71、「お前のせいだ」〈ラ・ウォルホル攻城戦3〉
かつてラ・ウォルホルの砦の外側にあった街は国籍に関係なく自由で盛んな商業活動が行われていた。土地の所有権はエニツィアが持っていたが、ボーカンチなど東方諸国の人間にも居住権が与えられていて、西のメイトリンと並ぶ貿易都市として名前が轟いていた。
八年前までは、の話だ。現在はその栄華の気配は欠片もない。
なぜか。
街が消えたからだ。
第一次ラ・ウォルホル戦役は商業地区で起こった事件が契機となり勃発した。街を警備していた軍人が商隊に偽装した軍事集団によって殺されたのである。東方諸国は関与を否定し、そこで浮き彫りになったのがボーカンチで軍事拡大路線を標榜していた「ボーカンチ解放軍」と呼ばれる集団だった。長い時間をかけて街に入り込んでいた彼らはラ・ウォルホルの商業地区を混乱と恐慌に陥れた。
人々は逃げ延びるために要塞の門を叩いたが、ついに開かれることはなかった。エニツィア内部に敵が入り込むことを恐れた当時の軍部は商業地区の放棄を独断で決行する。
そこで用いられたのが、ラ・ウォルホルの「太陽」、大規模立体魔法陣による火炎弾である。直径三十メートルにも及ぶ巨大な火炎弾は当時数万もの人口があった貿易都市を消し炭へと変えた。
その「太陽」が今、僕の前で体積を増している。
魔法陣は作成者しか行使できないのではないか、という疑問は熱に煽られ、蒸発した。今考えるべきは「なぜ」ではなく「どうするか」だ。
投石は既に終わっている。飛来してくる石に防御を固めていた軍人たちは「太陽」に屈服し、じりじりと後退を始めていた。
そっちじゃない。後ろにも逃げ場などないのに。
しかし、その叫びは悲鳴にかき消され、周囲にいる騎兵隊の人間にすら届いていなかった。馬に乗っている彼らですら狼狽しているのだ、後方にいる歩兵たちの状況はよりひどいものになっていた。
指揮系統がまともに機能していない。
阿鼻叫喚という単語は今まさに目の前にある状況を表しているのだろう。ある者は逃げ出し、ある者はせめてもの抵抗で水の壁を作り出している。どこかで軍人たちが将棋倒しになったのか、くぐもった呻き声が重なった。
僕や数人の騎兵隊があの攻撃を避けるのは簡単だ。この場から百メートル離れるのに十秒もかからない。だが、本隊はその両脇を、土の壁と立ち並ぶ建造物に遮られている。
彼らに、逃げ場などなかった。
目映い光を放つ炎球に先駆けて黒い球が放たれている。その光景を幻視する。
黒い球体は猛烈な速度で直進し、本隊を飲み込むと同時に破裂した。中に詰まっているのは恐怖だ。コールタールを思わせる濃密な恐怖は四散し、軍人たちの肉体を包んだ。体内へと素早く浸透した黒は心をぐずぐずに溶かす。十メートルも前方に走れば壁の外に出られる先頭の人間ですらもはや前を向いていなかった。
恐怖は壁の内側で乱反射し、増幅し、軍人たちの身体を後方へと押しやる。混乱に全身を浸した彼らは我先にと走り始めていた。
背筋が震える。
あの土の壁はエニツィア軍の動きを遮るためのものではない。
あれは、炉だ。恐怖の温度を上げるための、炉。そして土壁と街並みによって形成された炉は炎球の熱量すらも増幅させるだろう。
今なお大きさを増している炎球が放たれたらどうなるか、そんなものは明白だった。あの炎球が発射されたら最後、骨すら残らず焼き尽くされる。
逃げろ、と理性が叫んだ。
今目の前にあるのは「魔法」というこの世界を形作る概念、その集大成の一つだ。長い時間をかけて成長を続けた暴力の完成形、そんなものに僕程度の力で太刀打ちできるはずがない。
僕の力はあくまでサイコキネシス――大きな運動エネルギーの操作だ。分子レベルである熱エネルギーはどうすることもできない。半径十メートルまでの範囲しか届かない僕の〈腕〉はあまりに短く、小さい。たとえあの炎球を止めることができたとしても無事では済まないことは考えるまでもなかった。
早く逃げろ、と誰かが言った。僕ではない。騎兵隊の誰かだった。彼らは一目散に横へと馬を走らせている。そうだ、それが正解だ。あの熱量が届かない場所まで逃げなければならない。
けれど、僕の足は動かなかった。
頭の中で思考が小爆発を繰り返し、全身を縛っている。今にも放たれそうになっている炎球を前に、僕の中で甦ったのは二年半前、バンザッタでの記憶だった。収穫祭の最中、アシュタヤが襲われたあの出来事だ。
敵はアシュタヤを捕えるために、関係のない市民まで傷つけようとし、僕はそれに激昂した。
あのとき、全身に伝播した強い感覚が、再び皮膚の上を走る。僕の中にある理性ではない部分が叫んでいる。
守れ。
見捨てたら本当に戻れなくなるぞ。
意識するよりも先に〈腕〉が暴れた。空へと伸び、それから、僕を発奮させるように地面を強く叩いた。湿った土が飛ぶ。湾曲していた〈腕〉は芯を入れられたように一本の直線へと変じる。炎球を待ち構えるように真っ直ぐ、前へと突き出されていた。
もう逃げる猶予などない。
炎球が放たれた。
〇
息をしてはいけない。灼熱の炎球によって熱せられた空気は肺を焼く。
躊躇してはいけない。一瞬の疑念ですら、僕を炎球の一部へと変える。
超能力に必要なのは認識だ。必ずあの炎の塊を止められるという認識、それをなくした瞬間、何もかもが灰になってしまうだろう。
炎球は猛烈な速度で僕へと迫ってくる。地面に生えている草が炎球にぶつかる直前に燃えあがり、土に含まれる水分が音を立てて蒸発した。
目も眩むような光が迫り、眼球に痛みが走る。熱風が突き抜ける。
金属の鎧を着てこなくてよかった、と強く思った。熱伝導率の高い金属を身につけていたら蒸し焼きになっていたはずだ。そんな悠長な考えを持てる余裕があることに笑いが漏れた。
炎の球が近づいてくる。魔法によって固定された熱量の塊は馬よりも速く、直進を続けている。顔面を熱に炙られ、そこで僕はローブのフードを目深に被り、一度目を瞑った。
後ろにいる軍人たちはどうなっているだろうか、その考えが燃え、消える。悲鳴も既に届いていない。今、僕の世界にあるのは、僕と、凶暴な火炎のみだ。
ゆっくりと息を吸う。
――この呼吸を最期の呼吸にしてはならない。
目を開ける。
同時に〈腕〉と「太陽」が激突した。激しい衝撃が〈腕〉を伝わり、全身を押す。弾けたエネルギーが頬のそばを駆け抜けていく。
そのことに安堵を覚えた。この炎球はサイコキネシスを無視して進んでくることはなかった。「太陽」にも僕が抵抗できる類の運動エネルギーが存在している。
ならば、後はただの力比べだ。
僕は歯を食いしばり、腹に力を込め、〈腕〉を突き伸ばした。「太陽」は対流し、フレアを放出しながらすべてを飲み込もうと進んでくる。
そのとき、皮膚に、痒みにも似た感覚が走った。
停滞した熱量は怒り狂ったように空気を焼いていく。際限なく上昇する温度は獣となり、僕の肌に牙を立てた。露出している部分に感じていた痒みが徐々に臨界点を超えていく。
最初に悲鳴を上げたのは顔を覆っていた左腕だった。焼けた空気が手首に巻き付き、ローブの中を這っていく。左腕に絡みついた熱の蛇は水分を沸騰させ、細胞を溶かしていく。
痛みより先に苦しみを感じた。
今まで味わったことのない、濃縮された苦しみが染みこむようにゆっくりと爆ぜた。
背中に脂汗が滲む。苦痛から逃れようとした左腕が震え始める。筋肉は反射的な細動を繰り返し、全身に張り巡らされた神経が膨張する。
皮膚の内部にヤスリをかけられているような気分だった。身体を構成する分子が鋭利な歯車となり、細胞を削っている、そんな感覚。
――ああ、皮膚が裂けている。皮膚が裂けている気がする。熱により収縮した皮膚が音を立てて弾けているように思えた。
灼熱の悲鳴を飲み込み、僕は地面を踏みしめる。熱により眼球の水分が蒸発しそうで目を開けることすら敵わない。今、炎球はどうなっている? 少しは小さくなっているのか?
〈腕〉に伝わる感覚からでは分からない。
そのとき、じり、と音がした。
目を開けずとも何が起こったか、理解した。僕の腕が焦げる音だった。凝固を始めた蛋白質が燃え、皮膚の境目が消える。
どこまでが僕の身体で、どこからが熱せられた空気だ?
炎球の生み出す熱はローブなど容易く突き抜け、顔を焼き始めていた。
つ、と額から液体が流れる。痛覚を伴う液体はただの汗なのか、血液なのか、それともどろどろに融解した皮膚のなれの果てなのか、判然としない。
全身に苦痛が満ちていた。思考は無数に分裂し、等しく苦悶の声を上げている。助けてくれ、と懇願している。ごめんなさい、と謝罪している。炎に炙られた脳細胞は激昂し、僕という存在を放棄しようとしていた。
髪の毛の先端が燃える。肌が焼ける。神経すら燃焼し、肉体は熱と、激痛と、苦悶から逃れようと縮こまっていった。もう身体はあらゆる命令を受け付けなかった。全身が「お前のせいだ」と叫んでいる。お前のせいでこれほどの苦痛を味わっているのだ、と。
どれだけの時間が経ったのだろう。
生きたまま火炙りにされる苦しみがどんなものか。深く実感した。
肉体のあらゆる部分は生から逃れようとし、意識だけが生を求める。その乖離は失神すら許さない。肉体は自身を操っていた精神に対して反逆を始める。決して精神が逃れられないように、縛り、代償を払わせようとする。
既に、僕の意志に従うのは〈腕〉だけとなっていた。
筋肉の支えを失い、跪く。衝撃はなかった。剥き出しになった肉に濃縮された痛覚だけが走った。
――もう、堪えられない。限界だ。
今、「太陽」はどうなっている?
僕は最後の力を振り絞り、融解して貼りついた瞼をこじ開ける。
その瞬間、幸福な認識が与えられた。
永遠のように感じられたあの時間は十数秒に満たなかったのかもしれない。だが、その時間は確実に炎球の体積を削りとっていた。直径三十メートルほどもあった炎球は今では四分の一ほどまでになっている。直進してくる圧力も失われつつあった。
堪えきった――堪えきったんだ。
今、目を瞑るわけにはいかない。目を閉じたが最後、僕は二度と起き上がれなくなるだろう。必死に瞼を上げる。
だが、焼き尽くされた精神では小さくなった炎球すら押し返すことはできそうになかった。僕は跪いたまま、朧気な意識で〈腕〉を動かす。息を吸おうとしたがうまくいかなくて、窒息感が喉の内部で渦を巻いた。
一呼吸、吸いたい……。
硬く貼りついた唇を舌でこじ開け、肺に力を込める。弱々しく動いた肺は熱い空気を吸い寄せる。不快な熱が体内に入ってきたが、それでも構わなかった。
なんとか〈腕〉を炎球の下部へと移動させる。抵抗が弱まったせいで炎球が前進を始める。
それと同時に僕は〈腕〉を思い切り上へと振り上げた。すくい上げられた炎球はふわりと浮き、空へと上昇していく。渦を巻く炎の帯が徐々にほどけていく姿に、僕はある種の神々しさすら覚えた。
その光景を見つめながら、〈腕〉に刻み込まれた魔法陣を起動する。その瞬間、がくり、と身体が崩れ落ちた。霞んだ視界が横向きになる。
待ってくれ。
あと一分だけ生きさせてくれ。それだけあれば十分だから。
ああ、死の感覚がする。フーラァタと戦って以来、こんな濃密な死を感じたことはなかった。意識を保つために身体を動かそうと試みたが、どこも動きそうにない。せめて、と思い、唇を噛もうとしたが、顎すら硬直していた。
治癒の〈腕〉を賢明に折り曲げる。これが届けば、治る。治すことができる。だが、僕の黒い〈腕〉は遅々として進まない。
こんなところで終わりか。
僕の罪はまだ精算されていないというのに。
そう考えると悔しくて涙がこぼれた。涙腺すら焼かれているはずだから、そんな感覚など幻に決まっているのだけれど、幻ならそれでもありがたかった。
――お疲れさま。
……ああ、アシュタヤ。
目の前に現れた彼女は柔らかく微笑んだまま、労るように僕の頬へ手を当ててくれた。不思議と痛みはなく、心地よさだけが満ちた。
お疲れさま。よくがんばったね。
「……アシュタヤ」
その声が喉を通ったかも分からない。このまま目を瞑ればきっと楽になれる。苦痛は消え去り、心地よさだけに身体を委ねられるだろう。
けれど、僕はそうしなかった。一つの確かな感覚が意識を繋ぎ止めたからだ。
――アシュタヤが今の僕に「お疲れさま」などと声をかけるはずがない。きっと彼女は自分の身を省みなかった僕に激怒するはずだ。僕の中の彼女はそういう人だった。
もし死神なんてものがいるとしたら、きっとそいつはその人のもっとも愛する人の形で現れるに違いない。「一緒に行こう」と優しい言葉をかけて、手招きをするのだ。死にゆく人間のすべてを肯定し、この世から未練を引きはがす。
僕はまばたきすら堪え、現実を凝視する。
アシュタヤのかたちをした死神はいつの間にか消え失せていた。その代わりに、カタツムリのような速度で僕の〈腕〉が近づいてきているのが見えた。
〈腕〉の指先が僕の頬に触れる。冷たい水を浴びているような感覚がした。苦痛の残滓が貼りついていたけれど、触覚が取り戻されていく。風の当たる感触が愛おしい。皮膚の強張りがゆっくりと消えていった。
僕は〈腕〉を薄くのばし、その中に身体を浸す。全身を覆っていた火傷が治癒されていく。痒みの形をした喜びがあらゆる部位で踊り狂っていた。治癒魔法は身体の内部にまで浸透していく。熱で収縮していた筋肉がほぐれ、焼けて硬化していた内臓が活動を再開する。
だが、完全に失われたものは取り戻せない。僕は動くようになった顎を開き、舌を突き出した。
頭痛がする……喉がカラカラだ……。
一口、水を飲みたい。身体の中の水分はあの炎球とともに空へと昇ってしまっている。誰か、誰か、水を飲ませてくれ。身体が燃えるように熱いんだ。
このままじゃ、生き延びた意味がない。
僕は横倒れになったまま、ゆっくりと息を吐く。そのとき、地面に耳をつけていたおかげか、規則的な音が振動として鼓膜へと伝わった。
馬の蹄だ。
「レプリカ」と叫ぶ声もする。騎兵隊の人間が戻ってきたのだ。
ああ、彼は水を持っているだろうか。




