業の感度も十人十色
道徳の教科書の無能たるや。
ではどうやって学べばよいのか。
僕は部屋に籠って本を読むことが好きだ。
閉じられた空間の居心地良さは、一定数の共感を得られると思う。
ゆったりと三日月状のソファに寝転びながら、本を開く。
並んだ文字を目でゆっくり追っていく。
森鴎外の“高瀬舟”。
言わずと知れた名著であるが、恥ずかしながら一度も読んだ事はなかった。
読み進めるにつれて、鼓動が徐々に早くなっていく。
文章は現代の言葉遣いに近く読み易かった。
〈弟は病気に苦しみ、自殺を図った。
しかし、自らの首にナイフを突き立てるが死に損ねる。
息をするのも、やっとの状態になっていた。
彼は帰ってきた兄に対し、そのナイフを抜いて欲しいと懇願する。
助かりそうもない弟。
寧ろ、このナイフを抜いて楽にしてやることが彼にとっての救いではないだろうか。
その考えが兄の脳裏に浮かび、決心と共に行動を起こす。
弟のナイフを引き抜いた。
何が正解なのかはわからない。
しかし、兄は役人に捕まり殺人罪となる。〉
了承を得ながら死に携わる機会は医師でも無い限り一生無いだろう。
・・・。
僕には家族が母親と兄しかいなかった。
父についての情報は何も持ち合わせていない。
父親という存在は幼稚園で友達が話しているのを聞いて初めて知った。
両親は二人いるものだと大きな女の子は言っていた。
僕の兄は先天的に下肢が無かった。
兄自身がどう思っていたのかは解らないが、これには僕も同情していた。
僕らは特に仲が悪かった訳ではなかった。
問題なのは、母が常に妄想に囚われていたことだ。
僕の目には母親は得体のしれない化け物のように見えた。
例えば、僕が兄の手助けをしようと彼の玩具を取ってやると、
「やめなさい。兄ちゃんの玩具を奪ったら駄目でしょう。」
母はそう呟いて、僕を叩いた。
理由も聞かないままに確信を強く抱いていた。
今になって思えば、理由なんて何でも良かったのだろう。
彼女は毎日様々な理由をつけて僕を殴った。
兄は弱者で蔑みの対象であると母は思い込んでいた。
だから、僕が何をやっても、それが虐めだと盲目的に信じ込む。
そうして、僕を叱ることによって、彼女は自分は公平で正義な母親であると確認していた。
まあ、母の気持ちも分からんではない。
人間とはきっとそういうものだろう。
ただ気に食わないのは、兄が母の誤解を一度たりとも解いてはくれなかったことだ。
筋違いの発言をする母と怒られる僕をじっと見つめていた。
全てが終わった後で兄は必ず謝ってくれるのだが、僕は彼の真意に何と無く気が付いていた。
恐らく兄は自分の異常さを超える非常な母を見て優越感に浸っていた。
僕を犠牲に虚構の安息を得ていたのだ。
そんな兄は中学の時に、校舎の上から飛び降りて死んだ。
当初は柵を一人で超えられるはずはないと警察は殺人の可能性も考慮に入れていたが、遺書の存在から自殺だと最終的には結論付けられた。
母はそれ以降部屋に籠るようになり、僕は親戚の家に引き取られた。
・・・。
高瀬舟で兄が犯人となるならば、兄を放り投げたのは僕も犯罪者となるだろう。
誤解しないで欲しい。
兄は自分で全てを用意していた。
ただ直前まで悩んでいたから、背中を押してあげただけだった。
しかし、兄は落ちていきながら、
「許さない」
と言った。
この状況は彼が望んだ事ではなかったのか。
今となっては彼の本心を確認することが出来ない。
高瀬舟の弟は最後の瞬間に何を思ったのだろう。




