80、「なんて言った?」
「なんて言った?」と思わず訊ねていた。
〇
街の東端にある入浴施設には休憩所を兼ねた商店が併設されている。僕たちはそこで桃の果汁を混ぜた水を飲んでいた。ほのかに桃の味がする程度ではあったが、火照った身体に染みこむようで存外悪くもない。ディータは贅沢にも氷を入れていて、自慢げにヨムギへと分け与えていた。
ディータはよほど熱心にヨムギの身体を洗ったのか、頻りに感想を求めていた。「さっぱりしたでしょ?」だとか「生き返った気分がしない?」というものだ。ヨムギは温かい湯に浸かったのは数えるほどしかないようで、仏頂面をしながらも「たまにはいい」と返している。
僕の「なんて言った?」が飛び出したのは、ディータがしてきた質問が発端だ。
「ね、綺麗になったヨムギ、ドキドキする?」
彼女は悪戯っぽい表情で僕の顔を窺ってくる。恋に恋する乙女心を燃やしに燃やしているのは表情を目にする前に声の調子で分かった。
彼女の質問に一理あるのは事実だ。
ヨムギの容姿の造形はそれなりに整っているし、小さな身体の割りにはしっかりとした凹凸がある。濡れた髪は艶が増していて、ディータの言うとおり胸を高鳴らせる人も中にはいるだろう。
問題は、僕が彼女に対してそういった、何と言うのだろう、胸のときめき、というか、あるいは卑俗な下心を抱いた覚えがないことだった。
「ドキドキは、しない」
「え?」水を浴びせられた乙女心の、鎮火する音が聞こえた。「え?」
「いや、二回言わなくても」
「え、ちょっと、なんで? どういうこと?」
僕はヨムギを一瞥する。間に挟まれたヨムギだけが会話に着いて来られていなかった。
「なんていうかさ、僕にとってはそういう対象じゃないし」
「ちょっと、レプリカ、それ正気なの?」
「正気も正気だよ。それにヨムギは昔、襲ってきた性的暴漢を噛み殺したらしいし」
「なんだそれ」黙っていたヨムギはそこで不快そうに口を挟んできた。「レプリカ、何を言ってるんだ?」
「なんだ、ってきみの話だろ。オヤジさんたちが話してた」
「オヤジたちはまだそんな話をしてるのか」
「え」と僕は呆気にとられる。そこで出たのが一回目の「なんて言った?」だ。
「だから」とヨムギは面倒そうに眉根を顰める。「おれは獣じゃない。覆い被さってきたやつの腕は噛んだが、噛んで人を殺せるわけないだろう」
腕じゃなければ可能性はあります、とは胸の内に秘めておく。「あ、そうなの」
「オヤジたちもわけが分からん」
ヨムギにとってはそうだろう。
大事にされている人は往々にしてその意図に気付かないものだ。傭兵団にとってヨムギは血縁がなくとも娘に違いない。娘が性的暴行の憂き目に遭いかけた経験があるのならば新入りに対して儀礼的に牽制するのは不思議ではなかった。
傭兵らしい一手だ、とおかしくなり、僕は苦笑する。つられたのか、それともなんとなく意味が分かったのか、ディータも声を上げて笑った。僕たちの中でヨムギだけが理解できていないようだ。彼女はぶんぶんと首を回して僕とディータを交互に睨み、それから火照った顔をさらに紅潮させた。
「なんだ、お前ら。おれを笑ってるのか?」
「そんなことない」僕とディータが同時に返す。
「そう見える。お前ら、おれを馬鹿にしやがって」
「ああ、ヨムギ、きみに一ついいことを教えてあげるけど」
僕はそこで言葉を句切り、思わせぶりな間を作る。
「きみは、きみが思っているほど、馬鹿にされてない」
〇
入浴施設を出た後、僕たちは服飾店へと向かった。
さすが観光都市、と評するべきだろうか。アノゴヨには様々な種類の店が集まっている。飲食店はもちろんのこと、魔法石を中心とした土産物屋、見た目も派手なアクセサリーショップ、日用品を取り扱う雑貨屋などが至るところに散見される。観光地にありがちな街の歴史を絵で振り返る資料館や性的サービスを提供していると思われる建物もあった。
娼館を視界に入れると面倒になりそうな気がしたので、一際大きい魔法石の問屋らしき木造の商館を見つめておくことにする。
話はヨムギにどんな服が似合うか、だとか、僕がどんな服が好み、だとか、そういった方向に進んでいった。別にそれを嫌ったわけではないが、舵を切れなくなる前に一つ、とってつけたような「そういえばさ」という枕詞をつけて質問をした。
「そういえばさ、さっき氷の入った飲み物飲んでいたけど、あんまり氷の魔法を使う人いないよね」
この二年半、戦場を巡っている間、一度も見かけなかった。確かに戦争で使われる主な魔法は炎に関する魔法で、相性を考えたらあまり有用ではないかもしれない。足止めにしても土の魔法で用が足りる。
しかし、それでも日常の場面では不可欠になっていてもおかしくはない。事実、ヤクバは冬が来るまで氷の魔法を用いて酒を冷やしていた。彼の作る氷は不純物が混じっているのか、食用とするにはえぐみがあり、酒の中に入れたことはなかったが、それでも重宝していたのは確かだ。
「なに、いきなり」とディータは肩を竦めつつも答える。「いないわけじゃない、けど」
「あるなら広まってもいいのに、と思って。氷があったら便利だろ?」
「……なに、その『日常的に氷を食べてます』みたいな言い草。レプリカ、どこの生まれなの?」
一瞬、言い淀む。別の世界です、などと嘯くわけにもいかない。「バンザッタだよ」
「ああ、なら、まあ、うん、そうね」
「随分と言葉を区切るね」
「南部ならまだ保管しやすいからね。夏でもほら、山が帽子を被っている」
ディータの指さす方向にはエニツィアとペルドールを分ける大山脈があった。彼女の言うとおり、真夏でも山頂付近は白い雪で覆われている。
暦が春を起点としているためさほど意識したことがないが、エニツィアはこの星の南半球に位置している。
そう確信できたのは各地を巡っていたからだ。
北部にあるレカルタの夏の暑さは相当なものだったし、冬の寒さはレカルタよりバンザッタの方が骨身に染みる。エニツィアで流通している世界地図はこの大陸を中心としたもののため、証拠の提示は不可能だが、ほぼ間違いないと断言できた。
もちろん、生活するうえではさほど重要な知識ではない。季節の巡りは春夏秋冬で、それは変わらず、半球の南北を意識する機会など訪れないからだ。
しかしながら、得したことが一つだけあった。
二年半前の、無謀な単騎山脈越えである。
レカルタの南東ではあるが北部に位置する山脈であったことと、その山脈がそれほど高くなかったことが幸いした。もしエニツィアが北半球にあり、天を貫くような山々だったとしたら、厳冬期の山中で僕は凍死していただろう。
「それで、氷の魔法はなんでみんな使わないんだ?」
ヨムギの言葉に我に返る。彼女も先ほど触れた冷たい塊に心を奪われたのか、それとも魔法に対して興味を示し始めているのか、真剣な声色だった。
「わたしが言ったわけじゃないんだけどさ……魔法って理論的ではあるけど、その人が物事をどう見るか、ってことに大きく影響されるみたい」
「え」と僕は目を見開く。「そうなの?」
「だから、そう、『認識』よ。氷をあって当たり前のものと考える人ってあまりいないでしょ? 氷が欲しい、っていっつも考える人なんていないじゃない」
「じゃあ、魔獣は?」
「魔獣も基本はおんなじよ。火を恐れた獣は火を理解しようとして火を使うようになるし、乾いた土地の獣は水を欲して水を生み出したりとか。もちろん、例外なんて腐るほどあるけど」
「なら」ヨムギは思案するように腕組みをした。「おれは何が向いているんだ」
「そんなの分かんないよ。わたしはヨムギじゃないし」
「それもそうだ」
「っていうか、レプリカのやつはもっと分かんない。噂で聞いただけだけど、なんか不思議なんでしょ」
「なんか、って」
超能力は魔法じゃないから理解できなくて当たり前だ。超能力と魔法の間に薄氷ほどの壁しかないとして、研究に研究を重ねれば解明できる可能性はあるかもしれないが、そのときには僕が研究材料になってしまうから理解の努力を惜しまれなくても困る。
「言いふらされても別に困らないから言うけど、……僕のは〈腕〉だよ」
「ああ」ディータは合点がいったような表情になる。「レプリカ、片腕ないもんね」
そういうことにしておく。
「腕が三本あったら同時に色々メシが食えるな」
「ヨムギ、口は一個しかないのよ」
「で、ディータは?」
「わたし?」
「転移魔法は珍しいんでしょ?」
「……そうね」
一瞬、ディータの表情に暗い影が差す。その顔には見覚えがあった。ラ・ウォルホルでヨムギが見せたものと同質の表情――喪失の色だった。
失敗した、と思う。取り消そうか、迷っているうちにディータが口を開いた。
「わたし、お父さんとお母さん、いないんだ。昔、戦争で死んじゃってさ。だから、ずっと二人のいるところに、ううん、そうじゃなくてもどこか遠くに行きたい、って思ってたからかも」
「……そっか」
「ごめんね、暗い話にしちゃった。ほら、気を取り直して、早く服屋さん、行こう?」
「ああ、そうだね」
僕は努めて明るい表情を作る。ヨムギですら感じ入るものがあったのだろう、彼女はとびっきりの、姉のような振る舞いでディータの肩に腕を回した。
「なによ、もう。昔の話だってば」とディータはくすぐったそうな表情をした。「……ねえ、二人はどこか行きたいところ、ある?」
「酒場だな。オヤジがいないし、酒を飲みたい」
「ああ、ヨムギは酔っ払うとひどいからね」
「そうなんだ。……で、レプリカは?」
唸り、考える。
真面目ぶるつもりはなかったが、魔法の話は興味深く、もう一度学んでも良いかもしれないという思いがふつふつと湧いた。昨夜目にした図書館が頭に過ぎる。
「図書館かな。この街の南にあるでしょ? ヨムギも魔法を学ぶなら知識は必要だろうし」
「……おれが字を読めないのは知ってるだろ」
「周りの迷惑にならない程度に読み聞かせてあげるよ」
挑発されていると捉えたのか、ヨムギは僕の尻を強かに蹴った。仕返しに〈腕〉を展開して彼女を一瞬浮かせる。
ヨムギは宙に浮く感触が本当に苦手らしい。「ひゃっ」とかわいらしい悲鳴を上げた。
「ねえ、レプリカ」
ディータは呆れたような眼差しをこちらへと向けている。僕は慌ててヨムギを降ろし、首を横に振った。
「ああ、行きたくなければ別にいいんだ」
「いや、あのさ、ここの図書館、アノゴヨの市民しか使えないのよ」
「え?」
ここで二回目のあれが飛び出した。
「なんて言った?」
「だから、私たちじゃ、あそこ利用できないのよ。少し前、酔っ払いに荒らされたらしくて、今は制限かかってるの」
あ、そうなんですか。
他に言うべき言葉もなく、繰り返す。
そうなんですか。
〇
立ち寄った服屋でディータは本領発揮と言わんばかりの活躍を見せた。
ヨムギを着せ替え人形がごとく振り回し、様々な服を着させ、彼女に相応しい一着を見繕い、挙げ句の果てにはそれを値切り、自分の金で購入した。気っぷがいいと言えばそのとおりではあるが、その姿は貴族の世話になっているとは思えないほどの手際の良さで、僕を閉口させた。
その間、ヨムギは珍しく大人しかった。
男性的エネルギーと女性的エネルギーはまったく別種のものであるようだ。初めは反抗していたヨムギも争うことに疲れたのか、言われるがまま、なすがままになっている。敗北を認め、指示に従う彼女の姿も貴重でいいものを見られた気分になった。
ディータが最終的に選んだのは半袖の赤いワンピースと、黒く厚い織物のスヌードという出で立ちだった。「ヨムギは赤が似合うと思うの」と彼女はワインレッドの衣服に満足げな笑みを湛えた。
一方でヨムギにとっては引き摺るほどの長い裾はまったく不合理なものであるらしい。彼女は店を出た瞬間に膝の上辺りまでワンピースをまくり上げ、裾を縛った。悲鳴を上げたディータに対して、顔を背けて「散々お前の言うことを聞いたんだ、これくらいいいだろう」と呟いたのはきっと彼女にできる最後の抵抗だった。
とはいえ、全身を覆うような衣装は確かにヨムギには似合わない。僕がそう感想を伝えるとディータは「それもそうかもね」と納得した。
「結構、斬新でおしゃれな気もしてきたわ」
ディータはヨムギの肩まで届く程度の、一つにまとめた赤髪をいじくりながら頷く。「衣服が人を作る」と皮肉るとディータは「そんなものよ」と笑った。
それから、僕たちはいろんな場所を巡った。
ヨムギの希望である酒場は最後にしよう、ということで、雑貨屋であるとかアクセサリーショップだとか、そういった場所が主だ。後者はともかく前者に売ってある魔法石を使った品々はヨムギにとっても面白かったようで、彼女は終始年頃の女の子のような表情ではしゃいでいた。
黙っていればかわいい、と考え、自重する。
そんなことはない。
ヨムギの場合は黙った上で手足を縛り付け、額縁に飾った上でようやく「かわいい」だ。盗賊をやっていたせいか、金も払わずに品物を店の外へと持ち出そうとしたため、てんやわんやの騒ぎになった。
酒場に向かう前に、僕たちは土産物屋に寄った。
正直、土産物屋であろうと雑貨屋であろうとそう品揃えに変わりはない。むしろ土産物屋と銘打つだけあって、売っている物は旅行者向けの、粗雑な、二束三文のものばかりだ。そのくせ値段はそれなりにする。
「おい、レプリカ、これ、良くないか?」
「なんだよ、それ」ヨムギが持ってきたのは魔法石が埋め込まれたサイコロだった。暗い場所でも出た目が分かる優れものらしい。「絶対に良くない博打にしか使われないよ。それに、たぶんこういうところの魔法石の寿命は短い」
「そうなのか?」
「まあ、レプリカの言うとおりね。大体、ヨムギは何のためにサイコロを買うの?」
「確かにサイコロを振ることはないな」
すごすごと引き下がっていくヨムギを見てディータが微笑む。
「ディータ、きみは何か買うつもりはないの?」
「そうねえ、こういうのって見てるとうきうきするけど、後でどうしようもなくなるのよね」
「よくご存じで」そのせいで傭兵団のねぐらにはどうしようもないがらくたが積み重なっている。
「レプリカも経験、あるの?」
「僕はないよ。旅行なんて行ったことないし。その点、きみは目が肥えてそうだ」
「まあ、色々なとこに行ったしね」
ディータはこれまでの生活を不満げに語る。しかし、そのどこかにまんざらでもないような楽しげな雰囲気を窺わせていた。
「メイトリンとかハルイスカは良かったわね。メイトリンは珍しいものあるし、ハルイスカは香水の品質がいいのよ」
「……バンザッタには行ったことある?」
「二年とか三年くらい前だったかしら。バンザッタの収穫祭、かなり大きいじゃない? あそこは食べ物がおいしいから肉がついちゃって困ったのよね」
「その年なら、もしかしたら僕もいたかもしれないな」
「本当? じゃあ、どこかですれ違ってたかもね」
ディータはそばにあった人形を手にして顔の前に置く。腹話術さながら、声色を変えて、言った。
「楽しくなかったのはセムークとか、あと」彼女があげたのは国のちょうど真ん中に位置する都市だ。「あそこ、『山呑みの魔獣がいたところだ』って自慢げにしてたけど、そのせいで土産物が全部蛇を象ったものだったのよ」
「ああ、それは良くないかもね」
「そこに行ったのは四年くらい前でまだ私も子どもだったから色々買ったけど」
「なんだ」僕は呆れて肩を竦める。「十分はしゃいでたんじゃないか」
「でも、もう一つも残ってないかな。お世話になってる貴族も『趣味が悪い』って苦笑いしてたし。ああ、でも、そのときだけちょっとギルデンスさんは嬉しそうにしてたなあ」
笑いが止まる。
氷を当てられた思考は後頭部に痛みを与えた。耳から頭に入ってくるのはディータの言葉の器だけだ。中身を咀嚼することができない。
「なんて言った?」と思わず訊ねていた。
「え、ああ、ギルデンスさんのこと? これ、本当は秘密なんだけど――」
「――ディアルタ」
喧噪が遠ざかる。余計な情報は僕に届くまでに濾過され、消えていく。遠くにいたヨムギが異変に気付いたのか、「おい」と言いながら近づいてきているのだけが、辛うじて確認できた。
「ちょっと、どうしたの、レプリカ。怖い顔しないでよ」
頬を引き攣らせながらたじろぐディータへ向けて〈腕〉を伸ばす。
返答次第ではやむを得ない。
「ディアルタ、質問に答えろ。きみとギルデンスはどういう関係だ?」
「あ、レ、レプリカ、ギルデンスさんのこと、知ってるの?」
「質問に答えろと言ってるんだ」
「あ、え」とディータは戦慄く。瞳が戸惑いで淀んでいる。それらの反応には人を騙そうとするような作為は感じられなかったが、かといって引き下がるわけにも行かない。
幼い子どもですら偽りの涙を流す。彼女くらいの年齢であれば嘘の気配を隠蔽することも可能だ。
「おい、レプリカ、血相を変えてどうしたんだ」
「ヨムギ、静かにしていてくれ。僕はディアルタと話をしているんだ」
僕の声色が尋常なものではないと察したのか、それとも本能的な恐怖なのか、ヨムギは一歩後ずさった。「レプリカ……?」という彼女の呟きが攪拌されて、消える。
僕はディータを見つめながら、ゆっくりと掲げた〈腕〉を尖らせていった。鋭利になっていく〈剣〉を彼女の首筋に当てる。
「さあ、答えろ。きみとギルデンスはどんな関係だ? きみは、ギルデンスがしていることを知っているのか?」
その質問に、彼女は泣きそうな表情になった。
答えられずとも全貌が見えてくる。ギルデンスは各地で戦争の火種を蒔いている。移動手段に乏しいこの世界で彼の行動を加速させているのは、何のことはない、転移魔法だったのだろう。
個人的に転移術士を利用できるならそれほど楽なことはない。
僕はじっとディータを睨む。何か不審な行動を取ったのなら躊躇すべきではない。
そう考えて〈腕〉に力を込める。だが、核心に触れられようとしているのに、彼女は逃げ出すことも襲いかかってくることもなかった。瞳に浮いているのは当惑ばかりで、焦りや恐れの色は微塵もない。
「ギルデンスさんの……していること?」
「ごまかすつもりか」
「ごまかす、ってなんのこと? わたし、わたし、レプリカが何を言ってるのか分かんない! ギルデンスさんは恩人で、わたしはその恩を返すためにあの人をたまにいろんなところに送ってるだけよ……?」
「恩?」
「さっき言ったでしょ、お父さんとお母さんが殺されたって……そのときにあの人が助けてくれたの!」
「ああ」と僕は呻く。「結果的にか」
その言葉でディータの表情が崩れた。今にも涙がこぼれそうなほど目が潤み、わなわなと唇を震わせている。
「結果的に、って、どうしてそんなこと言うの……?」
「知らないなら別にいい。けど、今後、ギルデンスは二度と会うな。後悔するぞ」
「おい」
ぐん、といきなり肩を引っ張られ、よろめく。
視界の端に眉を吊り上げたヨムギが映り、ほとんど同時に、頬に鈍い痛みが充満した。頬骨に硬いものが当たった音が頭蓋骨の中で響く。
殴られた、と気付いたのは一拍置いてからだった。
「レプリカ、お前、何のつもりだ!」
激しい剣幕で怒鳴ったヨムギは、僕の襟首を掴んできた。揺り動かされ、少しずつ頭の中にあった黒い靄が晴れていく。それに伴い、失われていた喧噪が再び鼓膜を振るわせる。
周囲の視線を感じた。腫れ物を扱うような、批難するような視線だ。喉元で重い球体が半回転する。
胃酸がせり上がってくる感覚を、何とか、堪えた。
「お前、今」とヨムギが僕の身体を揺らす。「何かしようとしてたな」
「何か……?」
「とぼけるな! 見えなくても分かる、お前、今――」
そこでようやく僕の中の理性が脳に打撃を与えた。僕は右腕の切断面から伸びている黒い〈腕〉を凝視する。これまで多くの敵を殺してきた〈剣〉が先ほどまで一緒に笑い合っていた幼気な少女へと伸びている。
愕然とした。
背中に脂汗が滲む。
――命の価値が薄れている。悟ったような口調でエルヴィネを諭していた自分を嘲笑う声が聞こえた気がした。
「……ディータ、すまない。……ヨムギも。少し頭を冷やしてくる。夜までには部屋に戻るよ」
僕は逃げ出すように彼女たちから離れる。
逃げ出すように?
拙い取り繕いだ。まさしく、逃げているではないか。
ラ・ウォルホルでの戦いを経て、僕は自分の中の化け物から人間性を取り戻した。だが、その弱く愚かな人間性は心の底から彼を憎んでいる。
ギルデンスさえいなければ幸福でいられたのに、と。
そこまで考えて足が止まった。土産物屋から離れた路地、太陽か魔法石の光が大通りから斜めに入ってきている。光が差す方向が一つではないからか、光と影の境目はぼやけ、明暗ははっきりとしていない。
自己嫌悪の感情がないと言えば嘘になる。だが、そこまで悲観的になる必要があるかも疑問だった。
程度の差はあれ、気に入らない他人を嫌うのはむしろ真っ当な感情だ。
僕は彼女たちからすれば大人の方に属する人間かもしれないが、多くの人にとってはまだ子どもである。必要以上に大人らしく振る舞う理由はないのだ。
じっと〈腕〉を見つめて深呼吸をする。
誰しもが自分の事情を誰よりも理解している。だからこそ複雑化して考えてしまいがちになるが、そんなときこそ物事を単純化した方がよい。
ここで重要なのはちゃんとブレーキを踏めていたことだ。
僕は取り返しのつかない行為はしなかった。怒りに我を忘れることなど、人にはままある。自身の幸福のために他人を排除するという想像は程度の差を考えなければきっと誰もが考えることだろう。
特別なことなどないし、僕自身も特別ではない。
次第に穏やかになっていく心が頬の痛みを訴え始めている。畳んでいた〈腕〉を展開し、治癒しようとして思い直した。
この傷を治すのは二人にもう一度謝ってからだな、と決める。ディータにどう説明したものか、それだけが問題だ。




