彼女
結局、目的であった初詣は果たされなかった。
救急車を呼び、自分が見た事実を方々で何度も説明させられ、解放されたときにはもう、冬の早い夜空が頭の上に広がる時間になっていた。
そもそも出掛けた時間自体が遅かったのだ。本当ならば一時間もかからないはずの初詣が、何故こんなことになってしまったのか。
「あの女、最期まで迷惑かけやがって」
思わず、死人に対しての愚痴が口から零れる。
見知らぬ人間が相手であれば、少しは弔いの気持ちを持てたのかもしれない。しかし、あの白い塊は、よりにもよって知り合いで、よりにもよって元恋人だった。といっても別れたのは三年も前のことで、もう自分は存在すら忘れていたのだが。
おかしな話だ。一度は結婚も考えていたほどに愛していたのに、新しい恋人をとっかえひっかえしているうちにすっかり忘れるほどに記憶から薄れるなんて。まぁ、人間なんて誰でもこんなもんだろ。愛なんて、こんなもんだろ。
目の前に転がる元恋人の死体を見ても、ショックは受けなかった。勿論、涙を流すなんて芸当出来るわけもない。そもそも、顔を思い出すまでに時間がかかった。なんとなく見たことのある顔だな、あぁ、もしかして。そんな感じだった。
「死ぬってあっけないなー」
首を後ろに傾けながら、なんとなく、星座を眺める。
人は死ぬと星になる、という嘘を教えられたのはいつのことだったか。そんな非現実的なことはないと気が付いたのは、いつのことだったか。
「そうねー、結構あっけなかった」
どこからか声がして、肩がびくりと上下する。目の前に広がる星空の視界に、影が入り込んで。
そこには、先程死者となったはずの女の顔が、くっきりと浮かび上がっていた。
「…は?」
喉が引き攣った。それしか、声が出なかった。
「間抜けな顔」
これはなんだ、幻覚か?自分はそんなにも、無意識にショックを受けていたというのか?そんな馬鹿な。
しかし、目の前にある顔は、どう見ても。
「ちょっと、いつまでぼけーっとしてんの。それともアレ?見惚れてんの?」
「…んなわけあるか。びっくりしただけだ」
有村巴。三年前に付き合っていた、五つ年上の彼女。
当時の自分は二十二で、当時の巴は二十七歳。現在の自分は二十五なので、巴は享年三十歳、ということになる。
そうか、三十路になっていたのか。その割に、若く見えたが。でも、今目の前にいる幽霊は先程の遺体よりも当時の記憶としっくりと重なるから、確実に老いて変化したところはあったのだろう。
「ていうか幽霊?なにそのありえない感じ。やめてくれない、俺が病んだみたいじゃん」
「あんた、非現実的なもの嫌いだったもんね。超理系男子で」
「つーかなんなのマジで。どっか行けし」
いつまでも首を空に向けていたせいでくらくらしてきた。目を閉じ眉間に皺を寄せて眩暈を堪えながら、顔を正面に戻す。
声がしなくなったので、いなくなったか、と目を開けると。
「うわっ」
鼻と鼻が触れそうなほどに近く、巴の顔が迫っていた。
「ちっ、あと少しだったのに」
「なにが」
「頭突きしてやろうかと」
「ふざけんな」
体を横にずらし、自分の生み出した幻覚を無視して家までの道を歩く。
「…憑くな、散れ」
視界の端にちらちら映る幻覚にイライラしながら言うと、幻覚は困ったような情けない声を響かせた。
「そうしたいんだけど…なんか離れられないっぽい?」
なんとなく想定していた嫌な予感が的中して、昼よりも格段に気温が下がった夜闇に、大きな白い溜め息を吐いた。




