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罪人のレプリカ/化け物のつくりかた  作者: カスイ漁池
第二章「融解する器」 第一節
39/135

35、確信

 次の宿場町は狭隘な山路を越えて半日ほど進んだところにある。山脈の西側に街道と交わっているため、先日訪れた町よりもずっと大きく、人も多かった。今朝越えた山は火山だったのだろう、硫黄臭が漂っている。冬の乾いた空気はなく、湿った風が肌を撫でた。

 湯の沸く町として有名だ、と言ったのはパルタだ。軍人たちの間では特に有名らしく、湯につかれば切り傷の治りがよくなると語り、彼自身も何度か足を運んだことがあるという。魔法が溶けてるんだろうなあ、という物言いからこの世界の科学の歩みが遅い理由がなんとなく想像がついた。


 僕たちは要人用の宿に馬車を置いた後、行動を別にすることになった。カンパルツォはパルタと二人の若い護衛とともに領主の屋敷へ、ウェンビアノがフェンとヤクバを連れて交流があるという商業組合へ向かった。宿の警備はこの街にいる自警団の面々が行っている。残された僕たち五人は馬具などの調達を任されていた。

 任された、とはいえ、雑用は小一時間もあれば終わる。自由時間を与えられていたという形に近く、僕たちは温泉宿と土産屋が立ち並ぶ通りを物色しながら歩いていた。その途中でアシュタヤが冬物のブーツを見つけ、僕に履かせた。客引きのための既製品のはずなのに、その靴はまるで僕のために誂えたかのようにぴったりで、彼女は問答無用で購入を決めた。何度も断ったけれど、彼女の頑固さの前では意味がなく、知らないうちに僕もにやけていたみたいで、そうなってしまうとみんなが僕のことを笑う。


 もしかしたらクリスマスの話をしたからかもしれない。申し訳なかったけれど、嬉しいのは事実で、その場で僕は靴を取り替え、何度か飛び跳ねてみせた。「何だか子どもみたい」とベルメイアに笑われ、頭を掻く。顔が赤くなっているのを自覚して歩くスピードを上げたが、セイクとレクシナは意地悪く併走してきてたまったものではなかった。


「やっぱりこの時期だと人が多いねえ」


 漂う臭いを嗅いでレクシナが口元を緩ませる。からかわれてから時間が経っており、そのおかげで僕も観光を楽しめるくらいの余裕は生まれていた。

 周囲の人と風景を眺めながら訊ねる。


「レクシナは来たことあるんだ?」

 その問いに答えたのはセイクだ。「軍から抜けたときだったっけな。メイトリンで遊ぶ前に英気を養おう、ってよ」


 おかしな話だ。僕は苦笑する。

 遊ぶために英気を養うというのはちょっとずれているのではないか。英気を養う前に英気を養おうと言っているようなものだ。そう指摘したらセイクはうるせえなあ、と面倒そうにあしらい、レクシナは「朝飯を食べるのなんて朝飯前だよねー」と訳のわからないことを述べた。

 見れば二人ともいつの間にか片手に酒を持っている。こうなってしまえば何を言っても効果はなく、僕はそれ以上の追求を打ち切った。ベルメイアは逃げるようにしてアシュタヤの後ろに隠れている。彼女も大変だ。


「ニールちゃんは温泉、入ったことある?」

「ないかな。前住んでた国の西側だとそういう地域もあるらしいけど」

「もったいなーい」


 レクシナが寒さと酔いで紅潮した顔を寄せてくる。頬と頬がつきそうになり、僕は慌てて仰け反り、顔を逸らした。


「せっかくだし、入っていこうよ。ね、いいでしょ、アシュタヤちゃん」

「ええ、せっかくですしね。ベルもそうしましょ」

 だが、ベルメイアは首をぶんぶんと横に振り、拒否の意を示した。「いやよ! レクシナの前で裸になるのはごめんだわ!」

「何もしないってばあ」


 ちろり、とレクシナがわざとらしく舌先を出したせいか、ベルメイアは威嚇するように唸り、僕とアシュタヤを盾にした。

 このひと月の間で見慣れた光景だ。はしゃぐレクシナをアシュタヤがおかしそうに笑い、ベルメイアが喚く。この輪の中にいると不思議と心が落ち着いた。


「セイク、どうする? 温泉――」


 そこまで言いかけて、止まる。右にいるセイクはいやに真面目な顔をして周囲を睨んでいた。覗きの手段だとか混浴の店でも探してるの? 僕は溜息を吐き、彼の肩を叩く。


「ねえ、セイク」

「静かにしろ、ニール坊」

「え」

「……なに、敵?」そう言ったレクシナの頬からは酔いの朱が消えている。

「いや……、微妙だな……まあ、大丈夫だろ」

「ちょっとお、不安になること言わないでよね」

「そりゃ見られてたら警戒するだろが」

「見られてた?」と僕とアシュタヤは同時に訊き返す。

「あちこちから、な。まあ、殺気とかそういうのじゃねえし、無視していいんじゃねえの。視線の数だけ多かったから気になっただけだよ」


 数が多い? 

 僕は周囲に視線を巡らせる。確かに僕たちを見る人は大勢いた。レクシナとベルメイアが大声でじゃれついていたから無理もないだろう。だが、そんな視線は既に慣れている。それはセイクも同じはずで、警戒に値するものとは思えなかった。


「アシュタヤ、何か感じた?」


 先日、僕とアシュタヤはほとんど同じ瞬間に誰かに覗き見られているような感覚を味わっている。僕が感じなかったのだ、きっと彼女も同じだろうとは思ったが、訊ねずにはいられなかった。

 アシュタヤは当然のように首を振る。「ううん、なにも」それから、彼女は能力を使用したが、やはり返答に変わりなかった。


「おかしな人はいなそうだけど……好奇心以上の何かを抱いている人がいるのかな」

「危ない感じはしない?」

「うん」


 そう、だよね、と僕は頷く。どこを見ても僕たちに対して怒りだとか後ろ暗い感情を抱いているような人はいない。通りを歩いているのはほとんどが観光客なのだろう、湯屋の前で立ち止まっている僕たちを一瞥してもすぐに別の方向へ視線を移している。

 考えすぎ、なのだろうか。

 一つ前の宿場町であれだけ大騒ぎしてしまったのが尾を引いているのかもしれない。僕はゆっくりと息を吐いて、心を落ち着かせようと試みる。


「ほら、ニールちゃん、アシュタヤちゃん、早く行こうよお」


 警戒するに値しないとわかった瞬間、再び呑気な声色に戻ったレクシナが僕たちを手招きする。しっかりと捕まえられたベルメイアは「わかったから! 苦しいってば!」と喚声を上げていた。

 僕とアシュタヤは顔を見合わせ、どちらともなく、レクシナたちの方へと向かう。

 ――セイクが感じた視線の理由を知ったのは湯から上がり、馬小屋へ赴いた時だ。


     〇


 馬小屋の主人は僕を見るなり、素っ頓狂な声を上げた。「あれ、あんた、もしかして」と言って上着のポケットから汚れた紙を引っ張り出し、それを広げて、「やっぱりそうだ」と一人で納得を示した。その視線は明らかに僕に向いている。

「知り合い、のはずないわよね」とベルメイアが訝しげに僕の顔と禿げた主人の顔を見比べる。当然だ、バンザッタの外に僕の知り合いなどいるわけがなかった。


「僕が、どうかしましたか」

「いやあ、伝言を頼まれたんだよ。あと、これも」


 伝言? そう訊き返す前に、主人は汚れた紙を手渡してくる。

 受け取った瞬間、叫び声を上げそうになった。

 紙に描かれていたのは、見間違えるはずもない――僕の顔だった。


「ちょっと、なにこれ、本物みたい!」とレクシナが僕の手から紙をひったくる。「ほら、セイク、これすごくない? こんな絵見たことない!」

「うおっ、なんだこりゃ。そのまんまじゃねえか」


 後ろにいた四人が僕と紙を見比べて異口同音に感嘆の声を上げている。

 だが、僕ははしゃぐ気にはなれなかった。むしろ胸の中に暗澹たる思いが渦巻き始めている。

 紙に描かれた僕の顔――恐るべき精密さのそれは描かれたというよりも、もはや映し出された、と形容した方が近い。そして、絵ではなく、むしろ写真と呼んだ方が相応しいそれには筆致と呼べるものがまるでなかった。筆で塗料が塗りつけられたときに生じるべき「動き」、それが不自然なほどに存在しなかったのだ。

 超能力の一種、念写で映し出されたものの代表的な特徴だ。

 そして――


「なあ、これ、なんて書いてあんだ? この国の文字じゃねえよな」

「そうですね……見たことないです」

「……それは英語だよ」


 誰に言うでもなく、小さく呟く。

 エーゴ? と首を傾げる彼らの手から紙を受け取り、僕はその文面に目を落とした。


『メイトリンなる都市で待つ――追伸 雷に気をつけろ』


「なんて書いてるの?」と再び顔を寄せてくるレクシナを無視して、馬小屋の主人に問いかける。

「これ、誰が――どんな人が持ってきたんですか?」

「気の強そうな若い男だったよ。けったいな服を着てな、ああ、あんたみたいな髪の色で短髪だった」

「何人でした?」

「ん、一人だったけど……馬は二頭持ってったな」


 少なくとも二人、ということだ。大規模な編成ではないが、それだけに危機感が募る。目的はわからない。単純に調査のために来た可能性もあるし、あるいは、これは本当に可能性としては小さいけれど、僕を「助けに」来たということも考えられる。どちらにせよはっきりしているのは、僕よりも数段評価の高い人物がこの世界に来ていると言うことだった。

 精密な念写能力、千里眼、追伸の内容から鑑みると未来視もできるのかもしれない。そして、おそらく自己防衛のための力も持っているだろう。

 当てはまる人物の名前が浮かびかける。が、すぐに打ち消す。

 彼がこんな任務に就くわけがない。国家レベルで重用されている人間だ、命の危険があるような任務に志願したところで許可が下りるはずがなかった。


「ねえ、ニール、大丈夫?」とアシュタヤに顔を覗き込まれて、奥歯を強く噛みしめていることに気がついた。手の中で紙の端が折れ曲がっている。僕は努めて明るい顔で「なんでもないよ」と取り繕った。

 言葉とは裏腹に胸中は暗い。

 あの夜、フェンやアシュタヤの提示した可能性が僕の中で確信へと変わっていた。

 この世界に、超能力者が来ている――。


「ちょっとニール! 説明しなさいよ」とベルメイアが服の裾を引っ張ってきて、「状況がわかんねえよ」とセイクが僕の肩を揺らす。

「後で説明するよ、これはたぶん、僕だけに関わる問題じゃないから……。ひとまず馬を代えて、カンパルツォさまたちの帰りを待とう」


 アシュタヤに視線を送る。それだけで彼女は僕の考えを読み取っていたようで、薄い唇を真一文字に結んだ。心配そうな瞳に僕の胸がちくりと痛んだ。


      〇


 食事を摂った後、僕はカンパルツォとウェンビアノにお願いをして時間を割いてもらうことにした。要人用の宿泊施設には会食ができるように、と大きなテーブルが置かれている。僕を含めた十二人が席に着き、今後の予定に関する連絡を行った後で、ウェンビアノが視線を向けてきた。


「それで、ニール、話しておきたいこととはなんだ?」

「はい」立ち上がり、僕は馬小屋の主人から受け取った紙を広げる。「これを見てください」


 にわかに部屋の中がざわついた。色こそついていないが、僕と瓜二つ――いや、僕の顔がそのまま映し出されたその絵をウェンビアノたちが訝しげに見ている。「写実的」の範疇を越えたその絵はきっと彼らからしたら驚嘆に値するものだろう。


「これは今日、馬具の調達をしに行った馬小屋で手に入れたものです。みなさんには僕の力のことは出発前に明かしました。おそらく――いえ、これは確実に超能力の一つ、念写によって映し出されたものだと思われます」

 ウェンビアノが噛みしめるように繰り返す。「念写」

「ええ、筆で描いたのではなく、超能力で塗料を操り、浮かび上がらせる力です。そして、この下にある文字、これは僕の世界で使われていた言語です」


 そこまで言わずとも聡明なウェンビアノは結論に辿りついていたようだった。彼は鋭い目つきをさらに鋭くして、呟く。


「つまり、お前の世界の人間がこちらの世界に来ている、ということだな」

「そういうことになります。しかも、相手は僕がここにいることを知っている……これも超能力でしょう」

「ねえ、ニール、帰るとか言わないわよね?」


 不安げな声を出したのはベルメイアだった。先日の事件以降、彼女は僕に親しみを覚えてくれている。まったく別の世界……彼女はそんなおとぎ話が襲いかかってくるような幻想に囚われているのかもしれない、寂しそうな目つきで僕を見つめていた。

 彼女の不安が伝染したのだろうか、再びざわめきが広がる。黙って僕の言葉を待っていたのはカンパルツォとウェンビアノ、フェン、そしてアシュタヤだけだった。

 息を吐き、続ける。


「僕は……可能な限り、ここに留まるつもりです。ただ、相手がそれを許さないかもしれない。これは推測ですが、相手はおそらく僕よりもずっとうまくサイコキネシスを操れるはずです。それに、馬小屋の主人の話を聞いた限り、複数だ。抵抗しても拘束される可能性の方が高い。……なので」


 僕はそこでいったん言葉を切り、全員を順番に見つめた。


「彼らから僕を守って欲しい、とお願いしたいんです」


 一拍の空白。その後に笑いを漏らしたのはカンパルツォだった。

 モノクロの不安の上に、色彩鮮やかな笑い声が塗り重ねられる。神妙にしていた僕の仲間たちは弛緩した空気にあてられたのか、声を上げて笑い始めた。アシュタヤも嬉しそうに微笑んで僕をじっと見ている。ベルメイアだけが何が面白いのかわからないようで周囲をきょろきょろと見回していた。

 いちばん高い笑い声を上げていたセイクが立ち上がり、いやに慇懃な口調でおどけた。


「ああ、ああ、お守りになって差し上げますよ、王子様」


 あまりに芝居がかった口調に僕の肩からも力が抜ける。ずいぶんと心が軽くなって、頭を下げるのにも決意は必要なかった。


「僕もできる限りの抵抗はするつもりです。もちろん、そういう暴力沙汰にならないかもしれませんが……もし、そのときになったらお願いします」


 護衛の全員が口々に「仕方ねえなあ」と口を揃える。

 守られるべき護衛が自分を守ってくれ、と願い出るのはきっとおかしな話なのだろう。

 僕はちらりとフェンの顔を覗き見る。

 これでいいんだろ? 守られることは恥ではない。そう言ったのはフェンだ。主従関係という言葉など、そう、ただの言葉に過ぎない。僕たちはお互いを守り合う。護衛だとかそう言った役目に囚われる必要はない。

 フェンは僕の視線の意図に気付いたのか、満足げに頷いた。

 僕の依頼が快諾されたあと、席に着いている面々は僕の顔が映し出されている紙を矯めつ眇めつ眺めていた。僕と紙を見比べ、「一緒だなあ」と鷹揚に呟く声が何度も聞こえた。ざわめきの中、ウェンビアノが紙の下部に書かれた文章を指して、訊ねてきた。

「それで、下に書かれている文章らしきものは何と言う意味だ?」

「ああ」と僕は一度紙に目をやる。「メイトリンで待つ、だそうです」

「それだけ?」とレクシナが口を挟む。

「あと、雷に気をつけろ、って……こっちはよくわからない。意味のない言葉を書くとは思えないから何かしら意味があるとは思うんだけど……わざわざこうして忠告すると言うことはたぶん未来視だ」

「未来視」


 幾人かにより味わうように発音された単語に僕は頷き、説明を始める。

 未来、とはあくまで蓋然性、高い強度の実現可能性であって、確定した事項ではない。だから些細な行動で変化する。A地点で雷に打たれる未来を見た僕が、B地点に行き先を変えてもやはり雷に打たれる、なんてことはない。


「それなら突発的な事故を指しているわけではあるまい」


 カンパルツォの言葉に頷いたのは僕だけではなかった。ヤクバもその一人だ。


「雨が降りそうな気配もないな」

「なら、人為的なもの――魔法か」

「メイトリンまでの間に刺客が来る、というわけだ」


 ウェンビアノとフェンが目を合わせる。以前話していたあの粘ついた視線の正体がその雷の扱いに長けた者なのだろう。僕はそう合点し、敵の姿をイメージしようとする。

 雷は自然現象の中でいちばん、と言ってもいいほどに暴力的な現象だ。恐ろしい速度で人を襲い、その膨大な熱量で一瞬にして死の断崖へと突き落とす。僕の世界でも雷による死者は多かった。今でも落雷による山火事がないわけではない。

 そうして、僕の頭の中に暴力的な敵の姿が形成されていく。実際に見たわけでもないのに、殺人に一切の躊躇いを持たない男がはっきりと見えた。


「大規模術士だと面倒ですが」

 パルタの危惧をウェンビアノが否定する。「雷を扱う大規模術士などいたら軍で丁重にもてなされているだろう」

「どっちにしたってやだなあ、あたし、鎖を捕まえられたらもうだめだし」

「俺だって」とヤクバが大袈裟に震える。「基本待ちだから戦いたくない。いい的だ」

「その対策も含めてもう少し話し合おう」


 フェンは一度そうまとめ、カンパルツォの顔を窺う。会議はいったん終了となり、カンパルツォやウェンビアノ、アシュタヤ、ベルメイアは退室して割り当てられた寝室へと向かっていった。

 護衛団だけで行われた話し合いはしばらく続いた。


     〇


 深夜、ふと目を覚ました。

 室内にある暖炉からは火が落とされていたが、部屋の四隅に設置された魔法石の暖房装置から暖かな空気が滲んでいて、寒くはなかった。護衛団は一つの部屋に固められているため、いくつもの寝息が折り重なっている。体格が大きいせいなのか、ヤクバのいびきがいちばん強く聞こえた。

 寝付くに寝付けず、僕は一度部屋の外に出る。外には暖房がなく、冬の冷気が染みつくように肌を舐めた。部屋に戻り、上着を羽織ってから、再び廊下へと出る。


 暗い廊下はしんと静まりかえっていた。要人用の宿泊施設のため、壁には装飾過多な燭台がいくつもあったが、そのほとんどの灯りが落とされている。三つおきに発光している魔法石はバンザッタと同様水を触媒として光るタイプなのだろう、それも供給されている水が少なくされているからかほとんど燐光と言ってもよいほどの強さだった。

 僕は用を足した後、部屋に戻ろうとしたが、やめた。冷たい空気のせいで目が冴えてしまっている。このままベッドの中に潜り込んだとしても微睡みが来るようには思えなかった。


 廊下から窓の外を覗く。門の前に立つ警備兵は槍を手に夜闇をじっと見つめている。カンパルツォが王から招かれた貴族と知っているからか、気を張っているのが明らかだった。

 外に出るのも憚られ、僕は屋上へと昇った。特にどうこうしようとしたつもりはない。ただ、窓の外に見える星が綺麗だな、と思っただけだ。


「寒いな……」


 独りごちて、町の景色を眺める。水の都メイトリンは貿易の拠点で船乗りが多いため、歓楽街が大きいらしい。その気質が流れてきているのか、この温泉町にも多くの光が点っていた。冬になると観光客が多く訪れるという話を思い出す。かなり遅い時間のはずだったが、ちらほらと歩く人の姿があった。

 僕は星を眺め、あの中に地球があったりしないものか、といつか朧気に考えた、益体のない想像に思いを巡らせる。……くだらない。溜息を吐く。温泉があちこちにあるせいで町全体の湿度が高く、僕の口から出た息はあっという間に白く色づいた。


 この世界に、僕の世界の人間が来ている。

 その意味を噛みしめる。

 つまりそれは、行き来する方法が見つかった、ということだった。一方通行のままであったなら研究所が誰かを派遣する理由はない。

 この二ヶ月でワームホール生成装置の小型化に成功したのか、あるいは僕が消え去ったことが何か有効に働いたのか。そもそもこちらからあちらに何か信号を送る手段があったのかもしれない。なんにせよ初めにこの世界に訪れたのは何一つ超能力をうまく操れない僕だ。予想外の事態に彼らもさぞ慌てたことだろう。


 僕は……僕は、初めから帰れるとは考えていなかった。

 あの闇の中フェンたちに発見され、バンザッタに到着する頃には、僕と僕の世界のあいだにはどうしようもない断絶が生まれているのだ、と思っていた。思い込んでいた。

 その認識がこうも容易く、壊される。

 何か大きな存在の手のひらの上で踊っていたようだ。聞こえるはずのない嘲笑が耳についた。

 いつかこの世界と僕の生まれた世界が限りなく近い隣人になる日が来るかもしれない。それが歓迎すべきことなのかどうか、僕には判断がつかなかった。


 善き隣人ならまだいい。魔法と超能力という異なる力を持った二つの世界が寄り添い、互いに貢献する――だが、どうしてもそう想像することができない。

 新しい資源、未知の技術、まったく別種のエネルギー、人は、特に、僕の生きている世界の人間たちはいつでもそういった自分たちの発展に寄与する何かを探していた。そのたびに水面下で、あるいは表立って争ってきた。魔法、という力のために、あるいは何らかの代替資源のために、欲を牙と変えて襲いかかってくるのは当然のようにも思える。

 魔法だとか超能力なんて、ちっぽけな力だ。フェンたちから大規模魔法の凄まじさは何度か聞いていたけれど、話にならない。選ばれし者の力なんて大したものではないのだ。

 名もなき人々が人差し指を五センチ動かしただけで、親指でボタンを押し込むだけで、科学技術は人を殺せる。


 ――想像が飛躍してしまった。

 やはり、僕の世界から誰かが来ているという事実が重くのし掛かっているのだろう。気付けば思考が沈んでしまう。

 僕は落ち着くために、一度目を瞑った。

 あまり考えすぎるな。もしも、の話にのめり込んでも意味はない。ゆっくりと深呼吸を繰り返す。息を吸って、吐くたびに夜の静寂に身体が溶けていくような気がした。

 だから、「ニール」とアシュタヤの声が聞こえたとき、飛び上がりそうなほどに驚いた。

 僕はおずおずと振り向き、彼女の姿を認めて、なんとか返事をする。


「……アシュタヤ、どうしたの、こんな時間に」

「ニールこそ」


 アシュタヤは微苦笑を浮かべ、歩み寄ってくる。厚手のコートを羽織っていたが、睡眠のせいで体温が下がっているのか、彼女は寒そうに首を竦めた。


「目を覚ましちゃってね」と僕は答える。「眠れそうになかったから、ちょっと外の空気を吸いに来たんだ」

「こんなに寒かったら余計目が冴えちゃわない?」

「そうなんだよ」小さく笑い、続ける。「それで、きみは?」

「私も起きちゃって……ああ、悪い夢を見てたわけじゃなくて、本当に偶然。それで、ふと思い立って力を使ったら、ニールがここにいたから、どうしたのかな、って」

「そっか」

「考え事?」

 少し考えてから首肯する。「まあ、ね」

「……やっぱり帰りたいって思ってたり、しない?」


 僕はその言葉に本気で慌てた。彼女の方に顔が向く。弱い風が吹いて、彼女の長い黒髪がさらりと揺れ、灰色の瞳が動いた。


「そんなはず、ない。できるなら僕はずっとここにいたい」


 本心だ。この二ヶ月で天秤の片側に随分と錘が載せられてしまった。しまった、というのも語弊がある。正しく言うなら、載せることができた、だ。

 かけがえのないものを見つけた僕は、もはや元の世界よりもこの世界を愛している。もし僕に帰る場所があるとしたら、アシュタヤたちの元か、あるいはバンザッタだ。元の世界ではない。

 その思いをなんとか伝えたが、アシュタヤは顔を伏せた。


「なんというか、よくない予感がするの」

「予感?」

「予感というか、不安かな……。ニールがいなくなってしまうような……。これまでの日々が夢みたいに消えちゃうんじゃないか、って」

「やめてくれよ、怖いから」

「うん、わかってる。わかってるんだけど、どうしても、ね」


 アシュタヤは一度大きく息を吸い、それからゆっくりと星空に視線を向けた。僕もそれに倣い、空を見る。冬の空気は冷たく澄んで、星のちらちらとした輝きが降ってくるようでもあった。

 よくない予感、という漠然とした言葉も深く考えないようにする。

 人は運命を知ることはできない。自分がこの先どうなるかなど、考えたところで答えが見つかるわけもない。だから少しでも幸せになりますように、と無邪気に願うしかないのだ。


「……戻ろうか、明日も早い」

「うん」


 アシュタヤは頷いて、笑みを作った。むりやり絞り出しかのような笑顔に胸が苦しくなり、僕は彼女を、あるいは、僕自身を勇気づけるために、アシュタヤの手を握った。冷たい彼女の指がするりと絡む。


「約束するよ」


 それが何のことか言わずともアシュタヤは分かっていたようだった。冷たい指がかすかに、だが確かに、僕の肌を押した。


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