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短編集『脈絡なき雑多集団の概観は如何に。』  作者: 槇河 しゃち


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止まった時計の粋な計らい

「まだ時計は止まったままなのか」


30歳になった僕は小学校の頃から同じ時を指している時計を見て驚いた。

相変わらず人は少ないが、どこか温かみのある図書館。


仕事に忙殺され、急に与えられた休みの使い方が分からないままに、

道を彷徨っていると、ここにたどり着いていた。


みーんみんみん。


外は蝉の鳴き声が響いている。

不思議と生き物の声をうるさいと思ったことはない。

音量は大きい、けど、不快にはならない。


・・・


冷房が効いた室内に入った途端、蝉の音はパタリと止んだ。


「ここは変わらないな」


小学校の頃、田舎で遊ぶ場所が少なかったせいか、図書館にはよく足を運んだ。

走る自転車の隣には、みきおがいつも一緒にいた。


「おい、見てみろよ、新刊がもう入っている」


みきおの父親は厳しく、彼に漫画を与えなかった。

そのせいか、かえって彼は図書館で漫画にむさぼりついた。


では、僕は何をしていたかっていうと、何もしていなかった。


本を読むわけでもなく、宿題をするわけでもなく、昼寝をするわけでもなく。

ただただ、なんとなく椅子に座って時計を見ていた。

時間を贅沢に使っていた。


「お前は何が楽しいの?」


至極まっとうなみきおに対して何も答えることができなかった。

今の自分でも過去の自分の行動は説明することはできない。

ただ、それなりに楽しかったのだか良いのだろう。


こつこつこつ。


年を取った僕はいつもの席に座った。

体がこの席を覚えていた。


そして正面に飾られた置時計は10時10分を指していた。


古びた図書館に合う濃い茶色の筐体。

銀の文字盤にはローマ数字。

まさに、大きなのっぽの古時計。


やあ、こんにちは、年取ったね、君。

今にも、そんな声が聞こえてきそうだった。


ここは田舎にしては書籍の揃いが良かった。

日本の中でも読書人口が多い町らしい。

一体、だれがそんな統計を取ったのか知らないけれど。


こつこつこつ。


しばらく座って涼んでいると、一人の小さな女性が入ってきた。

図書館に人が入ってくることなんて当然のように思うだろうが、

ここには今、僕と彼女しか利用者がいない。


彼女は麦わら帽子を胸に抱え、受付の前で一礼すると、まっすぐ時計の方へ歩いてきた。

背は小さいが、歩みには迷いがない。

木の床が小さく鳴って小気味良い。


「すみません、ちょっと失礼しますね」


僕の前で立ち止まり、彼女は時計の上部の小さな扉を開けた。

奥に鍵穴のようなものが見える。


「それ、動くんですか」


思わず声が出た。

彼女は顔だけこちらに向け、少し笑う。


「動きますよ。止めてあるだけなんです」


久しぶりの来館で衝撃の事実を告げられた。


「止めてある?」


その女性は笑顔で首を少し右に傾けた。

彼女も面白がっているように見えた。


「前の館長さんが10時10分でお願いしますって。ずっと」


「どうして」


両方の人差し指で口角を小さく上げる。


「笑っているみたいでしょう、ここは怖い場所ではないのだ、と」


確かに、開いた針は、どこか口角のようだ。


「でも、たまには動かします」


止める理由もわからないが、動かす理由もわからない。


「どういう時に」


彼女はハンカチを取り出して頬を伝う汗を拭う。


「誰かが、動かしてほしそうな顔で見てる時です」


彼女はそう言って、鍵を回した。


ぎっぎっぎ。


金属がこすれる微かな感触が空気を揺らす。

ゼンマイの奥で何かがうごめくような感覚がした。


「あなた、昔からのお客さんですよね」


図書館で話すことに多少の罪悪感を抱いていたが二人なら良いかと、

開き直り始めた自分がいた。


「どうして分かるんです」


「ここで、時計をじっと見る人は珍しいから。あ、この町の人の顔は、だいたい覚えています」


彼女は扉を閉め、指先で時計の側面を軽く叩いた。

ひとつ、深呼吸するみたいな間。


カッカッカ。


音が戻ってくる。

秒針は、10と11の間を、

ためらいがちに、でも確かに越えた。


小学校の頃の夏が、ふいに背後から肩を叩く。

みきおが鼻を鳴らして、漫画のページをめくる音。


「お前は何が楽しいの?」


答えられなかった僕。

ただ、ここにいた。

何もしないまま、夏だけが進んでいった。


「前の館長さんはもういないんですか」


「去年、退職されました。小さなメモを残して」


彼女は受付に戻り、引き出しから黄ばんだ付箋を持ってきた。


『動かすかどうかは、その日の人が決めていい』


僕は笑ってしまう。

勝手なようで温かい。


「動かしますか、止めますか」


彼女の問いは、時計のことだけじゃない気がした。


スマホを取り出す。


みきおの連絡先は、ずっと上の方に残っている。

最後のメッセージは「今度飲もうな」。

既読もついていない。


仕事に流されて、流されたまま、流されているふりをしてきた。


ミーンミンミン。


ガラスの外で、蝉が夏を押し返すみたいに鳴いている。

冷房の風が足元を撫でる。紙と木の匂い。

秒針は、11、12、1、と滑るように進む。


「少し、このままにしておいてもいいですか」


「もちろん」


彼女は受付に戻り、黙って貸出ノートを整え始めた。

僕は席に沈み込み、天井の白い線を追い、それから視線を落としてLINEを開く。


“みきお、久しぶり。今日、図書館にいる。10時10分の時計、覚えてる?”


打っては消し、また打つ。

送信ボタンをじっと見つめる。

指先が少し震えたが、押すこと自体は、驚くほど簡単だった。


送った瞬間、胸の奥で何かが震えて僕を不安にする。

秒針は相変わらず律儀で、誰の事情も知らない顔で進み続ける。


それでいい。


知られたくないことも、知られて救われることもある。


「そういえば」


受付から彼女の声が飛ぶ。


「この図書館、今週から夕方に小さな読書会を始めるんです。大人も子どももOKで。よかったら、来ませんか。10分だけでも」


「10分」


「ええ、10時10分に始めます」


いたずらっぽい目だった。


「じゃあ、来ます」


言ってから、自分の声が思ったより素直で驚く。


外へ出ると、熱風に全身がさらされる。

ポケットの中で、スマホが一度だけ震えた。

画面には、短い返信。


覚えてる。あの時計、まだあるのか。


足元の影が、少しだけ濃くなる。

振り返ると、ガラス越しに、茶色い筐体が小さく光った。

秒針はもう、10時10分ではない。

誰かの時間の上を、淡々と渡っていく。


まだ時計は止まったままなのか?


みきおの戸惑った顔を思い出す。


「いいや」


いま、やっと動き出したんだよ。

僕は少し無理やりに口角を上げて笑った。

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