天使の言い分
「………………は?」
ぽかん、とアンジェリカは中途半端に口を開けたまま、がくんと首を傾げた。意味が分からない。というより、意味は分かるけど、なんでそうなるのか分からない。
今…………こいつは、何と言った?
(魔王?)
魔王、ってあの魔王? あの人が?
にやにやと笑うパレルの顔を睨んで、ばっかじゃないの、と言いかけた彼女は、ふと甦った記憶に息を詰まらせた。
――――シキ。
北の魔王、シキ。
きゅ、と掛布の裾を握りしめる。一瞬唇が震えた。思い、出した。シキ。聞いたことの、ある名前。それはそうだ。少なくともアンジェリカの住んでいたあたりでは知っていて当たり前の知識。北を統べる――――いいや、人と違う魔の生き物を統べる、その頂点の名だ。
神と袂を分ち、異端の力を持つ、奇妙な生き物達。そういう、存在。
馬鹿な、と思った。そんな、名前が一致しただけで、はいそうですかなんて信じられはしない。けれども、……笑い飛ばすことも、どうしてか、できない。どうしてだろう。パレルの表情がとても誇らし気だからだろうか。まるでただの人間が自国の王について、旅人に自慢するような、そういう表情をしていたから。
アンジェリカはそっとパレルを見やった。派手な星形を持つ少年は、魔族とは到底思えない――通常の人間とも言い難いが――邪気のない顔をしている。本当に魔族なのだとしたら、邪気がないというのも、何かおかしい気がするが。
……そもそもこの少年はどうやって現れた? 今まですっかり思考の埒外においていたが、鏡から出てきたのではなかったか。
(……なんか、どんどん否定する材量がなくなっていく)
思わず沈黙してしまう。そんなアンジェリカの様子に何を思ったのか、パレルが身を乗り出して彼女を下から覗き込んだ。ぎょっとしてつい仰け反る。え、なに。
「どーしたのさ? だんまりしちゃって。なに、もしかしてちらっとも疑ったことないわけ? 人間の屋敷にしちゃここってちょー怪しいと思うけど」
「え、と」
「ほんとのほんとに? あっちゃあ、そんじゃ怖がらせちゃった?」
むう、と彼は困ったように眉を寄せた。星形までなんだかしょんぼりして見えて、変な形の帽子は角(と言っていいのだろうか)がぺこんとよれた。妙に笑いを誘う滑稽な見た目になるが、途端、アンジェリカは何か自分が酷い間違いを犯した気分に襲われた。
考える。多分、怖がっては、いない。驚いたし、……それはもう、目玉が飛び出そうになるほど驚いたし、まだちょっと信じられないが、怖い、とはあまり思わない。
人と魔。
どう違うというのだろう。少し、できることが違うだけだ。いや、むしろ、人間ではない、ということの方が、彼女に微かな安堵を齎した気がする。彼女を犯したのは人間だ。同じ人間の、男だ。そんなことが起きるなんてありえないと、数日前まで、おそらく自分は信じていた。根拠もなく信じていた。だからもし数日前にこのことを聞かされていたらもっと真っ当に怯えられたのだろうけれど。
なんか、どうでもいいな。
そういう風に、思った。人だろうか魔族だろうが、どうでもいい。どちらにしろ、ここにおいてもらおうと持ちかけたのは彼女だし、ここに居座るのは自分の意志だ。魔族だとしてもあの男は人とほとんど同じように男――なのだろう、多分――で、それは変わらない。それを自分は間違いなく認識している。
うん、問題ない。
アンジェリカはゆっくりと首を振った。いささか遅かったかもしれないが、そうやってからパレルの両目をしっかりと見つめたところ、とても嬉しそうにされたので、これで良かったのだろう。ナーニャもそうだけれど、魔族という種族は、どうも、アンジェリカには優し過ぎる、ような気がする。一応人間の端くれだ、魔族とはもっと恐ろしくて、いつも不機嫌で、人間を嫌っているような印象を持っていたのだが。あまり当てはまらない。
こんな風に、優しい反応をされると、どうして良いか分からなくなる。
アンジェリカは少し戸惑って、ふいと視線を泳がせてしまった。当のパレルは全く気にした様子はなく、それでさーあ、と急にまた楽し気な調子に戻った。
「アンジェリカ、だっけ? 君、人間なのに何だってあのヒトの屋敷にいんの?」
「……拾われたから」
「拾ったぁ!?」
あの魔王陛下がー!? と大層驚いたように彼は声を張り上げた。えーうっそ信じらんない、としきりに首を傾げている。何だか頑是無い子供みたいに見えて、つい笑ってしまう。と、彼は星に覆われた左目をきょとんと丸くした。
「へー」
「何?」
「陛下ってちょっとどうかと思うくらい女っけない枯れたオトコだと思ってたけどさー、なに、実は幼女趣――」
ニタァと笑ってパレルが言いかけた時、バタン、と乱暴に扉が開いた。人差し指を立てた道化少年が固まる。アンジェリカは反射的に来客を見た。あ、と呟きが洩れる。
「……パレル。お前が今までそんなことを思っていたとは、初めて知ったぞ」
これは確かに魔王と言われても納得できる、とついそんなことを思ってしまうほど不機嫌な声が低く響き渡り、アンジェリカはつられて身を硬くした。部屋の入り口で、じっとりとした眼差しのシキが、誤摩化し笑いをするパレルを睨みつけていた。