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懊悩する羊と猫

 ひとまずアンジェリカを部屋に残し、彼女は何か軽い菓子でも、と廊下に出たところでベルダンとぶつかった。


「っと、ああ、すみません! 大丈夫ですか、ナーニャ」

「ええ、こちらこそ。申し訳ございません」


 ナーニャの言葉にほーっと安堵の息を洩らすベルダンの、どことなく疲れた様子に、長年ともに過ごしてきた彼女は彼がこれまで何をしていたのか、だいたいのところを悟った。ちょっと苦笑する。


「シキ様を叱りつけておいでですね?」

「はい、まあ。……本当に、他にも方法を考えられなかったのか……我が主ながら情けない」

「異論はございませんわね。シキ様ったら、アンジェリカ様の傷を診るのも忘れていらっしゃったのですよ。本当に、これだから殿方は」


 言いながらだんだん彼女も腹が立ってきて、もう、と手を当てた頬を膨らませた。本当にどうしようもない。……シキ様だけが悪いというわけではありませんけど、それでもちょっと配慮が足りませんわね。

 思ってため息をついた時、ベルダンが気遣わし気に聞いてきた。


「……それで、アンジェリカ様のご様子は」

「あら、お名前を……」

「さっきシキ様に教えていただきました」


 なるほど、怒りつつ把握していない情報を吐かせたのか。

 ベルダンはシキの近侍が主な仕事だが、屋敷の空気と気配をある程度把握している。だから大まかには何があったのかを知っているだろうが、細かな、たとえば名前などと言ったことは知らないはずだった。

 それはともかく。

 ナーニャは重苦しく瞼を伏せた。


「陵辱された女性には少なくない心理でしょうが……ご自分のことを、けがらわしい、と厭われていらっしゃるようです。アンジェリカ様は何も悪うございませんのに、……悪いのは全て、相手の悪漢どもでしょう」


 悔し気に言うと、そうですね、と痛い声で返事がくる。ナーニャはなおも考える。アンジェリカは、表向き、まるで自分を捨てるような言動と振る舞いを――特にシキには――しているようだが、彼女は怯えてもいるのだ。おそらく、自分で自覚している以上に、ずっと。

 シキがどうして平気かは分からないが、他の男を見るともしかすれば倒れてしまうかもしれない。どんなに気丈であっても無意識というものはときとして己の望みを上回って自衛する。


「……しかし、この屋敷は、彼女には余計に酷いかもしれません。私達は当初の彼女を見ているので、どうも警戒心が沸きませんが、」

「警戒心なんて!」


 ベルダンが考え込むように言った言葉にナーニャは思わず非難するように叫んでしまった。だがすぐにその意見は最もなのだと思い直す。そう、あんなに幼く、怯えた小さな獣のような娘だけれど、それでも人間なのだ。自分達はともかく、この屋敷の者達は少し、いや少しどころかかなり彼女を脅かしてしまうかもしれない。ナーニャは青ざめた。これ以上あの少女の傷を増やすことなんて許されるわけがない。


「少しずつ、言い聞かせていくしかありませんね。それと、彼女の方の感情も問題です。私達が何もせずとも、もっと怯えさせてしまうかもしれませんし……」


 言葉を選んだらしいそれに、ナーニャははっと口許を覆った。そうだった、そういう問題もあったのだ。彼女は悩む同朋と目を見合わせて、深い苦悩のため息を吐いた。





   ***




 


 アンジェリカ。あたしはアンジェリカ。

 彼女は幾度も、己に染み込ませるようにその名を繰り返した。寝台の上でぎゅうと丸くなる。今日も質素な白のワンピースは風通しが良くて、少しだけ自由で、少し心許ない。耳を塞ぐようにして甦る不快感を堪える。はあっ……と荒い息をして、彼女は何とかその忌まわしい記憶を押し出した。

 代わりに昨夜のことを思い出す。静かな、熱。決して無理強いされたわけでも、辱められたわけでも、劣勢だったわけでもない。心は凍って、自傷的に自虐的に、厭わしい自分がもっと傷つくことを願っていた。だからといって快いものでもなかったけれど。


(……どうして)


 一夜明け、少し冷静になった頭にふっと疑問が浮かびくる。無茶を言って無理を通させた相手は、けれど、精神の根底で恐れを抱く彼女に対し、――優しかった、ような気が、する。

 触れる熱が、手が、息が、宥めるように。とても慎重に、……大雑把な言い方で、『優し』かった。恐怖がなかったわけではない。たとえ恩人相手でもやはり彼女は怖かったし、喉が引きつるような感覚も、あった。だけど今まで彼女に触れたもののなかで、あの男が一番、彼女を尊重するような触り方だった。……気のせいかも、しれないけれど。

 彼女は寝台からそっと降りた。意味はなかった。導かれるように歩く。足は何故か姿見()に向かった。男の寝室にもこんなものがあるんだな、と少々意外に思う。

 綺麗に磨かれた鏡面を見て、アンジェリカはつと喘いだ。


「……あ……」


 痕、が。

 首筋や上腕部、肘、鎖骨。赤い花が散っていた。……どれが、昨夜のもので、どれが、おぞましい証か。アンジェリカには区別がつかなかった。羞恥よりも失望めいた感情が沸き起こる。


「これ、消えないのかな」


 首筋の痕をなぞり、彼女はぽつりと零した。触れるだけでぴりりと幻痛が舞い戻るようだった。



『さーあー、どうだろーね?』



 アンジェリカは目を剥いた。同時に硬直する。今の声はどこから。

 慌てて周囲を見回すも何も見てとれない。相変わらずこの部屋にはアンジェリカひとりだ。けれども確かに声はしたのに。


『そっちじゃあないよ、新入りさん』


 くすくすと軽やかで無垢でだが嘲りに似た笑声が響き渡る。ぐわん、と耳の奥で広がるような声。


「……っ、なに」

『さっきはちゃあああんと見てたじゃーん。こっちだよー』


 ……さっき?

 アンジェリカは困惑して、視線を鏡に戻した。無意識だった。けれどその判断は正しかったらしい。彼女は目を見開いた。


『んふっ、あたり!』


 道化のような顔の少年が、鏡の中から飛び出した。

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