序章、あるいはプロローグ
アリス・カダスが目を覚ますと、そこは森の中だった。
しかしすぐに、アリスは自分が目を覚ましたのではなく、夢の中に入ったことに気がついた。
枝の蠢く森の色彩は影になるほど緑が濃く、青い月に照らされる上の方は鮮やかな青紫だからだった。
地面には不思議に輝く菌類があったからだった。
そして、周りには奇妙な動物たちがアリスを見ていたからだった。
その動物はマダガスカルに生息する哺乳類のような大きい目をしており、
十本ほどの鼻の周りにある小さな触手をワサワサと動かしていた。
ネズミに近い蚯蚓のような尻尾は長く、それだけで蠢く枝にしがみついているものもいた。
気がつくと、アリスの周りには数十もの、その動物に囲まれていたのだった。
動物は舌を震わせていたが、こちらに近付く様子は無い。
しかしアリスが足を踏み出すと、そして後ろで縛った、尻尾のような長い緑髪が揺れると、
動物たちは口を大きく開け、霞んだうなり声を上げ、目をぎらつかせた。
下手に動くことはできない。
もしも動物の一匹に近付けば、この愛嬌の無い醜い哺乳類は集団で襲いかかるだろう。
いきなり走り出せば相手はかえってパニックになり、私を捕まえるだろう。
微かに残る眠気と集団の圧力による緊張感で頭を働かせることのできないアリスは、
コミュニケーションをとるという簡単な手段も思いつかなかった。
それを救ったのは、一匹の猫であった。
黒い猫。
そいつは、彼らと同じように舌を震わすことができた。
それを見たアリスはようやく、彼らの言語は舌を震わせて話すものだと理解する。
やがて動物は見えなくなった。
おそらくは巣に戻ったに違いない。
そして黒猫は、その尻尾をしなやかに動かし、ゆっくりと歩き出した。
ボーっとして頭の働かないアリスでも、その猫が何処かに案内しようとしていることは理解できた。
アリスは背を伸ばす菌類を踏みつけ、淡く輝く木々のトンネルを進む…
「えっと、ありがとう。…名前は?」アリスは尋ねた。
あの動物と言葉が通じるのなら、人間にも通じるだろうという浅はかな考えだったが、その予想は当たる。
正確には、猫は口を開き喋ったのではなく、テレパシーのようなものだろうか…
脳に直接聞こえてくるという表現が近いかもしれない。
若く、いかにも古典的な紳士らしい声で、後ろ、つまりアリスの方を向き、アリスに語りかける。
「どういたしましてお嬢さん。私はチェシャ、ウルタールのチェシャと申します。以後、お見知り置きを…」
「あ、はい」やや反射的に返事をアリスはしたが、所詮猫なので以後見知ることが出来るか自信は無かった。
「あなたがどうやってここまで辿り着いたかはわかりませんが…見たところ16歳あたりでしょうか、きっと才能があるのでしょうな、夢を見る才能が。それはそうとして、ようこそドリームランドへ。あなたの世界の夢であり、夢ではない、現実の夢へ!」彼は明るく答えたが、目の前には無表情な黒猫がいるだけだった。
森はまだまだ続きそうで、猫はまた前を向き森を進む。
「ここは…簡単に言えば異世界です。一種のファンタジー、空想世界として語られるような世界…少なくともあなたたちの世界ではね。ですが、ここは危険です。奇怪です。狂気に満ち溢れている場所もあります。死んでしまえば現実に戻れる保障はありません…夢での死は、現実の死になり得るのです。それも、現実の夢であるドリームランドでは特に!自分の命を大切にしなければいけません。」チェシャは自分の前足を一回舐めた。
「全く状況が理解できないんだけど…つまり夢から入れる異世界に飛ばされちゃったってことでしょ?」突然の出来事、唐突な説明、自然と眉間にしわがよる。アリスは後頭部を掻きながら確認した。
おそらくはそうです。とチェシャは答え、続ける。
「ですが、そうでない時もあります。ある者は墓地から、ある者は飲み物から、ある者は地下に続く穴から、ある者は門から…例外は無数にあるのです。その様子だと、あなた…失礼、名前を尋ねていませんでしたか、えーっと…」
「アリス。アリス・カダスよ。」
「カダス!カダスですか!」チェシャは興奮し、尻尾の毛を逆立て、尻尾を立たせて驚きを漏らした。
「あ、いえ失敬…なるほど、才能があるのも頷ける。それではアリス、あなたはどうやらここに辿り着くまで、そして辿り着いたときの記憶が無い様子。あなたはまず最初にそれを調べなければならないでしょう。何、真実は全て明らかにした方が失敗を恐れなくて済むというものです。」
「でも、どうすれば…」
「旅をするのです!」チェシャはアリスが全てを言うまでもなく答えた。
「ドリームランドには様々な人々、種族、そして神々がいます。願いをかなえるもの、進むべき未来のヒントを教えるもの、そして記憶を蘇らせるものも何処かにいるでしょう。ですがアリス、その身体では危険です。筋肉はついているようですし、運動神経や反射神経は良さそうですが…何せドリームランドです。そちらの常識は通用しません。まずは我が故郷ウルタールに案内しましょう!」
猫は二、三歩だけ滑るように足を進め、そこからまたアリスに合わせて歩き始める。
木々はまばらになっていき、動物は完全に気配が無くなった。
それからしばらく大通りを進み、辿り着いた立派な石橋の向こうに、何層にも積み重なる石と煉瓦造りの、銅管と煙突に絡まった街を見る事ができた。
ウルタール、人で賑わい、猫で栄える、蒸気と煙の大都市…