぶつけてしまっていた。

「じっちゃんのバカ!」

「サーナ!」

 私はじっちゃんの呼び声にも答えず、その場を去った。


 しばらく走り続け、体力も尽きたところでしゃがみ込む。家の裏側に広がる森は、私とトレンカとウィルがよく遊びに来たところだった。整っていない地面によく転んで怪我をして、トレンカには怒られたものだった。それに懲りずにウィルと走り回って。トレンカは、呆れ顔をして、でも最後までずっと一緒に見てくれていたのだ。

 そう、ずっと一緒に。

 どこへ行っても甦る記憶に、私は頭を振った。

「トレンカ……、トレンカ……っ」

 留めようのない感情が涙となって溢れ出る。

 私は何を返せてあげただろうか。何を、してあげられただろうか。

 トレンカは私にとって、母のような存在だった。親の顔を知らない私は、じっちゃんとトレンカの愛情を受け取って育った。血の繋がらない、種族ですら違う、それでも確かに家族だったのだ。

 憎い。あいつらが憎い。自分以外を生き物と認識していないあいつらが憎い。私から大切なヒトを奪ったあいつらが憎い。

 何もできなかった、見ているだけだった自分が憎い。

 そのまま、どれくらいの時間が過ぎただろうか。がさりと草葉の音がして顔を上げた。後を追って来たのだろう。私の目前で止まった相棒を、そっと撫でる。

「ウィル……、ごめんね。あなたのお母さんを、守ってあげられなかった。何にもできなかった。私は、見てるだけしか……」

 こちらを向く純粋なウィルの瞳に目を合わせられず、私は俯いた。

『さーな』

 小さな優しい呼び声に、再び顔を上げる。

 ぞりっ。そんな音がした。次いで、頬に温かいモノが伝う。恐る恐るそれに触れると、真っ赤な血が指先に着いた。その瞬間、痛みがずきりと走った。目尻から零れた涙が、更に染みて痛みを作る。

 ウィルは、真っ赤な血を見てあわあわと焦った。これの赤が血だと認識しているからこその様子だ。

 一瞬、何が起こったのかわからなかった。だが指先に触れた液体に、微かに涙でも血でもない粘液性のものが混ざっている。そこでようやく、舐められたのだと悟った。

 ふと私はドラゴンにとって、それは親愛を表すのだと思い出す。よく、トレンカがウィルにしてあげていたじゃないか。もちろん、それはドラゴン同士がするもので、硬い鱗など持っていない私の頬はいとも簡単に削れた。最早泣くどころではない。

 方法は何であれ、きっとウィルは私を慰めてくれたのだろう。悲しいのはウィルも一緒だ。私だけが泣いてなんかいられない。そう思うと、自然と涙は止まった。……血は止まってはくれないけれど。悲しいのか嬉しいのか怒りたいのか、感情が複雑に絡まって、結局出たのは少し呆れた笑みだった。

「ありがと、ウィル」

 そう微笑むと、ウィルも安心したのかにこりと笑った。


 家に帰ると、じっちゃんは私の帰宅に椅子を蹴飛ばして立ちあがった。次いで、その視線が頬に行くのがわかった。

「ウィルに舐められた」

 涙の跡も、今は真っ赤に染まっている。

 竜遣いエールデの仕事は生傷が絶えない。じっちゃんは慣れた手つきで私の頬を手当てし出した。

 ぽつり、とじっちゃんは口を開く。

「王家からの勅命でな。前から、ゾンネの捕獲命令が出てたんだ」

 ゾンネ。ドラゴンを統べる力を持つ、今ではほとんど消えてしまった種別。おそらく、王家はゾンネの力を恐れたのだ。

 捕獲命令が出ていたということは、さっきのじっちゃんの献上という言葉は本当で、でも確かに嘘だったのだろう。決して渡したくて渡したわけじゃない。そのことにほっとしながらも、新たに生まれた疑問を問う。

「……ウィルは、どうなるの」

ゾンネの血を引くかがどうかが重要じゃない。末裔だからって、必ずしも力を受け継ぐとは限らないからな。実際、混血種が入り混じってどれがどれの血を引くかなんてわかっちゃいないんだ。だから、まだ力の出ていないウィルは対象じゃない」

「……そっか」

 トレンカの力の現れは顕著だった。よく通る声で発する命令に、背いたドラゴンは見たことがなかった。だから、隠しようもなかったのだろう。前々から目をつけられていたりしたら、それこそ無理だ。

 ガーゼを当て終えると、じっちゃんは私を優しく抱き締めた。慣れ親しんだ土の匂いに混ざって、どこか鉄の香りがしたような気がして、私は一度ゆっくりまばたきをする。気のせいたとわかっていても、認めたくなかったから。

「……すまない」

 それは誰に宛てた言葉なのか。私には聞き返すことはできない

 じっちゃんは、そのまま声を上げずに泣いた。初めて見るじっちゃんの涙だった。そこでやっと、じっちゃんも私と同じように怒って、悲しんでいたんだとわかった。いつしか、自分も嗚咽を上げていた。

 私たちと、ドラゴンが抱える苦しみ。

 どうして一緒にいることができないんだろう。私たちは、人間に迷惑など掛けていないじゃないか。山奥で、少し不便を感じることもあるけれど、それでいいのに。

 一緒にいられれば、いいのに。


 それから時間はさほど経たずに、私はまたじっちゃんが悲しむところを見ることとなる。


   ***


 じっちゃんと私は、小屋のトレンカのねぐらを掃除した。じっちゃんが撤去しないことに、私はとても安心していた。トレンカは帰って来る。そうじっちゃんも信じているという証拠だったからだ。

 それでも、私は掃除以外で何度か小屋を訪れていた。今日もそうだ。この部屋の主のいない空間はとても寂しい。

 ここに来たって、現実を見るだけなのに。

 閑散とした部屋を一瞥し、そこを出るとウィルが私を迎えに来ていた。

『さーな。はたけ。じかん』

 恐らく、いつも畑作業をする時間になった、ということを知らせてくれているのだろう。

「そうだね。ありがとう」

 いつもお礼として撫でることをすると、確かに温かさが伝わる。

 はっとした。

 隣に立つ温もりがひとつになってしまった。そのことに、気づいたのだ。思わず、ウィルの体をぎゅっと抱きしめる。私より何倍も成長したそれを。

『さーな?』

「……ううん。何でもない」

 信じているのなら、不安が伝わってはいけない。

「今日も、明日も待とうね」

『なにを?』

「んーん。何でもない」

 首を傾げた相棒をもうひと撫でして離れる。

 今日も頑張らなくちゃ。伸びをして、空気を吸い込んだ。こんなようじゃあ、トレンカにも叱られてしまう。

「よしっ」

 そうひと声上げ、自分の気持ちを上げる。

 しかし、それはまた急にやって来た。

 私が見るのは三度目になるだろう。一度目も二度目も、嫌なことが詰まったそれを。

「え……」

 大きな車輪を揺らして、それ――馬車が止まった。

 その中から降りてきたのは、竜の国章が入った赤いローブを身にまとった少年。以前ここにやって来た末の王子に間違いない。

 私たちから、トレンカを奪った奴ら。

 許せない。そう思う気持ちと、竜遣いとしての自分の立場がせめぎ合う。ひとつ深呼吸をして、出迎えた。

「何の御用でしょうか。生憎、ただ今農主は出ておりまして、私が対応させていただきます」

 今日は朝早くから、じっちゃんは町へ買い出しに行っていた。そろそろ帰って来るはずだ。それまでは、私が向き合わなければならない。

 ちゃんと言えただろうか。拳を握る手に力が入る。

「ここはこの間、ゾンネを献上した所だろう」

 初めて聞く彼の声は想像以上に冷たかった。抑揚もなんもなく告げられた献上という言葉に、思わず叫びそうになった口を閉じた。そんな優しいものじゃない。お前らは、奪ったのだ、と。

「はい。そのように存じ上げております」

 一拍置いて、建前の言葉を吐いた。出すつもりもなかった媚びているような自分の声に、私は吐き気が込上げる。抑えろ、抑えろ。

「今日はこれを渡しに来た。受け取れ」

 何も変わらない表情のまま、ドサリ、と王子は黒い袋を放った。落ちた衝撃で、袋口が空いたのだろう。中から何か、白くて大きなものが覗いていた。

「周りからは止められたが、返してやるのが道理だと思って持ってきた。感謝しろ」

 王子の声が頭の中に響く。だけどもう、何を言っているのかは入ってこない。ただ、目の前にあるものから目が離せない。

 私はそれを確かめるために、飛び付くように震える手で袋を漁った。中から出てくるものは、細くて長い――肋骨。丈夫な大腿骨。そして、角が欠けた頭蓋骨。

 これが、何を、誰のものを示しているのか。

 理解したその瞬間、私は叫んでいた。

「ふざけるなっ!!」

 ぴくり、と初めて王子の表情が変わる。

「今、お前は何と言った?」

 渡された袋の中に入っていた、角が欠けた頭蓋骨。認めたくなかった。それが、トレンカだって、認めたくなんかなかった。今まで我慢していたものを全てぶつけるように、私は叫んだ。

「ふざけるな! どうして、どうして殺したの!?」

「どうして、とは。先月駆除命令を発したはずだ。お前は読まなかったのか」

 駆除命令。私が聞いていたのは、『捕獲』命令。

「捕獲じゃ……?」

 小さく漏れた私の言葉を、王子が拾う。

「伝達ミスだったのか? だが捕獲も駆除も、最終的に捕らえて殺すことに何も変わりない」

 私は目を見開く。結局帰って来るはずがなかったんだ。

 私が黙り込んだのを何と捉えたのだろうか。王子は勝手にその時――トレンカを捕らえたであろう時のことを語り始めた。

「このドラゴンは、実に不思議な存在だった。他のものとは違って、何をしても抵抗しようとしない。目の前に餌を釣っても食らおうともしなかった。獣風情が、まったくらしくない。だから私直々に手を下してやったのだ」

 事細かに最期を語るその口を、私は許せなかった。

 限界だった。聞いていられなかった。何より、聞きたくなかった。

「何が面白いの!? 抵抗しないものを苛めて何が楽しいの!?」

 私は王子の胸倉を掴み上げる。王子より背が低い私は、掴み上げることができずただしがみ付く形となったが、それでも無表情のまま、冷たい視線が返ってくる。

「トレンカは殺されるような悪いことはしていない。私も、じっちゃんも、誰もしていないよ。なのに、何で、何で!」

 そう言いきったのと同時に、後ろから手を掴まれ、強く抑え込まれた。振り向くと、急いで来たのだろう、少し息が上がっているじっちゃんがいた。

「サーナ! やめろ!」

「でもっ! こいつはトレンカを殺したんだよ!?」

 私の一言で、じっちゃんの顔が歪んだ。その視線は足元にある骨へと向けられていて、事の全てを察したのだと容易に伝える。それでも、じっちゃんは怒りを向けることなく、王子へ深く頭を下げた。

「申し訳ありません。無礼なことを」

 じっちゃんのその姿に、私は信じられない気持ちでいっぱいだった。どうして、と小さく声を漏らす。どうして、そんなに冷静でいられるのだろうかわからなかった。

 だって、一番憎んで、恨んで、悔しいのはじっちゃんに違いないからだ。

「そこのお前。何も悪いことをしていないと言ったな」

 茫然とした私が視線を向けると、王子と目が合った。声色が低くなり、怒気を含んでいる。初めて、その瞳に感情が出たと思った。

「ドラゴンが、どれくらいの人間を殺したと思っている?」

 魔女の手先となって、人を、国を滅ぼしかけたのは有名な話だ。確固たる史実だ。だけど私たちに何の関係があるというのだ。行ったのは、過去のものたちだろう。そう、意を込めて私は口を開いた。

「トレンカは、してないよ」

「だがこれは確かにドラゴンだろう。何が違うと言える。憎むべき対象には変わりない」

 私はその言葉に小さく息を飲んだ。私だって、憎んでいた。ドラゴンを生き物として扱わないこいつらを、人を。

 そう理解した途端、冷や水をかけられたかのように、一瞬で熱が引いた。

 私が今まで否定し続けていた人たちと私は、何が違うと言えるのだろうか。どこが違うと言えるのだろうか。

「お前ら遣い手エールデが、情に流されているのは既知の事実だ。だが、こいつらは国を滅ぼしかけた。それくらいの力を持ち、我々に逆らおうとしたのだ。歴史は変わらない」

「……でもっ」

「立場を弁えろ。小娘」

 相変わらずの凛とした声に、思わず口つぐんだ。

「ドラゴンなど、ただの兵器だ。政治の道具だ。お前らには、その仕事を与えているだけだ」

 王子のきつい物の言いに、向けられる現状たる事実に反論のしようがなかった。

 何を言っているのか。ふざけるな。私たちは、お前の政治の玩具ということなのか。きつく握った手のひらに、赤く爪の跡が残る。

「素直に受け取ればいいものを」

 そう吐き捨てると、王子は遺骨の近くまで歩き、その上で踏みつけようと言わんばかりに足を上げた。

 それだけは。それだけは、させてはいけない。

 そう思うと同時に、私の体は動いていた。遺骨が入った袋を抱きかかえるようにして庇う。

「どけ」

「いやっ、それだけはやめて! やめてください!」

「どけと言っている!」

「あッ」

「サーナ!」

 容赦ない蹴りが背中を襲った。息が詰まる痛みの中、じっちゃんの呼ぶ声が聞こえた。

 それでも私は、これを手放すことは無い。手放すもんか。ぎゅっとそれを強く抱き込む。もう温かさはないけど、大切なものには変わりはない。

 不意に蹴りが止み、王子の方を向くと、彼はわからないという表情で首を傾げていた。

「お前らは、兵器に何故そのような情を入れる?」

「兵器なんかじゃない! 生きているんだ!」

「またその言葉か。あの農主もそうほざいていた」

 あの農主。特定の誰かを指す言葉に、不意に引っ掛かった。

「逆らわなければ、死なずに済んだものを」

 次いでぽつりと呟いたその言葉を、私は聞き逃さなかった。

 別に王子は誰と言ったわけではない。確信できる情報もない。

 だが、兵器じゃないと、生きているとよく教えてくれたのは、ヴィーデさんなのだ。

「意味がわからない。何故かばう。何故情を掛ける。そんなものただの兵器だ」

 茫然とした私から袋を奪うと、王子はそれを逆さにひっくり返し、中身をばら撒いた。かんからん、と骨同士がぶつかる音がやけに鼓膜に響く。地面に散らばったそれらから、私は目が離せずにいた。

「母上を返せ。平和な国を返せ。ドラゴンさえ居なければ、私は、僕は幸せになれたはずなんだっ!」

 王子は剣を振りかざす。はっとしたときには、手を伸ばしたときには既に剣先が下ろされた後だった。

「やめて!」

 ばきり。その音と共に、白い破片が宙を舞う。頭蓋骨に罅が入り、肋骨がふたつに折れた。ぽつぽつと、まるで雨が降る音のように、無情に破片が土の上に落ちた。

「ふ、は。いい気味だ」

 王子は更に刻むために、再び剣を振るおうと腕を振り被る。どこかその行為は狂気めいていた。

 こんなこと、させていいわけがない。

「やめてっ」

 そう思い、私は王子の剣を持つ右腕にしがみ付き、取っ組み合った。私を振り下ろそうと暴れる彼の矛先が頬を掠って傷ができるのがわかった。

「邪魔だッ」

 剣の柄で腹部を殴られ、一瞬にして肺の中の空気が抜ける。転倒しながらも、息を吸い込もうと咳き込んだ。

「サーナ!」

『さーな、さーな!』

 じっちゃんに抱き起こされながら、私はウィルの呼ぶ声を聞いていた。私は大丈夫。大丈夫だから、お願いだから、何もしないで。そう言おうとしても、激痛が舌を縛り、話すことができない。

『さーな』

 もう一度、小さく呼ばれた声。

 応えたかった。だが、声を出そうとすると、ひゅっという空気が漏れる音がするだけで。

『あぁあ、ぁあああっ』

「うぃ、る……?」

 様子がおかしい。痛むお腹を押さえ、咳き込みながらもウィルを見つめる。その瞳は空を見つめ、目が合っているはずなのに、どこか合っていない。

 あなたは、どこを見ているの?

 カタリ、カタリと地面に散らばった小石が揺れる。大気が震える。

 異常なその様子に気づいたのか、王子たちも顔を上げ、ウィルの方を向く。

 だが、何もかももう遅かった。

『うぁああああ――――っ!!』

 鼓膜を震わす咆哮。次いで、空に舞うドラゴンの影。それは次第に増えていき、十を超えた。いつも私が見ている、朝の風景のように。

 よく見慣れたはずのそれは、正気のない皆の眼がこちらを向いていて、異常なのだと察せざるを得なかった。

「なっ! ゾンネ!?」

「駆除命令を出したじゃないか! 何故ここに!?」

「記録にはない! 覚醒したというのか!?」

 ドラゴンを統べる力を持つ、ゾンネ

 その力を見たのはトレンカが喧嘩の仲裁に使っていたときぐらいで、実際にはよく通る声で皆の目を覚ます、ぐらいにしか認識していなかった。トレンカ自身も力はない、と言っていたからだ。

 でもこれは、そんなものの比じゃない。

 上空に浮かぶ影。次々と降りかかる奇声。

 目の前に、十数頭のドラゴンが牙を剥けていた。爺さまも、シベリアもエリッタもビークも皆。

 いつもの、優しい瞳ではない。

 いち早くその衝撃から立ち直ったじっちゃんが、声を上げた。

「早く、トマト畑へ! あそこなら、ドラゴンたちは入ってこれない!」

「な、何を言って」

「早く! お命を落とす気ですか!」

 じっちゃんは、うろたえる王子を引っ張り、私に肩を貸したまま畑に足を踏み入れた。しかし私の中には、その最善策に身を任せきれない不安があった。

「じっちゃん、でもウィルは……!」

 トマトに耐性がついたウィルは、ものともせずに入ってこられる。その事実はじっちゃんもわかっているだろう。だけど、十数頭のドラゴンを相手するよりは良いのだろう。苦肉の策だ。

 ウィルが私たちに手を上げるとは、想像できない。想像したくない。大丈夫、と根拠のないその言葉を自分に言い聞かせる。

 トマトの所為か、やはりドラゴンたちは入ってこれないようで、畑の周りを取り囲んだり旋回している。火を吐くものがいないのは、不幸中の幸いというところか。

 しかし、事態はそう甘くなかった。ウィルだけじゃなく、他のドラゴンたちも畑へと進行し出したのだ。

 ドラゴンたちにとってトマトは毒だ。触れるたび、ドラゴンたちが傷ついてゆく。

「サーナ! 隠れてろ!」

 無意識にもドラゴンたちへと歩み寄ろうとしていたのをじっちゃんに止められ、畑の奥へと押しやられる。

「え、でもっ!」

「いいから。お前は出てくるな」

 そう言いながら、じっちゃんは持っていたふたつの銃の一丁を私に預けた。いつも使っているような小型のハンドガンではなく、ずしりとしたライフルを。

「何かあったら、撃て」

 何を、と聞き返す前にじっちゃんはドラゴンたちへと向かって行った。

 ライフルは扱ったことがある。でもそれは練習で。実戦でなんて使ってことがないし、使うと思っていなかった。

 だって、これはドラゴンをころす銃だ。ハンドガンとは、威力も殺傷能力も、違う。

『サーナ』

 不意に呼ばれ、顔を上げる。どこから聞こえてきたかわからない。だけど、それがドラゴンのものだと、聞いたことのある声なんだと、私は知っている。

『逃げろ』

 短い言葉だった。もしかしたら、声なんて出せない中、一生懸命に捻り出したものなのかもしれない。

 だけど、それは私の中の、恐怖を振り払った。

 『逃げなさい』、と叫んだトレンカの声が甦る。

 両手に圧し掛かる重みを抱きながら、私はドラゴンたちの元へ、畑の外へ出ようと走った。

 見てるだけはもう嫌だ。私だけが何もしないなんて嫌だ。

「私だって……!」

 体中が軋んでいた。悲鳴を上げていた。弱っちいただの人間の少女でしかない私なんて、王子との殴り合いでもう限界だった。一歩前へ進んで、外に出ようと、それだけを考えようとして、何度も失敗する。

 ライフルが重い。ひとつで数キロもするのだから、当たり前だろうとは思うが、抱えた両腕はもうそれだけでいっぱいいっぱいで。

 ふと、当たり前か、と気づく。

 だって、私は今命を持っているのと同然だから。

 ガサリ、とその音を耳が拾い、振り返った時には遅かった。

 私がいたのは、畑の中だ。そこに、一頭のドラゴンが翼を広げていた。

 どうしてここに。そう思わずにはいられなかった。

「シベリア……?」

 一頭のドラゴン――シベリアは、私を一瞥すると、大きな翼をはためかせ風を巻き起こした。

 魔法を使ってすらいない、ただの突風に、私は踏み切ることができずに簡単に吹き飛ばされてしまう。

 転んで反転した視界の中、見慣れた姿がこちらに来ているのが見えた。

「ウィル! だめっ!」

 体を起こし、畑へと侵入してきた相棒の名を叫ぶ。だけど私に目もくれず、相棒は真っ先に王子の元へと行っているようだ。

 他のドラゴンたちも、トマトの毒なのだろう、皮膚の変色が目に見えて酷くなっていた。

 どうしたら、皆を守れる。酸素が回らない頭で、必死に思考を巡らす。

 じっちゃんは、とつい誰かに頼ろうとしていることに気づき、頭を横に振る。確かに、じっちゃんの方が強いし、上手く立ち回れるだろう。王子に付いて来ていた狩人たちだって、私より何倍も力も知識もあるだろう。だけど、ウィルの相棒は私なのだ。私がどうにかしないで、私が止めようとしないで、どうして相棒と言えるだろうか。

 じっちゃんは畑の外。王子に付いて来た狩人たちは、他のドラゴンの相手をしてる。今や王子を守る者はいない。

 誰もウィルを止められない。

 私しか、止められない。

 転倒による痛みを堪えながら、傍らに放り出されたライフルを引きずって両手に収めた。そのまま緊張で汗ばんだ手で弾を装填し、がちゃり、と銃口を上げる。誰に、どれに撃てばいい?

 そんなの考えずとも、わかっている。

 このドラゴンたちを動かしているのは、ウィルだ。

 ウィルは、王子を狙っている。

 ――どちら、なんて選べるはずがない。

 引き金を、目を瞑って引いた。

 最初の威嚇射撃。発砲の反作用による激痛に耐えながら放ったものは、ウィルの硬い甲羅に当たった。

 ほっとした。ほっとしてしまった。目を瞑って引き金を引くなんて、何に当たるかわからない。一番やってはいけないことだと、教わった。それなのに。

 殻に当たった衝撃によるものだろう。ウィルは一瞬動きを止め、私の方を向いた。

 そして、起き上がって銃口を向ける私を見て、ウィルは笑顔を返した。安心して、と言わんばかりに。

 どうして。なんで。私は、あなたを殺そうとしてしまっているのに。何故笑顔を向けてくれるの。

 その答えは、すぐに返ってきた。

 向かい合う王子へと言い放った、言葉。

『さーなを、いじめないで』

 私のために、彼は牙を向けているのだと、今更のように悟った。

 ウィルは王子を確実に追い詰めていく。

「だめ……、ウィル……」

 王子は、必死に剣を振るう。だけど硬い鱗を持つドラゴンを剣で仕留めるには、相当な腕がいる。弓や銃などの飛び道具の方が確実だ。

「やめ、て」

 私の手の中には、一丁のライフル。弾は残りわずか。

 止めて。私は、あなたがいれば。いればいいの。

 再び、銃口を上げる。震える手が標準をぶれさせる。

 でもアイツを殺してしまったら、きっと国はドラゴンを狩る。王子の復讐を建て前に、都合の良いことに狩りつくしてしまうだろう。そうなったら、今まで皆が守ってきたものが、壊されてしまう。

 追い詰められた王子は、立ち上がることもできずにへたり込んでいる。赤いローブは、ウィルの視界にはさぞ映えて映ってしまっているのだろう。隠れることは、難しい。

 ウィルは爪のある手を振り下ろして――、

「ウィル――っ!!」

 私は力の限り叫ぶ。

 お願い。届いて。止まって。


 時間は止まらない。

 私は思う。今でも、ずっと。この瞬間が、止まればいいのに。終ってしまえばいいのに。

 私は、引き金を引いたのだ。

 銃口を、ウィルへ向けて。


 刹那。

 ぱぁん、と乾いた音が響いた。

 自分が放った弾は、吸い込まれるようにウィルの急所に当たった。甲羅の隙間の心臓部へ続く直線上。赤くはない、暗い青色の血液がびゅっと宙に舞った。

「……ぁ」

 自分の喉から、掠れた音が漏れる。見たくない。そう思っても、目を離せずにいた。自分がしたのだと、理解せずにはいられなかった。

 優しい琥珀色の瞳から光が消え、青い血を地面に染み込ませ、それでもウィルは私を見ていた。

 最期まで、逸らさずに。

 そして、きゅる、と一度鳴いたきり、私の大好きな相棒は、動くことはなかった。


   ***


「やはり、兵器じゃないか」

 そう言い放って、王子はお付きの狩人と共に去って行った。

 残された私は、その場から動けずにいた。少し先には、ウィルの姿がある。

 兵器として、生まれて来たのかもしれない。復讐を望まれて創られたのかもしれない。

 だけど、生きているんだよ。私たちと、人間と何の変わりもない、感情を持って、精一杯生きているんだ。

 その想いは、声とならなかった。

 だってもう、眼前に転がる相棒は、動かないと知っているから。返事を返しやしない。それを知っているから。

「サーナ。よくやった。もう大丈夫だ。だから、それを離せ」

 手のひらから、優しくライフルが抜き取られる。視線を上げるとじっちゃんが私の前に立っていた。頬には赤い横線が引かれている。きっとドラゴンたちを止めるときに負ったのだろう。

 何を言えばいいのか、何を吐きたいのか、よくわかっていなかった。ただ、あったことを溢そうと口を開く。

「ねぇ、じっちゃん」

 そう言った自分の声は、驚くくらいに普段と変わらなかった。少しは動揺くらいしたっていいのに。

「笑ってた。ウィル、笑ってたんだよ。私が銃を向けてたのに、ウィルは信じてたんだよ。私のために、王子に向かって行ってたんだよ」

 なのに、私は。

 自分の手のひらを見れば、そこには小さな火薬の黒子が埋まっている。でも目を凝らせば、自分の手が青色で染まっているような感覚に襲われてしまう。

「どうして、ドラゴンと一緒にいられないんだろう」

 ぽつりと、そんな言葉を溢していた。

 瞬間、視界が白に覆われ、知った匂いでじっちゃんに抱きしめられたのだと悟る。

「お前は正しいことをした。あそこで止めなかったら、今の暮らしはない。ドラゴンたちも全て狩られている」

 耳元でそう言い聞かすように言われ、ぎゅっと私を抱きしめる腕に力が入った。少し痛いな。そうどこか他人事のように思う。

「お前が無事でよかった」

 抱擁を解き、大きい手で私の頭をわしゃわしゃと撫でる。幼いころから私を慰めるときにしてくれる、じっちゃんの癖。今はそれがとても辛かった。

 そのままじっちゃんは、怪我を追っているドラゴンの元へと向かった。手当てするのだろう。しかし私の足はそれを追おうとはせず、ぺたりとその場に座り込んでしまう。

 どうして、じっちゃんは私を責めないのだろう。責めてくれないのだろう。何で、撫でたのだろう。

 周りのドラゴンたちも、ただ私に優しい目を向ける。じっちゃんも、爺さまも誰も私を責めようとはしない。

 いっそ責めて欲しかった。お前は悪いことをしたのだと、指を差して欲しかった。

 だってこれでは、私がしたことが正しいことのようになってしまうじゃないか。

 私がやったことは、本当に正しかったの?

 ――正しいわけない。

 大好きな家族を殺したことが、正しかったの?

 ――正しくあってたまるものか。

 だけど、そう声を上げるのは私しかいない。誰も私に答えを教えてくれない。

 ただ、あのウィルの鳴き声がただ耳にこびりついて離れない。

『サーナ』

 呼び声に顔を上げると、優しい瞳と目が合う。だけど今はそれが嫌で、ふいと逸らしてしまった。

 私を呼んだ爺さまは、止まることなく私の元に歩み寄り、動こうとしない私を翼で包み込んだ。

 爺さまの大きな翼で覆われ、私の世界が闇で包まれる。爺さまも怪我をしたのだろう、所々翼に開いた穴から光の筋が差し込み、夜空に浮かぶ星みたいに光る。

 星空。前見たのはいつだっただろう。

 ここは山奥であるおかげもあって、星空も綺麗だった。

 多分、あのときは皆いた。じっちゃんも、爺さまも、トレンカも、ウィルも。皆と、笑い合っていた。

 もう、そんなことはできやしない。

 幾らかして翼が広がり、暗闇に慣れた目を光が焼く。

『サーナ。ぬしが気にすることじゃない』

 爺さまはそう言って、私を離した。

 視界から、ウィルだったものは、なくなっていた。きっと、じっちゃんが、爺さまたちが、除けてくれたのだろう。

 ただ、地面の青い血だまりが、私を現実へと留めていた。


   ***


 しばらく、じっちゃんは私を家から出そうとはしなかった。ずっと続けてきた毎朝の餌やりも、全部じっちゃんが代わって行っていた。

 私は大丈夫、やるよ。できるよ。何度そう言っても、じっちゃんは首を縦に振ろうとはしない。

 何度仕事をさぼったのだろう。ドラゴンの世話をしない日々は余りにも空虚で、今まで私はずっとドラゴンと一緒にいたのだ、と今更のように思い知らされた。

 どれくらいか過ぎた日、じっちゃんはようやく家から出してくれた。

「餌やりももうやった。今日は雨だ。畑もやらなくていい」

「え、じゃ何を」

「小屋を、片づけろ」

 レインコートを着せられ連れてこられたのは、ウィルとトレンカがねぐらとしていた小屋だった。

「……わかった」

 ウィルと、トレンカ。二体のドラゴンの小屋を、撤去するため。

 避け続けていた現実を見せられたかのように、ついにそのときはやってきたのだ。


 じっちゃんはあの日、私に無理にウィルの骸を見せようとはしなかった。だけど、ウィルの小屋へと向かわせた。けじめと言うものなのだろう、とどこか他人事のように思った。

 トレンカはしんだ。骨となって帰ってきた。

 ウィルはしんだ。私がころした。死体となってここにいる。

 いつも当たり前だったふたつの温もりが、私のせいでなくなった。

 小屋の戸を開け、土の床を踏む。雨のせいもあって、もともと日が入りづらい中はとても薄暗かった。

『さーな!』

 元気なその声が聞こえてきそうで、耳を塞ぐ。私はそれを聞いて善いわけがない。

 ここは、思い出で溢れている。壊したくなんてなかった。私が触れていいわけなんてなかった。

「必ず、お前がやれ」

 そう言って道具を渡したじっちゃんは、私に何を伝えたかったのだろう。

 こんなことなら、家から出たくなかった。

 目を伏せながらも、私は道具を手に取った。

 生きていた痕跡を、ひとつひとつ消していく。代わりに、私の中には例えのない感情が積もっていく。

 ただ外の雨音が、宥めるように私の鼓膜を震わせた。


 寝床をあらかた片し終えたとき、私はある違和感を感じた。寝床の土の一部が膨らんで、小さな山となってあるのだ。

 何かあるのだろうか。私は指先に力を込めて、そこを掘り始めた。硬くない土の山は、私の手でも容易に掘れる。

 すぐに、中の物が露わとなった。堅くて白い、丸いもの。

「たま、ご?」

 どうして、ここにこんなものが。

 それはあまりにもウィルの卵に似ていた。幼い私がじっちゃんとトレンカと一緒に、孵した卵に。

 恐る恐る、指先で触れる。

「あったかい……」

 生きている。

 その事実が嬉しくて、悲しくて、申し訳なくて、私はそれを抱き抱えた。

「ウィル、トレンカ……、ごめん。ごめんね……」

 伝わる熱がとても苦しくて、私はあれから初めて、涙を流した。

 これは、トレンカのものだろうか。恐らく、居なくなる直前トレンカはウィルに託したのだろう。自分の兄弟となる子を。

 ごめんなさい。ごめんなさい。会いたかったよね。一人にしたくなかったよね。

 だけど、ありがとう。安っぽい言葉だけど、それしか思い浮かばなかった。

 私の自己満足だろう。だけど、どこか許してくれた気がしたのだ。まだ、ドラゴンに関わっていくことに。竜遣いエールデとしていることに。

 罪滅ぼし。それでもいい。

 私は、彼女が残してくれたこの子を守ると誓おう。

 あの子が未来を託してくれた、この子を。

「名前は――」

 コツリ、と卵の中が動いた。




ありがとうございました

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] ドラゴンへの考え方が竜遣いと他の人々で大きく異なるというところが良かったです。ドラゴンを自身の相棒のように親しみを込めて接する竜遣いと兵器だと割り切って見なしている他の人々との間には今後も…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ