84、「一度たりとも」
ベッドの上に残した僕の右腕を最初に発見したのはアシュタヤだったそうだ。彼女は泣きながら布にくるんだ腕を持って町中を走り回り、ウェンビアノは酒場にいた傭兵を捕まえて捜索隊を作ったらしい。もちろんその中にはフェンやヤクバたち、護衛団のみんなもいた。
そこまでのほとんどは僕が知っている話だった。山中で一週間ほど過ごしてから街へと戻ったとき住人に教えてもらっていたからだ。
――雪山で過ごした日々を思い出す。
偶然見つけた洞穴の中で絶望に膝を抱えていた長い時間を、僕は三年近く経った今でも鮮明に覚えている。
死を選択しなかったのは宗教的意識からかもしれないし、ただ単純に怖かっただけかもしれない。どちらにせよ、そのときは自分の犯した罪について深く思索する余裕などなくて、漠然とした生命活動を行っていただけだ。
僕の〈腕〉にはジオールが彫った火の魔法陣がある。僕は誰もいない真っ白な世界でその力に縋った。寒くてどうしようもないときは周囲に散乱している枯れ木を拾って暖を取り、雪を溶かして乾きを凌ぎ、通りがかった獣を殺して餓えを満たした。血抜きのされていない獣の肉は命の臭いがして何度も吐き出す羽目になった。
ニール、と呼びかけられて、僕は記憶の旅から舞い戻る。キーンは皿に載った肉の切れ端を指で摘まんで口の中へと放り込んだ。小さすぎて咀嚼する意味もなかったのか、彼は言葉を続ける。
「その後、俺たちは北上していくつかの街を巡ったんだ。セムーク以北のオルウェダ領なんて腐った貴族の温床、っていうかねぐらみたいなところだからな、色々妨害されたよ」
「貴族に腐るとか腐らないとかあるのか」とヨムギが口を挟む。「みんな大体同じだろ」
「まあ、そういうふうに見える人もいるだろうな。でも、カンパルツォさまは違うぞ、ヨムギちゃん。あの人はむしろ貴族をなくそうとしてるお人だったからな」
「貴族なのに、か?」
「貴族なのに、だ」
「それで」僕は横道に逸れた会話の舵を戻す。「妨害って、大丈夫だったんですか」
「ああ……あの森以降は戦闘はなかったしな。大方、ギルデンスとフーラァタが負けたことで怖じ気づいたんだろう。妨害って言ってもセムークでやられたようなねちっこいやつだった」
カンパルツォたちは雪が溶け始めた、建国祭の一月前に予定通りレカルタへと到着した。その後、戦いの舞台は政治へと移っていった。貴族制度の撤廃を謳うカンパルツォは様々な抵抗に遭ったそうだ。少ないながらも闇討ちもあったらしい。
彼は庶民からの後押しを受けたが、一方で貴族や上流階級に属する人間からは厳しい反発を食らった。彼と意志をともにする貴族もそれほどいない。どんな合理的な施策を提言してもほとんど受け入れられることはなかった。
その流れを少し変えたのが半年ほど前の、職業斡旋所の設立だ。
王都レカルタは王家のお膝元であるため治安はいいが、それでも何らかの事件は起こる。強盗やスリ、給金の不払いなど、数えればきりがない。
人が生きるために必要なのは金と健全なコミュニケーションである。それらを生み出す職業斡旋所は治安維持や経済の発展の観点から評価を得て、国王の認可を受けた。それが二十七年かけて、カンパルツォとウェンビアノが踏み出した一歩目だった。
「まあ、政治ってのは俺にゃ分からない世界だ。一日二日で勝負が決まるわけでもない。一年とか二年でも足りない。あの人たちはそういうとこで戦ってらっしゃる」
キーンは感慨深げに酒を呷る。ヨムギは政治の話には興味がないようで、手持ち無沙汰に、やはり酒を呷った。
「それで、みんなは」
僕の質問にキーンは酒を注ぎながら答える。
「ウェンビアノさんはカンパルツォさまの秘書だ。秘書っつってもどっちが偉いんだか分かんないくらいの勢いで議論してたよ。フェンさんはその護衛としていつでもくっついて歩いてる。たまに政治の勉強もしてたかな……。元々この国の人間じゃないから、今のままじゃ政治には参加できないだろうが」
唇を噛む。
フェンは僕のことをどう考えているだろう。僕がこの世界で生きてこられたのは彼がいたからだ。ワームホールを通り、この世界に投げ出されたとき、彼が手を差し伸べてくれていなかったとしたらまともに生きることすら叶わなかった。
心痛が見咎められないよう、顔を伏せる。
見なかったのか、それとも見なかったふりをしたのか、キーンは続けた。
「ヤクバたちは基本変わらないな。護衛をやって酒飲んでポカしてウェンビアノさんとかフェンさんとかに怒られてる。反省の色はない。……そうそう、ヤクバたちといえば、セムークを出るとき一人傭兵を拾ったんだ」
「傭兵を、拾う?」
「ああ、お前と同じくらいの歳の奴なんだけどな。連れてけ連れてけうるさかったから、カンパルツォさまが載せたんだよ。お前の代わりってわけじゃないが……二人もいなくなると馬車の中も寂しくてな。……まあ、ずっと御者をやらせてやったから馬車の中にはいなかったんだが」
そこでキーンは自分の言葉をこの世で最上のジョークのように、腹を抱えて笑った。
ヨムギは何が面白かったのか分からないようで「下っ端がこき使われるのは当然だろ」と不思議そうに肉を咀嚼していた。
「マーロゥっていうんだけどな、ヤクバとかセイクとかレクシナさんはそいつで遊んでたよ。主犯はセイクだった」
「セイクが?」
「マーロゥもあまり魔力がなかったからな……っていうかお前がいなくなっていちばん憤慨してたのはセイクだったぞ。それをぶつけられたんだ」
「そう、ですか」
彼らが寂しそうにしている姿は想像がつかない。彼らにとっては別れはままあるもののはずだ。にもかかわらず僕に対して怒りを感じてくれたことには少しだけ感謝を覚えた。
「いちばん変わったのはベルメイアさまだな。貴族のボンボンどものいる学校に通い始めたんだが、そいつらを手懐けて、今じゃもうちょっとした有名人だ」
意図せず、噴き出す。豪華な衣服を身に纏ったベルメイアが貴族の子どもたちを跪かせて高笑いしている姿が頭の中に浮かんだ。その様が妙に馴染んでいて笑いが止まらなくなる。
「おいおい、嘘じゃないぞ、信じてないのか?」
「いや、そういうわけじゃ」
「ベルメイアさまもあれからだいぶ大きくなられてな……今はもう十五か。カンパルツォさまと外に出られるときは若い軍人が浮き足立つほどだ」
女性の成長は男よりも早い。十五であれば大人と呼んで差し支えない人もいるだろう。ベルメイアがそうだとは考えにくかったが、絶対に想像できないか、と問われれば簡単に頷くことはできなかった。
「亡くなった奥方さまとよく似られていて美しくなっておられる」
「我が儘放題は変わらず、ですか?」
「……いや」とキーンはそこで少し言葉を濁した。「そうでもない。それで、ああ、そうだ。俺とロディのことを教えなきゃな」
僕はキーンの瞳を見つめる。言葉を聞かずとも、予想はついていた。
「俺たちは今年の春でカンパルツォさまの護衛を辞めたんだ。ロディは王都に残ったが、俺はバンザッタに戻ってきた。だから『出戻り』って言われてる」
「理由を」僕は机に目を落とす。「聞いてもいいですか」
「なに、別に深刻な話じゃない」
キーンはそう前置きして料理に手をつけた。僕は黙って次の言葉を待つ。ヨムギも彼の話が少し気になっているようで、黙っていた。仲間から離れるという決断をどのようにして行ったのか、彼女が興味を持っているのはそういったことだろう。
「レカルタで毎年催される建国祭ではな、罪人に対する特赦があるんだ。それで解放された罪人が壇上で頭を下げて感謝と誓いの言葉を述べててな……、『心を入れ替えて親父たちがやり残したことをやりたいと考えています』……みたいな感じだったか。カンパルツォさまたちの警護をしていた時にその言葉を聞いて、俺とロディは決めたんだ」
彼は遠い昔を懐かしむように目を細める。
その視線は僕の身体を突き抜け、この街のどこかへと向いていた。錯覚に過ぎないが、僕の瞼の裏にキーンの見ている光景が広がる。やがて僕の意識もそこへと移動した。
城があった。橋の前に立つ警備兵が欠伸をしている。麗らかな日差しは春のものだろうか、暖かく、包み込まれるような柔らかさを感じた。
掘の外周を三人の男が歩いている。キーンとロディと、パルタだ。キーンとロディの顔はまだ若く、戦いを経験したことがないように見えた。僕と同じくらいの年頃、新兵らしきぴかぴかの鎧に身を包んでいる二人の歩き方はどこか浮き足立っている。後ろを歩いていたパルタは彼らの緊張を緩和させるように彼らの肩に両手を回した。
「俺は」と左の新兵が拳を握る。キーンだ。「俺はパルタさんみたいになりたいです」
「俺は」と右の新兵が舌を出す。ロディだ。「俺はパルタさんみたいにゃならねえよ」
俺は、と再び聞こえた。目の前にいるキーンが発した声に我に返る。その瞬間、二人の新兵とその教育係の姿は消え失せた。僕がいるのは薄暗い料理店で、左ではヨムギが酒を舐めるように呑み、正面ではかつての新兵が微笑んでいる。
「俺はな、ニール、パルタさんの後を継ごうと思ったんだ。うだつの上がらない新人を教育して立派な兵に育てる。あの人がしてくれたみたいに」
「……ロディさんは」
「あいつはパルタさんがやれなかったことをやるっつってな、王都で女を作って結婚したよ。軍も辞めて今はその奥さんの親父さんがやってた仕事を手伝ってる。鍛冶屋だとさ、向いてねえよ」
「そう、ですか」
僕が彼らの歩く道をねじ曲げてしまったのだろうか。
自問し、すぐに答えが返ってきた。
そういうわけでもなさそうだ、と。
それは僕の勝手な想像にすぎないけれど、決して間違いではないようにも思えた。目の前にいるキーンの表情には一切の曇りがない。遅かれ早かれ、彼らはこの道を歩いていたのかもしれない。
そう考えてしまうのは自分本位の慰めなのか?
僕は沈黙する。「僕のせいですか」と聞けるならばそうしたかったが、そうするのはどこか悲劇のヒーローを気取るようで憚られた。言葉が思い浮かばず、誰かが口を開くのを待つことにして――
――ああ。
僕は自分が考えているよりもずっとヨムギを信頼しているみたいだ。彼女なら他意なく、僕の求める答えにぶつかる問いを投げかけてくれるかもしれない、と。
その期待に応えるように、彼女はグラスから口を離した。
「お前……キーンは仲間たちのもとを去ったのは後悔してないのか?」
「後悔?」
キーンのその口ぶりはその単語を初めて聞いたかのようでもある。彼は愉快そうに胸の内側を揺らし、答えた。
「後悔って、どこに後悔することがあるんだよ、ヨムギちゃん。俺は長年の夢を今叶えてるんだ。確かにあの人たちのもとを離れるのは寂しかったけどな」
「そういうものか」
「そういうもんだよ。ヨムギちゃんだって家族から離れてるんだろ? それって何か夢とか目標とかあったんじゃないのか? それともあれか? ニールが好きなだけか」
「馬鹿にするな」
ヨムギは心外だ、と批難するようにグラスでテーブルを叩く。
「別にこいつは嫌いじゃないが、おれにもちゃんと目標がある」
それを聞いたキーンの表情は教育係を彷彿とさせるものだった。新兵の悩みに対して真剣に向き合う上官のように、彼は「どんな目標だ?」と頬杖を突きながら訊ねる。質問を受けたヨムギは思考を整理する時間すら煩わしかったのか、即座に机の上で拳を握った。
「おれは……家族を守りたいんだ。強くなって、みんなを守る。だから、みんなから離れて弱さを消そうと思ったんだ」
「……そうか、そいつはいい目標だ」
彼は手に持っていた肉叉を空の皿に置いた。一度瞼が下り、すぐに上がる。瞳がこちらを向いていた。
「ニール、お前は?」
心臓が跳ねた。
目標――その一つは今日、達成されたような気がする。
パルタを殺した罪を贖うこと。もちろん、僕が彼の命を奪ったのは取り消せないが、その罪を背負おうとするのは彼の遺言に反する。一つ荷物を下ろした代わりに別のより重い荷物を背負うことになったが、しかし、その重さは苦痛ではない。
そして、もう一つの目標は、どうなるだろうか。
キーンはまだ、僕がもっとも知りたい情報を語っていない。
アシュタヤはどうしているのだろう。彼女は僕に対して、どれだけの怒りを抱えているだろうか。
「……キーンさん、僕はこの二年半、ずっと戦っていました。『化け物』と呼ばれるくらいに戦場で命を奪ってきました。罪を洗い流すためでもあったし、そうやっていればあの日の罪悪感に悩まされなくても済むからです。でも、もう気付いてしまった。そうやっていても何も解決されなくて……それどころかもっとたくさんの罪を抱えることになる」
カウンターの向こうで軍人たちが笑う声が聞こえた。
彼らのように、何の後ろめたさもなく笑える日がいつか来るだろうか。考えても答えは出ず、僕は縋るようにキーンを見つめた。
「僕は……どうすればいいんでしょうか?」
「……罪を犯したなら、それを告白して裁判にかけられるしかない」
それは彼なりの冗談だったのかもしれない。
キーンが知っている僕の罪は法律では裁きようのない罪だからだ。彼にとってパルタを殺したのは事故でしかなく、戦争で敵を倒すのはむしろ褒め称えられることだ。裁判にかけたところで、僕に罰が下る理由などない、とそう考えているのだろう。
だが、今、僕の中にもっとも強く食い込んでいるのはそういった法律上で有無を判断される罪ではないのだ。
僕をもっとも懊悩させているのはアシュタヤに吐いた「嘘」――知らなかったでは済ませられない嘘。
意を決し、訊ねる。
「キーンさん」教えてください。「……アシュタヤは僕のことを何と言っていましたか?」
キーンはわずかに顔を歪める。言葉にしたくない、というのがありありと伝わった。彼は言いにくそうに何度か間延びした声を発した後、目を逸らすように俯いた。
「アシュタヤさまは……ずっとお変わりがない。お前が去った日以降、滅多に笑わなくなったことを除けば、だがな。……あの人はお前の名前を俺たちの前で一度たりとも呼ばなかった」
「……そうですか」
黒い波が頭の中で暴れる。暗澹たる思いが胸を蹂躙した。
ラニアは、アシュタヤが僕を待っている、と語った。
きっとそれは罰を与えるためだ。彼女に対して犯した罪を精算させるために僕を待っているに違いない。
そんなはずはない、と声が響く。優しい未来を期待する僕の本能は「彼女はそんな人ではない」と声高に主張する。
何を信じればよいのか迷っているとキーンが立ち上がった。彼はポケットから財布を取り出し、店主に代金を支払う。ヨムギはまだ酒が飲み足りなかったのか、赤くした顔で「もう終わりか」と呟いた。
「腹も膨れたし、そろそろ帰ろう。明日もお前らには予定があるんだ」
必死に笑顔を作る。「ごちそうさまでした。おいしかったです」
「次来るときは乾杯しよう」
「……ええ」
「ところでキーン、明日は何があるんだ?」
テーブルの上に載っていた食器をカウンターの上に返していたキーンが「ああ、言ってなかったか」と漏らす。
「明日はカクロさまに面通しだよ。仮軍属の登録はその前にしておかなきゃだな。ああ、そうそう、女好きだから、ヨムギちゃん気をつけた方がいい」
ツルーブ・カクロ――カンパルツォに代わり、この地を治めている男の顔が脳裏を過ぎる。バンザッタにいる限り色々覚悟しなければならないな、と僕は自嘲気味に笑った。




