海月と語る浮遊感
閑静な場所は現代にはあまり残されていない。
そこはあなたにとって価値ある場所になりうるのか。
「水中に浮くのと、空中に浮いているが同じ漢字なんて不思議に思わない?」
暗い水槽に彼女の顔が反射して見えた。
普段よりも一層白い肌がガラスに浮かんでいた。
「書くと描くだって、違うのにね」
雰囲気で言いたいことは分かるが、音声で言われても困る。
「あなたはどんな違いがあると思う?」
彼女は僕に質問することを楽しんでいる。
奇妙で愛らしい趣味の持ち主である。
「なんとなく水って重苦しいし、きっと空の方が自由なんだと思う」
外はあんなに暑いのに水族館の中は暗くて隣人の顔もよく見えない。
漠然としたこの空間では、自分が緩く存在しているような心地がして安心する。
僕は目立つことを好まない。
静かに息をすることを好む。
「ふふ、あなたって夢見がちよね」
小さく笑って、彼女は海月を飽きもしないで見つめ続けている。
彼女の眼には星が散りばめられている。
海月は視線を一切気にしていないのだろう。
本当に気持ちよさそうに泳いでいる。
昇っては降り、上がっては下がる。
「だって、この子を見てみなさい。こんなにふわふわ楽しそうよ」
彼女はこの海月を”まるちゃん”と呼んだ。
ガラスをつついているが、まるちゃんは気にも留めていない。
そもそも、それを感知する器官を持っているのだろうか。
彼女はそれを愛おしそうに見つめる。
けれど、目を離したら、どれがまるちゃんか分からなくなるだろう。
「ふむ、確かに浮力がある分、水中も悪くないかもしれない」
物理の授業を思い出した。
ノートに水中に入れた箱に矢印を書いた記憶が呼び起こされた。
物理の先生は昭和らしい先生で、暑くて、暖かかった。
同窓会で、もう亡くなったと聞いた。
「ふふ、そうでしょうとも。私は水中の自由を知っているのだから」
彼女は僕を論破するのを楽しんでいる。
理論が通っているわけではないが、不思議と分からないでもない理屈をこねる。
「いつになったら、次の水槽に移れるのだろう?」
かれこれ30分はこの場所に立っている。
残念ながらベンチはない。
「彼女らにはね、きっと時間の概念がないの。あなたのように時計を知らないのだから」
こりゃまだまだ時間がかかりそうだ。
僕はこっそり次の水槽に足を運んだ。
何故か爬虫類は水族館で見かけることが多い。
このトカゲを僕は一体、何のために見ているのだろう。
「ちょっと、何で先に進んでしまうの?」
不貞腐れた彼女が渋々こちらに歩みを進める。
「海月を見ていると、僕の頭が回りすぎる。自分と向き合わされるんだ」
僕は水中で浮かぶそれを見ていると、過去を思い出す。
逃げ出した弱い自分を思い起こされる。
水族館も海月も爬虫類も関係ない。
なのに記憶の底から引き出される。
「知ってるよ、あなたの顔を見ればわかる。私はあなたと結婚するのよね?」
僕たちは来週に入籍を控えていた。
お付き合いして2年間、小さな喧嘩があったけど、仲良くやってきたと思う。
「うん、それで?」
彼女が何を言いたいのか分からない。
「だから、あなたに向き合ってほしいのよ、過去に引かれないで、いや惹かれないで」
だから、音だけでは伝わらないんだ。
「・・・」
だから、音声にすると分かりにくいんだって。
「大丈夫、僕は今を生きている。夢を見ていただけなんだ」
彼女の顔が青白く反射していたように、僕の顔も水槽におぼろげに浮かんでいた。
ゆらゆら重なったふたつの像は、まるで夜更けの街燈ように、静かに灯っていた。




