38、再会
到着した翌日には語学に堪能な者が見つかった。それから毎日、僕はカンパルツォとウェンビアノ、フェン、そして、どうせなら一緒に、ということでアシュタヤとベルメイアも連れて領主の館を訪れていた。
語学の教師は僕が異国語を習得する早さに目を見開いた。人の脳と違い、翻訳装置は一度覚えた単語や文法を忘れない。また、口や舌の筋肉にも連動しているため、発音もすんなりとできるようになる。
アシュタヤやベルメイアもそれなりの速度ではあったのかもしれない。彼女たちは勤勉だった。ただ、何度も発音を繰り返し、単語を記憶するというやり方はどうにも非効率に思えた。翻訳装置が開発されるまで人間はこのようにして他の国の言葉を覚えていたのだな、と考えると科学の獰猛さに呆れと感心を抱かざるを得ない。
「ニール、すごい」と手放しで褒めるアシュタヤの横で負けず嫌いのベルメイアが拗ねる。
「なによ、ずるじゃない」
「まあ、ずるではあるんでしょうけど」
ずる、という言葉が何を示しているか知らない語学教師の男はそれを聞き流しながらも目を輝かせていた。
「しかし、ニールくん、こうなったらうちの商館でも働いて欲しいくらいだよ」
男はかなり大きな規模の商会で働いているらしく、僕と会うたびに勧誘を繰り返した。丁寧に拒絶しているにも関わらず、だ。その日も、鼻息荒く僕の素晴らしさを語られ、辟易としていた。
頭の片隅においてあった未来予知のことなどすっぽりと抜け落ちていて、おどける余裕すらあったほどだ。
授業が終わった僕たちが部屋から出て、領主の館の玄関口でカンパルツォたちを待っていたときにその瞬間が訪れた。
〇
僕たちの前に現れたのはフェンだった。会談は終わったのか、と訊ねる前に彼の浮かない表情に気がつき、僕は思わず訝る。
「……どうしたの?」
「ニール、お前に客が来ている」
「客? 誰が――」
来てるの? と聞こうとした瞬間、胸の中にざわつきが満ちた。
誰が? 聞くまでもないじゃないか。
忘れかけていた事実が、脳に叩きつけられる。それまで胸の中にあった穏やかな楽しさが一瞬で蒸発していて、その残滓が焼けつき、心を焦がすかのようにも思えた。
「ニールに客? 珍しいわねえ」
呑気な口調を窘めるかのようにアシュタヤがベルメイアの肩に両手を回す。
「……フェン」
その声は、僕自身の耳にすら届かないほどに小さなものだった。帰らない、と豪語していた僕はどこかに消えている。現実の僕は項垂れ、弱々しく頭を抱えていた。
「会いたくない」と何とか声を絞り出す。
恐怖が、身体を縛り付けていた。逃げ出そうにも足が動かない。
……ああ、クソ、なんで、なんでなんで! もういいじゃないか、僕のことなんて、そのまま放っておいてくれよ、……どうして、今さら!
「会わない、って伝えてきてくれよ! フェンだって僕がいなくなるなんて望んでないだろ!」
ああ、なんて、卑怯だ。大事な人を頼りにして、僕は。
それを自覚しながら、僕はフェンに縋る。これまで見た中でいちばん強い彼ならどうにかしてくれるんじゃないか、と思い込んでいた。
「……当然だ」
フェンが苦々しい顔で頷くのを見て、胸が締めつけられる。
わかっている、彼は突き放しているわけではない。会って、決着をつけて欲しいと願っているのだろう。僕が、僕自身で、かつての世界と決別する。あるいは帰ることを選択しても文句を言うつもりはない。フェンはそう思っているはずだ。
それでも、僕の喉からは滑稽なほどに弱々しい言葉だけが出て行った。
「なら……なら、そいつを追い返してよ! なんで、今なんだ! なんで……」
来るなら僕がこの世界で期待を抱き始める前に来て欲しかった。どうして生きる術を見つけて、メイトリンに到着して、アシュタヤやあの三人と酒を飲めるようになって、この世界で生きるために新しい言葉を学び始めた今、来るんだ!
これではまるで……。
「最後の猶予を与えたみたいじゃないか……」
僕の一言に全員が黙る。
――いやだ。
「僕はここにいるんだ。あんなところに戻りたくない……」
身体が震える。体温が消え去ったかのような気がして、僕は縮こまる。それと同時に、僕の身体は暖かなものに包まれた。
「……アシュタヤ」
アシュタヤが凜とした声で「ニール」と囁く。顔を上げると鼻先が触れ合いそうな距離に彼女の顔があった。
「大丈夫……。あなたがここにいたいならそうするべきよ。人がいるべき場所は、その人がいたいと願っている場所だと思う。大丈夫、無理矢理連れ去られるのを見過ごしなんてしないから」
「アシュタヤ……」
「怖がらないで? 私があなたを守るから。私もあなたと一緒にいたいもの」
ああ、と呻きそうになった。
強くなる、って言ったくせに、また、彼女に守られている。
僕は俯き、強く奥歯を噛みしめた。そうだ、僕は僕自身の口で決別しなければならないのだ。俯いていたって何も変わりはしない。息を吐き出す。
「だから、一緒に行って、しっかりと断りましょう?」とアシュタヤは僕の手を握った。
「――その必要はないよ」
領主の館、その奥の方から聞こえた声に耳を疑った。
この世界では用いられていない英語。忘れられるはずもない、聞き覚えのある声。
顔を上げる。足音が近づいてくる。
まさか、と声が出た。
「どうして……」
「どうして、とは、あんまりじゃないか」
金髪に碧眼、何度も何度も見たことがある――僕と同じ顔。
「《《ニール》》」
そう言ったのは――《《他ならぬ僕だ》》。
「なあ、ニール、僕のことはジオールと呼ぶって約束しただろ?」
僕と同じ顔をしたニール=ジオール・オブライエンは笑みを湛えて歩み寄ってくる。
アシュタヤもベルメイアも言葉をなくしていた。驚愕を表情に貼り付けたまま、ジオールをじっと見つめている。
ジオールは一度咳払いをして、この国の言葉を話し始めた。
「ニールの方も翻訳装置は壊れていないみたいだな。お前の方の通信機能とか色々破損してるから会うまでにこんなにかかってしまった」
「……できれば会いたくなかった」
「そう邪険にしないでくれよ」ジオールは顎で後ろを指す。「ほら、懐かしい顔も連れてきたんだ」
彼が示した方向に視線を移した瞬間、僕の中で何かが切れそうになった。
「バルト……!」
なんでお前がここにいるんだ。
執拗に僕に暴力を振るってきたクラスメイト。利己的で傲慢なその男に蹴られた鼻の痛みを思い出し、顔面が疼いた。口の中が乾いている。この世でもっとも会いたくなかった人間が二人もいる、それだけで怒りが飽和しそうになった。
「久しぶりだな、レプリカ」
全身が強張る。
拳を握りしめ、正面にいたアシュタヤを退けて僕は立ち上がった。彼が発音する「レプリカ」には紛れもない侮蔑のニュアンスがあり、頭の中がかっと熱くなった。
お前には、お前にだけは、その名で呼ばれたくない!
だが、僕よりも先に「その名で呼ぶな!」と怒号を発したのはジオールだった。彼はバルトへと詰め寄り、鋭い視線を送る。
「バルトくん、ニールを模造品扱いしているのか?」
「いっ、いえ、すいません、そういうつもりでは!」
「……ニール、すまないね。上がうるさくて一人じゃだめだって言うんだ。それで彼が」
申し訳なさそうな顔でジオールは頭を下げる。その仕草が僕の心を引っ掻く。
「ジオール、頼むから帰ってくれ!」
「帰るよ、ニールと一緒に」
「僕は帰らない!」
隣にいたアシュタヤが僕の声量にびくりと身を竦ませた。だが、ジオールは平然としている。そう言われることも知っていたかのような表情だった。
「ニール、我が儘を言うな。ここはお前の生きる世界ではない。僕たちの生きる世界はあの平穏な、科学の世界だ。こんな血生臭い場所ではないだろう」
「違う!」
血生臭い、とかそんな陳腐な単語でこの世界を表現するな!
僕は必死にジオールを睨む。今まで彼に対してそんな目を向けてきたことはなかった。
ジオールは僕では及びもつかないほどの大人物だった。だから、僕はいつもジオールと比べられ、そのたびに彼を憎しみの混じった羨望で見つめていた。だが、それでも彼がいなければ僕の存在はなかったのも事実ではある。
劣等感と憤慨で、心がめちゃくちゃになりそうだった。
「何が違うんだ?」とジオールは静かに訊ねてくる。
「……少なくとも、あの世界よりずっといい! この世界には僕の生きる場所があるんだ」
「虐げられないからね、そう思うのも無理はない。けど、これからは違う。ニール、お前は元の世界に帰ったら初めて世界を渡った人間として褒めそやされるぞ」
それに、一体、何の価値があるというのだ!
地位や名声などいらない。僕が欲しているのは心から信頼できる人間だ。あの世界にはそんな人はどこにもいなかった。
溢れる感情が怒りで濁り、言葉にならない。呼吸が荒くなる。
ジオールが一歩踏み出したのが、視界に映った――やめろ、来るな、消えてくれ!
だが、僕の思いとは裏腹に彼は近づいてくる。
そのとき、「あの」と小さな声が僕とジオールの間に割って入った。アシュタヤだった。
「ジオール、さん、でしたね? 少しよろしいですか」
「ああ、どうぞ」
ジオールはにこやかにアシュタヤを見つめる。では、とアシュタヤは小さく一礼して言葉を続けた。
「ニールとはご家族のようで、積もる話もあるでしょう。ですが、こちらにも時間をくださいませんか? ここで帰る、帰らないの話を続けても埒があかないでしょう?」
「時間ならもう差し上げたはずですが?」
「とはいえ、です。確かに前の宿場町であなたからの伝言は受け取りました。しかし、私たちもあれが真実だとは思っていませんでした。それに、こちらとしてもニールがいなくなってしまうのも困ります」
ふうん、とジオールが唸る。その視線はアシュタヤの胸から伸びる認識の〈糸〉に向かっていた。物珍しそうにその青い〈糸〉を見た後、彼は小さな溜息を吐き、言った。
「それは組織的な意味で、ですか? それとも、個人的な意味で、ですか?」
「両方です」
きっぱりとアシュタヤは言い返す。彼女の手が僕の腕に触れる。その感触に僕は一度目を瞑り、それから意を決した。彼女が守ろうとしてくれている。ならば、僕も強く主張しなければいけない。
「……ジオール、もう一度言っておくけど、僕は帰らない。それでも、無理矢理に僕を連れ帰るというなら……僕は抵抗する」
世界が若草色に染まる。ジオールが眉がぴくりと動く。展開された僕の〈腕〉は感情の昂ぶりに従って宙を乱暴に掻きむしった。
そのさまを見て、ジオールは目を瞠ったあと、くくく、と笑い声を漏らした。
「これは傑作だ」
「……何がおかしいんだ」
「だって、そうだろう? ニール、お前は今まで僕に対して反抗だとかそういうものを一切してこなかった。それがこれだ。いやあ……成長したね」
成長、だと?
この世界に来てからの僕を知らない君が、知ったふうな口を聞くな――。
その瞬間、僕の視界は真っ白になった。
振り下ろされた右腕とともに〈腕〉がジオールめがけて突き進んでいく。
だが、その攻撃はジオールに届くことはなかった。僕の〈腕〉は彼の身体に触れる瞬間に、ぴたりと動きを止めた。
思考がはじけ飛ぶ。「え」と感情にそぐわない呆けた声が漏れた。
「……ニール、これは厭味とかそういうのではなくて、単純に嬉しいんだよ」
眉一つ動かさずにジオールは言う。
目の前の光景を信じることができなかった。
サイコキネシスを、サイコキネシスで止められている――。
他人のサイコキネシスに干渉するだなんて今までに聞いたことがない。だが、現実の光景として、僕の若草色の〈腕〉はジオールの左肩から伸びる白い光の塊に押さえつけられていた。
理論的には確かに可能だ。
超能力には質量の移動以外に厳密な制約などない。自分が捕まえられる、と思ったのなら捕まえることができる。
だが、それでも――。
僕は必死になってジオールのサイコキネシスを振り払う。彼が力を緩めたのか、それとも僕の力が勝ったのか、絡みついていた光はあっさりとほどけた。
「ニール、お前はこの二ヶ月半で驚くほどの成長を遂げた。それで十分だろう?」
「十分って……どういう意味だよ!」
「一つだけ言っておくが」
ジオールは真っ直ぐ僕の目を見る。その瞳は背筋が凍りそうになるほど冷たい。
「お前がこれ以上ここにいると、絶対に不幸になる」
――何を、言っている?
「それは」と僕の後ろからアシュタヤの声が飛んだ。「それはあなたの未来視の力、ですか」
「未来視はあまり得意じゃないんですけどね、まあ、そうです」
ジオールは肩を竦め、それから周囲を窺った。領主の館の玄関口でする口論はそれなりに人の注意を引いていて、視線が集まっていた。それを嫌ったわけではないのだろうが、彼は「うーん」と頭を掻き、背を向ける。
「まあ、確かにそこのアシュタヤさん、と言ったかな。彼女の言った通り、このままじゃ埒があかなさそうだ。日を改めることにしよう。……バルトくん、行こうか」
「はっ、はい」
「じゃあニール。ちゃんと身の振り方を考えて、別れを告げておくんだ」
「……いやだ」
僕の拒絶に、ジオールは困ったように笑った。バルトが忌々しげに、僕に一瞥をくれる。そのまま彼らは館を後にした。
心の中でジオールの言葉が繰り返し響いている。「不幸になる」――たったそれだけの言葉が重くのし掛かり、僕の感情をどす黒く塗りつぶしていた。




