『ラブストーリー』を求める人間たち--斜めな視線で批判をしましょうか--
「世界の中心で愛を叫ぶ」
という作品があるらしいですが、私は小説もメディアミックスされたものも読んだり見たりしていません。お話の大体の感じだけはなんとくわかります。
【ヒロイン】死にそう →ヒロインを精一杯サポートする【主人公】→【ヒロイン】死亡→【主人公】時がたって自分の中に溜まっていたものを叫ぶ
こんな感じでしょうか?
人づてに聞いたものを継ぎ接ぎして構成してみました。いわゆるヒロインが死にそうなのを主人公が愛やらなにやらで援助するがその甲斐なくヒロインは死に一人の残される主人公はヒロインのことを胸に仕舞込んで残りの人生を生きて行く的な悲しいラブストーリーであろうと思います。
このラブストーリーを支持されている方方がこの文章を読むと
「そんな簡単に言い尽くせるものじゃない! セカチューをバカにするな! ヒロインは精一杯生きたんだ! 主人公はヒロインを愛してたんだ! 」
と言われるかもしれません。
そう言いたい方の気持ちも分かります。しかし僕が言いたいのは、『セカチュー』は【フィクション】だということです。作り話。作家の妄想。 は? わかってんよそんなこたぁ と言われる人もいるでしょう。しかしながら、その安易な認識が今から私が提唱する問題に関わってくるのです。
大部分の人は『セカチュー』を見てこう思うのではないでしょうか。
「あんな深い絆を育める恋愛がしたいなあ」
と。
『ラブストーリー』はそんな願望を私たちの中に生み出してしまいます。
「あの俳優みたいな男性と付き合いたいなあ」
「あの女優みたいな女性と付き合いたいなあ」
しかしそんなことは起こり得ません。女優みたい、俳優みたいな(顔が似た)異性とは交際できるかもしれませんが、『ラブストーリー』のような恋愛が出来るわけがありません。それは『ラブストーリー』が【フィクション】だからです。作り話。作家の妄想。
そのとおりに恋愛を進めることなどできないのです。人は『ラブストーリー』どおりにいかない恋愛をすぐに止めてしまいます。
よくあることでは、
「あなたはやっぱり理想と違ったわ」
と別れを言い出すパターン。これは自分の理想とした『ラブストーリー』に相手が合致しなかったために別れてしまうのです。
こういう人たちは相手の中のものを見て相手を好きになっていくのではなく、相手を『ラブストーリー』と比較しながら好きになっていきます。 こういう人たちは時々『ラブストーリー』を重視するあまりに悲惨な末路を辿ることがあります。
「きゃあ! あの人『××××××』の×××みたぃ! 」
と思い、声を掛け幾日がするうちにつき合いだし、そして『ラブストーリー』に合致しているからと結婚にまで至ります。
しかしその相手の内面を見ようとしなかったので相手が実は内に乱暴な性格をもっているとは知らずドメスティックバイオレンスにあってしまうという末路。
悲惨です。 『ラブストーリー』を創る側はこんな副作用を考えて創作はしません。注意書きも、またないのです。文学や、様々なエンターテイメント作品は我々の行動や思想に大きく作用します。しかし我々は何処かに客観的な自分を置いて(六波羅探題、公正取引委員会みたいな感じですかね)、自分が『ラブストーリー』の型に嵌りそうになる時に元の自分を取り戻せるような構えが必要であると思います。
『ラブストーリー』は夢を与えます。しかしそれが夢という【フィクション】であることを忘れてはなりません。夢に魅せられて、日々の努力や頑張りを怠ってはいけないのです。
・誰か、ぼくに良い受験勉強法を教えてください。