82、「皺、つけるなよ」
馬車は街の外周を時計回りに南下し、東側の門からバンザッタへと入った。
昼過ぎの通行者を考えてのことだろう。貴族ならまだしも傭兵を乗せた八台の馬車が通行人を脇にどかせるのは穏やかではないし、そもそもその徐行する区間を考えれば素直に回り道した方が早い。
話が通っていたようで、門番は先頭を走る御者とのやりとりだけですべての馬車を通した。馬車は東部農業地帯を二列になって進んでいく。
じりじりとした熱を感じ、僕は幌の後部を開ける。ああ、と呻き声が漏れた。
流れていく景色は疑いようもなく、バンザッタのものだった。
青く染まった畑、水路の音、ぽつぽつと見える農夫たち。遠ざかる壁が熱の逃げ場を遮っているからか、壁の外よりも暑い気がした。
僕の知らないバンザッタの夏は、しかし、確かな郷愁を感じさせる。匂いの濃い空気が鼻腔をくすぐり、肺に満ちた。降り注ぐ日差しが馬と荷台を照らし、濃い影が併走していた。
「バンザッタだ……」
感慨深くなり、涙がこぼれそうになる。農夫が畑にまいた水が太陽の光を反射してきらきら輝いている。
僕のさまを見て、ヨムギは鼻で笑った。
「なんだ、レプリカ、ちゃんと嬉しそうだな」
「思ってたより僕は寂しがっていたのかもしれないね」
馬車は途中で左に折れ、一列になって細い道を進んでいった。軍部地区の外端へと繋がる道は緩やかにカーブしており、身体が外側に引かれる。酔って寝ている傭兵は遠心力から逃れるように寝返りを打った。
軍部地区の端には壁より背の高い塔が二つ、立っている。街の中央にある四つの見張り塔よりは小さいが、それでも真下から見上げると後ろにひっくり返りそうになるほど高い。僕たちがそこを通り過ぎると兵隊が拒馬を並べ直していった。
軍部地区には軍に関わる様々な施設が並んでいる。武器や鎧を保管してある倉庫、戦争用に飼育された馬の厩舎、戦況を把握するための情報が集まる待機施設。もう少し進めば客邸や訓練施設、刃物などを取り扱う商店があるというところで馬車は止まった。
若い男が「お疲れ様です」と硬い声で迎えるのが聞こえた。御者が「旦那ら、到着だよ」と嗄れた声を張り上げる。僕とヨムギはそれを合図に馬車の荷台から飛び降りた。振動が骨の芯に残っていて、地面が頼りなく感じる。
宿舎の前に立っている若い男は夏だからか、胸のプレートだけの簡易兵装を身につけていた。知らない顔でほっとする。彼は御者に短い指示をした後、こちらへと向き直った。
「長旅お疲れ様でした。ここが皆さんの宿舎です。中に係の者がいますので登録と諸々の注意事項を聞いた上で本日は自由にしてくださって結構です。ただ、明日の正午、ちょっと予定が入っています。外出するのであればそれまでには戻ってきてください」
若い兵は言い慣れた調子でそう話した。後ろを見ると隣の建物の前に馬車が停まっている。どうやら全員が同じ場所に寝泊まりするわけではないらしい。
僕たちの馬車から全員が降りるまでに二台の馬車が通り過ぎていった。入れ替わるように前方で停まっていた馬車が発進する。一つの建物に二台、十人ずつ、ということなのだろう、僕たちの乗っていた馬車も動き始めた。
「出戻りさん」と若い兵が宿舎の中へ大声で呼びかける。「一組目来ましたよ」
ひどい渾名だ。さん、とわざわざ敬称をつけられていることから考えると目の前にいる兵より年上なのだろう。愛されているのか、馬鹿にされているのか、どちらにしても同情心が顔を覗かせた。
「うるせえな、『出戻りさん』はやめろって言ってるだろ」
しかし、その声を聞いた瞬間、同情心はどこかに吸い込まれるように消え失せた。思考が弾け、何にも考えられなくなる。
「――どうして」
立て付けの悪い木製のドアを開いた男もまた、僕の顔を見て固まった。
「ニール?」
「キーンさん……」
二年半前、ともに旅をしていた護衛団の仲間――。
弾けた思考が融解し、再生を始める。ばらばらになった欠片が拾ってきたのは森の中での一幕だった。
胸から血を流して息絶えるパルタの姿がキーンに重なる。網膜に投射された光が神経を通過する際、記憶の中の映像へとすり替わる。
夕闇のセムーク、その共同墓地で白い布に包まれた亡骸を持っていたキーンの横顔が浮かび上がった。大人の男、それも軍人が涙を流しながら空を睨んでいる。
その光景は脳が勝手に作り出した幻影に過ぎない。だが、その恐ろしい現実感は、僕を、凍えるほどの冷たさの中に叩き込んだ。
突然の事態に覚悟すらできていなかった。
息の仕方が分からない。
逃げなきゃ、と思った。早すぎる。あの場にいなかったウラグやイルマならまだいい。何とでもごまかせる。
でも――キーンさんはもっとも悲しんだ人の一人じゃないか!
意識するよりも足が後ろに下がる。
いや、嘘だ。
後退していたのは僕の精神だけで、肉体は反応していなかった。動いてくれ、頼む、僕はキーンの前にいてはならない。どんな言葉を投げつけられるか、わからない。
だが、願いも虚しく、僕の身体は硬直したまま一歩たりとも動かなかった。
キーンが僕の元へと迫ってくる。嫌だ。視界の中心にあるはずの彼の表情が捉えられない。脳が痛い。頼む、来ないでくれ、キーンさん。僕は、僕はあなたへの言葉も振る舞いも用意できていないんだ。
「ニール」
胸と背中に力強い感触を感じた。抱きしめられていると気がついたのは彼が「馬鹿野郎」と呟いた後のことだった。
〇
登録を済ませた傭兵たちは、注意事項を聞いた後、半分は階段を昇って自室へと入っていき、もう半分が宿舎の外へと出て行った。その場に残ったのは僕とヨムギ、そしてキーンだけだ。
一階の共用スペースには火の入っていない暖炉とちょっとした台所が備えつけられており、そのそばに木で作られた椅子が四脚、テーブルが一脚、並べられている。
僕は窓際にある椅子に座っていた。
裁判にかけられているような気分だった。仮軍属としての再登録もされず、僕はキーンが注意事項を語っている間から今まで、ずっとこの椅子から動けないでいる。どんなにひどい顔をしていたか、ヨムギが僕から離れようとしないことで悟った。
「ニール」
何から切り出せば良いのか、迷うようにキーンは僕の名を呼んだ。
僕の本当の名前を、呼んだ。
「腕は、大丈夫か」
「……はい」
「そうか」
居心地が悪そうにヨムギが身じろぎをしている。訊きたいことがたくさんあるのだろうが、それでも彼女は口を開かなかった。
キーンはぎこちない空気に頭を掻いて、言った。
「……噂で聞いてたよ、訳の分からない力を使う金髪の傭兵がいるって。まさかとは思ったが本当にお前だったんだな」
「……はい」
「しかし、お前が『化け物』なあ」キーンは懐かしむように微笑みを浮かべた。「フェンさんとかみんなにひっくり返されてたお前がこうなるとは考えもしなかった」
唾を飲み込む。
準備ができていようがいまいが、関係ない。言ってどうなる訳でもなかったが、しかし、僕はその一言を口に出さずにはいられなかった。
「キーンさん、ごめんなさ――」
「ニール」
遮られたことで、頭が真っ白になる。
そうか。そうだ。僕が殺したパルタはキーンにとっては親のように大きな存在だったのだ、謝罪すら許されるべきではない。
罪悪感に震える僕へ、彼はもう一度、ゆっくり発音した。
「ニール」キーンはおもむろに目を瞑り、息を吐く。「どうして、あの日、逃げたんだ?」
「え……」
「今の俺がお前に対して許せないことはそれだけだ。お前はどうしてあの日、逃げた?」
「……だって、キーンさん、僕はパルタさんを殺した、殺したんだ。なのに」
「そりゃ、俺だってその話を聞いたとき、お前を恨んださ。こう言うのもなんだが、パルタさんは俺たちにとったらカンパルツォ伯爵よりもかけがえのない人だった。ロディなんざ押さえつけても止まらないくらいだったんだ」
全身を巡る血液が凝固したように感じる。力が入らない。胸に苦しさを覚え、俯く。
「けどな」とキーンは続けた。
「けどな、俺たちはお前をぶん殴る機会すら与えられなかった。まあ、俺にはそのつもりはなかったが……、お前は馬鹿みたいに自分で右腕を切って、それが落とし前だ、っていうみたいにして消えた。俺は何よりそれが許せないんだよ」
言葉が出てこない。
正面から「なぜ殺した、化け物め」と罵られる方がずっと良かった。彼が僕の何を責めているのか、分からなかった。
キーンの口ぶりからは復讐の機会が失われたことへの絶望は感じられない。大体にして、それが心の中にあったのなら既に僕に対して攻撃してきているはずだ。だが、彼は僕を抱きしめただけでそれ以外の物理的接触をしてきていなかった。
そして何より、彼の怒りにはどろどろと淀んだ臭いは感じられないのだ。
キーンはしばらく僕を見つめていたが、その沈黙に耐えきれなかったのか、「ああ、もう」と顔を歪めた。面倒くさいな、と吐き捨てるように言う。
「ニール、これを自慢げに振りかざしたらそれこそ許さねえけど、一つ、教えといてやる。……パルタさんは自分が死ぬことを知ってたんだよ」
「え」
理解できない。
頭の中で単語が乱反射する。
「……どういう、ことですか」
「メイトリンでお前の兄貴がパルタさんに教えてたんだ。なんだっけ、未来視? それでパルタさんはどう死ぬのか知っていて、俺たちや伯爵、ウェンビアノさんに伝えてくれてたんだよ」
忘れていた記憶が甦る。
そうだ、メイトリンでフーラァタを退けた後、ジオールはパルタを呼び出して何かを伝えていた。本人に直接問いただしたとき、言葉を濁されたが、実際のところ、パルタはすべてを知っていたのかもしれない。
だが、それで僕がした事実が変わるわけではないのだ。
気がついたら、立ち上がり、大声を出していた。
「でも、僕がパルタさんを殺したのは事実じゃないですか!」
「……落ち着けよ。俺はパルタさんがそれでもあの場に出て行った覚悟を、お前に知っていて欲しかっただけだ。座れよ、ニール……座れって」
腰を下ろすことなどできやしなかった。座ることが逃避に繋がるのではないか、と思った。罪悪感を放り投げることに繋がるのではないか、と。
立ったままの僕に、キーンは溜息を吐く。
「じゃあ、もう一つ教えてやる。……お前が何もしなくてもパルタさんが死んでいたことは知っているか?」
「え」
「あのとき、パルタさんは毒の塗られた剣で斬られてたらしいんだ。結構ざっくりやられててな、毒に詳しい傭兵がいたから聞いてみたらえげつない毒だったみたいだ。弛緩系の毒で、斬られたら身体が動かなくなってまず呼吸ができなくなるんだと」
「……嘘だ」嘘じゃなかったとしてもただの慰めじゃないか!
「こんな嘘なんて吐かねえって。だから、こんなことは本来口が裂けても言いたくはないが、そうだな、見方によってはお前はパルタさんを苦しみから解放したとも言える」
「詭弁だ!」感情がめちゃくちゃになっている。僕は拳を机に叩きつけ、叫ぶ。「そんなの、勝手な正当化じゃないですか!」
「だから言いたくない、ってこっちも前置きしただろ」
キーンの声色に棘が混じる。彼は苛立ちを露わにして一度立ち上がり、投げ置かれている鞄から木箱を取り出した。席に戻った彼はその蓋を開け、僕へと差し出してくる。
木箱の中に入っていたのは封筒だった。
「二年半前、パルタさんから伝言を受け取った。パルタさんは俺やロディに『お前を許せ』と言っていた。だから、俺たちはお前を責めない。あの人の言葉だからな。……けど、いいか、俺が怒ってるのは大事な人を殺されたからじゃない。お前があの人の思いを踏みにじってるからだ! その手紙を読め……皺、つけるなよ」
促され、僕はそろそろと手を伸ばす。蝋が剥がされた封筒の中から紙を取り出す。その中にはキーンへの別れの言葉が書いてあり、それだけで心が押しつぶされそうになった。死を目の前にした文章は容赦なく僕に別離の感覚を叩きつけてくる。
そして、文字を目で追っていき、ある一文を目にしたとき、足に力が入らなくなった。膝から崩れ落ち、腰が椅子の上に落ちる。
そこにはパルタらしい角張った文字でこう書かれていた。
『ニールには後ろ暗い人生を送って欲しくない。もし、あいつが必要以上に悩んでいたなら絶対に下を向かせるな。私のせいでニールが前を向けなくなったら死んでも死に切れん。そうなったらお前らを恨むからな』
……僕はこの二年半、どこを見ていた?
ラ・ウォルホルを経てようやく前を見据えることができるようになったが、それまではずっと下か後ろを見ていた。パルタが望まない行動をとり続けていたのだ。
そこでようやく僕はキーンの怒りの理由に気がつく。
彼は僕が消えたせいでパルタの遺言を実行できないまま、この二年半を過ごしていたのだ。それが申し訳なくて、涙がこぼれた。
「……ごめんなさい」
僕は震える声で何とか発音する。
「ごめんなさい、キーンさん、ごめんなさい、パルタさん」
「あー、もう、泣くなよ。面倒くせえなあ」
テーブルに肘を突いて抱えた頭をキーンがはたいてくる。「皺つけるなって」と彼は僕の手の中から手紙をひったくり、封筒に詰め、木箱の中に入れ直した。憑きものが落ちたかのような、穏やかな表情でキーンは笑っていた。




