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痕跡の独り歩き

人は亡くなったらどうなるの?

医学的な答えはいらない。

蝉の執拗な鳴き声に合わせて、頬を伝う生ぬるい汗。


野良犬は舌を垂らして徘徊を続けるも、麦わら帽子を被った自転車の少年はサッカーボールを積んで、颯爽と駆け抜ける。


倦怠感を詰め込んだ犬の唾液は、恐らく粘くて苦い。

そして、少年の汗は清涼感に溢れ、微かに酸味が効いているに違いない。


群青から水色へとグラデーションを奏でる大空に、境界明瞭な積乱雲が浮かんでいる。

昨夏、船上から見た太平洋も同じように寛大で大らかであった。


海は空を映し、空は海を映す。

両者の反射は合わせ鏡のように無限に繰り返されているように感じる。

羨ましい限りの美しい関係だ。


それでは、死者の心に生者は映るのか。

生者の心に死者の魂は映ることは自明である。


もし死者に想いが届くとすれば、それは行幸以外の何物でもない。



ーーー

夏休みの夏期講習は午前中の数学と英語の授業のみだった。

そのまま友達とカラオケやゲームセンターへ遊びに行くこともあるが、最近はそれもやめている。

僕は人混みを好まないので、長期休みに学生で溢れる場所に自ら向かう気にはなれなかった。


そこで僕は家への帰路の途中で寄り道して遊ぶことにしている。

自宅までの道則は10km程度で、一本道路を変えれば未知の場所に通じている。

当分退屈することは無いだろう。


朱色の鳥居を通過して、自転車を巨木付近に立てかける。

ストッパーの壊れた不格好なママチャリではあるが、意外と耐久性が高い。

もう乗り始めて3年目になる。

日々長距離を走っていることを思えば上出来である。


「さてさて。」


自転車の鍵をポケットに突っ込んで、中央の階段に向かう。

ここはまだ入り口であり階段を登っていかなければ、休憩の小屋や社を拝むことは出来ない。


赤い手摺に少し体重を預けながら、幅10m程の石段をゆっくり登って行く。

登った先で涼むためには多少の努力は厭わない所存である。


今週は黒板消しの掃除当番を与えられていた。

掃除という行為自体は嫌いではないが、石灰の粉末で肺が汚れるように感じるので、あまり好きではない。

是非、登った先の澄んだ空気の中で洗浄しよう思う。


数分後、開けた広場に到着した。

中央階段は依然として続いているが、この地点では休める小屋や数点の遊具もあって子供達にも人気の場所だ。


少し登った先には社が建立されているが、小規模で印象も薄い。

足繁く通うのは近所の高齢者がほとんどだ。


僕の目的は屋根付きのベンチなので、登山ごっこはここまでである。


標高は高くないが眺めは良いので、僕はここの景色を気に入っている。

小さな休憩所に向かい、机に鞄を置いてベンチに寝転んだ。

屋根は僕を日光から守り、山頂から滑り降りてくる風は心地よさを僕に与えた。


「何か飲み物を買ってくれば良かったな。」


逃れようのない眠気に耐えられず、僕は自然に両目を閉じた。

真黒な世界では、瞼の血管が透けて赤みを帯びた線が何本か見えた。


まさに真っ赤に流れる僕の血潮である。


僕はなるべくこの空間に溶け込むように気配を消した。


夢と現の狭間を小気味良く浮遊する。


斑点のように黒い小さな虫が数匹、机の裏にしがみついているのが見える。

他の虫が炎天下で我慢している中、陰でこっそりと休憩しているわけだ。


ふっと息を吹きかけてやると、いとも簡単に草の上に落ちた。

脆弱な僕の人間性はこの程度の出来事に優越感を感じる。


足音が近づいてくるのを感じた。


「こんにちは。なんとも気持ちが良さそうだね。」


老人がこちらを覗き込んでいる。

異国の白い肌に黄色い頭髪。

結構の暑さにも関わらず、作業着のような服を着ている。


表情は穏やかで不思議と気分が安らいだ。


「こんにちは。日本語がお上手ですね。」


彼は分かり易く、にっこりと笑った。


「もう長いこと、こちらにいますから。」


きっと日本人の奥さんと結婚されたのだろう。

異国の鼻は魔女のようで、鼻腔が僕達より大きい。

寝転んだままだと下から中身も見えそうだった。


これ以上はさすがに失礼かと思い、上体を起こした。


「参拝にいらっしゃったのですか?」


「いいえ、あの脇道の先に用がありまして。」


「脇道ですか。」


脇道とは何のことだろうか。


広場には中央階段で社に向かう以外にも色々な方向へと道が続いている。

おそらくその内のどれかのことを言っているのだろう


「確かにこの広場には沢山の道が結ばれていますね。」


この場所に多少は慣れているつもりではいたが、他の道の行方を知らない。


「そうですよね。私もあまり詳しくはないですが。」


老人はそう言って悩むような表情をした。


彼の両手のビニール袋にはバケツやタオル、ジョウロなど沢山の道具が入っている。

園芸や掃除だろうか。

いずれにせよ、おじいさんが一人で持つにはやや重たいだろうと感じた。


「何かの掃除に来られたのですか。良ければお手伝いしますよ。」


老紳士の表情はぱっと明るくなった。


「それは嬉しい提案です。そうしてくださると非常に助かります。」


「はい。せっかくなので同行させていただきます。」


鞄を再び背負い、背中やお尻を手で払いながら立ち上がる。


「その荷物も持ちますよ。」


そう言って老人の袋を受け取った。


何処に行くのか、目的くらいは聞いておけば良かったかな。

好奇心の赴くままに老人と並んで歩みを進めた。



―――

小道に入ると、背丈の高い草に挟まれた狭い道に通じていた。

そして、幾つもの提灯が道に沿って吊り下げられている。


表面の傷みなどが見えてやや不恰好に感じたが、日も落ちれば綺麗に染まるはずだ。


「この提灯は企業や個人が贈呈してくれたもので、毎年夏に飾られているようです。」


おじいさんが不思議そうにしている僕に話しかける。


「提灯の贈呈というのは、また趣があって素敵ですね。」


近付いてみると、確かに墨で会社名や人名が書かれていた。

見たことのある会社名も何点か発見した。


「これはこの先もずっと繋がっているのですか?」


小道に入ってからは、断続的に約2m毎に設置されている。


「そうですね、登った先の祠まで伸びています。遠くから見ると蛇かなんかみたいで面白いですよ。」


点も無数に連なれば線となる。


「さあ、そろそろですよ。」


そう言って、老人は前方を指す。

ずっとなだらかな坂道を歩いてきたが、以降は石段になっていた。


そもそもは休憩するために鳥居をくぐったはずなのに随分歩いてしまったものだ。


祠とは一体どういうものなのだろうか。

未知への恐怖と好奇を同時に感じていた。


「先に行っていますね。」


早く見てみたい気持ちになって、早足に登る。

背の高い青草は僕らを手招くように揺れていた。


ラストスパートで畳み掛けるマラソン選手のように、一気に階段を走り登った。



―――

開けた視界に入ってきたのは狭い平地だった。

中央に高さ4mくらいの石碑が鎮座している。


これは何だろう。


石碑には難しい漢字やアルファベットのような文字が並んで刻まれている。

足元には小さな祠があり、何かを祀っているようにもみえる。


何となく辺りが暗くなったような気がして、鳥肌が立った


「これが何かわかりますか?」


「ひゃ。」


臆病な僕は思わず驚きの声を漏らしてしまった。


「失礼。驚かせてしまったね。」


振り向くと老人が微笑んでいる。

いつの間にか追いついていたようだ。


僕は恥ずかしさを誤魔化す為に、直ぐに老人の質問に答えた。


「何でしょうか。見当もつきません。」


老紳士は石碑を見上げる。

僕も反射的に同じ動きをした。


こういった同調運動は人間の本能だから仕方ない。


「これはですね、戦時中に作られたドイツ兵の墓なのです。」


ドイツ?


ここは日本でもなかなかの田舎といえる場所だ。

なんでそんなものがこんなところにあるのだろう。


「なるほど、それで言語が混在していたのですね。」


ゆっくりと老人は二回頷いた。


「まあ多少、気味悪い石碑に思えるかもしれませんが、この地域には第二次世界大戦ではドイツ兵も多く派遣されていたのです。意外にも異国の存在は現在よりも身近にありました。」


そういって老人は初めて少し悲しそうな顔をした。


「そうだ。荷物を持っていただきありがとうございました。」


老人はそう言って手を差し伸べてきた。


僕はその動きに従って、ビニールの袋を返す。


老人は鞄から花束を取り出して、墓前に飾った。


なるほど、彼の目的がやっとわかったような気がした。


「この中には私の友が眠っているのです。」


墓参りだ。


言われてみれば、中学校の授業でドイツ記念館が市内にあると聞いたことがある。

当時は興味を持てなかったので、授業中ではあったが気にせず隠れてゲームをしていた。

楽しかったので後悔はないが、概要くらいは聞いておけば良かった。


「大事なお友達なのですね。」


何を話せば良いのかわからなかった。

亡くなった親友への思いが一体どういうものなのか僕は知らない。


「そうですね。彼には本当に感謝しています。」


老人は寂しそうに笑った。


「お友達も喜んでいると思いますよ。」


「ありがとうございます。それでは掃除を手伝っていただけますか。」


鞄から水の入ったペットボトルを取り出し、石碑に水を注いでブラシで磨き始めた。

太陽がお墓を照らすのでキラキラ輝いて見えた。

小さな虹も見えた。


喉が渇いていたので、卑しくも水を浴びているお墓が羨ましかった。


石の隙間を磨いた時にかけた水が茶色に変わり、表面に光沢が戻るのが面白かった。

想像していたよりも砂や泥の汚れは容易に落ちていく。


数分後、作業は終了した。


「いやはや、本当にありがとうございました。」


感謝を述べた老紳士の表情が曇ったように見えた。

何も言わずに次の言葉を待つことにした


「実は私はもうここには来られないのです。」


彼は本当に残念そうに言った。

さっきまで穏やかだった風が微かに強さを増す。

太陽の光も弱くなり、日も暮れ始めた。


「残念ですね。どうして来られないのですか?」


理由は聞いておくべきだろうと思った。


「それは。」


老人は顎に手を当てて、小さく唸る。

言葉を選んでいるようだ。


「祖国に帰る予定が出来たからです。」


この老紳士が親切な人間であることは十分に理解している。

しかし、それは嘘であると感じた。

きっとこの想像は外れていない。


「そうだったのですか。それは、残念ですね。」


青かった空は紫に染まって、黒に変わろうとしている。

雑多なカラス達が集団で山の周りを渦巻くように飛行している。

時間の経過する速さが一気に増したように感じる。


「そろそろ帰りましょうか。」


下山を早くしなければ、足元も暗く危ないだろう。

灯るはずの提灯も気になるが、安全と天秤にかけることではない。


「そうですね。しかし、なにぶん歩くのが遅いので、君は先にお帰りなさい。水も使って荷物はだいぶ軽くなりました。もう大丈夫ですよ。」


老人を一人で置いていくほど僕は無神経な人間ではない。

しかし、これは1人で帰れという意味なのだろうと思った。


「わかりました、お言葉に甘えさせてもらいます。今日はありがとうございました。」


「いえいえ。こちらこそ本当に感謝しています。ありがとうございます。」


老紳士は丁寧にお辞儀した。


何と無く老紳士の存在が薄くなっているように感じた。


「おじいさんも気をつけて帰られてくださいね。そうだ。最後にあなたのお名前を伺ってもいいですか。」


僕は気になっていた事を、さも今思い付いたかのように尋ねた。

老人はしばらく悩むような表情をしていたが、了承してくださった。


「私の名前は・・・。」



―――

それから数年、僕は高校を卒業して東京で働くようになった。

仕事は順調で、彼女も出来た。

あっという間に時間は進んでしまった。


しかし、地元に帰省した折には、あの老人と出会ったお墓を訪れるようにしている。

誰か訪れた形跡はやはりない。


別に誰かに頼まれたわけでもないが、あの夏のように磨いて綺麗にする。


お墓を掃除して、本当に満足そうな顔をしていた老紳士を思い出す。


おそらく石碑に刻まれた文字の羅列は亡くなった方々の名前だろう。


僕はドイツ語が読めなくて良かったと思う。


死んだ人間は自分の墓参りをすることはあるのだろうか。

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