89、「どうすればいいの?」
何かの間違いだ。
アシュタヤがバンザッタにいるはずなどない。
ラニアは言った。彼女はレカルタで僕の帰りを待っている、と。その理由がなんにせよ、彼女は王都レカルタにいるはずだ。
だが、僕は、僕の脳はアシュタヤの姿を認識している。背中の中程まであった髪が肩口の辺りで切り揃えられていて、衣服も狩人じみた格好をしているが、見間違えるわけがない。
見間違えられるわけがない。
彼女は堀の向こうからじっとこちらを見つめていた。その視線に胸が押しつぶされそうになる。再び「ニール」と僕の名が呼ばれた。
それと同時に背後で男の声がする。
「これが、奥の手だ」
気付けば彼の身体から〈腕〉が離れている。だが、再び拘束する気にはなれなかった。どこからが演技でどこまでが真実か、絡まる思考はその境界線を引くことができない。
キーンの言葉が甦る。
「セムークで傭兵を一人拾った」。直感する。きっと、彼がその傭兵に違いなかった。
しかし、この状況はなんだ?
僕はもう一度アシュタヤに目を向ける。どうして彼女は僕の目の前にいる?
会いたいと――また一目、彼女の笑顔が見たいといつも思っていた。願うことすらおこがましい願いだ。
なぜか? 決まっている。堪えられなくなるからだ。彼女を目にしたとき、僕の浅はかな欲望は罪悪感など放り投げてしまうだろう。そして、一度この身体から離れた罪悪感は遠く離れた場所を徘徊し、いつしかより重く大きくなって戻ってくる。その予感が確信としてあった。
ああ、そうだ。
怖かったのだ。いつか自分を許せる日が来る、と思えなくなるのが怖かった。
僕は弱いから、罪を放り投げて自分本位に振る舞うことなどできない。他人を蔑むことに快感を覚え、傍若無人な態度で生きる人たちはどこにでもいる。戦場や街、かつて通っていた超能力養成課程にも存在した。
彼らが心底羨ましかった。感情を露わにして生きる人々は、罪を罪と感じない人々はどれだけ幸福なのか。いくら戦果を挙げても、僕の芯に染みついた弱さは変わらない。他人にとっては些細な罪ですら、じくじくと心を刺す。
アシュタヤと過ごす日々は幸せに決まっている。僕の心はきっと幸福な白で塗り替えられる。だが、いつか思い出すのだ、その清浄な白の下には目にするのもおぞましい黒があるのだと。
それが僕という人間だ。
――逃げなきゃ、と思った。
僕とアシュタヤの間には二十メートルの明確な断絶がある。ここには橋などない。彼女が姿を現したと言っても、ただそれだけだ。今すぐこの場を去れば、まだ間に合う。
だが、足は言うことを聞かなかった。
身体が彼女の温度を求めている。
そして、彼女の行動に、あ、と声を上げそうになった。
アシュタヤは意を決したような表情で、何歩か後ろに下がり、地面を蹴ったのだ。堀へと向かって、だ。徐々に速力をはやめて、彼女は僕の方へと直進してくる。
堀を飛び越えるつもりか――無茶だ。
そう考えるのと同時に霞みがかった記憶が呼び起こされた。
僕がギルデンスと初めて対峙した日、彼女は僕を助けるために堀を飛び越えた。「拒否の堀」は外側から来る攻撃を防ぎ、内側から出て行く者には助力となる。風が身体を押し、水がすくい上げるのだ。
不可能ではない。
二十メートル、堀を隔てた先でアシュタヤは思いきり踏み切った。猛烈な風が僕の元まで届く。堀の中から水の柱が出現する。水圧で身体を押し上げられた彼女は体勢を崩しながらも、僕の方へと進んできていた。
身体が動く。
あれでは着地もままならない。彼女を助けなければいけないという思い以外、余計なものは消え去っていた。
走り、アシュタヤへと〈腕〉を伸ばす。ぎゅっと硬く瞑られていた彼女の目が開く。その視線が僕の〈腕〉へとぶつかった。
距離が消えていく。
「化け物」の距離――十メートルを越え、かつて〈腕〉が届く限界だった五メートルを過ぎる。そこでようやく、放物線を描いて落下する彼女を捕まえた。柔らかな重みが〈腕〉に満ちる。
その瞬間、はっとして、アシュタヤの身体を地面へと下ろした。
もう、アシュタヤは堀のこちら側にいる。
僕から堀までおおよそ七歩、たった五メートルの中で彼女は地面に身体を投げ出しているのだ。
アシュタヤは地面に腕を突いて立ち上がろうとしている。ぽたぽたと、彼女の髪から水滴が垂れ落ちる。その間、彼女の視線が僕から外れることはなかった。
正面で向かい合うのが怖くて、僕は目を逸らす。
それでも彼女の動きが手に取るように分かった。アシュタヤは身体を起こし、一歩、僕へと近づいてくる。
「あなたの方から飛び越えるのは難しくても――こちらから飛び越えるのは簡単なの……助けてもらっちゃったけどね」
また一歩、彼女との距離が縮まった。
再び、僕の足は動かなくなっている。……なんて都合のいい身体だ。アシュタヤから離れろ、という命令だけが神経を伝わらない。
僕はせめてもの抵抗で、顔を逸らしたまま、彼女の名前を呼んだ。
「アシュタヤ――さま」
その一言でぴたりとアシュタヤの足音が止まった。
伝わった、のだろうか。
僕ときみは関わりのない人間でなければならない。そうだろう? 不幸になりたくないならばもう近づかないでくれ!
心の叫びは声にならない。いや、声にしたくなかった。声にした途端、それが現実となり――ああ、それでいいはずなのに、頭の中がぐちゃぐちゃになっている。
僕はちらりとアシュタヤの歩みを確かめる。
その瞬間、とてつもない後悔に襲われた。
たった一言、敬称を付け加えただけの呼び方はアシュタヤの心を深く抉ったようだった。泣き崩れるのを堪えているように、彼女は唇を噛みしめている。だが、その忍耐には幾ばくかの意味もなかった。アシュタヤのまなじりから呆気なく涙が溢れる。
全身で浴びた堀の水が輪郭を伝うよりも速く、彼女の涙は地面へとこぼれ落ちた。
「どうして……どうして、そんなひどいことを言うの……?」
涕涙に頬を濡らしながらも、アシュタヤは僕から目を離そうとしなかった。
彼女は足を踏み出す。一歩、また一歩、と近づいてくる。
僕は動くことができない。
あと一歩というところで、彼女の右手が僕の左手首を掴んだ。僕よりも少し低い、潤んだ体温を感じる。この世でもっとも尊い温度――アシュタヤの温度は包み込むような優しさだったが、離すまいという意志があった。
奥歯を噛みしめる。好きな女の子にこうまでされているのに、僕はまだ自分のことしか考えていない。
「離してくれ」
「離さない」
「……離してくれ、アシュタヤ」
手首に感じる圧力が増す。
「絶対に離しません。私が、何度……この手を離して後悔したと思ってるんですか? ……バンザッタの収穫祭であなたが城の外に出て行ったときも、二年半前あなたがいなくなったときも、私はあなたの手を離してしまった!」
――ああ、怒りの匂いがする。彼女が怒るときは決まって敬語だ。変わっていない。
ただ、その怒りはきっと僕へと向けられたものではないのだろう。自分の内側へと向けているような気配がした。
「……アシュタヤ」
彼女を苦しめているのは他ならぬ僕だ。それを理解しながら、僕は抱擁するための一歩を踏み出せずにいた。
その行動が誤りであることなど百も承知だ。自分のためにも彼女のためにも、歩み寄り、抱きしめて謝罪するのが最善なのだと僕は知っている。
でも、そのための足の踏み出し方など忘れてしまっていた。
彼女と離れて過ごした二年半でとても大事なものをなくしていたことに気がつく。
人への近づき方――かつての僕は誰に教わることなく実践していたはずなのに。思えば傭兵団の人たち、ヨムギ、ディータ、僕が知り合った人々は皆、彼らから近づいてくれていた。僕はずっと、距離を詰めてくれた人々に甘えていただけだ。
アシュタヤまであと一歩の距離が果てしなく遠い。越えることのできない隔たりを感じる。
本能に反して僕の賢しい理性が口を開く。「やめろ」と誰かが脳裏で叫んでいる。それが自分の中核を為す部分からの言葉であることを薄々勘づきながら、最悪の態度は止まらない。
「離してくれ、僕は」ああ、なんという愚か者だ。「きみと一緒にいることはできない」
その通告に、アシュタヤは目を見開き、膝から崩れ落ちた。涙の勢いが増す。腕が引かれる。彼女はその手を離したら二度と僕と会えない、そう考えているのかもしれない、僕の腕を決して離そうとしなかった。
僕は震える息を吐き出し、〈腕〉を展開する。
僕と彼女を結んでいた糸を断ち切るべく、〈腕〉を彼女の手へと重ねた。その瞬間、アシュタヤの顔が上がった。視線がぶつかり、躊躇が身体に注がれる。
「ニール……」彼女の声は悲痛さにくぐもっていた。「あなたはまだ私を許してくれないの……?」
「――え?」
〈腕〉が、動かない。
僕には彼女の言葉の意味が分からなかった。
許す? 僕はアシュタヤに一匙の怒りも持っていない。むしろ許されないことをしたのは、しているのは僕の方だ。
アシュタヤはしゃくり上げ、続ける。
「あなたは、いつまで私に罰を与えれば気がすむの?」
「アシュタヤ、きみは、何を」
「だって、そうでしょう……? 私があの日、あなたについていったから、あなたはどうすることもできないほどの苦しみを味わった! ……ごめんなさい、ごめんなさい、ニール、だからお願い、許して……」
あの日、とはいつのことだろう。
バンザッタの収穫祭のことか? それとも公認盗賊の森での戦いか? しかし、そのどちらも彼女に非はない。彼女のおかげで僕は命を失わずに済んだ。むしろ、僕のせいでアシュタヤが苦しむことになったのだ。
「違う」
喉から声が漏れる。
「違うんだ、アシュタヤ。きみが謝るべきことなんて何一つない。罪を償わなければいけないのは僕だ、僕なんだ。きみが何をしたって言うんだ」
「でも、私があなたについていかなければ何も――」
「違う!」
びくり、とアシュタヤの身体が震えた。気付けば彼女の顔が目の前にある。
知らぬ間に、僕は一歩踏み出し、膝をついていた。
どうしようもない断絶が消える――ああ、そうだ。たったこれだけの動作で、僕とアシュタヤの間に横たわっていた絶望的な隔たりは埋められるのだ。
アシュタヤの指が僕の手首から外れる。それが何よりも恐ろしいことに思えて、僕は彼女の手を捕まえた。細い指先が僕の指に絡む。
「もし」とアシュタヤは言った。「もし、あなたが許してくれるなら……本当の気持ちを教えて。……私は、どうすればいいの?」
アシュタヤの胸から伸びている青い〈糸〉が揺れる。ざわり、と皮膚の上を冷ややかな感触が撫でていった。超能力だ。広範囲精神感応――人の心の形が分かる、彼女の力。
彼女は確かめたがっている。
だが、僕は何と言えばいいのだろう。考えがまとまらない。思考の方向は一つに定まっているというのにそれを言葉にすることができない。
どう言えば――
「一緒にいてくれ」
あれ……?
僕は左腕を引き、喉を押さえる。
意志に反して口が動いていた。
「今、僕」
「……ごめんなさい、ニール。だめだと思ったけど、抑えられなかった」
アシュタヤは涙を流しながら微笑んでいる。その泣き笑いにはかつて見慣れていた悪戯っぽい笑みが混じっていた。
「――禁術」
「禁術……?」
「どうしてもあなたの気持ちが知りたかったから」
ああ、緩やかに記憶が甦っていく。
僕とアシュタヤが軍部地区にある客邸に囚われたときのことだ。協力して逃げ出した僕たちは重要な忘れ物を取りに死体が積み重なった館へと戻った。そこでギルデンスがオルウェダへと、正確に言えば、オルウェダが倒れている空間へと魔法を放った。
真偽判別の一種、考えていることを口に出させてしまう魔法。
国によって行使を禁じられている魔法をどのようにして習得したのかは見当もつかない。だが、今、彼女の使っている魔法がそれである確信があった。
魔法の才能がないアシュタヤがどうやって、とは微塵も考えない。彼女はずっと一人で超能力を磨き続けていたのだ。精神感応の感知範囲を魔法陣へと変形させる訓練を、教えてくれる人間などいないにもかかわらず。
もう、僕は自分に弁明することはできなかった。
今、口にしたのは何にも代えがたい真実だ。もし、アシュタヤを突き放すような一言を口走っていたなら、きっと僕はそれに従っただろう。
心が言葉を決定するのと同様に言葉が心や行動を規定することもある。かつて僕がフェンに「傭兵や盗賊にはならない」と言えなかったためにそうなったように。
そして、僕は「一緒にいてくれ」と言ってしまった。
やはり、もう堪えることはできそうになかった。
僕は離してしまったアシュタヤの手を握る。彼女も僕の手を握り返す。わずかな隙間を彼女の全身を伝う水が埋める。僕と彼女の体温が混ざり合った水滴がこぼれた。
――ああ。
犯した罪を償うのは当分先になりそうだ。
「……ねえ、アシュタヤ、もし僕がまったく別のことを喋っていたらどうするつもりだったんだよ」
「考えてなかった」アシュタヤはとびきりの笑顔で答える。「信じてたもの」
「……そっか」
僕は彼女の手を引いて抱き寄せる。ああ、なるほど、一歩踏み出せないのなら、こうして近づくこともできるのだ。自分で相手に近づこうとしなくても、相手を引き寄せれば距離は縮まる。人が人と近づく方法は一つではない。アシュタヤが今したのもきっとそういうことなのだ。
全身でアシュタヤを感じながら、僕は囁く。
「ごめん、本当にごめん、アシュタヤ」
「ううん、あなたが謝ることなんてない」
「……ねえ、一つ訊いてもいいかな」
「なに?」
「僕はこれからどうすればいい? 教えて欲しいんだ……」
アシュタヤは一拍も間を置かず、僕の耳元で答えた。
「もう離れないで」
「……それが本当なら、これより嬉しいことはないよ」
「本当よ、だってまだ魔法をといてないもの」
魔法は人に対して放つものではない。座標に向かって放つものだ。つまり、アシュタヤの行使している禁術が影響を与えているのは僕だけではない。彼女自身もその対象となっている。
「……そうか、今、きみは嘘をつけない」
「あなたも」
身体からアシュタヤの感触が離れた。彼女は目と鼻の先で笑いかけてくる。まだ涙で目が潤んでいる。
手が震えた。僕の目からも涙がこぼれる。心臓が爆発しそうだった。
――幸福な場所は残っていた。
随分と遠回りをしたけれど、ようやく辿りつくことができたみたいだ。




