害悪
俺は、呼び鈴の音で目を覚ました。朝7時。目覚まし時計は8時の設定だから……。寝ぼけ気味の頭に、独特の音が、さっさと出て来いと言わんばかりに鳴り響く。
「誰か知らんが、ピンポン連打すんな!!」
怒鳴るも音は止まない。2月だぞ、土曜日だぞ、何時だと思ってんだ。イライラしながら裸足で玄関へ向かう。
家賃2万円のアパートの一室に、朝っぱらから訪ねてくるな。そう言ってやろうと思った。
チェーンを外し、少し雑にドアを開けた。
「いいかげんにしろ!!家賃2……」
「やっと出てきたか、何でも屋」
野太い声に遮られた。視界には分厚い胸筋でピチピチのスーツ。俺より20センチくらい背丈が違うだろうか。
誰だこいつは、と睨みつけるように顔を上げる。顎の部分に来て、あ、と声が漏れた。もみあげまでつたうこの濃い髭、このごつさ。
「神村さん?」
なぜ神村さんがこの部屋に?そこである人物の顔が出てきた。まさか。
「柚姫から聞いたのか?」
「いやー、あの子に聞いて大正解だったよ。口軽いからさ」
あの野郎、覚えとけ。内心で文句を言いつつ、目の前のごついスーツ男のはた迷惑さにも怒りを向ける。
人の安眠を妨げるべからず。とりあえず右足を強めに踏みつけた。
彼の顔が歪む。例えるなら、ひょっとこだろうか。次いで、鬼の形相。百面相か?と思うほど表情はコロコロ変わる。
「いってえええええ!!おいガキ、何すんだコラァァァァ!!」
「朝っぱらから40近いおっさんの出張モーニングコールなんざ欲してねえんだよ!!
幼なじみの可愛い女の子とかが『おはよう』って言うなら文句ないが、玄関開けたらゴリマッチョの髭面とか誰が得するんだ、とっとと家に戻って一人身を痛感してろこのクソ刑事!!」
こういう自由奔放・適当刑事には、はっきりと物申さなければならない。暴言だろうが何だろうが関係なく、だ。
しかし神村さんは、中々に心が強かった。
「うっせー若人!!俺は40『近い』じゃねえ、40『過ぎ』だ、ダンディーでヤングなお年頃だこのヤロー!!」
まず気にするのは年齢か?つーか、ダンディーやらヤングやら、いつの時代だ?何故かは分からないが、心の底からイライラする。
だが、そんな諍いも終焉を迎える。
唐突に壁ドンが入った。しかも左右から、同時に。
沈黙。互いに顔を見合わせる。
「…………えーと、うん。流石にテンション上げすぎた。申し訳ないな、何でも屋」
「ああ、俺も言い過ぎたよ。土曜日だもんな。朝7時だもんな」
「場所を変えようか、何でも屋」
「そうだな」
「柚姫ちゃんのとこでいいか?」
「よし分かった。着替えてくる」
ドアを閉める。歩きながらスウェットを脱ぎすて、床に寝ている黒いセーターとジーンズを拾う。暖房設備が無いから、袖を通すと暖かく感じた。
次に靴下に足を入れる。まだ少し肌寒いので、掛けてあったオリーブ色のモッズコートを羽織る。
冬場の外出は、主にこの服装だ。
玄関に向かいながら考える。神村さんがわざわざ訪ねて来たってことは、何か伝えたいことがあるからなのだろう。
予想はついている。たぶん、あのことだ。
黒のスニーカーを立ったまま履く。さあ、行くか。あまり乗り気じゃないけど。白い靄が口から漏れる。俺は再び、雑にドアを開けた。
≪かふぇ あんろっく≫
俺と神村さんは店先まで来た。アパートから徒歩で約15分。ここは所謂、行きつけの店だ。
というのも俺は、ここで依頼を受け付けている。探偵物の作品で例えると、探偵事務所だろうか。
依頼は不定期で、いつ来るか分からない。それでもほぼ毎日、通い詰めているのは自分でもさすがに引く。
そいつはウェイトレス姿で、花に水をやっていた。ポニーテールが揺れている所を見ると、ご機嫌なようだ。
柚姫、と後ろから声をかけた。彼女が振り向く。ぱっちりとした目でこちらを見る。整った顔が、驚嘆の表情に変わっていく。
「翔さんだー!!」
柚姫が飛びついてくる。俺はそれを避けきれなかった。一瞬だが視界に入ってしまったのだ、揺れる胸が……。
不覚だった。まさか、そんなものに惑わされるとは。わーいわーい、と彼女は尚も、ひっついてくる。
助けを求めるように神村さんを見ると、物凄く羨ましそうだった。