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21、冷たい火

 悲鳴と言うより奇声に近かったかもしれない。狂った怪鳥のような、甲高い叫びが耳障りな濁った音とともに、ぴたりと止んだ。幻聴だろうか、ごぽ、と水の湧くような音が聞こえて、すぐに幻聴でないことを悟る。壁に寄りかかった男の口から滑稽なほど大量の血液が湧き、漏れていた。

 ギルデンスは鉄の筒、風銃を死体へと伸ばしている。彼の鋭い視線に射竦められ、それだけで、僕の身体は動かなくなった。


「ほう、これは、予想外だ」たった今、殺人を犯したとは思えないほど軽やかな表情でギルデンスは笑う。「忘れ物か?」


 アシュタヤの短剣を返せ!

 確固たる口調でそう発音するべきだったが、声にはならなかった。僕の喉は意志に反して、無様に固まっている。結局、その言葉を発したのは隣にいるアシュタヤだった。


「ギルデンスさま、ラニア家の短剣を取り戻しに参上いたしました」


 アシュタヤが言い終わる前に金切り声が響く。「助けてくれ!」どうやらその声はオルウェダの発したもののようだ。僕たちに向けていた強気で下卑た態度などどこにもない、無様な声だった。彼は豪奢な机の横、部屋の右奥の壁に背を預けてへたり込んでいる。


「アシュタヤ嬢、小僧、頼む、助けてくれ、この狂った化け物から私を守れ!」

「黙れ」


 ギルデンスは鋭くそう返し、風銃をオルウェダへと向けた。ぎゃっ、と短い苦悶の声が僕の鼓膜をじくじくと侵した。


「オルウェダ、静かにしていろ。私の許可なく喋るな」

「ひっ」

「さて……、まずはこっちだな。アシュタヤさま、それと、ニール、だったな。入ってきてもらえないか? なに、もはやどうこうするつもりはない」


 躊躇する。だが、気付けば、僕の身体は促されるままに動いていた。縁を越え、広い一室に踏みいる。血液の臭いが濃くなった気がした。正面にある死体とギルデンスから目を離してオルウェダを一瞥する。両の足から流れ出た血が赤い絨毯を別の赤で染めていた。


「短剣だったな……、机の上に置いてある。勝手に持って行け」


 ギルデンスはオルウェダのそばにある机を顎でしゃくる。確かに木の机の上には白い鞘に収められた短剣が置かれていた。

 だが、身体が動かない。


「どうした? いらないのか?」

「……どうしてだ」

「ん?」

「どうして、簡単に渡すんだ。あの短剣はお前らの計画に必要なものじゃないのか」

「ほう、気付いていたのか」とギルデンスは嬉しそうに呟く。「思っていたより頭が使えるようだな」

「答えろ! 罠か? 何を企んでる」

「企むなど……ただ気分がいいだけだ。お前は予想よりもいい駒になりそうだからな」


 駒? と訊き返す前にギルデンスが机へと歩んでいく。彼は短剣を取り、くるくると手の中で回した。その滑らかな手つきに背筋が凍る。魔法だけではない、短剣を扱うことも慣れているのがすぐにわかった。

 この男は、これまでどれだけの命をさらってきたのだろう。窓から差し込む逆光で顔が見えない。斜陽に引き延ばされた影にすら死臭と血液が染みこんでいるようにも思えた。

 ギルデンスは手にした短剣の柄を僕へと差し出してくる。上下に揺さぶられた柄が早く手に取れという言葉を言外に語っていて、どうしようもなくなり、僕は受け取った。


「ところで、ニール、聞きたいことがあるんだがな」

「……なんだ」

「お前のその力のことだ。お前には不思議なことに一切の魔力がない。量の違いはあるといえど、この世のすべての生物には魔力があるにも関わらず、だ」ギルデンスはちらりとアシュタヤを覗き見て、続けた。「その力はなんだ?」

「……答えると、思っているのか」

「だろうな。私でもそうする」


 くくく、とおかしそうに彼は笑い声を立てた。顔に刻まれた魔法陣が歪むのが辛うじて、わかる。感情を抑えきれないのか、ギルデンスは愉快そうに部屋の中を歩き回った。

 不自然な静寂の中にギルデンスの靴音とオルウェダの荒い呼吸の音だけが満ちている。ちらりと横目で一瞥するとオルウェダは泣くような、睨むような目つきで僕を見ていた。「助けろ」と叫びだしそうな表情をしている。

 僕はそれを無視する。助けるだけの価値があるとは思えない。それよりも聞かなければいけない疑問があった。


「ギルデンス、駒ってなんのことだ。僕が……僕たちが、お前の都合のいいように動くとでも思っているのか」

「動くさ」彼は断言する。「というよりも動かざるを得ない。お前がカンパルツォやアシュタヤさまに付き従い、私や腐敗した貴族に対抗しようとすること、それが私の望みだからな。そうすることで炎は勢いを増していく」

「それに!」知らぬ間に僕は叫んでいた。「なんの意味があるっていうんだ!」

「娯楽に意味は必要か?」

「……っ、お前は! お前はどれだけッ!」


 身体が震える。気付いたときには〈腕〉が動いていた。足すら踏み出している。

 ギルデンスとの距離、五メートル。伸びた〈腕〉は過たず、彼のいる空間めがけて振り下ろされた。

 はずだった。

 だが、操作を誤ったのか、僕の不可視の〈腕〉は空を裂き、床にぶつかって散乱しただけに終わった。

 混乱が脳を舐め、同時にぞくり、と背筋が震えた。

 頬の横を熱がかすめていく。

 殺気に反応したのか、見えないはずの一撃をかわしたギルデンスはよけざまに火球を放っていた。火球はわずかに僕の髪を焦がし、壁に備え付けられた本棚にぶつかった。

 ぶわっ、と熱風が拡散する。紙の燃える臭いと熱が背中を煽った。


「ニール、私は少しだけお前に期待している。お前は私に似ているからな」


 似ている、だと?

 これ以上ない侮辱だ。私利私欲で簡単に人を殺すギルデンスと自分の間に共通点があると想像することすら、腹立たしい。

 だが、僕の激昂など意にも介さず、ギルデンスは続ける。


「いくら否定しても真実だ。お前を見ていてわかったよ」

「知ったふうな口をきくな!」

「お前には」とギルデンスは味わうように発音した。暗い彼の表情に二つの空虚な光が浮かんでいて、その目の光は僕を品定めするように見ている。

 聞く必要なんてまるでないのに、僕は黙ってしまう。


「お前には、重大な欠落がある。同時に他人にはない力がある。……日常を不満に思ったことはないか? 必要とされる喜びを感じたことは? ここにしか自分は存在できない、と思えるほどの居場所はあるか? ……他人にはない力は自己を規定する。狂人と看做されるかなど後か先か、それだけだ。いつかお前は、理由はどうあれ、戦うことでしか自分を見いだせなくなっていく」


 何を証拠に、という反論は喉を通らない。ギルデンスは手に持った風銃で僕を指した。


「昨日も今日も、お前はそのけったいな力を振るっていた……楽しかっただろう? 敵を蹴散らす万能感に打ち震えていたはずだ。巨大な力は人を戦いへと誘う」

「そんなこと、ありません!」


 叫んだのはアシュタヤだった。壁紙を燃やしていく炎に怯むことなく、彼女はギルデンスを睨み据える。


「ニールはあなたとは違います! ニールは戦うために生きてるのではなく、生きるために仕方なく、今、力を振るっているだけです!」

「アシュタヤさま、申し上げたはずですが? 後か、先か、それだけなのです。必要かどうかなどそんな言葉遊びに意味はない。力を持つ者はそれに縋るしかできないのです。あなただってそうでしょう? 掃討戦の情け容赦ない攻撃を見て第一線を離れたはずのあなたも今日、その力を戦うために惜しげもなく使った。違いますか?」


 違う、と僕は心の中で呟く。

 違う、違う、違う違う違う!


「お前の言っていることは間違いだ! お前が、お前らがこんなことをしなければこうはならなかった! アシュタヤも、僕だって、暴力に頼ることはなかったんだ!」

「しかし、いずれ、戦乱の時代が訪れる。私が、そうする。お前らの行動には戦いがつきまとい、恒常化した理由は形骸化し、心に染みつく」

「黙れ!」

「そうして、また、攻撃するか? やめておけ、お前では私には敵わない。それに……」


 ギルデンスは風銃で、今度は僕の隣にいるアシュタヤを指し示した。

 アシュタヤは口を真一文字に結び、俯いていた。その目は床に向けられていたが、映し出しているのは血で塗れた絨毯などではなく、僕の知らない遠い過去の記憶であるようだった。顔面を蒼白にし、自分の罪を悔いるかのように押し黙る彼女に、声をかけようとする。だが、言葉が浮かばない。


「彼女は私の言葉が間違っていないと知っている。ラ・ウォルホル戦役でまるで遊ぶかのように便衣兵を見つけ出し、勲章を授与されたのは他ならぬアシュタヤさま自身だ。人が死ぬ現場を目の当たりにするまで……あなたは本当に楽しそうでしたね」

「やめて!」


 アシュタヤは膝から崩れ落ち、耳をふさぐ。


「やめてください……」

「アシュ、タヤ……」


 僕を助けるために敵の位置を指示していた彼女の溌剌とした声を思い出す。空元気か、僕を勇気づけようとしていたのだと思っていた。

 彼女もギルデンスと同類だというのか?

 ……落ち着け、惑わされるな!

 僕は不穏な感情を振り払う。疑うな、それに、たとえそうだったとして、彼女の優しさは変わるのか? 優しくあろうとする心は紛れもない善だ。ギルデンスの邪悪さとは似ても似つかない。


「さて、ニール……火が回り始めたな。その前に儀式を済ませておこうか」


 懊悩する僕へ向けてギルデンスはぽつりと呟いた。

 言葉の意味が掴めない。翻弄されている自覚はあったが、抗うことができず、僕は訊き返していた。


「……儀式? なんのことだ?」

「お前は人を殺したことがないだろう。それでは究極的な場面で迷いが生じる。それではいけない。お前は私のために、強くなるべきだ」


 焼けた本が絨毯の上に落ちる。一つを皮切りに、二つ、三つ、と崩れていく。炎の欠片は身を寄せ合い、毛羽だった絨毯を焦がし、燃やし始めた。じゅわっ、と音がする。染みついた血液が蒸発する。

 ギルデンスがゆっくりと不用心に歩み寄ってきていた。

 隙だらけだ。しかし、〈腕〉は動かない。僕の中の大事な器官が壊れてしまったかのように、若草色の〈腕〉は硬直したまま炎の赤に溶けている。

 ギルデンスは僕の持っている短剣に手を伸ばし、鞘を取り払った。剥き出しになった白銀の刃が恐ろしいほどの鋭さで光っている。


「都合のいいことに、ここに殺してもいい人間がいる」


 その言葉に醜い悲鳴が漏れるのが聞こえた。


「ニール、オルウェダを殺せ。そうすればお前は成長できる」

 ギルデンスは氷のような冷たい声色で、「私を楽しませろよ」と、笑った。


 ――殺す、だって? 僕が? あの男を?

 どうしてそんなことをしなければならないんだ? だって、あいつは両足を怪我している、放っておいても炎に巻かれて命を落とすじゃないか。それに、僕には人を殺すことはできない。脳内に埋め込まれた刑罰装置は殺人の認識とともに作動するだろう。その瞬間、僕の中から重要なものが失われるのだ。それは身体的な機能かもしれないし、人格などの精神的な機能かもしれない。報道でその瞬間を見たことがある。犯罪者は外部から一切手を加えることなく、その場に崩れ落ちた。きっと僕も同じようになる。


 とうさんは言った。「ニール、お前の力は何にも替え難いんだぞ」

 かあさんは言った。「ニール、あなたの努力はきっと実を結ぶわ」

 背中を向けて聞いたその言葉を、僕は隠れて指針にしていた。いつか僕も誰かの役に立つんじゃないか、って思ってたんだ。

 どうして、どうして、その僕が人を殺さなければならないというのだ?

 足下ではオルウェダが命乞いをしていた。助けてくれ、やめろ、と喚いている。その声は膜がかかったみたいに遠くに聞こえた。


「ニール、お前はアシュタヤさまを守るんだろう? なら、彼女の隣にいる必要がある。彼女のために人を殺すのを恐れるな」


 ギルデンスの言葉が蛇のように身体に纏わり付く。論理性などまるでない。

 けれど、僕は言葉を返すことができなかった。それは背中に突きつけられた風銃のせいかもしれないし、まったく別の要因のせいかもしれない。

 フェンは殺す必要はない、とそのようなことを僕に言った。剣を持った人間を弾き飛ばし、魔法を詠唱したならば中断させるだけでいい、って言ったんだ。殺す手伝いにはなるかもしれないけれど、直接手を下す必要はない、って。

 しかし、一抹の不安が腹の底で重く、体積を増していた。


 僕は本当に「盾」でいいのか? 守ることに必要なのは力だと知ってしまっている。僕にあるのは暴力的な超能力、それだけだ。

 確かめなければならないのではないか? この場で、アシュタヤやカンパルツォたちに刺客を差し向けた人間を殺すことが罪にならない、と。

 手が震えている。短剣の切っ先が滑稽なくらい揺れ動いていた。


「なあ、小僧、助けてくれ、許してくれ! の、望むものはなんでもやる! 金なら余るほどやろう! どうだ!? 女だって世話をしてやる! あの裏切り者を殺せ!」

「そいつは人語を操る豚だ。気にするな」

「ギルデンスうううう貴様ああぁあああ!」

「それにそいつは意外としぶとい。生かしておいたら再びお前らの邪魔をするぞ」


 オルウェダは身を起こそうとし、崩れ落ちる。そのまま僕の足に縋り付いてきて、思わず一歩後ずさった。

 ――そうだ、僕だって、こいつを喋る豚だと思っていた。鉄格子の向こうで緩みきった笑みを浮かべ、真実を指摘されると容易く激昂し、アシュタヤに下卑た宣告を突きつけた。僕はそれを許せないと、この世でもっとも唾棄すべき存在であると思った。憎むべき対象で、この世からいなくなってしまえばいい、と思った。

 だが、その感情を自ら行使するのは正しいのか?


 いやだ、とナイフを叩き付けてこの場を去りたい。

 でも、それをしたらギルデンスにどういう行動を取るだろう。彼が僕に興味を持っている内はいい。だが、失ったら、彼の風銃から発せられる弾丸は僕とアシュタヤを噛みちぎりはしないか?

 ……それに、もう一つ大きな危惧があった。

 今、ナイフをしまい、殺人を許すべからざる悪行であると断言したならば、アシュタヤを否定することに繋がりはしないだろうか。彼女は経緯はどうあれ、殺人の片棒を担っていた。それも数え切れないほどの死を。

 彼女が押し殺していた苦悩を、この男にナイフを突き刺すだけで理解することができる。彼女の隣に並べるのだ。


 思考は堂々巡りを繰り返していた。煽るかのように炎の熱が肌を舐める。無様な姿でオルウェダが喚いている。

 ちらりと後ろを振り返る。

 アシュタヤは声なき声を絞り出し、首を横に振っていた。

 だめ、と彼女は言っている。

 どうすればいい? 僕は、このナイフの切っ先をどこへやればいいのだ。


「どうした、殺しにくいか? では、ちょっと手伝ってやろう」


 ギルデンスは腕を掲げ、詠唱を始める。僕には魔力を見ることはできない。けれど、その塊がオルウェダの方に真っ直ぐ走っていくのはなんとなくわかった。

 一瞬、オルウェダの表情が硬直する。そのすぐ後で、彼はありったけの憎しみを込めた表情で僕を、アシュタヤを、ギルデンスを睨んだ。


「クズどもがあぁああ! この私にこんなことをして許されると思っているのか! 呪われろ! 呪われろおおぉおお!」


 豹変した態度に僕はたじろぐ。ギルデンスを一瞥すると、何がおかしいのか、彼はにやにやと口角を歪めていた。


「真偽判別の魔法の一種だ。禁術指定されているがな……あいつは今、真実の言葉しか吐けないようになっている。命乞いをされるより楽だろう?」

「気狂いが! 貴様、殺してやる、殺してやるぞ! 小僧、お前もだ! そのアマも殺してやる! 首を切り取って小便をかけてやる! クズどもが!」


 聞くに堪えない言葉を並べる男が僕の足首に爪を立てる。傷に触れ、その痛みに僕は思わず足を引いた。

 そうだ――見ないようにしていた憎悪の炎が再び、燃え上がる――こいつは救いがたい男なんだ。散々人を侮り、自分が危うい状況になると腹の底で呪いの言葉を吐きながら、命乞いをする。

 もし生かしておいたら僕たちの道をねじ曲げようと画策し、手段を選ばないだろう。


 殺してもいい命。そんなものがあるだなんて、思ったこともなかった。

 でも、きっとこいつはその類の人間なのだ。己の欲のために他人を傷つけ、嫉み、あらゆる手を使ってでも利益を求める。僕が頭の中に思い描いていた敵の像、腐敗した貴族の姿。

 短剣を握る手に力がこもる。上手く呼吸ができない。短く、息を吸い、吐く。酸素が取り込めている気がしない。取り込んだ端から燃焼していくような熱さを感じた。

 僕の中で誰かの声がする――殺せ、殺さなければ後悔するぞ、それが僕という人間を消し去る結果となったとしても。

 瞼の裏に、手足を折られ、凄惨な陵辱のあとに道ばたに転がされるアシュタヤの姿が浮かぶ。胃液が食道を昇っていく。

 どろどろとした思考が論理性を失い、歪な形に固まっていく感触に、僕の中で何かが弾けた。


「う、う、あ、うああ、うああぁあああぁあ!」


 オルウェダが伸ばしてくる手を払うように、ナイフを動かす。

 ざりっ、と砂を削るような感触が伝わった。血液が飛び、地面を揺るがすような怨嗟の声がオルウェダの口から迸った。


「がああぁあっ……! 貴様、クズがああぁあ!」


 頬に涙がつたっている。

 人を殺す、ということはどれだけ精神を削るのだろうか。たったこれだけ、髪の毛一本ほどの傷をつけただけで、これほどの恐怖がある。抵抗した結果ではなく、自分が優位な状況で他人を傷つけるという行為はなんとおぞましいのか。

 でも、きっとオルウェダはそんなことを意にも介さない生を歩んできたのだろう。アシュタヤへの宣告を思い出す。

 許せない、許してはいけないんだ。


「ニール! やめて!」

「僕はっ、僕は、僕は……」


 ――アシュタヤを守るんだ。彼女にはそれだけの価値がある。僕の知らないところで彼女が罪を犯していたとしても大丈夫、大丈夫だから、これから僕が犯す罪と比べたらなんてことないから。きみがひとごろしの手伝いをしたのだって、ほとんど騙されるがまま、指示に従っただけ、そうだろう? 僕は、自分の意志で、自分のために殺すんだ。ギルデンスに命じられたのはただのきっかけだ。これからアシュタヤを守ろうとしたとき、きっと僕は同じような選択肢をとらされることになっただろう。

 それが早まっただけなんだ。


 ……だから、止めないでよ、アシュタヤ。

 短剣を固く握りしめた僕の拳にそっと冷たい感触が添えられていた。


「……ニール、やめて。あなたが人を殺す必要なんてない。そんなことをしなくてもあなたは私を守ってくれた。そうでしょ?」

「アシュタヤ……僕は、でも、僕は」

「ギルデンスさま、ニールはあなたとは違います。こうして憎むべき相手を前に迷うことができる。ニールはあなたとは違うんです」


 ギルデンスが何か言葉を返すが、聞こえない。

 そうじゃない、僕は、アシュタヤ、僕が本当に考えているのはオルウェダのことなんかじゃない。脳に嵌められた刑罰装置ときみのことだけだ。僕は大した人間じゃない。元の世界で虐げられていたときもそうだった。頭の中にあったのは、むやみに暴力を振るい、殺してしまったら自分が取り返しのつかない事態になる、というそれだけのことだった。

 もしそれがなかったら、きっと既にオルウェダを殺していただろう。


「ニール、ほら、手を離して……約束したじゃない、あなたがこの短剣を血で濡らすのはだめ、って。……ね?」

「アシュタヤ、でも」

「カンパルツォさまもおっしゃってたわ、あなたは盾だ、って。盾は相手を押し倒すことはあるかもしれないけれど、切り裂きはしないでしょう?」


 指が絡む。アシュタヤは僕の緊張する指をほぐすかのように、一本ずつ、短剣との接着を溶かしていった。やがて、僕の手から短剣が離れ、彼女の手へと渡った。

 アシュタヤは安堵に溢れた笑顔で僕を見る。

 そして、彼女は静かに言った。


「だから、私がオルウェダ卿を殺すわ」


 彼女の言葉の意味が、理解できなかった。

 風銃を構えようとしていたギルデンスの顔が奇妙に歪む。

 ちょっと待て、待ってくれ、アシュタヤ。終わったんじゃないのか? アシュタヤ、君は何を言っている? 君がこの男を殺す必要なんてないだろ?


「ギルデンスさま、それで手打ちにしていただけませんか」アシュタヤはギルデンスへと向き直る。「あなたの言うとおり、オルウェダ卿が生きていたら、きっとよくないことが起きるでしょう。この炎の中、その怪我で生き延びられるとは思いませんが……、万が一ということもあります。後顧の憂いを絶つために……」

「それで、私が満足するとでも?」

「するでしょう? あなたが求めているのは私たちがオルウェダ卿を殺した、という事実です」

「さすが、アシュタヤさまだ。よくわかっていらっしゃる」


 短い悲鳴が足下を這う。アシュタヤの決意に満ちた眼差し、それを目の当たりにしたオルウェダは腕で這いずり、少しでも離れようともがいた。「来るな、来るな」と繰り返し、めちゃくちゃに腕を振るっている。


「アシュタヤ、やめろ、何にも、論理の欠片もない……」

「ニール、ギルデンスさまは欲しがっているのは私たちがオルウェダ卿を殺したという種火なの。そうしなければ、彼はきっと納得しません。それに、早く帰ってあなたの傷を治療しなくちゃ」

「だからって!」


 僕は腕を伸ばす。彼女の肩に触れようか、という距離まで近寄ったが、空を切った。一歩前に進んだ彼女まで果てしない距離が生まれている。

 恐怖は痛覚を倍増させる。先ほどオルウェダに触れられたことで思い出した足の痛みは僕を地面に引き寄せた。

 アシュタヤ、だめだ、何をしているんだ。


「アシュタヤ!」

「私の肌はもう拭いきれないほどの血に塗れているわ。今更一人殺しても、かわりないの……、それに、ニール?」


 あなたが盾なら、私は剣。


 そう言って、アシュタヤはこれまででいちばんの微笑みを僕に向けた。ギルデンスの哄笑が後ろで生まれている。痛快だ、と彼は短く呟いた。これはこれで面白い、と。


「剣は敵を切り裂くものでしょう?」


 言葉が終わらないうちに、彼女は振り返り、短剣を突き出す。その滑らかな動作の結果――、ナイフの切っ先は醜い呪いの言葉を吐くオルウェダの喉へと滑り込んだ。

 かっ、と声が途切れる。まるで何の抵抗もないように、彼女は腕を捻る。聞こえるはずのない、肉の裂ける不快な音が耳にこびりつく。傷つけられた血管は肉と刃の隙間から血を噴き上げた。


「あ、あ……」


 僕の声と、オルウェダのかすれた声が重なった。命が漏れていく。赤い血液に乗って、生命が流出していく。飛んだ血飛沫はアシュタヤの頬をぴちゃぴちゃと濡らした。

 彼女はとても悲しい顔をして、微笑んだ。命を奪った事実を噛みしめ、受け止めている弱々しい笑顔。

 僕を守ってくれた、僕が守らなければいけなかった、笑顔。


 そして彼女は「ありがとう」と言った。私のためにごめんなさい、とも。

 何を感謝する必要がある? 何を謝罪する必要がある?

 僕はアシュタヤの言葉の意味がわからず、膝をついたまま、押し黙り、彼女を見つめた。炎が壁を焼いていく。彼女の頬を濡らす血が垂れてドレスを汚した。

 赤い光と黒い影、斜陽、光る短剣、申し訳なさそうな、かき消えてしまいそうな、アシュタヤの微笑み。

 生命の消失に付随するおぞましさをかき消して、その姿をとても美しいと思った。

 同時に、絶望が足下を這う。

 僕は、アシュタヤを、汚した。


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