63、英雄の詩
「乾杯」という言葉を、この二年半、口に出さなかった。
事実、僕はその期間、ただの一度を除いて酒を飲まなかった。その一度のときですらその言葉を吐き出すのを忌避した。
超能力者として誕生しこの世界に来た僕は護衛としていくつかの街を回り、傭兵や盗賊として生きてきた。その間、いろんな「乾杯」を聞いた。脳につけられている翻訳装置はあらゆる言語を濾過してその意味を囁く。それこそ「杯を乾かす」という意味であったり、あるいは「健康を祝して」だとか、国によってそれぞれだった。
Cheers、Salud、Proost、Kanpai、ああ、翻訳装置で調べるとかつて生きていた世界で使われていた言葉たちが脳裏に浮かぶ。今ではその中にこの世界の「乾杯」も付け足されている。
例えばメイトリンで聞いた「神のご加護がありますように」は海をずっと西に進んでいった国の「乾杯」だ。北に隣接する国と合同で行った大規模な魔獣駆除、北国の傭兵たちは度数の高い酒を好み、新しい酒が注がれるたびに「より良い明日へ」と杯をぶつけていた。
エニツィアの「乾杯」は「友達になろう」という意味だった。もはや古語に近く、僕には「乾杯」という意味合いにしか聞こえなかったから、その成り立ちを聞いたときは驚きと痛みを感じた。山脈を一人で越え、辿りついた街で傭兵団の頭領に拾われた直後の話だ。彼は酔いで語尾を柔らかくしながら僕に語った。
「友達になろう」が「乾杯」として扱われるようになった理由は建国の英雄譚が理由だそうだ。
エニツィアは四つの国が集まって生まれた。海と屈強な戦士の国メイトリン、森と思慮深い賢者の国アノゴヨ、草原と陽気な魔法使いの国ラ・ウォルホル、山脈と平凡な住民の国レカルタ。その中央には山を覆うほど巨大で獰猛な魔獣がいて、当時の人々は怯えながら暮らしていたのだという。事実なのか、誇張された御伽噺なのか、誰も知らない。
距離も離れ、魔獣により隔てられていたその国々の関係はあまり良好とは言えなかった。本当に巨大な魔獣がいたとしたならば当然だ。安堵こそが友好に繋がる。生命が脅かされ続けられている状況では誰もが身を竦めて、自身のことを優先する。それほど不思議なことではない。
だが、ある日、その状況をよしとせず立ち上がった者がいた。レカルタの王だ。
当時の王、エニツィア・イクサクロ・レカルタは歴代の王に輪をかけて平凡な男だった。剣の才能もなく、魔法の才能もなかった。悪政は敷かないものの先代の政治を踏襲するばかりで、有能とはほど遠かったそうだ。
しかし、彼は他の誰にもないものを二つ、持っていた。
行動を起こす勇気と民を慈しむ優しい心だ。
暑い夏の日、エニツィア王は従者も連れず、一頭の馬に跨がってレカルタを発った。一年以上をかけて国々を回った彼は、すべての国で同じ言葉を投げかけた。魔獣により分断された大陸を一つにしよう、友達になろう、と。その軽率な行動に他の国の王たちは顔を顰めたが、果たして彼を受け入れた。熱意に心を打たれた王たちはエニツィア王と酒を酌み交わし、巨大な魔獣を討伐するために協力を始めた。
山呑みの魔獣との戦いは三日三晩続き、四つの国はついに魔獣を打ち倒すことに成功する。それがきっかけとなり、この大陸でもっとも大きな国が生まれた。誰よりも平凡で、誰よりも勇敢な男の名が、国の名となった。
頭領と出会った日、彼はその英雄譚を語り、ぼろぼろになった僕へと「友達になろう」と杯を掲げた。僕はそれに無言で答えた。果物の味がする酒は甘いはずなのに、とても苦く感じた。
友達? 僕は独りだ。
仲間を殺し、友人を裏切り、恩人を見捨てた。
思えば僕が関わってきたすべての人々は、僕のせいで不幸になった。とうさんとかあさんは僕を見て笑顔をなくし、ジオールは狂った。バルトたち級友は嗜虐性を高め、教官たちは絶えることのない諍いに頭を悩ませていた。
この世界で出会った人たちも同様だ。
僕に殺され、僕に裏切られ、僕に見捨てられた。アシュタヤはひとごろしにさせられた。
僕の友達になる人は可哀想だ。きっとその人も僕のせいでひどい目に遭うのだろう。
だから僕は「友達になろう」と言われる席に行かなくなった。
遠くの広場で行われている壮行会に出席していないのもそれが理由だ。この国では戦争の前の夜、参加する全員に一杯の酒が振る舞われる。景気づけの意味なのか、それとも友達になって協力しようと誓い合う儀式なのか、どちらか分からないし、どちらでもよかった。
僕の戦い方の前では邪魔なだけだったから。
軍人や傭兵たちの喧噪は僕のいる野営所へ届くまでに夜の静寂に薄められていて、どうしようもない隔たりを感じた。
息を吐くと同時に遠くで「友達になろう」と一斉に声が上がる。そういえば、どこかでイクサクロという名前を聞いたことがある気がする。あれはいつ、誰から聞いたのだろうか。
いくら考えても思い出せず、僕は並んだテントの群れの端で空を見上げた。夜の雲は重苦しい黒だ。遠雷の音も聞こえる。きっと明日は雨なのだろう。




