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雨夜の衒学少女

くるくると回る社会の歯車

視界が塞がれていて、前方をはっきりと捉えることができない。

天気予報が晴れの日に、この悪天候は反則だ。

腕で顔を覆いながら歩みを進める。

打ち付けてくる大量の雨粒の中で、目を開けようと試みる。


「・・・だめだ。」


僅かでも瞼を開くと一気に水滴が眼球に押し寄せてくる。

顔を覆う雨水をワイパーのように払い、

一瞬見える視界を頼りに歩みを進めた。


しばらくそうして歩いていると、眼前に長い階段が立ちはだかった。

見上げてみると段数はかなり多いように見えた。

階段の先には、雨の中でもわかる綺麗な朱色の鳥居。

ここは神社の入り口のようだ。


この辺りに神社なんてあったのだろうか。

厚かましいかもしれないが、雨が止むまで暫く休ませてもらおう。


鳥居を目指して階段を登り始める。

水分を吸収して、いつもより重たい足を持ち上げる。

疲労が積み重なっていくのが実感できる。

灯に飛び込んでいくしかない蛾のように、一歩一歩食らいついた。


どれくらい時間が経っただろうか。

感覚が鈍くなっており、今は時間が逆行していても気付かないかもしれない。


・・・。


いつの間にか、鳥居の真下に到着していた。

辺りを努めて冷静に見渡す。

当初は本堂の屋根の下に居座ろうと思っていたが、

傘のある東屋が目に留まった。


最後の力で、東屋に駆け込んだ。

微かな違和感を感じたものの、自身への攻撃がピタリと止まったことは嬉しかった。

改めて顔を拭い、外の景色を眺める。

依然として豪雨は継続している。


これは執行猶予に過ぎない。

このまま止んでくれなければ、再度渦中に飛び込まなければならない。


一旦落ち着こうと思った。

湿った空気を体内に吸い込み、肺を満たしては内部に溜まった灰汁を外界にゆっくり吐き捨てる。

呼吸が落ち着いてさえいれば、自分は冷静さを取り戻すだろうと思った。


僕は違和感の正体を次第に理解した。

部屋の中央に何故か大きな水溜りが出来ている。


「雨が入り込んでいないのに不思議だな。」


歩みを進め、そっと覗き込む。


「え。」


唐突に後退る。

尻餅をつきそうになった。


彼を驚かせたのは水面に映る見事な龍だった。

多少ぼやけてはいたが、その眼は爛々と輝き、その牙は日本刀のように鋭かった。

人間の柔らかい体はその牙に触れただけで引き裂けてしまうだろう。


もちろん、龍が水溜りに住んでいたなんてことはありはしない。


冷静に天井を見上げるとそこには同じ龍が描かれていた。

描かれた文様が水面に反射していたのだ。

ただの絵と言ってしまえばそれまでだが、龍は彼を凝視し決して甘える隙を与えなかった。


「おっかないな。」


引き気味に呟いた。


「心配しなくてもあなたを食べちゃおうなんて思ってないわ。彼はヒトを測るだけ。」


振り向くと着物を着た一人の少女が立っていた。

この神社の娘であろうか。

中学生か高校生くらいであろう。

着物が非常に映える整った顔立ちをしていた。


子供に気を遣われた事が少し恥ずかしかった。


「どうもありがとう。こちらで少し休ませてもらってもいいかな?」


彼女は無表情のまま、首を縦に振った。


部屋の隅の椅子に腰掛ける。

彼は外を眺めながら娘の言った人間を測るということについて少し考えていた。


人間とは、そもそも多大なファクタから成立している。


同じ人間でも多角的な観点から見ることができるし、その見方によって大きく形相を変える。

だから、道徳的な意味も踏まえ、通例的に人間の価値は測量不能だとされている。

しかし、例えば、知能、脚力、肺活量などすべてを相対的な数字化をして合計点を出せば、人間のランク付けも不可能ではないように思える。


今の社会において人間は均一化している。

本当に気持ち悪いと思う。


思考を巡らせているうちに、束の間の休息を得ていた心が秘かに騒めき出した。

情動の不安定に伴って身体的な苦痛も発現する。

眼が窪み、喉が縮み、呼吸が苦しくなる。


「あなたは何に怯えているの?」


いつの間にか近くにいた彼女は僕に向かってほほ笑んだ。


「いや、怖がっている訳ではないんだ。ただ雨が強かったから、雨宿りができないかなって思・・・」


話している途中の言葉を遮るように彼女は言った。


「あらやだ、雨なんて降っていませんよ。」


彼の表情は双眸を見開いたまま硬直している。

五感を通じて体験した経験を勘違いで済ますことは出来ない。


「そんなばかな。」


あの感覚は何だったのだ。

今の今まで打ち付けるように降りかかっていたんだ。


・・・。


自分の服装を恐る恐る確認する。

シャツとズボンを上から下まで両手で撫でる。


「濡れていない。」


湿り気すら微塵に感じない。

彼は、わなわな震えている。


《じゃあ、僕はいったい何から逃げてるんだ。》


「ところで雨はお好きですか?」


そんな彼を余所に彼女は的外れな質問を問いかける。


「い、いや、あんまり好きじゃないなあ。なんか落ち着かなくて、むかむかして耐えられなくなる。」


「そう。では、そこの雨龍の紋の意味をご存知ですか。」


質問をしたわりには淡白な回答であった。

彼は左右に首を振る。

彼女は小気味好い音を奏でながら草履でテクテク歩く。


「あなたのように雨が嫌いな方が多いようですが、昔は違いました。雨が降らなければ、農作物が育たない。それが生き死にを分けていたのです。龍は嵐を呼ぶと言われていて、そこには雨乞いの意が込められています。」


娘の一直線に切った前髪が、風に揺られている。

返答の言葉がすぐには思い付かなかった。


「信仰してみたり、嫌ってみたり、人間は気まぐれな生き物だね。」


彼は動揺を胸に抑え、彼女の話に専念することにした。


「ふふ、そうですね。けど、仕方ありませよ。もともと人間は勝手な生き物ですもの。」


彼女の声は至極落ち着いていて、彼は交流の中で微かなぬくもりを感じていた。

緊張で縛り付けられていた何かが緩和されていく。

気の緩んだ彼は思わず胸に抱く疑問を漏らしていた。


「僕はいったい何から逃げているんだろう。」


彼女はこちらに歩みを進め、瞳を覗き込む。

座っている彼を上から見下ろすような構図になる。


彼女の瞳はビー玉のように丸く透き通っていた。

しかし、そこに映る彼は黒く淀んでいた。


「さあ、わかりません。原因は一つかもしれないし、複数かもしれない。はたまた、実体があるかもしれないし、ないのかもしれない。それはきっとあなたにしか。いえ、あるいはあなた自身ですらわからないことでしょう。」


彼女は天井の角辺りを指差した。

小さな指だがシュンとしていて可憐だった。

自然に彼の視線は彼女の指先を追う。


「あそこに蜘蛛の巣が見えますが、蜘蛛はお好きですか?」


新たに、同じように質問が追加された。

彼女は碌な答えをくれないのに質問は多い。


「いや、気味が悪いし、どちらかというと嫌いかな。」


少しはぐらかされたような気がしたが、彼女の会話のリズムに合わせる。


「そうですか。それでは、“朝蜘蛛は来客の前兆”という言葉を知っていますか。蜘蛛の巣は日本書紀にもありますが、愛する人を呼び寄せるとされています。今の言葉もそういった意味です。彼らを避けると勿体無いですよ。彼らも幸福をあなたに届け得る存在なのですから。」


彼は素直にこの娘の話に感心していた。

こういった話は一体何処から仕入れてくるのだろう。

神社の娘は書物を読む習慣があるのかもしれない。


「じゃあ、どうしてこんな類の話は忘れられていくのだろう?」


投げかけるだけの彼女に質問をぶつけてみた。


「簡単な事です。彼らと協力する必要が無くなったからです。人間の合理的思想は信仰、虚構、迷信を排除し、科学、人間至上主義を迎合したのです。力はそれ程までに強力になり、不確かな事は葬るようにしたのです。」


そうであれば、それほどまでに進化した人間である僕がどうしてこんな得体のしれないものに蝕まれているのだ。

曖昧で不安定なものは合理化の渦に沈んでいったのでは無いのか。


突然、両手を広げくるくると無機質に人間たちが重なり合い、歯車のように回り続ける姿が彼の脳裏に浮かんだ。


なんだこの映像は、、、。


目を凝らしてみると、その中に彼のような顔をした者も確かにいた。


急に心拍数が上がり頭が痛くなってきた。

またこの感覚か。

時折僕は記憶が無くなるほどに興奮する事がある。

未だにトリガーは不明である。


「僕はきっと人間であることに疲れたんだと思う。」


若い方の前で僕は何を弱気なことを吐いているんだろう。


「はい。そうかもしれませんね。」


彼女の顔は機械のように冷たくなっていた。


「幸せを謳った人間社会は、実は味気ない機械でしかない。」


語気が強くなってゆく。

自分自身でもボルテージが上がっていくのを感じていた。


「私には未だわかりませんわ。」


「だが、残念ながら人間はやはり生き物だ。耐えられるはずがない。」


「一日中薪を割って過ごした時、頭がぼうっとして、観音様が見えてしまいましたわ。そんな感じかしら。」


もう彼の耳に彼女の声は入っていない。


「何人も脱落者を見てきた。我慢比べなんだ。」


「私お風呂なら何時まででも入っていられるわ。本当よ。」


「だから僕は人間社会とオサラバしてきた。」


「彼らがあなたを捨てたとも言えるわね。」


「僕は革命者だ。」


「残念ながら、あなたは残虐な犯罪者よ。」


「君も僕は助けなければならない。」


気付けば彼は少女に襲いかかっていた。

彼は少女の喉を最大の力で握り締めあげた。

彼の目つきは別人のように狂気に満ちていた。


「絞めた。これで君も自由になった。救われるんだ。」


苦悶の表情なのに口元は歪んでいる。

彼は戻れないほどに捻じれ終わっている。


「ぐぐぐぐがががががあああああああ。」


・・・。


それは一瞬の出来事だった。

文様中の体長10メートル程の青い雨龍が壁から抜けだし、一口目で彼の首を攫い、二口目で胴の半分と右腕を、三口後には彼の左足しか残さなかった。


水溜まりは真っ赤に染まり、彼の左足は逆立ちしていた。


「がああああああ。」


雨龍の咆哮が世界を揺さぶる。

叫び声と共に飛び散る雫は雨龍が流す涙。

勇敢な顔付きには相反する情緒であった。


「もう大丈夫、彼もあなたの為に泣いてくれているわ。あなたは不適合だけど、誰も悪いなんて言っちゃいない。あなたはあなたなりに必死に戦った。ええ。分かっているわ。だから、今はお休みなさい。哀れなあなた。」


彼女は彼の残った部位を強く抱きしめた。

もう二度と彼が苦しまないために。


彼女の着物に刻まれた文様は鶯。

「春告げ鳥」「春見鳥」「歌詠鳥」の異名を持つ。

ご存知の通り、幸福を呼ぶと言われている。

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