男たちと獣
バンザッタの東南東、アノゴヨの森の奥に闇よりも暗い球体が生まれた。
握り拳ほどの大きさの黒い球は急速に膨張する。その勢いに黒はあらゆる色に分解されていった。球体は極彩色へと変じ、人の背丈よりもずっと大きくなる。シャボン玉のように表面を様々な色が流れ、やがて、音もなく割れた。
二人の男が球体のあった場所に立っている。どちらも金髪に青い目ではあったが、外見の印象はまるで異なる。一人は自信に漲り、自らの行く末になんら疑いを持っていない表情をしていた。一方でもう一人、短髪の男は背丈こそ高いものの、その全身から滲んでいたのは驚きと怯えだ。
「本当に移動するなんて……」
短髪は暗い森の中に視線を巡らせながらぶるりと震えた。ごまかすためなのか、凍えを取り繕っている姿を見て、もう一人の男が鼻で笑う。
「コートを羽織ってその震えが止まるなら羽織るといい」
「そ、そうですね」短髪はいそいそと背負っていた鞄を降ろし、厚手のコートを取り出す。「いや、しかし、まったく季節が逆ですね。あそこ、雪が積もってますよ」
「別に驚くことではないよ。地球だって半球の南北で季節は逆になる」
「でも、同位置なんですよね」
「概念の話だよ。座標ではなくてね」
「はあ……」
「まあ、バルトくん、きみに理解は求めていない。きみに与えられた仕事は僕についてくることだけだ」
「そうですけど……」
「とにかく急ぐことにしよう。手遅れになる前に」
男は迷いなく夜露で凍りかけた落葉を踏んで進んでいく。かしっ、かしっ、と力強く鳴る音に短髪の男、バルトも慌てて鞄を持ち上げ、後を追った。
「急ぐって、どこに向かうつもりなんですか?」
「西だ」
「西?」
「海沿いの街、ひと月後らしい。とりあえずどこかで足を調達しようか。翻訳装置の確認をしておいてくれ」
ひと月、ってそんなにかかるんですか、とバルトは狼狽を露わにする。だが、前を行く男が返したのは氷よりも冷たい視線だけだった。
バルトの表情にあった狼狽は温度をなくし、恐れへとすり替わる。小さく返事をして、彼はこめかみに手を当てた。翻訳装置に異常がなかったのか、ほっと溜息を吐き、それを伝えると前に歩く男は感情のない声で「そうか」と頷いた。
「ところで」
「はい?」
「獣に囲まれているのは、当然気付いているよね」
「獣?」
訝るバルトの首筋にうなり声が牙を立てる。
〇
秋が終わると獣は獰猛になる。自然がもたらした豊穣を食い尽くし、食糧が少なくなるからだ。獰猛化は春の繁殖期が終わるまで続く。糧とつがい、獣たちは自らの生命と遺伝子の保存に躍起になる。本能が狡猾さと獰猛さを増幅させて、縄張りに入り込んだ間抜けな者を食い殺そうとする。
獣たちは既に縄張りの中で起こった異変に気付いていた。
不自然な空間の歪み、その消失と敵の出現。
獣たちは各々が同時に許せない、と感じた。縄張りの中に足を踏み入れた者はどんな相手であっても敵だ。身体の奥底から不快感が立ち上ってくる。
あれは人間だ。どこから現れたのかわからないが、人間なのは間違いがない。縦になった身体、牙のない口、ひょろひょろと長い四肢。
人間には数多くの同族を殺された。縄張りを荒らした者に牙を突き立てていただけなのに、あいつらはまるで自分たちがそこの主であるかのように、同族を殺した。子どもを、伴侶を殺した。ときには尖ったもので、ときには火などを使って。
許せない、と本能が叫ぶ。怒りが燃え上がる。
だが、理性が遅れてついてくる。
落ち着かなければならない。この狩りは復讐の儀式のみに終わらないからだ。
ある一頭がかすかに喉を鳴らした。
うまそうだ。この時期の人間は柔らかな脂肪を蓄えていい栄養になる。一匹狩れば三度日が昇るまでは空腹に悩まされずに済む。血液の滴る肉を食むことを想像し、群れの多くがよだれを垂らした。
今目の前にいるあいつらは多くの人間が持つ牙状の鋭利な武器を持っていない。表情も油断が多く、警戒している様子など微塵もなかった。狩るのは簡単だ。一斉に飛びかかればけたたましい鳴き声を上げて息絶えるだろう。
だが、群れの中でもっとも狡猾な一頭である長はそれを諫めた。ぐるる、と喉の奥で警告を発する。めいめいばらばらに突進しようとしていた獣たちはその声にぴたりと動きを止めた。この声は人間には聞こえない。顔の横についているあいつらの耳は獣のそれと異なり、大したものではないからだ。
とはいえ、相手が油断しているからといってこちらが合わせる必要はない。
人間は爪や牙を持たずとも敵を退ける術を持つのだ。
長は人間と争うために代々伝わっている狩猟法を取るように素早く指示した。顎を上げ、首を引っ込めるようにして唸ればその合図になる。同族たちは皆同じように唸り、足音を立てないように慎重に人間を囲むべく木々の間へと散っていく。
人間は馬鹿だ。二本しか足を使わないから歩みが鈍い。動きにもしなやかさがない。武器を持っていれば別だが、何も持たない者はわざわざ何か鳴き声を発してから攻撃をしてくる。それまでに喉元を食い破れば何も恐れる必要はない。
長の耳がぴくりと動く。全員の足音が重なった。人間を取り囲んだのだ。
あとはあの柔らかな肉に牙を突き立てるだけ。
鼻の奥に突き刺さる記憶の中の芳醇さを噛みしめて、長は高らかに吠えた。
〇
「囲まれてる、って言ったじゃないか」
男はバルトに飛びかかっていた獣に冷めた視線を送る。既に予知能力で予見していた通りだ。そして、その後の光景も。
男の視界で光が爆発する。無能力者には見えない光。
闇を埋め尽くす白い光の中で〈腕〉が舞った。
〈腕〉は流れるように獣を捕まえる。突き立てられるはずだった牙ががちんと音を立てた。宙に浮いたまま狼に似た獣は空噛みを繰り返し、よだれをあちこちに溢した。その一滴が当たったのか、バルトが情けない声を上げた。
男は小さく息を漏らす。その瞬間、宙に浮いていた獣が赤い液体へと変わった。脳や内臓、それらを一瞬のうちに握りつぶされた獣は断末魔を上げる暇すらなく、息絶えた。千切れた四肢や腸が勢いよく飛び散り、木々に付着する。熱い血液は地面を埋め尽くす凍った落葉を溶かすように染みこんでいった。
「あ、あ」
バルトが目の前の光景に後ずさる。
――初めから期待はしていなかった。彼は子供だましのサイコキネシスやサイコメトリーを持っているだけで、戦うほどの力がない。同時にいくつものゴムボールを浮かせることができたところで大した意味はないのだ。制御装置も刑罰装置もないのに、震えているのが何よりの証拠だ。バルトには欲望はあっても意志がない。
男は堰を切ったように襲いかかってくる獣の群れを睨む。どうやらある程度の知能はあるらしい。獣たちが描く円は歪みなく半径を狭めていた。
だが、問題はない。
「ひっ」と隣で悲鳴が上がる。
何を恐れる必要があるんだ? 男には理解できない。
たった十頭程度の獣ではないか。それも直線的に向かってくるだけの獣だ。
白い光が明滅する。その瞬間、獣たちの生命は消失した。
前方にいる獣たちが燃え上がる。
後方を駆ける獣たちが凍りつく。
右方の獣たちの間で電撃が迸る。
左で口を開ける獣たちが潰れる。
「とりあえず、問題なくサイキックは使えるようだね」
一瞬にして四つの超能力を駆使した男は、迫り来る獰猛な獣を殺したことよりもその事実に喜びを覚えていた。別段危惧していたわけではなかったが、この世界でも問題なく超能力は使える。
「さて、バルトくん。僕たちに与えられた時間はそれほどない。さっさと行こう」
「え、あ、はい」
立ち竦んでいたバルトは返事をしながらも未だ夢うつつのような表情をしていた。もし、今後も彼を守らなければいけない状況が続くならばやや面倒だ、と思いながらも男は口にしない。ついてくるように指示したのは他ならぬ自分だ。
血と臓物と屍体の円を出る。裂けた腸から立ち上る糞の臭いに顔を顰め、男は「ああ」と声を漏らした。
「……ジオールさん、どうかしましたか?」
「いや、ちょっとね」
男――ジオールは振り返り、円の向こう側に視線を送る。闇に紛れて一頭、獣がうなり声を上げている。恐怖と怒りで顔が歪んでいた。
「必要はないかもしれないけど」
ジオールは残った獣に向かって微笑む。
〈腕〉で頭を握りつぶされた獣の身体は力なく地面に崩れ落ちた。
「――さて、会うのが楽しみだよ、ニール」
ジオールは西に顔をやり、再会を想像して静かに微笑んだ。森の中は川のせせらぎと葉擦れの音で満たされる。獣のうなり声は、もう聞こえない。




