56、雷獣の笑い声
いつか目にした水の龍が脳裏に浮かんだ。バンザッタで大道芸人に扮したヤクバが操っていた水の龍。これまで実戦で目にしてきたことがなかったため、見世物や芸の類だと思っていたが、そうではなかった。
今、僕の目の前で、あの水龍が泳いでいる。龍は顎を開き、後方の木を噛み砕いた。幹が悲鳴を上げてへし折れ、地面を叩く。それを繰り返していると木々の間を走っていた鉄線が落ちてきた。鉄線は水龍の腹に飲み込まれ、ばちばちと放電を続ける。宙に浮いた龍は流れる電気をたらふく蓄え、その場を離れた。
「下がれ」と短くヤクバが言う。
拒否することもできず、僕たちは後ずさった。帯電した龍がヤクバの周囲でとぐろを巻き、獲物を探して虚空を睨んでいる。
僕の隣で、アシュタヤの〈糸〉が光った。彼女は無言で右手にある木々の群れを指さした。ちらり、と黒い影が茂みの中に消える。その瞬間、刺すような詠唱が響いた。ヤクバの声に呼応して水龍が疾走する。まばたきの間に水龍は影が消えた時点まで到達し、顎を閉じた。
「ぎゃっ」という短い悲鳴と放電の音。それだけで何が起こったか、理解できた。
水龍が旋回し、戻ってくる。その腹の中には地面を失って弱々しくもがく男の姿があった。男はヤクバの前まで運ばれると、地面に吐き出される。水を飲み込んでいたのか、男は苦しそうに咽せ、それから顔を上げた。
しゃがみ込んだヤクバがナイフを突きつける。男の身体がびくりと震え、それから固まった。
「質問に答えろ」ヤクバの声からは抑揚が失われている。「……お前らは何人で来た?」
男はわずかな迷いの後、答えようと口を開いたが、そこから漏れたのは笛の音のような、奇妙な吐息だけだった。酸素を失ったせいか、それとも帯電した水で内臓を焼かれたのか、男はパニックに陥ったまま、言葉にならない声を吐き出し続ける。
小さな溜息が聞こえた。
ずぶり、とナイフが男の眼球に沈む。
喉を締めつけたような濁った音が鼓膜を揺らした。胃が握りしめられ、吐き気がこみ上げる。
「なあ」と柔らかな声色でヤクバが男に声をかけた。「お前は馬鹿か、喋れなくても地面に字は書けるだろう? 数字くらいガキでも書ける。書けないなら人数の分だけ線を引け」
ナイフが引き抜かれ、血が濡れた地面に落ちる。ヤクバは静かにもう一つの眼球の手前にナイフを置き、もう一度、訊ねた。
「お前らは全部で何人だ?」
震える男の手が動く。力が入らないのか、それとも怯えているのか、彼は必死に地面を爪で擦った。ヤクバが覗き込み、唸る。「三十か。それはギルデンスやフーラァタを含めてか?」
男の首が何度も縦に振られる。それを見たヤクバはナイフを引っ込め、腰につけた鞘の中にしまい、立ち上がった。安堵したのか、男は力なく、側頭部を地面につけた。片目が潰された顔面がこちらに向いていて、僕は目を逸らそうとする。
その間際、ヤクバが巨大な盾を男の首の真上へと持ち上げていた。逆三角形に近い盾の下部が上空から注ぐ一条の光に反射して煌めいている。
「え」
まさか、と思った瞬間、盾が落ちた。ギロチンのような慈悲のなさで盾が振り下ろされ、その先端が倒れた男の首の細胞を極めて乱雑に解き、土を掻いた。ざりっ、と硬い音が全身を叩く。
「パルタさん」とヤクバは冷たい眼差しを僕たちへと向けた。「俺たち、今まで何人くらい、倒した?」
「え、あ、ああ……十は倒したな」
「そうか……とりあえずフェンさんの方に向かった方がいいな」
僕たちは進み始めたヤクバを慌てて追う。だが、言葉を発することはできなかった。
――分かったことが、二つ、ある。
ヤクバとセイクとレクシナは特別な絆で結ばれていること、そして、その結びつきが破壊されようとしたとき、彼らは慈悲のない怪物になること。
敵は、逆鱗に触れた。
〇
ヤクバは襲いかかる刺客たちをいとも容易く屠った。剣でも槍でも矢でも、関係がなかった。水龍は圧縮された水で構成されていて、口から吐いた水弾は相手の構える剣や槍をはねのけて腕の骨を折った。放たれる火球や矢は水龍の腹に阻まれ、僕たちの服すら汚さない。尾を振るえば紙切れのように人が吹き飛んだ。
僕たちができる役目などほとんどなかった。僕は立ち上がろうとする敵を叩きのめし、パルタはなお向かってくる者に応戦する。その程度だ。あの男が地面に刻んだ三十という数字が真実であるならばもう敵の数は十人を切っているだろう。
フェンとギルデンスのものと思われる剣戟と轟音がまばらに鳴っている。姿は見えないが、かなり近いところまで来ていることが折れた木や乱れた地面から判断できた。
そこで歩みを止めたのはアシュタヤが制止したからだ。
「止まってください!」
彼女の叫びに攻撃に巻き込まないように先行していたヤクバも足を止めた。
「どうかしたの、アシュタヤ」
「います……三人、今までとは比べものにならない」
彼女が指さした正面、木々の隙間からその先にぽっかりと開けた空間があるのが分かる。まるで戦いの場として作られたかのような空間だ。
おそらく、これまでの敵は捨て石だったに違いない。この空間まで誘導するための餌。
見え透いた罠だ。ヤクバの水龍が存分に動けるとは言え、障害物がないのは相手も同じだし、そもそも罠を張られている可能性の方が高い。アシュタヤは「三人」とは言ったが、未だ敵の方が数的有利を保っている。中に入り、敵味方なく飛び道具を撃たれたらひとたまりはない。
「ヤクバ、迂回しよう。きっと周囲にはまだ敵がいる」
僕はそう進言したが、ヤクバは動こうとしなかった。彼は頭上をじっと睨んでいる。視線を追うと、僕たちの真上にはレクシナが感電したものと同様の鉄線が張り巡らされていた。
「ヤクバ?」と声をかけるが、その言葉は彼の元まで届いている様子はなかった。ぞくり、と本能的な恐怖が肌を這う。
ヤクバは何を見ている――金属製の魔法陣だ。おそらくは電流が流されている、雷の網。きっとレクシナへの対策として設置されているのだろう。頭上から一方的に攻撃できる彼女の攻撃は定跡にはなく、相手にとってもっとも懸念すべきものの一つだったに違いない。
空を自在に飛べるほどの魔装兵はそういないのだ。その彼女の自由を奪うためにあつらえられた、電流の屋根。
そこでようやく、僕はヤクバが「何を」見ているか、気がついた。
「フー……ラァタぁあああ!」
地面を振るわせるほどの大声に身が竦む。一瞬後に、水龍が垂直に空を昇った。龍にかみつかれた鉄線は火花と鉄粉を弾けさせながら、千切れた。
ヤクバが地面を蹴る。〈腕〉を伸ばすが、間に合わない。「ヤクバ!」
そう声を上げた瞬間、音が鳴った。地中で何かが蠢くような音だ。ヤクバが突進していった広場の周囲に光が灯っている。
罠だ――そう考えたのと同時に、広場を覆うように壁がせり上がった。流動した地面に、木が、自重を支えきれず崩れていく。ヤクバの姿が見えなくなった。
「――呼んだかア?」
意識の外からの声だった。
後ろに振り返る。目の端で敵の腕が動くのを捕らえる。
僕の〈腕〉は? ――間に合わない。
「ニール!」
アシュタヤとパルタが同時に僕の名を呼んだ。衝撃が身体の芯に伝わり、突き飛ばされたことに気がつく。金属音。転がりながら、目を見開く。
焼け焦げた腕と焦点の合わない目、汚れた蓬髪――広場の中にいるはずのフーラァタがそこにいた。奴の放った攻撃はパルタによって受け止められている。
「パルタさん!」
体制を整えながら叫ぶと、パルタは短剣を弾き、後ろに飛び退いた。一瞬遅く、フーラァタの持つ短剣から電流が迸った。息を吸いながら笑っているような、奇妙な音が奴の喉から発せられる。
「フーラァタ、お前、どうして」
「あの中にいるとでも思ったかア? 俺がわざわざあんなところで待ち構えるかよ」
くるくると短剣を回しながらフーラァタが嘲笑う。
言葉は理解できたが、飲み込めなかった。
視界の端にある土の壁を一瞥する。こんな巨大な壁を作ることができる魔術師がいるなんて都合が良すぎる。
しかし、ああ、都合、とは何だ? 相手はカンパルツォを妨害するために多くの人間を集めているだろう。彼らもまた必死だ。それを考えると僕が思い描いた都合など、無責任な決めつけから来る幻想にすぎない。
突如として現れた理由も簡単だ。アシュタヤの力はギルデンスによって白日の下にさらされている。前方と比べて、彼女の後方の探知範囲は狭い。フーラァタであれば四十メートルほどの距離など木々の生い茂る森の中でも数秒で移動できるはずだ。
「あっちも始まったみたいだなア」
土の壁の向こうから爆音や衝突音、金属のぶつかりが響いてくる。アシュタヤがわざわざ足を止めて警告するほどの三人にヤクバは一人で勝てるのか? 三人だけならまだ良い。取り囲まれていたとしたら、どうする。
思考が渦を巻く。
どこまでが相手の罠だ? レクシナとセイクがこの場を離れたことは? ヤクバが怒りで我を忘れたことは? ここからの行動は?
すべてが定められていたのではないか、と疑い、まるで関係のないはずのジオールの忠告、『雷に気をつけろ』という言葉までもがこの状況を暗示していたようにも感じられた。
そんなはずはない、というのに。
心臓が爆発するように動いている。フーラァタの目がこちらを向く。
「――ん? お前、どっちだア?」
「……何のことだ」
「その顔、強い方と弱い方、いるだろオ……アア、でも、関係ねエか。お前が弱い方でも、殺せば、あのときみてエに強い方が駆けつけてくるよなア」
ぱりっ、と電流の乾いた破裂音が弾けた。
「……パルタさん、アシュタヤを連れて、ヤクバの援護をお願いしてもいいですか」
「ニール!」とアシュタヤが叫んだ。だが、この状況ではそれが最善に思えた。分断されているこの状況はまずい。今、優先すべきはヤクバだ。多勢に無勢で戦っている彼の状況を少しでも改善しなければならない。
それに、どうせ――
「――どうせ、こいつの狙いは僕です。僕がそっちに着いていったら危険が及ぶ。……時間くらいなら稼げますよ、早くヤクバを連れて助けに来てください」
パルタと視線がぶつかる。彼はそれだけで僕の意志を汲み取った。彼自身もそれが最善だと考えたのかもしれない、地面を蹴り、アシュタヤを抱えて土の壁の方へと走り去っていった。
「っていうことは、お前、弱い方か……つまんねエなア」
「逃がすだなんて、優しいじゃないか」
〈腕〉を展開する――僕に与えられた武器はこれだけだ。ずっと練習はしてきたが、形状変化も治癒魔法陣もまだ使えない。あとは目眩まし程度の火の魔法。
心音が皮膚を揺らすほどの強さで鳴っている。一歩ずつ近づいてくるフーラァタの威圧感に冷や汗が流れた。理性が欠損した目の光に胸の中央を貫かれ、膝が震えた。
殺されさえしなければ――セイクが駆けつけてくれるかもしれない。あるいは、アシュタヤとパルタがヤクバを連れてきてくれるかもしれない。
それまで一人でこの飢えた獣と戦う――その恐怖が血液に溶け、全身に行き渡った。
違う。僕は唇を噛み、弱気な想像を必死に打ち消す。
僕がみんなを守るんだ。
それだけを心の中で唱え、フーラァタを睨む。その小さな抵抗に目の前の獰猛な獣は口角を歪めた。
「逃がしてもねエし、優しくもねエよ。俺はただ……目の前の餌をじっくり味わいたいだけだ。――無様に逃げる奴を追いかけることほど、楽しいことはねエ」
逆手に握られた短剣が宙を滑る。後ろへ飛び退く。密集した木々は追撃を躱す盾としてはちょうど良かった。同時に僕の攻撃を意識の外に追いやる壁としても。どれだけ木々があっても僕の〈腕〉にとっては平地と変わりがない。開けた空間で戦うのよりもずっと都合がいい。
距離を取り、隠れ、フーラァタがいるであろう方向へ〈腕〉を振るう。芯を外した感触が伝わるが、当たらないより余程マシだ。
ここでなら、戦える。
だが、地の利がすべて僕のものというわけでもなかった。
湿った地面は僕の動きを鈍らせるが、よほどバランス感覚が鍛えられているのか、フーラァタの速度は緩まない。突進してくる悪意の先端を躱しきれず、頬に熱と痺れが走った。痛覚が肌を破る。血の滑る感触が顎まで伝わる。
木々は僕だけにではなく、フーラァタにもまた、恩恵を与えていた。人の胴ほどもあるクスノキは、フーラァタが足場とするのに十分な強度を持っていた。こんなときだというのにデギ・グーを追うセイクの姿が脳裏に閃く。彼同様フーラァタも縦横無尽に動き回り、狙いをぼやかせ、思わぬ角度から攻撃してくる。
逃げることだけに集中していればなんとか避けられるが、それだけだ。
離れてはいけない、と思いつつも、それを気にかけられる余裕はなかった。ナイフが肌をかすめるたび、蹴りが目の前に横切るたび、雷撃の滓が皮膚を焼くたびに実力の差を強く思い知らされた。
戦いの中で生きるとはどういうことなのか、と突きつけられるように。
「どうしたア、追いついちまうぞオ!」
喜悦の興奮が混じったフーラァタの声が鼓膜で濾過され、恐怖へと変質する。遊ばれているのが分かり、聞いてはならない、聞けば飲み込まれる、僕はそう考えながら、〈腕〉を振るった。
直撃した感触がびりびりと伝わる。が、追撃のために距離を詰めることができない。せめて苦痛に歪む表情を見ることができたのならまだ落ち着けたかもしれないが、木々は誰の味方でもなく、僕の視界からフーラァタの姿を覆い隠していた。
なら、距離を取るべきだ。どうせ追ってくるんだから。
僕の脳は正常な判断を下し、だが、身体は命令を受け付けない。一分にも満たないわずかな攻防で、呼吸が乱れてしまっていた。
孤独に戦うことがここまで精神をすり減らすなんて……。
僕がミスをしても帳消しにしてくれる人はいない。その事実は僕に強烈な焦燥を与えた。足が重くなり、思考が揺れ、困惑している間にフーラァタが木の陰から姿を現した。
「痛えなア」
言葉とは裏腹に痛みを感じている気配はない。緊迫した状況に不釣り合いな笑顔を浮かべ、再び迫ってきている。
……どうすれば、この男を止めることができる?
たとえ手足が千切れてもこいつは這って僕を殺しに来るだろう。そして、僕には手足を千切ることなんてできやしないのだ。
――ああ、だめだ、集中しろ、余計なことを考えるな!
息を吐き出し、フーラァタに正対する。彼は品定めするように、ゆっくりと僕に向かって進み、僕の〈腕〉の射程、その三歩先で立ち止まった。
〈腕〉を伸ばしてみるか? もしかしたら当たるかもしれない。
そう考えたものの、決意はできなかった。外れた瞬間、フーラァタの短剣に喉を貫かれるのではないか、その恐怖が胸から昇ってくる。僕は唾を飲み込み、いつ飛び込まれてもいいように構えた。
フーラァタはじっと僕を観察してきている。
焦れったくなるほどの時間が過ぎる。遠くから剣戟の音が激しく響いていた。ヤクバたちの戦いの音だろうか。
――がさり。
葉の擦れる音にフーラァタの足下へと視線が動いた。だが、彼の足は微動だにしていない。それに、聞こえたのは、右から――危機感が翻り、僕は慌てて後ろへと飛び退く。その瞬間、それまで僕がいた位置に刃が突き立てられた。地中に石があったのか、がぎ、と耳障りな音が飛ぶ。
木の上から襲ってきた男は舌打ちをして、フーラァタへと目配せをした。
「フーラァタ殿、助太刀に来ました」
くそ、ただでさえ厄介なのに――。
二対一では敵うはずもない。どうすればいい? 必死に頭を回転させる。ゆっくりと歩み寄るフーラァタとたった今現れた男――得物は直剣だ。そいつもまた、今まで僕たちを襲ってきた有象無象とは違う雰囲気に満ちていた。
まだ、パルタたちから離れてそう経っていない。遠くで響く戦闘の音は絶えず続いていて、セイクが戻ってきたとしても先に音の方へと向かうだろう。
僕の〈腕〉では大きな音は出せない。かつてレクシナが言った「地味」という言葉を思い出す。まさか、こんなことになるだなんて想像もしておらず、苦笑が浮かんだ。というより、気が紛れないものか、と自分から浮かべたのだが、大した意味はなかった。
男が直剣を構えたままじりじりと近づいてくる。
閉じた男の口の端から血が流れる。
「え」
ごぶっ、と水泡が弾けるような鈍い音が、男の口から漏れた。何が起こったのか理解できないのか、男はうつろな瞳で辺りを見回す。強い放電が男の身体を駆け巡る。最期の瞬間まで彼は背中に突き立てられた凶刃がどこから来たものか理解することなく、くずおれた。
彼の背後に立っていたフーラァタが冷めた視線を送っている。
「邪魔だ、勝手に場を荒らすんじゃねエ」そう言ってフーラァタは血で濡れたナイフを抜き、男の頭を足蹴にした。「さア、続きだ、続き」
――この男は、やはり、危険だ。
ギルデンスとよく似ているが違う。
ギルデンスは戦いそのものを求めていた。より大きく、より激しい戦いを、だ。だが、目の前にいるこの獣は違う。
フーラァタは戦いの結果生まれる立場を求めているのだ。強者となり、弱者を踏みにじることだけを目的にして、戦っている。そこには、慈悲や理、方法の潔さなどありはしない。ただ、殺して、嘲笑う――そのためだけに生きている怪物。
どうすれば、この怪物を止められる?
再び頭に過ぎったその考えは、すぐに結論へと逢着した。すなわち、「息の根を止めるしかない」という単純な答えだ。
だが、僕は科学の鎖で縛られていて、また、それを成し遂げる力もない。
フーラァタが僕へと近づいてくる。




