67、「どちらだと思う?」
鏡が欲しいと思った。
鏡があれば、今の自分がどれだけひどい顔をしているのか、客観的に認識できる。残った腕は動揺を敏感に感じ取り、震えていて、何の意味もないと悟りながらその左腕を腿の脇に隠した。
「私は」と言うシャンネラの瞳には炎を宿ったままだ。「私はアシュタヤに対して多くの罪を負っています。私の腹から生まれたせいで、あの子は異常な力を身につけてしまった。だから、私には自分の子を幸せにする義務と責任があります」
僕には親がいない。正確に言えば、親に愛される、という身体感覚を味わったことがない。だから、彼女の気持ちは上辺でしか理解できなかった。
ただ、それでも、シャンネラがアシュタヤに対して抱いている愛情は僕の身体の内側を切り裂くほどの威力があることを実感した。息苦しさに喘ぎ、呼吸を試みるが酸素は肺まで届かない。
張り詰めていく緊張でシャンネラとの距離感が曖昧になっていく。二メートルほどの距離だというのに、眼前にいるかのような、あるいは、遠くから観察されているような気分になった。
それが緩和したのは、僕と彼女の間にある剣呑とした雰囲気が飽和点を迎えかけた時だった。
コン、コン、コンとゆっくりと、こちら側を窺うような速度で鳴らされたノックに僕は驚きと若干の安堵を覚えた。助けを求めるように視線をそちらへ動かす。シャンネラが返事をする前に扉が開き、貴族然とした恰好の男性が苦笑とともに現れた。
「シャンネラ、やめろと言ったのに」
「あなた」
ああ、僕は跪いて許しを請うのを必死で堪える。
一目で、その穏やかな顔をした中年の男がアシュタヤの父親であると確信した。全身から滲み出る雰囲気に彼女の面影があり、僕はまじまじと見つめることができない。
「すまんね、――『レプリカ』くん」と彼は言葉を選ぶように言い、それから、「妻が迷惑をかけたようだ。ここからは二人で話そう」と眉を上げた。
「ちょっと、あなた、話はまだ」
「シャンネラ、お前はアシュタヤのことになると熱くなりすぎる。外で頭を冷やしておいで」
命令ではなかったが、有無を言わせない口調だったためか、シャンネラは素直にその指示に従った。彼女は僕を一瞥した後、足音も立てずに部屋から消え、今度は僕とラニアだけが残される形になる。
「さて、申し訳ない。妻のことは気にしないでくれ」
「……いえ」すみません、という言葉が口から漏れかかった。「大丈夫です」
「しかし、見れば見るほどその絵とそっくりだ。面白いものだね」
ラニアは超能力の子細についてアシュタヤから聞いているわけではないらしい。紙と僕の顔を交互に矯めつ眇めつ眺め、ほうと息を吐いた。
「きみの意向を汲み取るならば言うべきではないのだろうが……、娘が世話になったね」
どう答えればいいのだろう。
僕が彼女にしてあげたことなど些細なことだ。超能力の扱い方を教えたこと、それ以外には何もない。むしろ、アシュタヤがいたおかげで僕がどれだけ救われたか。
油断すれば謝罪の言葉が漏出しそうになった。
だが、僕の犯した罪が謝罪などで許されるはずがない。僕は言葉を飲み込むために俯き、ラニアから視線を外す。
「褒賞に関してはきみが了承すれば終わる話だ」彼は封書を机の上に置く。「時間は取らせないから、その前に少しだけ話をしたいのだが、いいかな?」
「……褒賞なんていりません、何も聞かないでいてはくれませんか」
今すぐにでも逃げ出したかったが、膝に力が入らない。肉体は精神の容れものではないことを強く感じる。肉体が精神を規定するのと同様、精神が肉体を規定することもある。筋肉は弛緩し、足の裏が床に着いているかどうかすら朧気だった。
「責めるつもりはないんだ。ただ、これだけは伝えておきたくて」とラニアは子どもを諭すかのように言った。「アシュタヤは……きみの帰りを待っている」
帰れるはずがあろうか。
僕はどんな顔をしてみんなに会えばいい? 恩を仇で返した裏切り者が何事もなかったかのように一緒に笑っていていいはずがない。
それに、あれから僕は多くの罪を犯した。数え切れないほど人を殺し、傷つけた。影すら赤く染まるほどの血を被り、他人の大事なものを盗み続けた僕がのうのうと平穏に暮らすなど、あってはならないのだ。
「ラニア卿……僕は、彼女に、会うべきではありません」
「どうしてだね?」
「僕は彼女を……カンパルツォ伯爵たちを裏切りました。もし、彼らと再会するのだとしたら、僕の罪が精算されたときです」
「罪? きみが何をしたというんだ?」
「……仲間を、殺しました。それだけではありません。彼女たちと別れてから、僕は大勢の人を殺して、たくさんのものを盗んできました。他人を……犠牲にして生きてきたんです。許されない行為を、そうと知っていながら、続けていたんです」
「……ふむ」
顔を俯けながらの告解は、しかし、真摯に許しを請う懺悔とはほど遠い性質を有していた。これは、単なる逃避だ。「許されないことをしました」と吹聴し心が軽くなることを、己に罪の軽減と錯覚させる卑劣な逃避。
自分の薄汚さに唇を噛み、ゆっくりと、息を吸った。茶で満たされているカップの水面に僕の顔が揺れている。ラニアも僕へと瞳を据えているのを、朧気ながら感じた。
「……分かるでしょう、ラニア卿。法というものがある以上、僕たちはそれに従わなければならず、僕はそれを破ったんです」
「そうだね、それはきみの言うとおりだ。犯した罪は償わなければならない」
「……だからといって、彼女の下で償えだなんて言わないでくださいね」
「まさか」
ラニアはそんなつもりは毛頭ない、と言いたげに苦笑を浮かべた。それがありがたくて僕もなんとか笑みを返す。
「レプリカくん……ああ、ニール、と呼んだ方がいいのかな」
「……いえ、レプリカでよろしくお願いします」
「なら、レプリカくん。……私は、罪には二種類あると思うんだ」
「二種類、ですか?」
「ああ、一つは法律上の罪、そして、もう一つは道徳上の罪だ」
――ああ。
僕は感嘆しそうになる。この世界と前の世界には関連性などない。大陸の形すら違う。
だが、繋がりというべきか、人というものは変わらないらしい。
crimeとsin、人は罪を犯したとき、二つの審判を受ける。人による審判と神による審判だ。宗教観が異なるため、意識的な違いはあるだろうが、意味合いに違いはないだろう。
「レプリカくん、きっときみは道徳上の罪を犯したのだろう……難儀なことだ。法律上の罪なら裁かれることで償うことができるが、道徳上の罪はそうもいかない。自分の中に罪の意識があるときは、特に」
ラニア卿は嘆息とともにカップに茶を注いだ。沈黙の中に柔らかな水音が満ちる。
その音がどうしようもないほど心地よかった。
この二年半で僕がずっと欲していたものを与えられた気分だった。
理解されるということ。それは人がもっとも得難いものの一つだ。
「レプリカくん。少なくとも私はきみをとやかく批難しないよ。妻は怒るだろうがね」
「……すみません」
「いつかきみの罪が、罪の意識が消える日が来ることを一人の人間として祈ろう」
ありがとう、とも言えず、僕は曖昧に頷いてごまかした。その行動の意味もラニアには理解できたらしく、彼は静かに微笑んで封書から一枚の書類を取り出した。
「とはいえ、褒賞を与えるのは変わりない。とりあえずこれに署名してくれるかな。財政が厳しいからいったん特殊勲章、という形になってはしまうが」
特殊勲章、というのは軍に所属しない人間、特に傭兵に与えられる勲章の一つだ。傭兵は一つの地域に留まることは少ない。褒賞として貨幣を与えると多くの懸念が生まれてしまう。まともに保管するのもままならず、盗賊に襲われることも考えられるからだ。
そこで使われているのが「特殊勲章」だった。一種の貨幣として考えれば理解は早い。各地にいる貴族や軍の施設、公的な銀行に提示すれば一定額の金銭と下のランクの特殊勲章と交換することができる。紛失しても補償はないが、あらゆる商店での売買が禁止されているため、盗んだとしてもメリットはない。
前提として真偽判別の魔法がなければ運用できないシステムではあるが、それでなかなか便利だ。わざわざ銀行に金を預ける手間もいらず、荷物も多くならない。
僕は紙に署名して、ラニアから特殊勲章を受け取った。剣とそれに巻き付いた蛇を象った鉄飾りはずしりと重みがあった。
「では、これで用は終わりだ。わざわざ足を運んでもらって悪かったね」
「いえ、ありがとうございます。……お話できてよかったです」
「もし、またこの地に来ることがあればゆっくりと話そう……妻の目を盗んで」
ラニアは少年のような笑みを浮かべたあと、咳払いをして口元を引き締めた。貴族の厳格さ、というよりも親や教師じみた寛厚さが多分に含まれていた。
「さて……最後に一つ質問してもいいかな」
「……何でしょうか」
まさかシャンネラのように変貌するとも思えず、僕は続きを促す。彼はゆっくりと、感じ入るようなまばたきをした後で、言った。
「きみは人間の本性は善と悪、どちらだと思う?」
哲学的な問いに口ごもる。
おそらくこの質問は正答を求めているようなものではないだろう。むしろ、彼の中では「これ」と信じるものがあり、啓蒙するかのような雰囲気すら感じさせた。
ラニアは変わらず真っ直ぐな目つきでこちらを熟視している。
彼の求めている答えを、と考えることはしなかった。人間の本性など、僕の中では決まっていたからだ。
僕の生きていた世界には神がいた。天と地を造り出し、光を生み出した偉大な神だ。神は自らの姿に似せて人を創造した。その僕らが悪であっていいはずがない。たとえ原罪を背負っていたとしても人の本性は悪ではないのだ。
「ラニア卿、考えるまでもありません。人は善です。だからこそ、罪を犯すべきではないのです」
そうか、とラニアは薄く微笑む。僕が期待していた反応ではなかった。
「……私はね、レプリカくん、人間の本性は悪だと思うんだよ」
理解できない。「……それは、慰めでしょうか」
人間の本性は悪で、だからこそ、罪を犯しても仕方がない。僕には彼がそう伝えようとしているかのように聞こえた。
だが、彼は静かに、力強く首を振って否定した。
「これを言うと度々誤解されるのだがね、私は別に人間は生まれついての悪だから罪を犯すのは当たり前だ、と偽悪的に振る舞っているわけではないんだよ。むしろその逆だ」
「……逆?」
「ああ」と彼は噛みしめるように頷いた。「だって、悲しくはないかな?」
彼の言わんとしていることが掴めず、僕は眉を顰める。
「何が、ですか?」
「もし人間が生まれついて善だとしたら、人間はきっと善の本質なんてどうでもいいことだとしか捉えられないじゃないか」
「……どういう、ことでしょう」
「つまり、人間は悪だからこそ、善を知ろうとして、善を目指す。私たちが善くあろうとするのは人間だからだ。……そちらの方が素敵ではないかな」
僕は応えるに応えられず、頷くこともできなかった。その様子がおかしかったらしく、彼は笑い声を上げた。
「いや、なに、きみに宗旨替えを迫っているわけではない。ただ、そういう考えもあると言いたかったんだ。きみはとても生真面目そうだから、窮屈になっているのではないか、と思ってね」
「僕には……やはり、慰めに聞こえますが」
「違うよ、レプリカくん。もしかしたらきみは悪を為した瞬間に人の道を外れると考えてはいないか、ということだ。人が人の道を外れるのは悪を為した瞬間ではない、善を諦めた瞬間だよ」
そこまで説明されてもやはり慰められているようにしか感じられなかったが、きっとそれも彼にはお見通しだったのだろう。ラニアは立ち上がり、僕の前まで歩み寄ってきた。狼狽する僕の肩を、彼は優しく掴む。
「きみは今『化け物』と……そう呼ばれている。化け物というと感情のない、暴力の象徴を彷彿とさせるが、きみは違う」
それから彼は握った拳を僕の胸へと当てた。それほど強くなかったにもかかわらず、その衝撃は筋肉を突き抜け、骨を震わせた。
「きみは紛れもなく人間だ。それを自覚して、善く生きるようにしなさい。そして、『化け物』という渾名に飲み込まれることなく、本当の名前を取り戻すんだ。……これは慰めじゃない、応援だよ、『レプリカ』くん」




